礼拝とは

神様に尊敬と献身を捧げる意味です。

創世記に礼拝を捧げる状況を示すこととして、”しばらく時が過ぎて、カインは、大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た(4:3)”、 ”セツにもまた男の子が生まれた。セツは、彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は【主】の名を呼ぶことを始めた(4:26)。”、 ”彼はそこからベテルの東にある山の方に移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼はそこに【主】のための祭壇を築き、【主】の御名を呼び求めた(12:8)。”などの表現があります。
このような礼拝の儀式などは、礼拝の外面的な姿を表しています。

一方、礼拝の内面的な姿勢を表現する言葉として、ヘブライ語の「サハ」と「アバド」が使われました。
「サハ」は、特定な対象を向かって、慎み敬う心を表すことと感謝を表すことで、拝む心をささげることです。
「アバド」は労働すること、仕えることを意味します。
これを見ると、礼拝は霊的な面で神様を感謝の心で拝む行為であり、実践的な面でそれのため儀式を行い、日常生活でその教えを実践することと言えます。
「サハ」と「アバド」は、新約聖書では、「プロスクネイン」と「ラトレイヤ」という言葉で訳されています。

以上のように礼拝に関する用語から見ると、礼拝は次のように定義することができます。
”礼拝は、聖書が教える神様の存在、その本性、偉大な行いを認め、それを慎み敬い、感謝すると共に実践的には儀式と日常の行いで、その教えを担う行為である。”
礼拝は、イエス様の教え通り、神様の愛に感激し、神様を愛し、隣人を愛することです。

宗教改革を提唱したマルティン・ルターは、礼拝について、”神様がその御言葉を通して、我われに語りかけることと我われが祈りと賛美で神様に語りかけることであると言いました。
ジャン・カルヴァンは、礼拝の究極な目的が神様との連帯と主張しました。
これを総合的に考えると、礼拝は、神様が主導する中で、神様の御言葉が与えられ、人間が神様に祈りと賛美で答える時間であり、神様と人間が連携して、その連携によって、変化が起きる場であると言えます。
言い換えると、礼拝は神様の啓示であり、人間の反応であり、神様と人間の出会いであり、会話です。
礼拝は、人間の創造目的を実践するものであって、神様の前で一番優れた行為であって、礼拝を通して、人間は、自分の存在意味を発見し、真の幸せを得ることになります。
礼拝する日常を通して、人は神様と人間、人間と人間、そして、人間と世界との正しい関係を結ぶことができ、神様の栄光に参加できます。

礼拝は、根本的に共同体の行為です。
礼拝は、個人的な目的のため行うものではなく、共同体の目標を目指します。
ここで、共同体は小さい一つの町の教会だけではなく、神様の国までも含みます。
礼拝は、神様の国で起こる救いに参加する行為でもあります。
今日は主日の礼拝以外に夜に行う礼拝や、平日の夜にささげる省略された規模の礼拝などもありますので、究極的には、主日礼拝の延長線として、共同体の礼拝として姿勢をもつべきです。

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