1998年東北大学開拓礼拝

 

そうすれば、栄える

 

御言葉:ヨシュア記1:1?18

要 節:ヨシュア記1:7

「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、

あなたが栄えるためである。」

 

 ヨシュア記はイスラエル人が神様から与えられた約束の地をどのようにして征服して行くのかを記録した本です。今日の御言葉はモーセが死んだ後、神様がヨシュアにカナンの征服命令を下られ、勝利の秘訣を教えてくださった御言葉です。今日は東北大学開拓礼拝として捧げます。今日の御言葉を通して東北大学を始め、この国のキャンパスの征服をどうすればできるかその秘訣を学ぶことができるように祈ります。

 

第一に、立って、その地に行け(1?5)

 1a節をご覧下さい。時は主のしもべモーセが死んで後でした。モーセは奴隷の民イスラエルをエジプトから連れ出し、約束の地カナンに導いた彼らの指導者でした。また、彼はイスラエルの民を命をかけて愛し、仕えた牧者であり、霊的な父でした。ところがこのモーセがカナンの地を目の前にして死んだ時、イスラエル人の心はどうだったのでしょう。申命記34:8節を見るとイスラエル人は三十日間、モーセのために泣き悲しみました。霊的な父であり、牧者を失った彼らの悲しみは非常に大きかったのです。それにカナンの地を征服しようとする時点で指導者を失ったので「われわれの将来はどうなるだろう」と心配せざるを得ませんでした。

 神様はこのような彼らをどのように助けてくださいましたか。1b節をご覧下さい。「主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。」ヨシュアはモーセの従者としてエジプトを出る時からモーセとともに行動し、モーセに仕えた人でした。彼は去る40年間モーセの下で自己否認や従順、仕える訓練を多く受けました。神様はこのような彼を通してこれからカナンの征服のみわざを成し遂げようとされました。これでモーセの時代からヨシュアの時代に変わりました。

 その時、神様はヨシュアに現われ、どんな命令を下られましたか。2節をご覧下さい。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」これはカナンの地に向かっての進軍命令です。ここで「立って」と言われたのを見るとイスラエル人はモーセが死んだ後、悲しみと心配のために座り込んでいたことがわかります。神様はこのような彼らに悲しみの席、絶望の席、心配の席から立って約束の地に向かって「行け」と命令を下られました。

 神様は命令とともに二つの約束の御言葉を与えてくださいました。第一に、地に対する約束です。3,4節をご覧下さい。「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。」この約束は本当に驚くべき約束です。神様は現在一坪の土地も所有してない彼らに広くて美しい土地を与えると約束されました。ここで「与えている」とは完了形としてすでに与えたことを意味します。わー!。これはなんとすばらしい約束と希望の御言葉でしょうか。

 ところがここで一つ考えてみなければならないことは約束の地はすでに与えてくださいましたが、イスラエル人がそれを所有するために具体的に足の裏で踏まなければならないことです。約束の地として与えられていても実際にそれを所有するためには信仰によってその地を足の裏で踏まなければなりません。その地を踏むためには敵と戦い、彼らを追い出さなければなりません。聖書は「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)と言っています。それを見ると神様の祝福は求める人、捜す人、たたく人に与えられることがわかります。

 第二に、ヨシュア個人に対する約束として神様が彼とともにおられるという約束です。5節をご覧下さい。「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」神様はモーセとともにおられたのように、ヨシュアとともにおわれると約束されました。モーセとともにおられた神様は力強い御手を伸ばし、奴隷の民イスラエルの人々をエジプトから開放してくださいました。また、口が重いと言ったモーセとともにおられ、言うべき言葉を教えてくださいました。そして荒野の40年間の間ともにおられ、イスラエル人を導くように助けてくださいました。モーセの指導力と力の源は神様でした。このような神様がこれからヨシュアとともにおられると約束されたのです。実際にこの約束よりもっと大きな慰めと力になる約束はありません。神様は彼とともにおられ、彼に知恵が必要な時に知恵を与え、力が必要な時に力を与え、勇気が必要な時には勇気を与えてくださいます。その時、ヨシュアはどこに行っても勝利することができます。神様は召された人々に使命だけではなくともにおられ、その使命を担うことができるすべてのものを与えてくださいます。神様が先頭に立って救いのみわざを成し遂げられます。ですから私達はともにおられる神様に頼り、ゆだねられた使命を果たすことができるのです。

 今日は東北大学の開拓礼拝として捧げています。神様は趙成珍宣教師と趙美賢宣教師を開拓者として遣わしてくださいます。今まで関東地方から北海道の間が開拓されていませんでしたが、神様は時になるとこの二人を東北地方に遣わしてくださいます。今まで二人とともにおられた神様がこれからもともにおられ、開拓に必要なすべてのものを与えてくださることを信じます。神様は私達にキャンパスを約束の地として与えてくださいました。キャンパスは霊的に乳と蜜の流れる地です。この国と世界の未来を担う若者達が溢れています。毎年新入生達が入り、まるで流れる川のようです。私達はこの国の560キャンパス開拓のために祈っています。神様は私達に約束の地、キャンパスに向かって「行け」と進軍命令を下られます。私達が現実の問題に縛られて座り込んで心配ばかりしていることを主は願われません。私達がともにおられる主を信じてキャンパスの学生達に福音を宣べ伝えることを願われます。私達がともにおられる主を信じてキャンパスに行って福音を宣べ伝えることができるように祈ります。

 第二に、ただ強く、雄雄しくあれ(6,7a,9)

 6節をご覧下さい。「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。」神様は命令とともに約束の御言葉によってヨシュアに明白な方向と確信を与えてくださって後、「強くあれ。雄雄しくあれ。」と言われました。この御言葉はどんな敵に出会っても恐れることなく戦い、勝ちなさいという意味です。強い心、雄雄しい心の反対は弱い心、女々しい心です。神様は戦いを前にしているヨシュアに何よりも強く、雄雄しくあることを願われました。それも三回も繰り返して強調されました。神様がヨシュアに繰り返して言われたのを見るとヨシュアは心が弱くなって恐れていたことがわかります。現在ヨシュアはモーセの後継者として立てられカナンの征服の使命が与えられました。実際に民の指導者になることは責任感のために肩が重くなることです。今までヨシュアはモーセに頼る心が多くあったでしょう。ところがモーセが死んで後、彼の後継者となった時、本当に自分がイスラエルの民をよく導くことができるか、民は自分について来るだろうか、民は自分を牧者として認めてくれるだろうか、自分の足りなさや過ちによってカナンの征服は失敗するのではないか、などいろいろな心配や恐れが生じたでしょう。また、これから戦わなければならない敵のことを考えると非常に心配になったのでしょう。彼らの前にはヨルダンの川が流れているし、難攻不落のエリコの城が彼らの前に立ち並んでいました。その地に住んでいる人々は巨人でした。それを考えると心が弱くなり、恐れがちでした。しかし神様はこのようなヨシュアに「強くあれ。雄雄しくあれ。」と言われました。神様は彼が戦いに行く前にまず自分の心の弱さや恐れと戦ってそれに打ち勝つことを願われました。

 それでは心が弱くなり、恐れることがなぜ問題になりますか。人は誰でも体が弱くなると抵抗力が落ちてしまい病気にかかりやすくなります。同じく心が弱くなると恐れや否定的な考え、不信や疑いが生じやすくなります。何事でも消極的になり、避けようとする心が生じます。敗北的な考えに捕われ戦う前にすでに負けてしまいます。しかし心を強くするとどんな状況の中でも「できるものならと言うのか、信じる者にはどんなことでもできる」と思うようになります。そして肯定的な考えを持ってチャレンジすることができます。ですから弱い心、恐れる心は私達が必ず克服しなければならない心の敵です。弱い心、恐れる心は神様が与えるものではありません。それはサタンが植え付けるものです。神様が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です(?テモテ1:7)。私達が強く、雄雄しくあるためにはともにおられる神様に信頼しなければなりません。これからの戦いはヨシュアひとりでするのではなく神様がともにおられ戦ってくださいます。神様が戦って下さるのだから勝利が保証されている戦いです。この神様を信じる時、強く、雄雄しくあることができます。

 民数記13,14章を見るとイスラエルの12部族の族長達がカナンの地を偵察して帰って来て報告したのが書いてあります。12人の中で10人の族長達はその地の背の高い人々や丈夫な城壁を見て心が弱くなり、恐れが生じました。彼らは次のように所感発表をしました。「私達はあの民のところに攻め上れない。私達には自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」反面、ヨシュアとカレブは違いました。彼らは神様に頼り、心を強くしました。彼らの所感は次のようでした。「私達はぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私達のえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私達とともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」神様は彼らの信仰を喜ばれ、勝利を与えてくださいました。

 第三に、すべての律法を守り行え(7b、8)

 それではヨシュアが具体的に励むべきことは何でしょうか。7b節をご覧下さい。「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。」ヨシュアは現在多くの敵達が待ち伏せているカナンの征服戦争を目前にしています。この征服戦争で勝つためには積極的に兵士達を訓練させたり、武器を準備したり、作戦を立てたりしなければならないでしょう。しかし神様はそれよりも律法を守り行い、これを離れて右にも左にもそれてはならないと言われました。これは徹底的に御言葉を中心に生活しなさいという意味です。神様は続けてヨシュアがどれほど御言葉を中心に生活しなければならないかを教えてくださいました。8節をご覧下さい。「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」これは御言葉が口と心と考えと生活を支配することを意味します。征服戦争のためにヨシュアに実際的に必要なのは律法ではなく三国誌や「エリコ城の攻略方法」などの本を読んだほうがいいと思われます。しかし神様は昼も夜も律法を黙想するように言われました。黙想するだけではなくそのうちに記されているすべてのことを守り行うように言われました。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができると言われます。これは実際に従ってみた人だけが体験できる真理です。ヨシュアは征服戦争をしながら神様の御言葉に絶対的に従った時、勝利を収めることができました。

 神様の御言葉を黙想し、それに従うことこそ勝利の秘訣です。神様の御言葉は私達の足のともしびであり、私達の道の光です。神様の御言葉は私達に知恵を与えます。神様の御言葉は私達のすべての問題を解決してくれます。私達は神様の御言葉を通して絶えず知恵と力と勇気と愛を得ることができます。何よりもカナン人との戦いは単純に血肉の戦いではなくカナンの様々な偶像の間に働く悪魔との霊的な戦いです。ですからこの戦いで勝利するためには必ず聖霊の剣である御言葉に頼らなければなりません。神様の御言葉に頼ることこそ霊的な戦いで勝利できる秘訣です。

 私達がキャンパスの征服戦争で勝利できる秘訣も神様の御言葉にあります。キャンパスの若者達は聖書より本能的なこと、実利的なことにもっと興味があります。私達はこのような学生達に福音を伝えるためには御言葉以外にほかのものがもっと必要ではないかと思いやすいです。それでいろいろな方法を試してみます。もちろん私達が学生達の興味を呼び起こすプログラムを開発したり、新しい戦略を立てたりすることは必要です。しかし何よりも大切なのは御言葉の研究に励むことです。UBFが世界的な宣教団体として成長したのも御言葉を愛し、御言葉を黙想し、その御言葉に従って来た結果です。神様に敵対する様々な思想や理論を屈服させ、罪悪な文化にさかのぼって勝つためには神様の御言葉が必要です。

 使徒の働きを見るとギリシア文化の本拠地であるコリントで使徒パウロは御言葉に捕われて御言葉を熱心に教えました。その時、偶像礼拝者達が福音を受け入れるみわざがありました。エペソでは御言葉が力を得て働くと魔術を行っていた多くの人々がその値段が銀貨5万枚にもなる魔術の本をかかえて来て燃やしました。このように御言葉が力強く働く時、福音に敵対する人々がいかに強くても彼らを御言葉によって屈服し、いのちを生かすみわざが盛んになります。ですから私達が何よりも励まなければならないことは神様の御言葉を昼も夜も口ずさみ、御言葉に捕われる生活をすることです。そうすれば、私達の福音のみわざは栄えるはずです。

 私の今年の要節は?テモテ2:15です。「あなたは熟練した者、すなわち、真理の御言葉をまっすぐに説き明かす、、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、務め励みなさい。」しかし、省みると御言葉を昼も夜も口ずさむ生活より仕事に関心が多くありました。どうすれば1:190チームや80名の礼拝参加ができるか、どうすれば弟子養成ができるかなどに関心がありました。また、聖書通読を計画していましたが、聖書を読むより新聞やテレビを見ることに関心がありました。私が今年目標としている聖書通読にかなり遅れていますが、残っている3ヶ月間聖書通読ができるように祈ります。また、毎週伝える主日礼拝のメッセージを深く黙想し、その御言葉に聞き従う生活ができるように祈ります。そうすれば、栄えることができることを信じます。

 第四に、ヨシュアに従った民たち(10?18)

 カナンの進軍命令を受けたヨシュアは何をしましたか。10,11節をご覧下さい。ヨシュアは民のつかさたちに命じて言いました。「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。』と言いなさい。」ヨシュアは神様の命令と約束の御言葉を受け入れました。その時、、彼は信仰と勇気を持つようになりました。彼は神様の命令に直ちに聞き従いました。彼が従ってしたことは何ですか。

 第一に、糧食を準備させました。それは征服戦争のために必要な実際的な準備でした。私達もキャンパスの学生達に聖書を教えるためには1:1聖書勉強ノート準備や祈り、プログラムの開発などの準備が必要です。

 第二に、聖霊の器を作りました。12?15節をご覧下さい。ヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、先頭に立つように言いました。ところが彼らはすでにヨルダン川のこちら側の地を所有地として与えられていました。ですから彼らの立場から考えてみると戦いに参加したくなかったでしょう。しかしそれは利己的なことであり、他の同族の士気を落とすことでもあります。ヨシュアは彼らの妻子と家畜とは、モーセが彼らに与えたヨルダン川のこちら側の地に、とどまり、彼らのうちの勇士は、みな編隊を組んで、同族よりも先に渡って、彼らを助けるように命令しました。

 その命令に対する民の反応はどうでしたか。16?18節をご覧下さい。彼らはヨシュアに答えて言いました。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。」彼らはヨシュアの命令に心から従いました。民はヨシュアをモーセのような自分達の指導者として認めて信頼して従いました。このようにしてイスラエル人はヨシュアを中心に聖霊の器を作りました。

 霊的な戦いで心を一つにすることは非常に大切なことです。能力がある一人より足りなくても心を合わせる人々がいる時、大きな力を発揮できます。

 結論、神様はキャンパスの福音のみわざに仕える私達に「強くあれ。雄雄しくあれ。」と言われます。また、主の御言葉を守り行うように言われます。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができると約束してくださいます。私達が主の御言葉に聞き従い、神様からゆだねられた使命を果たすことができるように祈ります。