1998年ヨハネの福音書?部13部

 

アンデレの信仰を祝福されたイエス様

 

御言葉:ヨハネの福音書6:1ー15            

要 節:ヨハネの福音書6:11

「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、

すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、

彼らにほしいだけ分けられた。」

 

 ヨハネの福音書にはイエス様が行われた七つのしるしが出ています。水を葡萄酒に変えられたこと(2:1ー11)、死にかかっている王室の役人の息子を癒されたこと(4:43ー54)、38年間病気にかかっていた人を癒されたこと(5:1ー9)、五千人を食べさせられたこと(6:1ー15)、湖の上を歩かれたこと(6:16ー24)、盲人の目を開けられたこと(9:1ー7)、死んだナザロを生き返らせたことです(11:38ー44)。このようなしるしはイエス様が全能の神様であることを現します。今日学ぼうとする第四のしるしはすべての福音書に記されています。今日の御言葉を通してアンデレの信仰を祝福されたイエス様について学びたいと思います。

 

?。ピリポをためされるイエス様(1ー9)

 

 1節をご覧ください。その後、イエス様はガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれました。マルコの福音書を見るとその時弟子達は伝道旅行から帰って来ました。イエス様は彼らに休みが必要なことをご存じで、「さあ、あなたがたで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われました。弟子達は久しぶりの休みを取って気持ちよく舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸へ行きました。彼らはこれからゆっくり休めることで遠足に行く子供達のように喜んでいたでしょう。しかしその喜びもしばらくの間だけでした。大勢の人の群れがイエス様につき従っていたのです。彼らがこんなに熱心にイエス様に付き従っていた理由は何でしょうか。それはイエス様が病人たちになさっていたしるしを見たからです。彼らの中のほとんどの人々は病人だったと思います。福音書の中には中風の人、らい病人、盲人、長血をわずらっている人、悪霊につかれた人など様々な病人達が出ています。彼らは羊飼いのいない羊のように憐れな状態でした。彼らには助けてくれる羊飼いが必要でした。イエス様は彼らのよい牧者となられました。

 3節をご覧ください。イエス様は山に登り、弟子達とともにそこに座られました。ここで山は低い丘を指します。イエス様が山に登られたのは人の群れを一目でご覧になり、彼らを受け入れるためでした。弟子達とともにそこに座られたのは弟子達が群衆と違った立場にあることを言ってくれます。弟子達は群衆を助ける指導者の立場にあります。同時にイエス様から学び、訓練を受ける人々でした。

 5節をご覧ください。「イエスは目を上げて、大勢の人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。『どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。』」もっとも、イエス様は、ピリポをためしてこう言われたのです。イエス様は、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからです(6)。「ご自分では、しようとしていることを知っておられた」とはイエス様ご自身が群衆を食べさせようとしておられたことです。ここでイエス様から二つの事を学びたいと思います。

 第一に、イエス様の牧者のこころです。イエス様は大勢の人の群れがご自分のほうに来るのをどんな目でご覧になりましたか。マルコ6:34にはこう書いてあります。「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深く哀れみ、いろいろと教え始められた。」イエス様が彼らを見る目は羊飼いの目でした。羊飼いの目はあわれみの目です。イエス様は彼らを羊飼いの心を持ってご覧になりました。私達に牧者の心がないと相手を理解し、仕えるより律法的になり要求し、判断するようになります。しかし私達に牧者の心がある時、要求したり判断するより理解しどんな状況の中でも助けようとします。イエス様は彼らを深く哀れみ、彼らを食べさせようとされました。このイエス様はまるで子供達にすべてのよい物を上げようとする母親のようです。神様は私達に人の群れに対してこのような牧者の心を持つことを願われます。

 第二に、イエス様はピリポの信仰を訓練されました。イエス様はピリポに言われました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」この質問はピリポを困らせるために言われたのではなく彼の信仰を訓練し、彼を人の群れの牧者として立てるためになさった質問です。

 イエス様は弟子達の中でなぜピリポにこのような質問をされたでしょうか。それはピリポに信仰が必要だったからです。ピリポはヨハネ1:45を見ると考えが深く知的な人でした。また一瞬のうちに200デナリを計算したのをみると頭がいい人でした。ピリポは背も高くハンサムな人で誰が見ても指導者になりそうな人だったでしょう。イエス様も彼を指導者として認め、彼を尊く用いることを願われました。イエス様は彼にこのような答えを期待されたでしょう。「イエス様。少々お待ち下さい。何か食べ物を捜してイエス様のところに持って来ますから。」しかし彼の答えはどうでしたか。7節をご覧ください。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」ピリポの答えは極めて消極的でした。彼は「足りません」と言って、できないことだけに目をやっています。常識的な見方で見れば、確かにその通りです。彼はイエス様を見ることができず、不可能な状況だけを考えました。その時、彼の答えは否定的になりました。彼には二百デナリがありませんでした。またそこはスーパーもない寂しいところでした。状況はどうみても男だけで五千人の大勢の群衆を食べさせることは不可能でした。ピリポはコンピュータのように素早く二百デナリを計算しましたが彼の答えは「だめ」でした。しかし、私たちはピリポを笑うことはできません。私たちもしばしばピリポのように、常識の目でしか見ず、そして解決できないと考えてしまうからです。

 しかし問題は彼がイエス様の弟子だということです。イエス様の弟子は普通の人と考え方が違わなければなりません。どんな状況の中でもできる、というのがイエス様の弟子としての考え方です。ピリポの問題は状況だけ見て全能のイエス様を見ていないことです。イエス様を見ないで状況だけ見ると否定的にならざるをえませんでした。私達がどうやってこの国のキャンパスの人々を食べさせることができますか。私達はできませんが天地を造られた神様はできないことがありません。信仰というのは「私はできませんが神様はできる。」と考えることです。信仰というのは自分の力によらず神様に頼ることです。ピリポは今までイエス様のなさることを多く見て来たので不可能な状況の中でも問題の解決者となられるイエス様を見上げなければなりませんでした。しかし彼はイエス様を見上げることができませんでした。彼はイエス様の弟子として信仰による考えがありませんでした。彼は信仰がなくて主に喜ばれることができませんでした。

 ピリポのもう一つの問題はあるものを考えずないものだけを考えたことです。ピリポのようにないものだけを考える人は二百デナリがないから何もできないと思います。神様はこのような人を用いることが出来ません。

 

?。アンデレの五つのパンと二匹の魚(8、9)

 

 ピリポが状況だけを見て「どうしよう。二百デナリがない。」と絶望している時、アンデレが現われました。9節をご覧ください。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大勢の人々では、それが何になりましょう。」アンデレはどこかでお弁当を持っている少年を見つけて連れてきました。少年が持っているのは貧しい弁当でした。当時大麦のパンは貧しい人々のための安いパンです。小さな魚は、小さな干し魚か焼き魚を意味します。このようなものを持って来たアンデレは全く現実感覚がない人のように見えます。しかし私たちは彼から学ぶことがあります。。

 第一に、彼は不可能に挑戦する信仰の人でした。彼は主への期待と信頼を持っていました。ですから、子供の弁当とも言うべき五つのパンと二匹の魚を、主のみもとに持って来たのです。信仰の目を持って見るとはどういうことかと言うと、この世界に起こる現象だけを見ず、その背後にあって、それを支配しておられる方を見ることです。そこには、この世界を造り、支配しておられる主イエス・キリストがおられます。この方が常識を越えたことをしてくださることを信じ、期待する目を持っている人は、どんな場合にも行き詰まってしまわず、大きな希望を持ち続けることができます。ピリポがないものを考えている時、アンデレはあるものを捜しました。しかし自分は何も持っていませんでした。それでも彼は諦めませんでした。今度は他の人から群衆を食べさせる可能性を捜しました。その時、彼は一人の少年が五つのパンと二匹の魚を持っているのを発見しました。それは偉大な発見でした。彼にはあるものを見る目がありました。それは信仰がある人のみ持つことができる目でした。信仰がない人には五つのパンと二匹の魚が見えません。また見えても無視してしまいます。しかし信仰がある人には五つのパンと二匹の魚はとても大切なものです。アンデレは小さいもので五千人を食べさせようとしました。それは信仰がなければ不可能なことでした。信仰がある時彼は肯定的になり挑戦的になり、創造的になりました。信仰がある時不可能な状況の中でも絶望せず可能性をさがすことができました。

 ところがアンデレが五つのパンと二匹の魚を発見してもそれをイエス様のところに持って来るのはやさしいことではありませでした。「人々は私を見て笑ったり、からかったりするのではないか。」「イエス様に叱られるのではないか。」と思われたかも知れません。しかしアンデレはただ信仰によって五つのパンと二匹の魚をイエス様のところに持って来ました。彼は信仰によって持って行けばイエス様が受け入れてくださると信じました。またイエス様は五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせることができると信じました。彼の考え方は信仰による考え方でした。信仰による考え方は絶望の中でも希望を生み出し、不幸の中でも幸福を生み出します。また何もない中でも新しいみわざを成し遂げる創造の考え方です。神様はこのような人を喜ばれ、尊く用いられます。

 民13、14章に出ているカレブとヨシュアはこのような信仰による肯定的な考えを持っている人々でした。カナンの地を偵察するために遣わされたのは十二名の族長達でした。彼らは四十日間その地を詳しく調べて来ました。彼らは同じ状況を見て来ました。しかしカレブとヨシュアの報告は他の十人の族長たちの報告とは全く違いました。十人の族長達はカナンの民は強いから攻め上れないと言って民に恐れを植え付けました。彼らは自分達がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろうと言いました。彼らは自分達の不信仰とおりに一人も約束の地に入ることができずみな荒野で死にました。しかしカレブとヨシュアは同じ状況を見て来ましたが神様を信じていたので全く違う報告をしました。「私達はぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれが出来るから。」また彼らはどういう状況にあっても神様が自分達の味方であることを信じてこう言いました。「ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私達のえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私達とともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(民14:9)。神様は信仰による肯定的な考えを持っていたカレブとヨシュアを喜ばれ彼らを約束の地に入らせて下さいました。信仰がない人は神様を悲しませ、自分も破滅します。しかし信仰がある人は神様を喜ばせ、圧倒的な勝利者になります。

 第二に、アンデレは祈りの人でした。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大勢の人々では、それが何になりましょう。」これはアンデレがイエス様に捧げる切なる祈りです。アンデレはあるがまま主に出て行き、祈りました。

 ある人は「私は主に捧げるものが何もない。」と思い、暗い考え、否定的な考えに捕われます。しかし捜して見ると五つのパンと二匹の魚は誰にもあります。自分になければ他の人のものでも捜して主に持って行くことができます。私達は8月1日からのサマーバイブルキャンプのために祈っています。主は私たちに質問されると思います。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」主は私たちがアンデレのように五つのパンと二匹の魚を見つけて持って来ることを願われます。主は私達の捧げる小さな祈りのパンと伝道の魚を大きく祝福してくださり、今度のサマーバイブルキャンプに36名の兄弟姉妹達を導き、彼らを満腹させてくださることを信じます。

 

?。アンデレの信仰を祝福されたイエス様(10ー15)

 

 第一に、イエス様は弟子をこの御業に参加させました(10)。10節をご覧ください。イエス様は言われました。「人々を座らせなさい。」イエス様は弟子達に環境を用意するようにされました。私達はサマーバイブルキャンプーの環境を用意するに明日から毎日朝6時に祈りの集まりを設ける予定です。

 第二に、イエス様は五つのパンと二匹の魚を受け取り、感謝の祈りを捧げられました(11)。11節を一緒に読んでみましょう。「そこで、イエスはパンを取り、感謝を捧げてから、座っている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。」アンデレが五つのパンと二匹の魚を持って来た時、イエス様はそれを無視されませんでした。イエス様はそれを受け入れ、感謝の祈りを捧げられました。イエス様はアンデレの信仰と祈りと真心を喜んで受け入れ感謝されました。

 第三に、神様の祝福は満ち溢れました(12ー15)。五つのパンと二匹の魚は小さなものでしたがイエス様に捧げられた時、パンと魚の量は奇蹟的にふやされ、男だけ五千人の人々が十分食べても、さらに余って食べ残すほどになりました。イエス様は五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせることができる全能の神様です。イエス様は無から有を創造する方です。イエス様は今日も、私達のうちに働く力によって、私達の願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方です(エペソ3:20)。

 アンデレがイエス様の所に持って来たのは子供の一人分の弁当にすぎませんでした。しかし、主イエス・キリストの御手の中に入られると、それは、一万人以上の人々を満腹させるものとなりました。私たちは自分が五つのパンと二匹の魚のような小さな者、足りない者であると思っているかも知れません。しかし、私たちが子供の一人分の弁当のような存在でも、今、主イエス・キリストの御手の中にすべてをささげると主は私たちを大きく用いてくださいます。

 結論:イエス様は私達を通してこの時代の飢えているキャンパスの学生達を食べさせようとされます。ところが私達には二百デナリがありません。しかし五つのパンと二匹の魚はあります。私達がアンデレのように信仰によってそれを主に捧げる時、主はそれを祝福し満腹させてくださいます。私達の捧げる五つのパンと二匹の魚を通してサマーバイブルキャンプを祝福してくださるように祈ります。さらにこの国の560キャンパスの学生達を食べさせることができるように祈ります。