1998年ヨハネの福音書?部18講

 

盲人の目を開けられたイエス様

 

御言葉:ヨハネの福音書9:1ー41           

要 節:ヨハネの福音書9:5「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

 

 本文はイエス様が生まれつきの盲人の目を開けられた事件です。イエス様はつばきで泥を作られ、それを盲人の目に塗って彼の目を直してくださいました。この事件を通してイエス様はご自分が世の光であると宣布されました。そして弟子達の中にある暗くて運命的な考え方を直してくださいました。イエス様のうちには暗闇がありません。運命がありません。この時間世の光であるイエス様を心の中に受け入れてすべての暗くて運命的な要素を解決していただき、光り輝く新しい人生を過ごすことができるように祈ります。

 

?。世の光であるイエス様(1ー5)

 

 1節をご覧ください。イエス様は道の途中で、生まれつきの盲人を見られました。生まれつきの盲人というのは、回復の見込みがなく、盲人としては重症の者です。彼はほんとうに不幸な人でした。神様が造られたこの世はほんとうに美しい世界です。しかし彼は大空を飛んでいる鳥も美しいガリラヤ湖も見ることが出来ません。赤ちゃんはお母さんの顔を見てにこにこ笑いますが、彼はお母さんの顔を見ることも出来ません。何よりも彼は自分がどんな顔をしているのか知ることができません。彼は一度も光りの世界を見ることができませんでした。彼は暗闇の世界に囲まれてどんなに重苦しかったのでしょうか。また彼は乞食でした。彼は食べて生きるために毎日人々に物乞いをしなければなりませんでした。彼はなぜ自分が盲人として生まれたのか理解できませんでした。彼の心は自分の人生を考えると悲しみに包まれ流れる涙は止まりませんでした。彼はそのような自分の運命を考えるたびに自分を生んでくれた親をうらんでいたかも知れません。「ああ、おれは生まれなかったらよかった」と何度もため息をついたでしょう。彼は今日も食べて生きるために人々が多く通る道ばたに座って物乞いをしていました。

イエス様と一緒にいた弟子達はその盲人に対して同情心が生じました。それで深刻になってイエス様に質問しました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」この質問は人間の不幸の原因が罪によるということを前提にした質問です。ユダヤ人は人間のすべての不幸や苦しみの原因が罪によると考えていました。弟子達は生まれつきの盲人は誰かの罪によってそのようになっており、誰かがその人の悲しい運命に対して責任を負わなければならないと思いました。ほとんどの人々はこのような考え方をします。このような考え方からは決して解決は生まれてきません。あきらめ以外にはないのです。それでは彼は誰の罪のために盲人として生まれたのでしょうか。彼は生まれつきの盲人ですから彼の罪ではないことは確かです。それでは彼の両親の罪のためでしょうか。もし彼の両親のせいで盲人になったと思うと彼は一生両親を恨みながら生きていたでしょう。しかし親を恨んでも何の解決にもなりません。世の中にどんな親が盲人の子供を産みたいと思っているでしょうか。結局その盲人が自虐したり、親を恨んでもよくなることは何一つありません。そのような考えをすればするほどもっと自分の人生は悲しくなり、暗くなるだけです。

 一般的に人々は今人間が負っている苦しみ、悩みには、必ずその原因となる罪があるのであって、その罰が当たっているのだと思っています。それで病気にかかったり、事故に会うと罪を犯したので罰せられたと思います。勿論人間の罪が不幸の原因になったのは事実です。アダムの罪のために呪いと苦しみと病がこの世に入って来ました。しかしすべての苦しみが必ず罪によるとは言えません。たとえば旧約聖書に出ているヨブのような人がそうです。彼は潔白で正しく、神様を恐れ、悪から遠ざかっていました。しかしサタンの嫉妬によって苦難を受けるようになりました。しかしその中にも神様の御旨がありました。それは苦難を通して金のような信仰を所有させるためでした。ヨブはそれを悟り激しい試練の中でもこう言いました。「しかし、神は私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」(ヨブ23:10)。すべての不幸の原因が罪によるものだと考えると、運命的になります。弟子達は運命的な考えに捕われて心が暗くなっていました。

 それでは弟子達の質問に対してイエス様は何と答えられましたか。3節をご覧ください。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」イエス様はまずこの人や両親が罪を犯したせいではないと言われました。イエス様は彼が盲人になったのは誰のせいでもなく神様のわざがこの人に現われるためだと言われました。神様は全ての人によい御旨と目的を持って働いておられます。ですから神様の中には運命主義がありません。神様の側では運命が摂理に変わります。多くの人は、不幸や苦しみの原因や理由を知ろうとして、過去に目を向けようとしますが、主は未来に目を向けておられます。たとい過去に原因や理由があったとしても、過ぎ去ってしまった過去を、私たちはどうすることもできません。しかし、未来はこれからです。神様がその不幸や苦しみを通して何かをしようとしておられることに気付かなければならないのです。今の私たちから見れば、不幸や苦しみはマイナスにしか見えませんが、神様はそれをプラスに変えてくださいます。ですから、どんなに大きな苦しみ、悩みの中にあっても、神様がそれを益に変えてくださることを期待し、信頼しなければなりません。他の宗教とキリスト教の大きな違いがここにあります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)。ですから私達はどんな状況の中でも神様の御旨を悟り、神様の栄光のために生きることが大切です。

 Fanny J.crosbyは8歳の時にきりにさされて失明しました。彼女の人生は絶望的になり運命的になりました。しかし彼女が光であるイエス様に出会った時運命は摂理に変わりました。彼女は霊的な目が開かれ、光と生命にあふれた人生を過ごすようになりました。そしておよそ9千の賛美歌を作詞して神様に栄光を帰しました。彼女は神様が自分の肉の目を閉ざされたのは醜い世を見ないようにし、霊的な目を開かれ栄光ある神様の世界を見るようにした深い御旨があったと告白しました。私達がよく知っているレーナ・マリア・ヨハンソンさんもそうです。彼女は生まれつき両腕がありません。左足の長さも、右足の半分ほどしかなく、義足をつけています。誰が見ても彼女は不幸な人生です。しかし彼女も神様を信じて運命を克服し、ゴスペル歌手として神様を賛美し、多くの人々に感動を与えています。彼女は普通の学校に進み、中学二年から、日常生活のほとんどを一人でこなしています。化粧も料理も、口と右足を使います。車も、身障者用に改造して自分で運転します。三歳から始めた水泳で、一九八八年のソウル・パラリンピックにも出場しました。ステージでも、楽譜をあごでめくります。彼女は舞台で、歌の合間にこう話します。「両腕がないことで、もっと大切なものを神様が与えてくれました。」このような彼女を誰が不幸だと言えるでしょうか。

 4節をご覧ください。「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことの出来ない夜が来ます。」弟子達は運命的な考えに捕らわれ、何もできませんでした。しかしイエス様は神様のわざを行なわなければならないと言われました。私達が運命主義に捕われて無気力になって何もしないことは神様の御前で罪です。ですから私達は起きて熱心に神様のわざを行なわなければなりません。私達は、なぜ神様のわざを行なわなければなりませんか。

 第一に、昼の間だからです。ここで「昼」はいのちがある時を意味し、「夜」は死ぬ時あるいは終末の時を意味します。神様は私達に働ける昼の間を与えてくださいました。人は死ぬと働きたくてもできません。働くのには時が大切です。昼熱心に働いた人は夜安らかに休むことができます。ところが愚かな人は昼遊んでいて夜働こうとします。若い時には人生を楽しんで年を取ると働こうとします。ところが人のいのちは野の草のようで、いつか必ず花は落ち、しおれる時が来ます。働く時間は限られています。イエス様は「夜が来るでしょう」と言われず「夜が来ます。」と言われました。働けない人生の夜が確かに来ています。年を取ると体がすぐ疲れて来ます。ですから私達には試行錯誤する時間がありません。ですから若い時に熱心に神様のみわざのために働くべきです。若い時に神様のわざを行なう人は知恵ある人です。私達は働ける昼の間に熱心に神様のわざを行なわなければなりません。

 第二に、イエス様が世の光だからです。5節をご覧ください。「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」この御言葉は私達が神様のみわざのために働ける根本理由を教えてくれます。私達は神様のわざを行ないたいと思いますが自分のうちに働くやみの力のためにできない時が多くあります。この闇の力は私達の力や意志によって打ち勝つことができません。ですから私達にはこの闇の勢力に打ち勝てる太陽のような強烈な光が必要です。「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」イエス様は世の光です。私達が光であるイエス様を受け入れる時闇が消え去り、神様のみわざのために働ける力が与えられます。暗くなっていた顔も明るくなります。私達はその時力強く神様のわざを行なうことが出来ます。この時間私達が世の光であるイエス様を心の中に受け入れることができるように祈ります。そして、私達を暗くさせた罪と死の勢力から解放され、神様の栄光を現す世の光の人生を過ごすことができるように祈ります。

 

?。つばきで泥を作られ、盲人を直されたイエス様(6、7)

 イエス様は神様のわざを行なわなければならない理由を言われてから盲人を癒すために何をされましたか。6、7節をご覧ください。「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」全能なるイエス様は一言で盲人の目を直すこともできました。ところがイエス様はなぜつばきで泥を作る不思議な方法でなさったでしょうか。それは弟子達の中にある運命的な要素を直すためでした。イエス様が盲人を癒そうとしてもそこには手術道具もありませんでした。しかしイエス様は絶望したり、諦めませんでした。イエス様は地面につばきをして、そのつばきで泥を作られました。そしてその泥を盲人の目に塗られました。盲人の顔は泥によってまるでかぼちゃのようになりました。イエス様は彼に「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と言われました。

 イエス様の働かれる方法はとてもて不思議です。ある面では非衛生的であり、非合理的です。マナーも技術もありません。一言でむてっぽうな行動です。しかしこれこそ運命を克服して新しいみわざを成し遂げる秘訣です。イエス様は働く道具がなく環境が整えてないからといって諦めませんでした。イエス様は周りから働けるものを探しあるものを持って働かれました。つばきと泥は誰も簡単に手に入れられるものです。それは誰でもどんな状況の中でも神様のみわざのために働けるということを教えてくれます。人々は働こうとする時に働ける道具がなく環境が整えてないとつぶやいたり、諦めたりします。しかし問題は信仰の問題です。いくら絶望的な状況だとしてもイエス様のように明るく肯定的な考えと信仰によってチャレンジする時、神様のわざを行なうことができます。信仰がある人には絶望的な状況こそ信仰を学び、新しいみわざを成し遂げることが出来るよいチャンスです。私達は誰でも御言葉の泥と祈りのつばきを持っています。私達が祈りのつばきと1:1聖書勉強の泥を持って霊的に盲人である人々に塗る時聖霊が働かれ目が開かれるみわざが起こります。今年のサマーバイブルキャンプのために私達が朝昼晩祈りながら御言葉や所感、他のプログラムを用意した時、聖霊が働かれ、36名の兄弟姉妹達が参加し、大きな恵みを受けることができました。キャンパスが夏休み中ですからこの時期には何もできないと思ってはいけません。むしろできることを捜して神様の栄光のために働けるよいチャンスです。特にサマーバイブルキャンプに参加した兄弟姉妹達のために続けて祈りながら1:1聖書勉強ができるよい機会です。

 イエス様の御言葉に対する盲人の反応はどうですか。盲人はイエス様がつばきをすることを聞いたと思います。またつばきで泥を作って自分の目に塗ったこともわかったでしょう。その時彼は自尊心のために反発しがちでした。またこんなことをして自分の目が本当に見えるようになるか、と疑いがちでした。しかしイエス様が彼に願われることは従順でした。神様の能力を体験できるためには御言葉に従って見なければなりません。盲人は信仰によって自尊心を克服しました。そしてイエス様の御言葉に単純に従いました。その結果どうなりましたか。7bをご覧ください。そこで、彼は行って、洗いました。すると、見えるようになって、帰って行きました。わー!彼は生まれて始めて光り輝くこの世を見ました。美しい花を見ました。青空を見ました。シロアムの池に映るハンサムな自分の顔を見ました。彼は喜んだあまり、牛舎の子牛のように跳ね回ったでしょう。彼はイエス様の御言葉に聞き従うことによって今まで経験してない新しい世界を経験するようになりました。すると彼の心も明るくなりました。暗くて運命的なすべての要素が過ぎ去って命の光に満たされるようになりました。世の光であるイエス様によって彼は運命を克服し光の中を歩むようになりました。私達もイエス様の御言葉を単純に信じて従うことによって、霊的な目が開かれ、光の中を歩むことができるように祈ります。

 

?。一つだけ知っていること(8ー41)

盲人が見えるようになって帰って来ると近所の人達や、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人達は「これはすわって物乞いをしていた人ではないか。」他の人は、「これはその人だ。」と言い、また他の人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言いました。その時盲人だったその人は、「私がその人です。」とはっきり言いました。そしてイエス様が自分の目を開けてくださったことを証ししました。人々は、前に盲人であったその人を、パリサイ人達のところに連れて行きました。ところが、パリサイ人達はイエス様が泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であったのでイエス様が神様から出たのではないと言いました。彼らは権威主義と律法主義によって目が見えない人々でした。しかし前に盲人であったその人は「あの方は預言者です。」と告白しました(17)。しかしユダヤ人達は、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出しました。彼の両親はイエス様のことを認めることで会堂から追放されることを恐れて真実を言いませんでした。パリサイ人達は二回目に彼を呼び出した時、イエス様を否認する答えをするように強要しました。「神に栄光を帰しなさい。私達はあの人が罪人であることを知っているのだ。」(24)。彼らは盲人であった人に疑いと恐れを植え付けました。その時彼は追放されることを恐れてイエス様を否認しがちでした。しかし、これに対して、彼の答えは、実に明快です。25節をご覧ください。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」彼は知らないことは知らないと答えています。そして知っていること、自分が体験したことを語っているのです。彼にとって否認することができない一つのことがありました。それは彼が前は盲目であったのに、今は見えるようになったという事実です。真実に立つ者は勇敢です。彼は堂々とユダヤ人議会の議員達に自分の意見を聞かせました。目が見えるようになったこの男の堂々たる態度と言葉の秘密はどこにあったのでしょうか。ちょうど初代教会において、使徒ペテロとヨハネがユダヤ人議会に連れて行かれた時に、彼らが取った態度と同じです。ユダヤ人議会が彼らに、今後一切イエスの名前によって語ったり教えたりしてはならないと命じますと、彼らはこう言います。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒4:19,20)。神に聞き従っている人は、たとい権威や力によって押さえつけられても、恐れません。その人はいのちにあふれた生き生きとした生き方をすることができます。彼は迫害や不信、恐れの中でも信仰の中心を守ることができました。彼は権力者達の圧力と誘いに乗りませんでした。彼がどうやってそれができたでしょうか。彼は実際にイエス様に対してよく知りませんでした。また聖書もよく知りませんんでした。ただ彼は一つだけ知っていることがありました。それは盲目であった自分が今見えるということでした。それは彼にとってどうしても否認することができないイエス様から賜った恵みでした。彼はそのひとつを固くつかみました。そして盲人は自分が経験したことを、ありのままに語りました。しかもその時、彼は自分の体験をただ語ったのではなく、主が自分に対してどのようにしてくださったかということを語っています。これがあかしです。その時彼は迫害の中でも信仰を守ることができました。そして暗い世の中を照らす光の証人になることができました。私たちのあかしもそれと同じです。主を信じる前はどのような状態であったのに、主を信じてからはどうなったのかという事実を語ればよいわけです。

ここでただひとつのことを知っていることの大切さを学びます。皆さんはイエス様によってこうされたというものを持っているでしょうか。そのひとつを固くつかむ時にどんな逆境の中でも信仰の中心を守ることができます。私達が不信仰の世界の中で信仰を守り、勝利の人生を過ごすためには必ず一つの知っている救いの恵みを堅くつかまなければなりません。今年サマーバイブルキャンプを通して私達はひとつの知っている恵みをつかむことができました。盲人の目を開けられた主が私達を罪と死から救ってくださったその恵みを堅くつかみ、どんな誘惑や迫害があっても信仰を守り、大胆にイエス様を証することができるように祈ります。

 それではそのことによって彼はどんな迫害を受けましたか。パリサイ人達は怒って彼を外に追い出してしまいました。彼は寂しくなり失望しがちでした。また物乞いをする職場を失ったために将来に対して恐れがちでした。その時がイエス様が彼のところへわざわざ行かれました。そして親しく語りかけてくださいました。みんな冷たい人々ばかりでしたが、イエス様だけは違いました。主はわざわざ彼を捜し出して、彼のところに来て下さったのです。そして、彼に信仰を植え付けて下さいました。彼は自分に語りかけて下さったイエス様に信仰告白をしました。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエス様を拝しました(38)。彼は霊的な目が開かれ金よりも尊い信仰を持つようになりました。彼はもう自分の人生を悲しみながら泣く乞食の盲人ではありません。彼は輝く天の御国の皇太子になったのです。しかしパリサイ人達は高慢とかたくなな心の故に霊的な盲人達でした。

結論的にイエス様は世の光です。この光であるイエス様を心の中に受け入れる時、私達の心の中に働く暗くて運命的な要素は過ぎ去っていのちの光が輝くようになります。その時私達は運命を克服して闇の世の中を照らす光の証人になることができます。私達を通して神様の栄光が現われるように祈ります。