1998年ヨハネの福音書第19講
良い牧者イエス様
御言葉:ヨハネの福音書10:1ー18
要 節:ヨハネの福音書10:11「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
今日の御言葉は9章を背景にしています。イエス様は生まれつきの盲人をつばきで泥を作って直してくださいました。イエス様は彼の良い牧者となられ、彼の涙をぬぐい取ってくださいました。ところがパリサイ人達は盲人であった人をいじめて追放しました。イエス様はこのような彼らが悔い改めるように牧者と羊のたとえを話してくださいました。
今日の御言葉を通して羊のために命をお捨てになったイエス様について学び、私たちも羊のために自分の命を捨てる姿勢でキャンパスの兄弟姉妹達に仕えることが出来るように祈ります。
?。羊と牧者(1ー6)
1、2節をご覧ください。イエス様は当時の宗教指導者であり、牧者であるパリサイ人達に言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、他の所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。」「盗人と強盗」は羊を盗んだり、殺したり、滅ぼしたりします(10)。彼らは動機が悪いから羊の囲いに門から入らないで、他の所を乗り越えて来ます。しかし、「羊の牧者」は羊を守り、羊の面倒を見ます。羊を愛し、羊の幸せに関心があります。彼らの動機は純粋ですから、堂々と門から入ります。旧約聖書で神様は人との関係を牧者と羊としてたとえました。神様は私達の牧者であり、私達は羊です。パレスチナでは牧者と羊の関係は、単純に財産上の所有関係ではなく、家族のような関係です。神様は人間を造られ、絶対的に従う主人と奴隷の関係ではなく牧者と羊の関係にされました。牧者と羊の関係は人格的な関係であり、愛と信頼の関係です。神様は私達の牧者となられ、私達を非常に愛し、尊く思ってくださいます。
3節をご覧ください。「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」パレスチナでは羊を飼うところに猛獣がたびたび現れるから町に共同所有の羊の囲いを作りました。夜になると牧者達は彼らの羊を囲いに入れて門番は盗人や強盗や猛獣が入れないように夜通しで見張りをしました。朝になって牧者達が来ると門番は彼のために門を開きます。すると、牧者は羊をその名で呼んで連れ出します。ここで私達は牧者が羊をどのようにして導くかを学ぶことができます。
第一に、牧者は自分の羊を名前で呼んで連れ出します。牧者は羊の性格や特徴に従って名前をつけます。男らしさが必要な羊には勇士、謙遜が必要な羊には謙遜、かわいい羊にはプリーティなどをつけます。イエス様は私達ひとりひとりの名前を知っておられます。私達も羊に仕え、導くためには羊の性格や内面の問題などをよく知らなければなりません。そのためには深い関心と対話が必要です。羊のための祈りが必要です。そうする時、ふさわしい方向やふさわしい御言葉を持って仕えることができます。
第二に、牧者は羊の先頭に立って行きます。4節をご覧ください。「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」豚はうしろから棒で叩きながら行かせます。しかし羊は牧者が先頭に立って行くとついて来ます。牧者と羊は深い信頼と愛によって結ばれているので牧者は羊達がついて来ないで逃げるのではないかと心配しません。また、羊も牧者について行くとほふり場に引かれて行くのではないかと恐れません。羊は先頭に立って行く牧者について行けば、豊かな牧草地に導かれることを信じています。ですから何も恐れず安心してついて行きます。同じく私たちがイエス様について行けばイエス様は私達を緑の牧場に伏させ、憩いの泉のほとりに導かれます。
このように牧者が羊達の先頭に立って行くことは何を意味するでしょうか。それは方向提示を意味します。羊達は方向感覚が鈍感なのでどこに行けばいいか分かりません。そのまま置いておくと自分勝手に行ってしまいます。それで牧者は子供の面倒を見るように羊の面倒を見なければなりません。繊細に行くべき方向を提示し、その道に導かなければなりません。また、羊の先頭に立って行くのは道を開拓し、すべての危険から見守ることを意味します。牧者は羊達を牧草地に導くために絶えず道を開拓します。また羊達を毒草の危険から守り、危険な道に行かないように先頭に立って行きます。何よりも牧者が羊の先頭に立つのは羊の模範となることを意味します。羊はうしろから「行け。行け」と言っても行きません。羊は恐れが多いから牧者は羊の先頭に立って模範を見せなければなりません。私達が羊に「ぜひ私に見習わないでイエス様に見習ってください。」と言っても「その牧者にその羊」ですから羊は自然に牧者に見習うようになります。ですから私達は言葉の数を多くするよりは羊達の模範となるべきです。模範は多くの言葉より力があります。
イエス様はすべてのことにおいて私達に模範を示してくださいました。イエス様は神様の御子ですが低くなられ、仕えるしもべの生活をされ、私達に仕えるしもべの模範を示してくださいました。また、イエス様はにおいがする弟子達の足を洗ってくださいました。そして言われました。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:15)。イエス様はご自分を捨て、ご自分の十字架を負う生活をしながらご自分について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負ってついて来るように言われました(マルコ8:34)。使徒パウロはパリサイ人として自己義が強く高慢な人であり、残忍な人でした。しかし彼がイエス様に出会ってからは謙遜になり、愛の豊かな人として変わりました。それは彼がイエス様に見習う生活をしたからです。彼はテモテに次のように勧めました。「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(?テモテ4:12)。また、コリントのクリスチャン達に「私がキリストを見習っているように、あなたがたも私を見習って下さい。」(?コリント11:1)と言いました。私たちが祈る生活、謙遜に神様の御言葉の前で悔い改める生活、御言葉に聞き従う生活、十字架を愛する生活などにおいて羊の模範となることができるように祈ります。
それでは羊はどうやって牧者について行きますか。4b、5節をご覧ください。「すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人達の声を知らないからです。」羊は角も鋭い爪もないので猛獣が来ると食われるしかありません。一度ひっくり返ると自ら立つこともできません。このように羊は弱くて足りませんが、一つの長所があります。それは牧者の声を敏感に聞き分けることができることです。羊は体験的に牧者が自分達を愛し、尊く思う事を知っています。それで牧者を深く信頼してついて行きます。羊は牧者の声にはついて行きますが、ほかの人には決してついて行きません。羊が誰の声を聞いて従うかは生死に関る大切な問題です。
?。羊の門イエス様(7ー10)
イエス様はパリサイ人達がたとえをよく分からなかったのでもう一度言われました。7節をご覧ください。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。」牧者は草原で羊達に草を食べさせているうちに寝る場合があります。その時囲いがあるところに羊達を導き、牧者は入り口の所で寝ます。すると牧者が羊の門となります。羊達は牧者を通らなければ出入りができません。牧者は羊が門を出入りする時、もしけがはしてないか、病気にかかってはないか細かく調べます。
イエス様が「わたしは羊の門です」と言われた時、それはイエス様は唯一の救いの道であることを意味します。人々は山の頂上に上る道が幾つかあるようにどんな宗教でもまじめに信じれば救われると思います。しかし、聖書は道であり、真理であり、いのちであるイエス様を通してでなければ、だれひとり神様のみもとに来ることはないと言っています(ヨハネ14:6)。神様は唯一です。また、神様と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです(?テモテ2:5)。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)。イエス様は私たちを栄光ある神の国に導いてくださる唯一の救いの門です。
9節をご覧ください。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」この御言葉から私達が門であるイエス様を通して得ることができる霊的な祝福が何かを学ぶことができます。
第一に、救いを得ます。私たちは罪人として永遠に滅びるべき者でした。人間は死刑宣告を受けた癌患者のようでした。人間に一番必要なのはこの永遠の滅びからの救いです。このたましいの救いは人生においてどんなことよりも大切なことです。人はいくら富と名誉と権力などこの世で望んでいたものをすべて手に入れたとしても死ねば何の役にも立ちません。イエス様は私たちの罪のために十字架につけられ死なれ、復活されて私達を永遠の滅びから救って下さいました。
第二に、出入りしながらいのちの牧草を見つけます。救われることですべてが終わるのではありません。私たちの霊的な命を維持し成長するためには必ず牧草が必要です。羊は牧草が豊かにある時に健康に育ち、子供もよく産むようになります。しかし、草がなければ羊はやせて病気にかかります。イエス様は私達に時に従って豊かな御言葉を与えてくださり、霊的ないのちを維持させ、豊かにしてくださいます。「出入りする」とは自由に安全に、豊かに与えられる事を意味します。これはいつでも主の御前に出て行き、交わることができることを意味します。私たちはいつでも主と霊的な交わりができます。私たちが自由に主と交わりながら恵みを受け、いのちの御言葉を豊かに食べることができることは大きな祝福です。私たちは御言葉を通して罪によって苦しんでいる人生から罪の赦しの恵みを受けてきよく、正しく、恐れない人生を送ることができます。また、主は御言葉を通して私たちの疲れたたましいを力付けてくださいます。
ところが問題は私たちが実生活で霊的に疲れた時、弱くなった時、イエス様に出入りしながら御言葉と祈りを通して牧草を食べる霊的な生活をしているかどうかのことです。昨日9人が富士山に上って来ました。安藤マリヤ牧者は上る途中、具合が悪くなって吐き出し、顔色も悪くなりました。それで8合目の小屋で止まるようにし、他の人々は頂上に登って日の出を見ました。そして頂上で天と地をお造りになった神様を賛美し、日本宣教のために祈って下山しました。降りる途中一人で降りて来る安藤牧者に会いましたが、以外に元気な姿でした。彼女はそのわけを言ってくれました。彼女は朝起きて日毎の糧の本を見たそうですが、手に書いたその御言葉を見せてくれました。そこにはこう書いてありました。主がパウロに言われた言葉です。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」(?コリント12:)。彼女は富士山に上る時には萩原姉妹をいのちをかけて守る覚悟で上ったそうです。彼女は体力にも自信がありました。ところが、萩原姉妹は元気に頂上まで上りましたが、自分が途中弱くなってしまいました。主はその出来事を通して彼女に大切なことを教えてくださいました。安藤牧者はそれがわかった時、頂上まで上れなかったことで意気消沈せず、元気になり、喜んで自分の弱さを誇りました。私たちも主に出入りする生活、つまり、夜明けの祈り、日毎の糧を食べる生活、所感を書くことなどの生活に励む必要があります。このような生活なしに一日何度もセンターに出入りしても豊かな牧草を見つけることができません。礼拝にも前もって来て心を用意して礼拝を捧げることが必要です。同じく礼拝に参加していてもただ体だけ参加している人と真心と霊によって礼拝を捧げる人が得る牧草は違うはずです。この時間、自分の霊的な健康状態をチックして見ましょう。そして自分が弱まっていると思う人は羊の門であるイエス様に出入りしながら豊かな牧草を食べて健康になりましょう。
10節をご覧ください。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」世の中には牧者だけいるのではありません。盗人もいます。盗人は人々の心に不信仰と疑いと恐れを植え付け、結局霊的ないのちを奪ってしまいます。しかし、イエス様が来られた目的は私たちにいのちを得させ、またそれを豊かに持つようにするためです。イエス様を信じると損するのではないかと思う人もいます。しかし、そうではありません。イエス様によって私たちの人生はいのちに満ちた生き生きとした人生を過ごすようになります。罪を犯し病んでいた人がイエス様によって罪が赦され、心の傷が癒され健康な人生を送ります。過去利己的であった人が恵みと感謝と愛に満たされて多くの人々に仕える牧者となります。イエス様は私達にいのちを与え、またそれを豊かに持つようにしてくださる方です。
?。良い牧者イエス様(11ー18)
イエス様は11節と14節で「わたしは、良い牧者です。」と言われました。世の中で誰が「わたしは、良い牧者です。」と言えるでしょうか。それはイエス様だけがそのように言うことができます。「良い」という言葉は「本質的に良く、美しく、きよい」という意味があって人々が安心して見習うことができる理想的な規範という意味を持っています。それではイエス様はどんな点で良い牧者ですか。
第一に、イエス様は羊のためにご自分を犠牲にされたから良い牧者です。11節をご覧ください。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」良い牧者は自分のためではなく羊のために生きています。牧者生活は世のどんな仕事より意味があり、価値があります。ところが、私達は牧者生活を自己満足と自己栄光のためにしやすいです。しかし良い牧者は牧者生活の目的が自分にではなく羊にあります。羊が手段ではなく目的です。良い牧者は羊を愛し、羊を中心に考えます。それだけではなく良い牧者は羊のために自分を犠牲にします。羊に仕えるために時間を犠牲にし、私生活を犠牲にし、青春を犠牲にします。羊のために自尊心も捨てて自分のための計画も夢も捨てます。シカゴのマザーベリー宣教師は良い牧者です。彼女はアメリカの金持ちの娘として生まれました。彼女の若い時の写真を見ると俳優のようにきれいな方です。彼女は若い時に韓国に宣教師として派遣されました。当時韓国は貧しい国でした。彼女は貧しい大学生達とともに生活しながら彼らに仕えました。そして結婚まで犠牲にして自分の人生を大学生達の救いのために捧げました。良い牧者は羊を愛しているので羊のために生き、羊のために死にます。ダビデはその時代の良い牧者でした。彼は羊をどれほど愛したか、羊のためにいのちを捨てる覚悟を持っていました。それで彼が羊を守っている時、獅子や熊が来ると自分のいのちを顧みず、戦いました。彼は羊のために自分を顧みない良い牧者でした。神様はこのような彼の牧者の心をご覧になって神の民イスラエルの牧者であり、王として立てられました。このような彼が治める民は幸せでした。
ダビデは来るべきメシヤの影でした。イエス様は真に人々の良い牧者でした。イエス様は罪人に仕えるためにご自分をすべて犠牲にされました。ついに十字架につけられ尊いいのちを私たちのために与えてくださいました。イエス様は失われた人々、罪によって滅びの運命に処せられている人々のために死なれました。イエス様は正しい人のために死なれたのではなく罪人のために死なれたのです。イエス様は私達を生かすために私たちの代わりに死なれました。このイエス様は私達の良い牧者です。
しかし、雇い人はどうですか。雇い人は牧者と似ています。普段は彼が雇い人であるか、牧者であるかよく分かりません。その人が雇い人であるか、牧者であるかは羊達が危険にさらされた時に、現われます。牧者は狼が来るのを見ると、いのちをかけて戦います。しかし、牧者でなく、また、羊の所有者でない雇人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇人であって、羊のことを心にかけていないからです。
第二に、イエス様は羊の名前をよく知っておられるから良い牧者です。14節をご覧ください。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」ここで牧者と羊が互いに知っていることは体験を通して深い理解と愛の関係に至っていることを意味します。良い牧者は羊をよく知っています。イエス様は私をよく知っておられます。私の弱さ、咎、過ちなどもよく知っておられます。イエス様はこのような私の弱さ、咎、過ち、罪をすべて背負ってくださいました。ですからイエス様は私達の良い牧者となるにふさわしい方です。
第三に、イエス様は神様の良い羊ですから良い牧者となられます。15a節をご覧ください。
「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。」この御言葉はイエス様が神様の良い羊であることを言ってくれます。イエス様の生涯を見ると、ご自分の願う通りではなくいつも神様に喜ばれることをなさいました(ヨハネ8:29)。イエス様は神様の御声に徹底的に聞き従われました。イエス様は十字架に死なれるまで従われました(ピリピ2:8)。神様はこのようなイエス様を非常に愛し、すべての人々の救い主として高く上げられました(ピリピ2:9?11)。イエス様は神様の良い羊だったので良い牧者となられました。良い牧者となるためには良い羊とならなければなりません。
第四に、イエス様はすべての人々の牧者ですから良い牧者です。16節をご覧ください。「わたしはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」囲いに属さないほかの羊は牧者がいない羊であり、彷徨っている哀れな羊です。イエス様は囲いに属さない神様なしに罪の中で生きている異邦人とこれから囲いに入る多くの羊達に関心を持っておられました。イエス様の中では民族、人種、身分、地域性がありません。イエス様はすべての人々の牧者です。アフリカを開拓したリビングストンの要節はヨハネの福音書10:16でした。彼は世の全ての人が良い牧者であるイエス様の御声を聞いて救いを得ることを望まれました。彼はイエス様の牧者の心を持っていたので偉大な神様のしもべになりました。17、18節をご覧ください。イエス様はいのちを再び得るためにご自分のいのちを捨てられました。イエス様は復活信仰を持って自ら進んでご自分を犠牲にされました。
結論、今日、この時代の根本問題は政治問題や経済問題ではありません。この時代の根本問題は良い牧者がいないことです。この時代真に必要なのは羊のために自分を犠牲にする良い牧者です。良い牧者がいる時、死にかけている人々が生かされます。私たちが良い牧者イエス様を学び、迷っている羊達の良い牧者となることができるように祈ります。