1998年 復活祭礼拝

 

わたしはよみがえりです。いのちです。

 

御言葉:ヨハネの福音書11:1ー44

要 節:ヨハネの福音書11:25、26

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、

死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、

決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」

 

 ヨハネの福音書11章には主がラザロを生き返らせる奇跡が記されています。この奇跡はヨハネの福音書に出ている七つの奇跡の中で最後の奇跡であり、最大な奇跡です。イエス様は死んだラザロを生き返らせる事件を通してご自分がよみがえりであり、いのちであることを教えてくださいました。ラザロは生き返りましたが、また死にました。しかし、イエス・キリストは再び死ぬことがない体で死人の中から復活されました。そして主イエス・キリストを信じる私達クリスチャンも同じく復活することを言われました。この時間よみがえりであり、いのちであるイエス様を受け入れ、私達のうちに働いている死の力から解放され、生き生きとした信仰生活を送ることができるように祈ります。

 

?。この病気は死で終わるだけのものではない(1ー16)

 1節をご覧ください。ある人が病気にかかっていました。その人はラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人でした。2節を見るとマリヤは、イエス様に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのです。彼ら三人の兄弟姉妹達は非常にイエス様を愛し、イエス様も彼らを愛しておられました。イエス様はたびたびその家を訪問し、話し合ったり、食事をともにしたりされました。イエス様は親のいない彼らの親代わりとなってくださいました。

ところである日、ラザロが病気にかかりました。その病気は死に至る致命的なものでした。そこで姉妹達は、イエス様のところに使いを送って、言いました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」姉妹達はラザロが病気であることだけを知らせてもイエス様はすぐに飛んで来られると信じていました。彼女達はイエス様の愛を確信していました。それで「イエス様を愛するラザロ」と言わず、「あなたが愛しておられる者」と言いました。マルタとマリヤはいつ、どのようにして癒してくださるのかは、主の御手の中に委ねています。主がなして下さることが最善であるという信仰があるからです。

 ラザロが病んでいるという知らせを聞いたイエス様は何と言われましたか。4節をご覧ください。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」マルタとマリヤが見るとラザロの病気は絶望的でした。状況は暗く切迫していました。しかしイエス様がご覧になるとその病気は死で終わるだけのものではなく、神様の栄光を現わす絶好のチャンスでした。イエス様はどんな場合にも神様の栄光を表そうとされたので、いつも考えが明るく肯定的でした。私達は現実だけを見て心が暗くなりがちです。「神様を信じているのに、なぜこのような問題が生じたのか。」と考えながら絶望しがちです。一円玉を目に近づけるとどうなりますか。回りが見えなくなります。このように小さな問題もそれだけを見ていると大きくなって回りが全く見えなくなります。しかし神様に目を向けるとどうなりますか。どんなに絶望的な状況の中でも神様の摂理を悟り、望みを持つことができます。そしてその問題を通して信仰が成長します。人には絶望のように見えることも神様には栄光を表すよい機会になります。

 金カレブ宣教師は何年間も手首が痛くて苦しんでいます。それもよく使う右手なので字を書くことも食事をすることも困難です。病院に行って診察を受けても正確な原因がわかりません。いろいろな治療を受けて少し直ったと思ったら再び痛くなってしまい、仕事ができないほどです。私達は彼のために祈っているのになぜなかなか直らないかと思われる時があります。まして本人としては言うまでもないと思います。しかし主は言われます。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。」神様はその病気を通してきっとご自分の栄光を表してくださることを信じます。

 5、6節をご覧ください。イエス様はマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられました。愛する人が病気になっていることを聞くと、だれでも早く飛んで行きたい気持ちになります。イエス様もそうであったと思います。ところがイエス様は、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられました。主は、マルタとマリヤから遣わされて来た人の言葉を聞いても、すぐに主が行動を開始されませんでした。私達としては、すぐに主が行動を開始されるのが解決だと思いやすいのです。いつでも祈りにおいて、自分の願っているように主が答えてくださるのが解決であり、そうでなければ祈りに答えてくださらないのだと思いやすいでのです。結局ラザロは死に、臭くなってしまいました。それゆえマルタとマリヤに大きな苦しみと悲しみが与えられました。またイエス様は誤解され、不信の言葉やつぶやきを聞くようになりました。そうしながらもなぜイエス様は二日とどまれたのでしょうか。 もしもこの時、主がすぐベタニヤの村に来られて、ラザロの病気をいやされたとしたら、主が意図しておられたラザロの生き返りというすばらしい奇跡は起こらなかったはずです。主の御心は、私達の思いと必ずしも同じではありません。主はもっとすばらしい方法で解決を与えてくださいます。神様の栄光のためにです。主は愛する者の信仰を願い、ある障害物をそこに置かれることがあります。私達の前に障害物が置かれたことを知った時、どんなに主が自分を深く愛しておられるかという証拠をそこにみることができます。

それは彼らに一番よいプレゼントをするためでした。神様は愛する者のためにいつも一番よいものを用意しておられます。しかしそれを下さることは私が願う時ではなく神様が願われる時です。ですから私達はそれを信じて神様の時を待つことが必要です。私達は今の時を見ていますが神様は長い目で見ておられます。ある人が夢の中で天国に行きました。彼の案内者は天国のいろいろなところを見せてくれました。ところがある所に行くとこつづみが山のようにたくさんありました。彼は不思議に思い、案内者に「あれは何ですか。」と聞いて見ました。すると案内者はそれは人々が祈ったので神様がプレゼントを用意されましたが、受取人不在のために届けることができなかったものだと説明しました。私達は祈りますが、神様の答えを待ち続けないことがないでしょうか。ペテロは次のように言いました。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(ペテロ第一5:7)。一時的には痛みがあっても神様は私達のためにもっとよいものを用意しておられます。

 その後、イエス様は、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子達に言われました。すると弟子達はイエス様に言いました。「先生。たった今ユダヤ人達が、あなたを石打にしようとしているのに、またそこにおいでになるのですか。」彼らはユダヤ人を恐れました。彼らは石に打たれ死ぬことを恐れました。彼らは死の勢力によってさいなまれていました。このような彼らにイエス様は答えられました。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」(9、10)。イエス様は世の光です。誰でもこのイエス様を心の中に受け入れると、たとえ、死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れません。

 イエス様は、このように話され、それから、弟子達に言われました。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」イエス様はラザロの死を眠っていることとしてご覧になりました。眠りは人の疲れを解消し新しい力を与えます。眠りは安息を与えます。ですから人々は眠ることを恐れません。むしろ眠ることが好きで、暇があればよく眠ります。なぜなら眠る人は起きる希望があるからです。しかし死は目を覚ます希望がないので恐れます。人々は寝ることが好みますが、永遠に寝ることは好みません。聖書では、しばしば人が死んだ時、これを眠ると言います。これは比喩的な表現であって、肉体が復活するということを表しています。黙示録14:13には次のように書いてあります。「『今から後、主にあって死ぬ死者は、幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」イエス様にあって死ぬことは真の安息と栄光ある神の国に入るための門です。目を覚まして見ると新鮮な天国の空気を吸いながら美しい御使い達の歌の声を聞くようになります。

 死んだらすべてが終わりだと思う人と死んだ後に新しい世界が始まると思う人の人生は異なります。人々は死を恐れ、死なないために努力します。死は人に悲しみ、苦しみを与えます。しかし死は眠ることだと思うと死を恐れません。その人は生活に余裕があり、主と福音のために喜んで犠牲にすることができます。イエス様にあって死は私達に希望を与えますが、イエス様から離れた死は絶望を与えます。

 12節をご覧ください。弟子達はイエス様のことばを正しく理解できませんでした。彼らはこう言っています。「主よ。眠っているなら、彼は助かるでしょう。」弟子達にしてみれば、眠っているのなら、そのうちに起きるわけで、わざわざ起こしに行く必要はなく、ましてや身の危険を顧みず、そんな所へ行くことはないと考えていました。そこで、イエス様ははっきりと彼らに言われました。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」ラザロが病気になった時、主はベタニヤにおられませんでした。おられれば、すぐにいやされたでしょう。また、すぐに飛んで行けば、彼はいやされたはずです。しかし、そうすることが主の御心ではありませんでした。ですから、主はその場に居合わせなかったことを喜ぶと言われたのです。主の御心は、ラザロが死んだ後、いのちを与えて、生き返らせることだったからです。そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言いました。「私達も行って、主といっしょに死のうではないか。」トマスはイエス様に対して忠誠心を持っていました。しかし彼の内面には喜びも希望もありませんでした。このような弟子達の信仰は限界がありました。彼らには死の限界を乗り越える復活信仰が必要でした。イエス様は彼らに復活信仰を植え付けるためにその場に居合わせなかったことを喜んでおられました。

 

?。わたしはよみがえりです。いのちです。(17ー27)

 イエス様が、ベタニヤにおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていました。ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にありました。それで大勢のユダヤ人達がマルタとマリヤを慰めるために来ていました。マルタは、イエス様が来られたと聞いて迎えに行きました。そしてマルタはイエス様に向かって言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」マリヤも同じ事を言いました(32)。それをみると彼女達がどれほどイエス様を待っていたかがわかります。また待っていても来られないイエス様をどれほど残念に思っていたかもわかります。日頃あれだけ主に尽くして上げているのだから、何を差し置いても、飛んで来てくださるべきだと思っていたかも知れません。普段食事の時には時間に合わせて来られたのにこんな時にはなぜ遅くなったかを考えるとイエス様に不平不満が生じました。彼女達はラザロが死ぬと頼る対象を失って絶望していました。ラザロの死は彼女達に大きな悲しみと虚しさを与え、生きる意欲と希望を奪って行きました。ラザロは死にましたがマルタとマリヤは死の勢力にさいなまれていました。死は死んだ人を支配するのではなく生きている人を支配します。

 その中でもマルタはどんな期待を持ちましたか。「今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」この言葉の中には、彼女の不十分なキリスト理解が表されています。彼女は、主イエス・キリストがそれまでにしばしば行われた奇跡の御業を忘れてしまっています。主イエスご自身が力を持っているとは考えておらず、主のとりなしの祈りが有効だと言っているにすぎないのです。マルタはイエス様を全能の神様としてよりも、ひとりの祈りの勇者として信じていました。そこでイエス様は、彼女に「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われました。するとマルタはイエス様に言いました。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」信者が世の終わりに復活するという信仰は確かにすばらしいものです。しかし、それが今の彼女の当面している問題に対して何の力にもならないとしたら、彼女の信仰は生きた信仰とは言えません。彼女はイエス様を信じていながらも現在は悲しみ、絶望していました。今の彼女にとってイエス様は何の力にもならない存在でした。しかしイエス様が願われる信仰はどんな信仰ですか。25、26節をご一緒に読んでみましょう。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」「わたしはよみがえりです」「わたしはいのちです」この御言葉はみな現在形です。イエス様は現在よみがえりであり、いのちです。信仰とは過去や未来ではなくいつも現在です。私達は現在イエス様を信じていなければなりません。この世の終わりにおいてだけではなく、今主を自分のよみがえり、いのちと信じるなら、主は当面している今の問題を、復活の力によって解決してくださいます。よみがえりであり、いのちであるイエス様は死んだ人にいのちを与えてくださる方です。イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」と言われました。それは信仰の能力を言ってくれます。信仰は神秘的なものです。私達がイエス様をいのちの主として受け入れる時驚くべきことが起こります。私達は死の世界からいのちの世界に移されるようになります。イエス様はヨハネ5:24で言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」私達は過去死の勢力が支配する世界で生きていました。死の勢力は私達を恐れさせ、虚しくし、悲しませ、運命の奴隷にならせました。死は人から生命、希望、喜び、すてべのものを奪って行きます。しかし命の世界に移されると状況は完全に変わります。その時にはそれ以上死が王となり支配することができません。代わりにいのちが私達を支配するようになります。命の世界は光の世界であり、喜びと希望の世界です。命の世界に生きている人はもう虚しさにさいなまれることはありません。もう運命に支配されません。使徒パウロは復活されたイエス様に出会い、全く人生が変わりました。彼は次のように言いました。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。―しかし、神に感謝すべきです。神は、私達の主イエス・キリストによって、私達に勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(?コリント15:55,57,58)。

 イエス様はマルタに「このように言うと少し慰めになりましたか。」と言われず、「このことを信じますか。」と言われました。これは最後の復活ではなく、今キリストが復活のいのちを持っておられ、当面している問題を解決することができると信じるかという意味です。すると彼女は信仰告白をしました。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」彼女は、主が期待しておられたようには信じていませんでした。今私達はどうでしょうか。私達が当面している問題に対して、イエス様はいのちの主として解決を与えてくださると本当に信じているでしょうか。

 

?。もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見ます(28ー44)

 マルタはこう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言いました。マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエス様のところに行きました。マリヤは、イエス様のおられた所に来て、その足もとにひれ伏して「主よ。もしここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言いながら泣きました。彼女の言葉には主に対する不平の気持が見られますし、また主がそこにいてくださらなければ、人を癒すことができないという不十分な信仰が見られます。また彼女といっしょに来たユダヤ人達も泣きました。それをご覧になったイエス様は霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられました。そしてイエス様は涙を流されました。イエス様は死の勢力に支配されて泣いている人々を憐れみ、涙を流されました。このイエス様は私達の苦しみをご存じで、ともにしてくださる方です。そこで、ユダヤ人達は言いました。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいました。そこでイエス様は、またも心のうちに憤りを覚えられました。イエス様は彼らの不信に憤りを覚えられたのです。

 墓に来られたイエス様は石を取りのけるように命じられました。当時、墓は普通は洞穴の中にありました。そして穴の前を石でふだいで置きました。すると死んだ人の姉妹マルタは言いました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」パレスチナは比較的暖かい所ですから、死体は腐敗が早く、死ぬと直ちに埋葬が行われました。ですから、ラザロの場合も、死後四日もたっていれば、腐敗は始まっており、もう臭くてたまらないのが常識です。常識的なことを言うマルタにイエス様は何と言われましたか。40節をご一緒に読んでみましょう。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」マルタが神様の栄光を見るためには絶望的な状況の中でもイエス様の御言葉に従い、石を取りのけなければなりません。私達も復活の能力を体験するためにはこころの中にある不信の石、疑いの石を取りのけなければなりません。そして、今ここにおられるいのちの主であるイエス・キリストを信じなければなりません。このいのちの主を信じるなら、神の栄光を見ることができます。石を取りのけるとイエス様は目を上げて、祈られました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」そして、イエス様は大声で叫ばれました。「ラザロよ。出て来なさい。」これは無から天地万物を造られた主、人にいのちを与えられる主の権威ある一声でした。すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来ました。どういうふうに出て来たのでしょう。ピョンピョン跳んで出て来たかも知れません。彼の顔は布切れで包まれていました。イエス様が言われるとラザロをとりこにした死の勢力は直ちにラザロを解放しなければなりませんでした。いのちの主が彼にいのちを与えて下さったのです。イエス様の御言葉にはいのちがあります。死んだ人を生き返らせる力があります。イエス様はラザロをよみがえらせることによってご自分がよみがえりであり、いのちであることを示されました。

 ラザロの復活はイエス様ご自身の復活の予表です。ラザロは復活しましたがまた死にました。しかしイエス様は死の勢力を打ち破り永遠によみがえられました(?テモテ1:10)。私達が住んでいるこの世界はまるで葬式を行なうラザロの家のようです。人々は死の力に支配されて悲しみ、絶望し、泣いています。どんな人でも死を恐れます。人は死によって限定された人生を送っています。どんなにすばらしい人生を生きていても、死が訪れて来たら、もう何もすることはできなくなります。それでおしまいになってしまいます。この死の前に、人間はいかに無力であるかということを知らされます。これはどんな人でも同じです。教育があろうとなかろうと、お金があろうとなかろうと、社会的地位があろうとなかろうと、すべて同じです。それほど死はすべての人に平等にやって来ますし、まことに厳しい現実です。しかし、イエス様はこの世の人々のよみがえりであり、いのちです。いのちの主は、この世の終わりに私達を復活させてくださるだけでなく、今生きて私達にいのちを与えてくださいます。私達は時として大きな困難に出会い、絶望してしまうことがあります。しかし、いのちの主がそこにおられる限り、絶望はありません。イエス様の御言葉を聞く人はよみがえります。よみがえりであり、いのちであるイエス様は私達の名前を呼んで命じられます。「ラザロよ。出て来なさい。」イエス様は私達に虚無と絶望の世界から出て来なさいと言われます。運命と無気力の世界から出て来なさいと言われます。私達がみなこのイエス様の御言葉を聞いて死の世界からいのちの世界に移され、生命力溢れる人生を送ることができるように祈ります。よみがえりであり、いのちであるイエス・キリストを信じる信仰によって、神様の栄光を見ることができるように祈ります。