1998年ヨハネの福音書?部第4講

 

真理の御霊が来ると

 

御言葉:ヨハネの福音書16:1ー33

要 節:ヨハネの福音書16:13a

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、

あなたがたをすべての真理に導き入れます。」

 

 私達は、先週のメッセージを通して、実を結ぶ秘訣について学びました。今日は聖霊のみわざについて学びたいと思います。私達の信仰生活において、聖霊のみわざに対して正しく理解することは非常に大切なことです。今日多くの人々が聖霊に対する誤った認識のために誤った道に陥ることがよくあります。今日の御言葉を通して聖霊の御業を正しく知り、聖霊に導かれる生活ができるように祈ります。

 

?。真理の御霊の御業(1ー15)

 

 1ー4節でイエス様は弟子達が将来受ける迫害に対してまえもって話されます。その理由は、弟子達がつまずくことのないためです(1)。弟子達はどんな迫害を受けるようになりますか。2節をご覧ください。人々は彼らを会堂から追放するだけではなく殺すことまでします。そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思います。「会堂から追放する」とは、当時のユダヤ人としては社会生活ができなくなってしまうことを意味します。いわば村八分にされるほど恐ろしいことです。人々はなぜ弟子達をこのように迫害しますか。彼らがこういうことを行うのは、真の神様をもイエス様をも知らないからです(3)。イエス様がこれらのことを弟子達に話したのは、その時が来れば、イエス様がそれについて話したことを、弟子達が思い出すためです(4)。弟子達は激しい迫害を受けるとき、恐れてしまいがちです。しかし、その時イエス様の御言葉を思い出すと信仰の中心を守ることができます。

 彼らがこのように迫害を受けることはどんな意味があるでしょうか。それは迫害を通して信仰の根を下ろし信仰の勇士として成長するためです。ローマ5:3、4は次のように言っています。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」イエス様は弟子達が迫害を通して強くなるように、自立的な主のしもべとして成長するように願われました。

 弟子達は自分達の身の上に起ころうとしている迫害についてイエス様から言われた時、恐れと悲しみに震えおののきました。その時、イエス様は弟子達をどのように助けてくださいましたか。7節をご覧ください。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」イエス様はご自分が去って行くことが、弟子達にとって益になると言われます。なぜ彼らにとって益なのでしょうか。

 それは、助け主である聖霊が来られるからです。イエス様は本来神様ですが人間と同じように体を持っておられたので時空間的に制限されていました。もし今日イエス様がイスラエルに生きておられたとしたら、私達は困ったことが起きた時、一々ビザを取ってイスラエルまで行かなければなりません。緊急を要する時、国際電話で話をしようとしても、全世界の人が主に助けを求めるために電話をしていて、いつでもお話し中で通じないでしょう。しかし聖霊は霊ですから時空間の制限を受けません。聖霊は弟子達が世界中どこに行っても、いつでもともにおられ助けることができます。聖霊は弟子達に知恵が必要な時に知恵を与え、自制が必要な時に自制の霊を与え、愛が必要な時には多くの人々を愛することができる豊かな愛を与えてくださいます。イエス様が去って行かれるのは永遠の離別ではなく助け主を遣わすためです。

 イエス様は続けて真理の御霊が来ると、どんなことをするのかを言われます。8節をご覧ください。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」聖霊は三つの面で世にその誤りを認めさせます。

 第一に、聖霊は罪について、世にその誤りを認めさせます。9節をご覧ください。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」聖霊はイエス様を信じないことが一番大きな罪であることを認めさせます。世の人々の罪に対する概念は道徳的であり相対的です。人々は誘拐や殺人のようなことは罪だと言います。しかしイエス様を信じないことは罪として認めません。しかし不信仰はすべての罪の根です。ローマ1:21ー32節はこれをよく言ってくれます。人々は、神様を知っていながら、その神様を神様としてあがめず、感謝もせず、神様から離れました。その結果人々は真の神様の代わりに、滅ぶべき人間や、鳥、獣、石などを崇拝する偶像崇拝者になり、恥ずべき情欲に引き渡されるようになりました。そればかりか妬み、殺人、争い、欺きなど様々な悪を行う者となりました。すべての道徳的な罪と社会的な悪は根本的に神様を信じない不信仰から来たのです。私たちは聖霊によって自分が罪人であることがわかるようになります。そして神様がその罪の問題を解決するためにイエス・キリストをこの世に遣わしてくださったことがわかります。誰でもこのイエス様が罪人のために来られたことを悟り、罪を告白するなら神様はその人のすべての罪を赦してくださいます。聖霊はイエス様を信じない不信の罪が一番根本的な罪であることを悟らせてくださいます。

 第二に、聖霊は義について、世にその誤りを認めさせます。10節をご覧ください。「また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」「義」とは何でしょうか。「義」とは神様との正しい関係性を意味します。人間は罪を犯したので神様との関係性が切れてしまいました。神様と人間の間には罪の深い谷があって人間のあらゆる努力によっても神様のところに行くことができなくなりました。人間は神様の要求する義に至ることができず罪によって裁かれ永遠の破滅に至るしかありませんでした。神様はこのような人間を哀れんでくださり、神様と人の間に仲介者であるキリスト・イエスをこの世にお与えになりました。当時のユダヤ人たちは、キリストを十字架につけることによって、キリストは呪われた罪人であると思っていたのですが、聖霊が人々に働かれると、キリストは正しい方であって、十字架上で死なれた後、復活、昇天されたことによって、キリストこそまさしく神の御子であられたのだということがわかるようになります。このイエス様は神様の義となられます。

 ところが人々は神様の義を知りません。それで自分の義を求めています。ある人はよい行いによって、ある人は苦行によって自分の義を求めます。ユダヤ人達は律法による義を求めました。ところがこのような自分の義は人々を高ぶるようにします。自分の義が強い人は自分がどれほど惨めな罪人であるかを知らず、自分の義によって他人を裁きます。しかしこのような人間の義は神様がご覧になると何の役にも立ちません。イザヤ64:6は言います。「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。」それで聖書は「義人はいない。ひとりもいない。」と言っています。人間は行いによって義に至るのに失敗しました。

 それでは私たちはどうやって神様の義に至ることができるでしょうか。ロマ1:17は言います。「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」これはイエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられます(ローマ3:22)。聖霊はこのイエス様を信じることのみ神様と正しい関係性を結ぶことができることを悟らせてくださいます。

 第三に、聖霊は裁きについて、世にその誤りを認めさせます。11節をご覧ください。「さばきについてとは、この世を支配する者が裁かれたからです。」「この世を支配する者」とは、サタンです。イエス様が来られる前までサタンは罪と死の力によって人間を支配していました。サタンは人間に情欲や妬みのような罪の欲望と虚無と絶望と自殺したい心などの死の力によって人間を支配し苦しめています。外見上丈夫な人でも実はこのサタンの力によってさいなまれているのです。しかしイエス様はこの世に来られ私たちの罪のために死なれ、死者の中から復活されました。イエス様は十字架と復活によってサタンの頭を踏み砕き勝利されました。聖霊はイエス様の復活によってすでにサタンが裁かれたことを悟らせてくださいます。そしてイエス様を信じる人はサタンの支配から開放され神様の子供になったことを悟らせてくださいます。ですからこのことを信じてサタンに立ち向かうとサタンは恐れて逃げてしまいます。この事実を知ることは、大切なことです。私達は聖霊によって、罪に打ち勝つ力が与えられ、勝利の信仰生活を送ることができます。

 以上から私たちは聖霊のみわざについて学びました。聖霊の働きによって不信者達は彼らの不信仰がどんなに愚かで罪であるかを悟り、自分がいくら努力しても神様の要求する水準に至ることができないことを悟ります。また自分がサタンの奴隷となって裁かれることを悟り、悔い改めるようになります。聖霊の働きや助けなしには誰もこのような罪を悟ることができません。   

 12、13節をご覧ください。「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」聖霊は真理の御霊です。世の中には偽りの霊が多くあります。私たちの心に不信を植え付け、私たちを破滅に導く霊が多くあります。ですから霊だからといって、みな信じてはいけません(?ヨハネ4:1、2)。それらの霊が神様から来たのか、悪魔から来たのか見分けなければなりません。神様から来た霊はイエス・キリストを認め、純粋にキリストの栄光を現します。それでは真理の御霊が来て何をしますか。

 第一に、聖霊は私たちをすべての真理に導き入れます。私たちはセンターから一歩外に踏み出すといろいろな罪の誘惑を経験します。学校の先生や同じクラスの学生達からの不信の言葉によって傷つけられやすいです。特に就職でもすれば職場に縛られてなかなか信仰生活が難しい時もあります。特に私たちの回りにはクリスチャンが少ないから寂しさを感じることもあります。それでこのような険しい世の中でどうやって信仰を守ることができるかと心配が生じる時もあります。しかし少しも心配する必要がありません。私たちが聖霊に頼る時聖霊は私たちをすべての真理の中に導き入れてくださいます。私たちは世の罪や人々によって影響を受けるのではなくむしろ世の光として暗やみを照らすようになります。私たちは聖霊の助けによって罪と不信が満ちている世の中でも真実に生きることができます。

 第二に、聖霊は将来のことを示してくださいます。聖霊は私たちに世界宣教のビジョンと神の国に対する生ける望みを与えてくださいます。また聖霊は正確な時はわかりませんがイエス様の再臨の時が近づいていることを示してくださいます。それを通して私たちはこの世に縛られず神の国を望みながら聖なる巡礼の道を喜びながら歩むことができます。

 

?。勇敢でありなさい(16ー33)

 

 イエス様は弟子達に聖霊のみわざについて言われた後、言われました。「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(16)。それはイエス様がしばらくすると十字架につけられ死なれ、またしばらくすると復活されることを指して言われたことばです。しかし弟子達はそれが何を意味するのか知りませんでした。彼らにはイエス様の言われたことばが理解できませんでした。それでイエス様はそれが何を意味するのか、女が子を産むことにたとえて説明してくださいました。21節をご覧ください。「女が子を産む時には、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」このように弟子達もイエス様が十字架につけられる時しばらく悲しみますが復活されたイエス様に出会うと彼らの悲しみは喜びに変わります。そして、その喜びは誰も奪い去ることができない真の喜びです。弟子達が苦しみ、悲しんだ理由は死のためでした。しかし神様はイエス様を死者の中から復活させられ苦しみの原因を取り除いてくださいました。このようにクリスチャンがこの世で受ける苦しみは産みの苦しみのように意味がある苦しみです。私たちはこの苦しみを通して主とともに苦しみ、さらに復活の喜びにあずかることができるからです。

 23、24節でイエス様は弟子達が受けることができるもう一つの喜びについて言われます。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」これは弟子達に与えられた約束の御言葉です。また私たちに与えてくださった約束の御言葉です。イエス様は今も生きておられ、私たちがイエス様の御名によって求めるとそれを与えてくださいます。子供は自分の親に求めると親がそれをくれることを信じています。また親は子供にいいものを与えようとします。私たちの父なる神様は私たちにいいものを与えようとしておられます。私たちが信じている神様は無能な方ではありません。私たちがほんとうに心からイエス様の御名によって求めれば父なる神様はその祈りに答えてくださいます。そして今まで味わったことのないほどのすばらしい喜びを体験させてくださいます。祈りの力を知らない人は、信仰生活のすばらしさを知らない人です。クリスチャンにとって、祈りがどんなに有力な武器であり、また天の宝庫をあける鍵であるかということは、それを使った人であれば、よく分かっています。

 30節をご覧ください。「今私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」イエス様は彼らが信仰告白をするまで忍耐を持って助けてくださいました。しかしイエス様は弟子達が散らされて、それぞれ自分の家に帰り、イエス様ひとりだけが残される時が来ていることをご存じでした。しかしイエス様は寂しくありませんでした。それは父なる神様がいっしょにおられるからです。

 それでは弟子達は患難の中でどのようにして勝利の人生を過ごすことができますか。33節をご一緒に読んでみましょう。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに勝ったのです。」イエス様はこの世におられる時多くの患難を受けられました。イエス様に対するこの世の支配者、悪魔の攻撃はすさまじいものがありました。しかし、主はそのすべてに打ち勝たれました。そして最後に、悪魔にではなく、父なる神様の御心に従い、十字架につけられ、尊いいのちを捨てられました。そのことによって、悪魔に支配され、死を恐れ、おののいている人々を解放してくださいました。そしてイエス様は死者の中から復活されることによって、死の力を持っている悪魔に決定的に打ち勝たれたのです。このイエス様こそ真の勝利者です。ですから、このイエス・キリストを信じ、この方がいつもともにいてくださることを確信しているクリスチャンは、勇敢であることができます。いつもおどおどしているのは、クリスチャンらしくありません。イエス様を信じる私たちはこの世の中で圧倒的な勝利者になることができるからです。ヨハネは、その手紙の中で次のように言いました。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(ヨハネ?5:5)。ですから私達は何も恐れないでイエス・キリストの兵士らしく勇敢に戦うべきです。

 結論的に、私たちはこの世の中で信仰によって生きるとき、様々な患難に出会います。その時、私たちは恐れたり、心配したりします。しかし、私たちは私たちをイエス・キリストの尊い十字架と復活によって罪と死から救ってくださった神様を信じる信仰によって進むべきです。聖霊は私たちとともにおられ私たちに勝利を与えてくださいます。