1998年ヨハネの福音書?部第6講

 

逮捕されたイエス様

 

御言葉:ヨハネの福音書18:1ー40        

要 節:ヨハネの福音書18:36

「イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

 

 今日の御言葉はイエス様の逮捕と尋問に関する内容です。イエス様は何の罪もありませんが、逮捕され尋問を受けられました。しかし、イエス様は宗教指導者達や総督ピラトの前で堂々とご自分を現わされ、真理を証されました。ここにはイエス様の神様の御子としての姿がよく現われています。今日の御言葉を通して真理の王イエス様を受け入れ、真理に逆らうこの時代、真理を証することができるように祈ります。

 

?。逮捕されたイエス様(1ー11)

 

 1節をご覧下さい。イエス様は祈り終えられると、弟子達とともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれました。そこには園があって、イエス様は弟子達と一緒に、そこに入られました。ここはイエス様がいつも祈っておられたところでした(ルカ22:39)。イエス様は神様のみこころに従って十字架を負うためにここに来られました。著者はイエス様のゲツセマネの祈りは他の福音書との中腹を避けるために省きました。他の福音書を見るとイエス様はここで汗が血のしずくのように地に落ちるほど三回切に祈られました。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14:36)。イエス様はこの祈りを通してご自分の御心を否認して神様の御心に従われました。イエス様は十字架の杯を飲む決断をされたのです。イエス様は祈りによってすべての苦難を受ける力がお受けになりました。

 3節をご覧下さい。ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人達から送られた役人達を引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来ました。主が、このゲツセマネの園へよく出て、弟子達と一緒に過ごされ、祈られたことは、弟子の一人であったイスカリオテのユダもよく知っていました。ですから、最後の晩餐の途中で抜け出したユダは、そこへ行けば、イエス様を敵の手に渡すことができると思い、裏切りの銀貨三十枚を払ってくれた祭司長たちやローマの軍隊を連れてやって来ました。そこに千人隊長が来たのをみると600人の兵士達が来たことがわかります。緊張感が高まる殺伐な雰囲気でした。このような雰囲気の中では誰でも恐れおののくしかありません。その時イエス様はご自分をどのように現わされましたか 

 4節をご覧下さい。イエス様はご自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられました。しかし主は決して逃げ隠れたりなさいませんでした。むしろ「誰を捜すのか」と大胆にご自分を現されました。彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えました。イエス様は彼らに「それはわたしです。」と言われました。「それはわたしです。」と言われる言葉はイエス様を逮捕しに来た人々を圧倒してしまいました。彼らはあとずさりし、地に倒れてしまいました。この世界の造り主であり、また支配者であられる神の御前に、武装したローマ軍隊もユダヤ教の権威を持った人々も、全く無力になってしまいました。

 この危機の時にイエス様は何に関心を持たれましたか。大抵人々は危機に直面すると、自己中心的になり他の人のことを考える余裕を失ってしまいます。しかし、イエス様はご自分が逮捕される危機の時にもご自分の安全より弟子達の安全を考えられました。8節をご覧下さい。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人達はこのままで去らせなさい。」この時、弟子達の信仰はまだ弱いものでした。もし彼らがこの時、主と共に捕えられたら、信仰を捨ててしまったことでしょう。主は、彼らが耐えられないほどの試みに遭わないように守られたのです。主は、いつも弟子達の弱さに心を配っておられる方です。それは、今日の弱い私たちにとって、どんなに大きな慰めとなることでしょうか。主はご自分の民の滅びることを決してお許しにならないのです。イエス様は危機の時にいのちをかけて狼から羊を守る良い牧者です。

 その時ペテロは何をしましたか。シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落としました。そのしもべの名はマルコスでした。ペテロは怒りに満ちていました。彼はイエス様を愛し、イエス様に対する忠誠心がありました。彼の行動は男らしく見えます。しかし彼の行動の裏には恐れが隠れてありました。彼は祈らなければならなかった時に寝ていたので危機に直面すると人間的な血気によって対抗しました。イエス様はこのような彼に何と言われましたか。11節をご覧下さい。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」

 ここで私達は問題を解決する時、剣を使う方法と杯を飲む方法があることを学びます。剣を使う方法が肉による方法だとすれば、杯を飲むのは神様の方法であり、霊的な方法です。剣を使うと問題が早く解決されるように見えます。反面杯を飲むのは消極的で弱くて愚かに見えます。そのために人々は杯を飲むより剣によって問題を解決しようとします。しかし、剣を使うと問題が早く解決されるどころか、むしろもっと問題を悪化させることになります。マタイ26:52でイエス様はペテロに言われました。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」これは歴史が証明しています。世界を武力によって支配した人々は結局剣によって滅びました。トインビは彼の著書「歴史の研究」で武力を使った国はみな滅び、イエス様が使われた十字架の柔和の法則のみ真の勝利の秘訣であると言いました。私達はどのようにして問題を解決したらいいでしょうか。人々は剣を使ったほうが確かで早い方法だと言います。しかし剣によっては決して問題が解決されません。私達は剣をもとに納めなければなりません。そして神様の方法を使わなければなりません。

 イエス様は「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」と言われました。

「父がわたしに下さった杯」とは十字架の死を意味します。それは苦難の杯であり、従順の杯です。マタイ26:53を見ると、「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。」と言われました。イエス様は嵐も一言で静める方であり、死んだナザロを生き返らせた方です。もしイエス様が剣を使われたなら一気に敵たちを倒したはずです。しかしそうすると、神様の御心を成し遂げることができません。イエス様は神様のみこころに従うために十字架の杯を飲む道を選びました。それを通して人類の救いのみわざを成し遂げられました。私達が問題の解決のために剣を使わず、杯を飲むのは神様を信じているからです。私達は神様は生きておられこの世の歴史を主観しておられること、そして、救いのみわざを成し遂げられ、ついに善と悪を裁かれることを信じているからです。

 主は、最も苦しい十字架への道を歩んで行かれました。主は、ご自分に与えられている使命に生きられたのです。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の前に着座されました。」(へブル12:2)。「ご自分の前に置かれた喜び」とは何のことでしょうか。私達の救いです。それが主の喜びでした。私達を救うために、主は天から降りて来られ、十字架に掛かられたのです。

 

?。イエス様を三回否認したペテロ(12ー27)

 

 彼らはイエス様を引いてどこに行きましたか。一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人達は、イエス様を捕らえて縛り、まずアンナスのところに連れて行きました。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからです。彼は前に大祭司をしたことのある人物で、ユダヤの祭司制の頂点に立つ人物として権力ならびに財力を一手に掌握していた人物でした。つまり、ユダヤ教の黒幕的存在でした。イエス様が逮捕されると弟子達はみな逃げました。しかし、シモン・ペテロとヨハネは、イエス様について行きました。ヨハネは大祭司の知り合いで、イエス様といっしょに大祭司の中庭に入りましたが、ペテロは外で門のところに立っていました。それで、ヨハネが出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れて入りました。すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言いました。ペテロは、「そんな者ではない。」と言いました。寒かったので、しもべたちや役人達は、炭火をおこし、そこに立って暖まっていました。ペテロも彼らと一緒に、立って暖まっていました。

 大祭司はイエス様について何を尋問しましたか。19節をご覧下さい。そこで、大祭司はイエス様に、弟子達のこと、また、教えのことについて尋問しました。彼はイエス様の背後の勢力を調べ、逮捕するためにこのように尋問したでしょう。また、イエス様から罪を見つけるためにこのように尋問したでしょう。しかし、イエス様はその質問に答える必要がありませんでした。なぜならイエス様はいつも世に向かって公然と話され、隠れて話したことは何もないからです。イエス様は被告人のようにではなく、堂々と彼に立ち向かわれました。すると、そばに立っていた役人のひとりが、「大祭司にそのような答え方をするのか。」と言って、平手でイエス様を打ちました。それに対しても、主は少しも後にさがらず、堂々と応答しておられます。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」イエス様は感情的にならず彼の誤りをはっきりと指摘されました。イエス様はアンナスに尋問されているのではなく真理によって偽っているアンナスを裁いておられました。アンナスはイエス様を、縛ったままで大祭司カヤパのところに送りました。

 一方、イエス様が尋問されている時、ペテロは何をしていましたか。25節をご覧下さい。彼は立って、暖まっていました。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言いました。その質問に対して、ペテロは「そんな者ではない。」と言って否定しました。ところが大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」

と言いました。それで、ペテロはもう一度否定しました。するとすぐ鶏が鳴きました。主はゲツセマネの園で捕えられようとした時、「だれを捜すのか」と仰せられて、「ナザレ人イエスを」という答えに対して、「それはわたしです」と言われました。それに対し、ペテロは「わたしはそんな者ではない」と言って否定しているのです。他の福音書を見ると、主がペテロの否認を予告されると、彼は力を込めて、主の予告を打ち消し、絶対にそんなことはしないと誓います。しかしその時、彼は主から支えられることを拒んでいたのです。私達は、主の支えがなければ何もできない弱い者であるということを知らなければなりません。信仰のこの基本的なことが分かっていないと、自分では信仰であると思っていても、それは信仰とは全く異質の人間的な強がりや意思にすぎないことを知る必要があります。ペテロの失敗の原因は自分を信じて目を覚まして祈らなかったからです。彼は自分の弱さを知らず、祈りによって心の準備をしていませんでした。祈らないとサタンの誘惑に陥るようになります。イエス様はゲツセマネの園で眠っているペテロに言われました。「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マルコ14:37,38)。

 

?。ピラトに尋問されたイエス様(28ー40)

 

 さて、彼らはイエス様を、カヤパのところから総督官邸に連れて行きました。時は明け方でした。これを見ると、彼らは夜不法集会を開いたことがわかります。裁判は公正性を計らうために必ず日が上ってから沈むまでの間にしなければなりませんでした。特に死刑に対する裁判は夜することができませんでした。しかし彼らは目的を達成するためには手段を選びませんでした。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいりませんでした。ユダヤ人達が異邦人の家にはいると汚れてしまって、過越の食事が食べられなくなってしまうのを恐れたためでした。けれども、異邦人の家に入ると汚れるということは、旧約聖書の律法にはなく、ユダヤ教が勝手に決めた人の言い伝えにすぎませんでした。彼らは、このような細かなことを守ることを大切にしながら、神様から遣わされた御子イエス・キリストを殺すという恐るべき罪を犯そうとしていることに気づきませんでした。彼らは偽善者たちでした。そこで、ピラトは彼らのところに出て来て「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」「あなたがたがこの人を引き取り、自分達の律法に従ってさばきなさい。」と言いました。すると、ユダヤ人達は「私達には、だれを死刑にすることも許されてはいません。」と言いました。これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエス様のことばが成就するためでした。ユダヤ人の律法によって死刑されるなら石打にされたはずです。しかしイエス様は異邦人の手に渡され人類の罪のために十字架につけられることによって御言葉が成就されました(ヨハネ3:14、ガラ3:13)。

 ピラトはユダヤ人の圧力によってもう一度官邸にはいって、イエス様を呼んで尋問しました。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」彼は、ユダヤ人の王が現われることについては、聞いていたようです。すると、イエス様は「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」と答えられました。それはピラトがイエス様に対して関心を持っているかどうかを知るための答えでした。すると、ピラトは「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国民と祭司長達が、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」と答えました。イエス様はご自分の国はどこに属しているかをはっきりと言われました。36節をご覧下さい。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」ここで私達はこの世の国と世に属してない国、二つの国があることが分かります。つまり、世の国と神の国です。世の国はサタンが支配する国ですから偽りと不正腐敗と権謀術数と暴力が絶える日がありません。人々はこのような世界でユートピアを作ろうとしていますが、残るのは虚無と絶望と傷らだけです。

 しかし神の国はどうですか。イザヤ書9:6,7節は神の国の性格について言っています。この国を治める方の名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。この国の特徴は公平と正義です。この国には偽りも不正腐敗もありません。また、この国は永遠です。ダニエル書7:14節は次のように言います。「その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」その国には病気も死もありません。この国はいのちと平和、恵みと真理に満ちています。この国は剣によって建てた国ではなくイエス様が十字架と復活によって建てた国です。私達はこの国の市民として選ばれました。これは何とすばらしいことでしょうか。私達はこの世に住んでいますが、この世に属した者ではありません。この世は旅人がしばらく泊まって行くところに過ぎません。私たちの市民権は神の国にあります。私達は神の国の民ですからこの世の価値観に従ってはいけません。神の国の価値観と神様の御言葉に従うべきです。

 イエス様の御言葉を聞いていたピラトは「それでは、あなたは王なのですか。」と聞きました。それにイエス様は何と答えられましたか。37節をご一緒に読んでみましょう。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」イエス様はご自分が真理の王であることを宣布されました。主が王として治める王国は、真理によるものであり、真理に聞き従う人がその国民です。ですから、この世の国とは全く違います。民族と国籍の区別なく、真理に聞き従う人によって構成されます。神様から離れたこの世には真理がありません。偽り、不義、淫乱、腐敗が支配します。真理がないので人々は肉の欲と感情と相対的な価値観によって生きています。イエス様はこの世に真理のあかしをするために来られました。このためにイエス様は絶えず真理の御言葉を教えられました。イエス様はピラトもイエス様の御声を聞いて天国の市民になるように招かれました。それは彼にとって栄光ある招きでした。彼はその時、招きの言葉に従って真理の側に立つべきでした。しかし、ピラトは「真理とは何ですか。」とイエス様に言ってイエス様の招きを拒みました。ピラトは、そのような得にならない話には興味を示しませんでした。それから彼は暗黒の勢力の方へ行ってしまいました。  

 今日も多くの人々がピラトのように神の国への招きを受けています。しかしこの世の楽しみや心の欲望のために断っています。そういう人は賢い人のようですが、実は愚かな人です。私達は真理の御言葉を聞いて真理に従うべきです。使徒パウロは?コリント13:8節で「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。」と言いました。ピラトはイエス様から何の罪も見つけることができませんでした。ですから直ちに釈放するべきでした。しかし、彼はユダヤ人の怒りを恐れて、一つの提案をします。イエス様を無罪とすれば、ユダヤ人を怒らせてしまうので、イエス様を有罪とし、しかもイエス様に害を受けさせないで釈放するという提案です。しかし、すでにユダヤ教当局者から買収されていた群衆の声によって押し切られてしまいました。彼は真理の側に立つことができず、妥協しようとしましたが、結局悪の勢力に足首を捕まえられてしまいました。

結論、イエス様は何の罪もありませんが、逮捕され尋問を受けられました。しかし、イエス様はこのような状況の中でも真理の王として堂々と真理に対して証されました。私達も主の真理の御言葉に聞き従い、大胆に真理を証することができるように祈ります。