1998年ヨハネの福音書?部第3講
見よ、神の小羊
御言葉:ヨハネの福音書1:19ー34
要 節:ヨハネの福音書1:29
「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。
『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』」
先週は恵みとまことに満ちておられたイエス様について学びました。また、きのうは今年第一回目のバイブルアカデミーと通して生ける水をお与えになるイエス様について学びました。今日はイエス様の先駆者であるバプテスマのヨハネが紹介した「世の罪を取り除く神の小羊、イエス様」について学びたいと思います。私達にとってイエス様がどんな方であるかを知ることはとても大切なことです。この時間、神の小羊であるイエス様はどんな方なのかについて学んで見ましょう。
?。証人のバプテスマのヨハネ(19ー28)
バプテスマのヨハネは旧約の最後の預言者でした。イスラエルにはマラキ預言者の後、約400年間神様の御言葉を宣べ伝える預言者が現われませんでした。人々は神様の御言葉がなかったので霊的に非常に渇いていました。しかし神様はその中でも偉大なる救いのみわざを準備され、時になると、メシヤの先駆者であるバプテスマのヨハネを遣わされました。ヨハネはヨルダン川の東、ベタニヤで主の道を用意するために悔い改めのバプテスマを授けました。すると、ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民がヨハネのところにやって来て自分の罪を告白し、バプテスマを受けました。
その知らせを聞いたユダヤの指導者達はヨハネの正体を調べるために調査団を派遣しました。彼らを遣わした「ユダヤ人たち」とは、サンヘドリンと呼ばれるユダヤ最高議会の指導者たちのことです。当時のユダヤ人の間では、ヨハネがメシヤではないかと期待している人々がいました。それで調査団は人々が考えているとおりにヨハネがメシヤであるかどうかを調べるために「あなたはどなたですか。」と尋ねました。その時、ヨハネはただ黙ってうなずくだけでもキリストとして認められることができました。しかしヨハネは自分についてどんな点を隠さずに明かしましたか。20節をご覧ください。「私はキリストではありません。」ヨハネははっきりと、人々の期待を否定しました。すると彼らは続けて聞きました。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」当時のユダヤ人は、エリヤがもう一度来るという預言を、エリヤが火の車に乗って天に連れ去られたと同様に、そのエリヤが同じような形でもう一度来ると考えていたのです。確かにバプテスマのヨハネはエリヤのような霊と力を持って来るひとりの預言者です。ところが彼は言いました。「そうではありません。」ヨハネはユダヤ人達が考えているような意味でのエリヤではないと答えました。すると遣わされて来た人達は、今度は、「あなたはあの預言者ですか」と聞きました。「あの預言者」というのは、モーセに対して主が約束された、「あなたのようなひとりの預言者を起こそう」と言った「あの預言者」であって、これは第二のモーセとしてのメシヤという意味でした。ヨハネは今度も「違います。」と答えました。ヨハネの答えをよく見て下さい。彼は「私はキリストではありません。」「そうではありません。」「違います。」とだんだん短く答えています。人々から認められた時、徹底的に自分を否定したヨハネから何を学ぶことができるでしょうか。人々は誰でも自分を現し、認めてもらいたい心があります。それで自分について多くのことを語り、自分を誇るのを好みます。信仰生活をする時にも人々から認めてもらえなかったと思い、生きがいを失う人々もいます。しかしバプテスマのヨハネはキリストを現すために自分を徹底的に否定しました。
彼はどのようにして自分を低くし、キリストを高めることができたでしょうか。
第一に、神様の御前で自分を知るようになったからです。彼は神様の御前に立つと自分が惨めな罪人に過ぎないことがよくわかりました。彼は人々から偉大な神様のしもべとして認められる時、高慢になりがちでした。サタンは彼が高慢になるように誘惑したでしょう。しかし彼はその誘惑に騙されませでした。私達が人々から認められた時、自分が偉そうに思われて高慢になるとそれはサタンの誘惑に陥ることです。バプテスマのヨハネは神様の御前で自分を知るようになったので自分を低くすることが出来ました。
第二に、キリストを知るようになったからです。彼も初めにはイエス様がどんな方なのかを知りませんでした。しかし聖霊の働きによってイエス様が神の御子キリストであることを知るようになりました(31ー34)。彼がキリストを知るようになった時、彼はキリストを高めるために喜んで自分を低くすることが出来ました。
バプテスマのヨハネだけではなくキリストを知るようになった人々はみなキリストを高めるために積極的に自分を否認しました。使徒パウロもイエス様に出会う前にはとても高慢な人でした。彼の名前はイスラエルの初代王の名前と同じサウロでした。彼は名前からも自分を高くしようと努力しました。しかし彼がダマスコに行く途中よみがえられたイエス様に出会ってからは謙遜な人として変わりました。彼は自分を「罪人のかしら」(1テモテ1:15)、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペソ3:8)だと言いました。これは彼がキリストを知るようになってキリストの中で自分を知るようになったからです。彼は人間的な面ではすぐれていた人でした。誇ろうとすれば誇ることがたくさんありました。しかし彼がキリストを知るようになった時、自分にとって得であったいっさいのことを損と思うようになりました。その理由は主であるキリスト・イエスを知っているすばらしさのゆえです。彼はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思いました。それは、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められるためでした(ピリピ3:7ー9a)。彼はキリストを知るようになった時、キリストを高めるために自分を低くすることができました。
22節をご覧下さい。そこで、調査団はヨハネに質問しました。「あなたは誰ですか。私達を遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」すると今度もヨハネははっきりと答えました。「私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ。」と荒野で叫んでいる者の声です。」この御言葉はイザヤ40:3にある御言葉でメシヤの先駆者に対するイザヤの預言です。昔王様が行くところには先駆者が先に行きながら叫びました。「王様だ。みなひれ伏しなさい。」民はそれを聞いてみなひれ伏して王に敬意を現しました。ここで中心人物は王です。先駆者は王の行く道を備えるために叫ぶ者に過ぎません。ヨハネは自分を「声」に過ぎないと言っています。すでにキリストは、「ことば」として紹介されました。ことばと声の関係は、一方が実体であるのに対し、他方はその実体を表すものにすぎません。声は一度発せられても、消えていってしまいます。しかし、その声が語ったことばはいつまでも残ります。イエス様は言葉であり、ヨハネはこのことばを伝える声でした。彼は名誉も利益も、個人的な野望も求めませんでした。彼は自分はただ人々の目と心をイエス様に向けさせるための声にすぎないのだ、と言いました。ヨハネは王であるイエス様の道をまっすぐにする使命を受けました。それは救い主イエス・キリストがこの世に来られるに当たり、人々に心の準備をさせることです。
24、25節をご覧下さい。パリサイ人達はヨハネのどんな点について追求しましたか。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」ユダヤ社会ではバプテスマは異邦人がユダヤ教に改宗した時に授けるものでサンヘドリンから資格を受けた人だけが授けることができました。ところが資格のないヨハネがバプテスマを授けていたのです。これは彼らから見ると運転免許を取ってない人が運転しているようなものでした。それだけではありません。ユダヤ教のバプテスマなら、異邦人に授けるものなのに、バプテスマのヨハネは、生まれながらの選民であるユダヤ人にも授けていたのです。それで彼らはヨハネが資格も取らなくて不法でバプテスマを授けていると脅かしました。その時、ヨハネは自分について弁明するより彼らの関心をイエス様に向けさせました。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後から来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」(26、27)。ヨハネはキリストが自分と比べられないほど偉大な方であることを証しました。彼は積極的に人々にイエス様を紹介しました。彼はひたすら神様から任せられた使命に忠実しました。彼は忠実な神様のしもべでした。私達もバプテスマのヨハネのような姿勢をもってイエス・キリストをキャンパスの学生達にあかしすることができるように祈ります。
?。神の小羊イエス様(29ー34)
それではヨハネはイエス様について何を証ししましたか。29節をご覧下さい。ヨハネはイエス様が自分の方に来られるのを見て、言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」ヨハネが証したイエス様はどんな方でしょうか。
第一に、イエス様は神の小羊です。このことばは、旧約聖書を読むことによって、その意味を深く知ることができます。旧約聖書の出エジプト記を見るとイスラエル人はエジプトの王パロの奴隷となって苦しんでいました。彼らは奴隷生活から解放してくださるように夜も昼も神様に叫びました。神様は彼らの祈りを聞かれ、指導者モーセを遣わされました。そしてモーセを通してエジプトに災いを下られました。しかしパロ王は多くの災いにもかかわらずイスラエル人を自由にしてくれませんでした。それで神様は最後に、パロの初子から女のしもべの初子に至るまですべての初子を殺す災いを計画されました。そして、イスラエル人には羊を取り、その血を家のかもいと二本の門柱につけるように言われました。ついに恐ろしい裁きの日が訪れました。真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれました。しかしその恐ろしい裁きの夜、主はイスラエル人のかもいと二本の門柱にある血をご覧になり,その戸口を過ぎ越されました。その時には人がいくら儲けたか、社会の地位がどうであるか、どんな業績を積み上げたか、などは何の役にも立ちませんでした。その時にはただ小羊の血がつけているかどうかだけが問題でした。小羊の血はイスラエル人を死の災いから救う力がありました。私達はこれを過越の羊と言います。
パロの力は罪とサタンの力を象徴します。罪とサタンの力はしつこくとても強いので人は自分の力では免れることができません。そして、罪の報酬は死です。私達は自分の罪のために血を流し死ななければなりません。このような私達の罪のために神の小羊イエス様は私達の身代わりとなって十字架につけられ死なれました。この世の誰も、どんなものも、どんな思想も私達を罪とサタンの力から救うことが出来ません。神の小羊イエス・キリストの血のみ私達を罪とサタンの力から解放してくれることができます。?ペテロ1:18、19節は言います。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」
第二に、イエス様は世の罪を取り除く方です。
この世には様々な問題があります。ある人は人間を不幸にさせる根本原因は経済問題だと言います。また、ある人は教育問題だと言います。ある人は社会の仕組みの問題だと言います。しかし、このような問題が解決されたとしても人間は以前として幸せになれません。社会の様々な問題、たとえば麻薬、暴力、エイズ、殺人、いじめなどの問題は外側に表れた病理現象に過ぎません。それらが根本的な問題ではありません。このような病理現象は人間が根本的に創造主である神様に逆らい、神様から離れたので表れることです。これが罪です。
罪はまるで癌のようです。癌は自分勝手に成長し続け、ついに人を死なせます。罪はらい病のように人間の内面にある神様のかたちを破壊します。罪は人に恐れや孤独を植え付けます。この世の中には人間条件が悪くてではなく罪と罪悪な習慣のために不幸な人生を送っている人々が多くいます。ある人はこう言うでしょう。「私は大丈夫です。私には問題がありません。」しかし心の中では「私はどんなに惨めな人間なのか。誰がこの死の、体から、私を救い出してくれるのでしょうか。」と嘆息します。人々は一生自分が犯した罪によって苦しみます。結局罪は人を死に導きます。しかしそれで終わるのではありません。人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています(ヘブル9:27)。そのさばきとは火と硫黄との燃える池の中で永遠に苦しむことです。これを第二の死と言います(黙21:8)。このように罪は人を永遠の破滅に導きます。
ヘブル9:22節は言います。「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」旧約の時代には人が罪を犯した時、羊や山羊のような動物の血を流す犠牲によって罪の赦しを得ることが出来ました。しかしこれは一時的であり、効果もその時だけでした。それは来るべきまことの贖いのみわざの影に過ぎませんでした。イエス様は傷もなく汚れもない神様の小羊としてすべての人々の罪のために十字架につけられ、尊い血を流されました。キリストは、実に私達の罪を取り除くためにこの世に来られ、十字架上で身代わりの犠牲として死なれたのです。私達が受けなければならない裁きを身代わりに受けて死んでくださったことによって、私達はもはや二度と裁かれることがない者とされました。神様の御子イエス様の血のみ罪によって汚れた人間の血をきよくすることができます。イエス様は世の罪を取り除く神の小羊です。イエス様は世の人々、すなわち私達を罪から、罪の滅びから救ってくださる方です。私達の罪を取り除く神の小羊イエス様を賛美いたします。
インドにこういう話があるそうです。一人の青年が賭博をしていて、それが発覚し刑務所に入れられました。五百ルピーの罰金を払うと釈放されることになっていました。しかし、彼の家は貧しくてお金がありません。彼の母はかわいそうな息子のことを思って、なんとか息子の罰金を払ってやりたいと、毎日毎日石運びをしました。彼女はあるときは、大きな石のゆえに指をつめ、あるいはすねを傷つけることがありました。あるときは疲れ果てて倒れました。ついに彼女は五百ルピーの金を蓄えることができ、それを持って息子の釈放を願い出ました。この青年は釈放され、久しぶりに合う母親を見て、お母さんありがとうと言って近づいて来ました。ところが、今までしなやかだったあの母親の手が、傷だらけで、血がにじんで、あちこち黒いあざができていました。その理由がわかったとき、この青年は傷ついた母の手をしっかりと握って、泣きながら再び自分はこのような罪は犯さないと、母親の前に誓ったそうです。感動的な話です。しかし、これよりもさらに感動的な話が今日学んだ神の小羊イエス様のことです。イザヤ53:5,6節には次のように神の小羊イエス様について書いてあります。「しかし、彼は、私達のそむきの罪のために刺し通され、私達の咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私達に平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私達はいやされた。私達はみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私達のすべての咎を彼に負わせた。」神様が罪人である私達のためにどんなにすばらしい愛のわざをしてくださったか。キリストが私達のために切り刻まれ、私達の罪のために尊い血を流して死んでくださった恵みを深く覚えることができるように祈ります。私達が私達のためにいのちさえも捨てて下さった神様の愛が分かった時、新しく変えられます。
バプテスマのヨハネは「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」と叫びました。「見よ。」ということばは注目して見なさいという意味です。私達はイエス様を注目して見なければなりません。自分のとがと罪のために苦しんでいる人は罪を赦してくださるこのイエス様を見なければなりません。この世を見ている人もイエス様を見なければなりません。私のとがのために鞭に打たれ、私の高慢と不従順と情欲の罪のために十字架につけられ尊い血を流したイエス様を見なければなりません。イエス様を見るとき、十字架の赦しの愛が臨まれ、罪の赦しによる恵みに満たされるようになります。イエス様を見る時、キリストの血が私達を強い力で苦しめていた罪の勢力から解放されます。私達を罪とその刑罰から救ってくださると同時に、私達がなかなか打ち勝つことができないでいる自分の弱さ、悪い習慣や性格の根本的な原因である罪の力に打ち勝たせてくださいます。神の小羊イエス様を見るとき、すべての問題が解決されます。
30節をご覧ください。バプテスマのヨハネはイエス様が自分よりまさる方であるのはイエス様が初めからおられる神様だからだと証しします。ヨハネも最初にはイエス様を知りませんでした。しかし、聖霊の働きによってイエス様が聖霊によってバプテスマを授ける神の子であることを悟り、証しするようになりました。
イエス様は世の罪を取り除く神の小羊です。このイエス様を見ることによって罪の赦しの恵みを受けて勝利の人生を送ることができるように祈ります。