1998年使徒の働き第14講

 

イスラエルの望みのために

 

御言葉:使徒の働き21:17?26:32

要 節:使徒の働き26:7

「私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んで

おります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。

 

 私達は先週の13講を通して使徒パウロがツラノ講堂での弟子養成のみわざを通してローマ宣教のビジョンを見るようになったことを学びました。またミレトでの告別メッセージを通して彼の牧者の姿勢を学びました。今日の御言葉は使徒パウロの受難期の出来事です。彼はエルサレムで逮捕されカイザリヤで2年間牢に入れられて生活します。パウロは囚人でしたが機会があるたびにユダヤ人と総督と王の前で福音を伝えました。今日の御言葉を通して証人パウロ、証人の姿勢、イスラエルの望みであるイエス様、そしてパウロを守り、導かれる神様について学ぶことができるように祈ります。

 

?。ユダヤ人の前での証(21:17?23:35)

 

1. 逮捕(21:17?40)

 パウロ一行がエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれました。次の日、ヤコブを訪問するとそこには長老たちがみな集まっていました。パウロは彼の奉仕を通して神様が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ話しだしました。彼らはそれを聞いて神様をほめたたえました。ところで、パウロはユダヤ人の信者達から誤解を受けていました。当時エルサレムにはイエス様を信じるユダヤ人が数万人もいました。彼らはみな律法に熱心な人々でした。彼らは割礼を受け、モーセの律法を行いながら福音を信じていました。このような彼らはまだ初歩的で福音をよく知りませんでした。ところで、彼らはパウロが異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむくように教えていると聞きました。それは事実とは違いました。パウロは律法の行いによっては義と認められず、ただ信仰によって義と認められる福音の真理を教えただけでした。ヤコブは彼らの誤解を解決するために律法に従って身を清めるように勧めました。パウロは彼の勧めを受け入れました。彼は律法主義者ではありませんでしたが、律法の下にある者を獲得するために律法の下にある者のようになりました。パウロは福音のためなら何でもできる真に自由人でした。

 ところが、アジヤから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると、彼を捕え、宮の外へ引きずり出して殺そうとしました。その時、千人隊長は兵士たちと百人隊長たちとを率いて、彼らのところに駆けつけました。人々は千人隊長と兵士たちを見て、パウロを打つのをやめました。パウロは危機一髪で死を免れました。千人隊長がパウロを捕え、兵営の中に連れ込まれようとしたとき、パウロが千人隊長に、「一言お話ししてもよいでしょうか。」と尋ねて御言葉を伝えるチャンスを得ました(37?40)。パウロは石に打たれ、鎖につながれている状態でしたが、そのような中でも自分を石打にしたユダヤ人達に御言葉を伝えようとしました。彼はどんな状況の中でも主イエス様から受けた使命、すなわち恵みの福音を証する使命を果たそうとしました。

2. ユダヤ人の前での証(22:1?30)

 パウロは階段の上に立ち、民衆に向かって手を振りました。そして、すっかり静かになったとき、彼はヘブル語で証のメッセージを伝え始めました。彼はまず過去自分がどんな人だったかを証しました。彼はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、ガマリエルのもとで律法について厳格な教育を受けました。彼はクリスチャンを迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたほど神に対して熱心な者でした。ところが彼はクリスチャンを逮捕するためにダマスコへ向かって行く途中復活のイエス様に出会いました。そしてアナニヤを通してバプテスマを受け、罪の赦しを受けました。以後彼はイエス様の復活の証人になりました。パウロは続けて自分がどのようにして異邦人に福音を伝える使命を受けたかを話しました。パウロは回心した後、エルサレムに行って祈る途中主の声を聞くようになりました。主は彼に、「行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。」と言われました(21)。

ここまでパウロの話をよく聞いていたユダヤ人達はパウロが異邦人宣教に対して話すと彼のことばを中断させ、騒ぎました。彼らは声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない。」と言いました。それではなぜ彼らは異邦人宣教を許すことができなかったのでしょうか。それは選民意識と特権意識があって世界のすべての人々を救おうとする神様の御旨を受け入れることができなかったからです。神様はイエス・キリストの福音を通して世界のすべての人々を救おうとされます。それは神様の絶対的な御心であり、計画です。しかしユダヤ人は彼らの選民意識や特権意識のために神様の御心に逆らい、異邦人を蔑視しました。そして異邦人に福音を伝えようとするパウロを殺そうとしました。

 千人隊長はパウロを兵営の中に引き入れるように命じ、人々がなぜこのようにパウロに向かって叫ぶのかを知ろうとして、彼をむち打って取り調べるようにと言いました。彼らがむちを当てるためにパウロを縛ったとき、パウロはそばに立っている百人隊長に「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むち打ってよいのですか。」と言いました。彼はローマ市民権を使ってローマ法律の保護を受け、将来カイザルに上訴してローマに行くようになりました。

3.議会の前での証(23:1?11)

 千人隊長はパウロがローマ人であることを知って恐れました。しかし彼はユダヤ人がなぜパウロをそれほど殺そうとしているのか理解できませんでした。それでユダヤ人の議会を通してそれを知ろうとしました。パウロは議会の前で、彼がきよいことを話しました。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」すると大祭司アナニヤは、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じました。その時、パウロは宗教指導者達の偽善を咎めました。「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」(3)。するとそばに立っている者たちが、「あなたは神の大祭司をののしるのか。」と言ったので、パウロは「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。」と言いました。

 パウロは、議会に集まっている人々の一部が復活がないと言うサドカイ人で、一部が復活があると言うパリサイ人であるのを見て取って、論争が起きるようにしました。パウロは危機の時にそれを逃れるセンスがある人でした。

 その日の夜、主はパウロをどのように助けましたか。11節をご一緒に読んで見ましょう。「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。」主はパウロを慰め勇気を与えてくださいました。彼がこれからどんな試練の中でも必ずローマに行くようになり、またイエス様の復活の証人として使命を担うようになると方向を与えました。私達も牧者や宣教師としての使命を担う時に困難にぶつかる時があります。しかし主は私達が使命を避けたり、あきらめたりせず、どんな状況の中でもそれを果たすように勇気と力を与えてくださいます。

4. カイザリヤへの護送(23:12?35)

 夜が明けると、ユダヤ人たちは徒党を組み、パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓い合いました。この陰謀に加わった者は、四十人以上でした。彼らは、再びパウロを議会に連れて来るようにし、途中待ち伏せしていて殺そうとしました。ところが、この秘密情報がパウロの姉妹の子を通して千人隊長に知らされました。千人隊長はふたりの百人隊長を呼び、「今夜九時、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人を整えよ。」と言いつけました。また、パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに送り届けるように、馬の用意もさせました。パウロは472名のローマ兵士達に保護されながら総督ペリクスの所に送られました。神様はこのようにパウロを繊細に守っておられました。パウロは囚人でしたが皇太子のように守られていました。

 

?。総督と王の前での証(24:1?26:32)

 

1. ペリクスの前での証(24:1?27)

 五日の後、大祭司アナニヤは、数人の長老およびテルトロという弁護士といっしょに下って来て、パウロを総督に訴えました。テルトロは美しいことばで総督をほめた後にパウロを告訴しました。告訴内容はパウロがまるでペストのような存在で、ナザレの異端のかしらであり、神殿を汚す者だということでした。彼の告訴内容はローマの法廷では何の影響を及ぼすことができないものでした。総督は今度はパウロに弁明する機会を与えました。

 パウロは自分が礼拝のためにエルサレムに上って来てから、まだ十二日しかたってないのに群衆を騒がせたと訴えているのは根拠のないことであるとはっきりと言いました。しかし彼らが異端と呼んでいるイエス様を信じることに対してははっきりと信仰告白をしました(14)。そして自分が訴えられているのは彼らの告訴のように律法や宮の問題ではなく死者の復活の問題であることを言い表しました。21節をご覧ください。「彼らの中に立っていたとき、私はただ一言、『死者の復活のことで、私はきょう、あなたがたの前でさばかれているのです。』と叫んだにすぎません。」

 裁判の結果パウロの無罪が判明されましたがペリクスは続けて牢につないだままにして置きました。その理由はパウロから金をもらいたい下心とユダヤ人に恩を売ろうとしたからです(26,27)。ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞きました。パウロは自分の釈放のためにお金をあげたり弁明しませんでした。25節をご覧ください。「しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言った。」ペリクスは大祭司ヨナタンを殺した人です。またドルシラは他人の妻でしたが美人だったので8章に出ている魔術師シモンの仲立ちによって自分の妻にしてしまいました。パウロはこのような彼の罪悪な生活をよく知っていたので正義と節制と審判とを論じました。彼が悔い改めなければやがて来る審判を免れることができないことを証しました。それは彼に臨んだ福音のメッセージでした。彼は総督であり、パウロは囚人の身分でしたが、位置が逆になりました。パウロは少しも不義と妥協せず、神様のしもべとして大胆に審判のメッセージを伝えました。するとペリクスは恐れを感じました。しかし彼は悔い改めませんでした。

 

2. カイザルに上訴するパウロ(25:1?27)

ペリクスの後任としてフェストが着任しました。すると、祭司長たちとユダヤ人のおもだった者たちが、パウロを殺そうとエルサレムに呼び寄せていただきたいと彼に懇願しましたが断れました。ところが、ユダヤ人の歓心を買おうとしたフェストは、パウロに向かって、「あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受けることを願うか。」と尋ねました。すると、パウロは「私はカイザルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。」と言いました。そして「私はカイザルに上訴します。」と言いました。パウロはローマの市民権を利用して囚人としてでもローマに行こうとしたのです。パウロは何の罪もなかったので上訴する必要がありませんでした。彼がいくらローマに福音を伝えたがっていても自由に伝えることを願っていたでしょう。しかし現在の状況はそうではありませんでした。もしパウロが自由人となるといつ、どこでユダヤ人に殺されるか知りません。ですから不自由ですが囚人としてローマに行くのがもっと安全だったのです。彼はどんな身分としてでもローマに行って福音を伝えることが彼の切なる望みであり、期待でした(ローマ1:10,13)。またローマに福音を伝えることが主の切なる御心だったので彼はどうしてでも主の御心に従おうとしました。パウロはカイザルに上訴することによってローマ行きのチケットを手に入れました。このチケットはただでした。数日たってから、アグリッパ王とベルニケが、フェストに敬意を表するためにカイザリヤに来ました。こうしてパウロはアグリッパ王とベルニケの前で福音を証する機会が与えられました。

3. アグリッパ王とフェスト総督の前での証(26:1?32)

 この部分のパウロの証は鎖につながれて後二番目のメッセージです。しかし最初の場合と対象が違うので強調点も違います。1?7節は自分がどうして尋問を受けているかを言っています。6,7節をご一緒に読んでみましょう。「そして今、神が私たちの先祖に約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。」パウロはイスラエル人の真の望みが何かを話しました。神様はアブラハムとダビデと預言者達にメシヤを送ってくださると約束されました。イスラエル人は夜も昼もこの約束が成就する時を待ち望んでいました。すなわち、彼らはメシヤが来られる時を待ち望んでいたのです。この望みは彼らが苦難を受ければ受けるほどもっと燃え上がりました。この望みはバビロンでの捕虜生活の時に絶頂に達していました。

彼らは絶望の中でもメシヤに対する望みのゆえに絶望しませんでした。この望みのゆえに慰めと力を得てどんな試練も耐えることができました。イスラエル人は多くの異民族からの迫害を受けましたがそうすればするほどメシヤに対する望みはもっと強くなりました。彼らはメシヤが来られると国の問題、個人の問題などすべての問題が解決できると信じていました。不道徳的な生活をしていたサマリヤの女もこのメシヤを待っていました。パウロはこの希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。

 そしてパウロは8?18節で自分の回心と召されを通してイエス様がイスラエル人が待ち望んでいたメシヤであることを証しました。その証拠はイエス様が死者の中からよみがえられたことです。パウロ自身も、初めはイエス様の復活を信じることができなかったのでイエス様を信じる聖徒達を迫害しました。祭司長たちから権限を授けられた彼は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。彼は激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。しかしダマスコに行く途中復活されたイエス様の声を聞きました。神様は彼をイエス・キリストのしもべであり、復活の証人として立てられました。

 それでは彼がイエス様から受けた使命は何ですか。18節をご覧ください。「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」神様はパウロを救われ、自分が何をしているのか、人生の意味と目的が何かを知らずサタンによって苦しんでいる人々を救おうとされました。パウロはこのイエス様こそイスラエル人が待ち望んでいたメシヤである確信を持つようになりました。それでこのイエス様だけが真の希望であることをあかししました。

 以上でアブリッパ王の前でパウロはイエス様の復活を証してイエス様こそすべての人々が待ち望んでいたメシヤであることを証しました。また、イエス様だけが真の希望であることを証しました。このことばを聞いたフェストはパウロが狂ったと言いました。「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」するとパウロは「狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。」と言いました。そして続けてアグリッパ王に信仰を植え付けようとしました。するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言いました。するとパウロは何と答えましたか。29節をご覧ください。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」

 以上から私達はパウロが逮捕された後ユダヤ人の前と総督と王の前で大胆に福音を伝えることば学びました。ここで私達は幾つかを学ぶことができますか。

 第一に、証人、パウロ:パウロは現在囚人でした。彼は鎖につながれて牢に入れられていました。また彼はユダヤ人からいのちがねらわれており、議会の前で総督や王のような世の権力者達のから尋問を受けました。彼は一人で戦わなければなりませんでした。しかし彼は彼らの前に立つときに少しも卑屈になりませんでした。彼は人々の前に復活の証人として立ちました。そして自己弁護よりイエス様の復活をあかししました。使徒パウロは彼らが受け入れなくても大胆に福音を証しました。このパウロの前でペリクス総督は恐れました。彼はイエス・キリストの福音を証するために自分がどんな状況に処せられてもかまわない自由人でした。何よりも彼は福音を証するイエス・キリストの復活の証人でした。私達も証人パウロを通して彼の証人としての姿勢を学ぶことができるように祈ります。

 第二に、聖霊の御旨:復活されたイエス様はダマスコに行く途中彼に現れ彼に「異邦人、王達、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」(使徒9:15)と言われました。聖霊は彼に置かれた御旨通りに一歩一歩導き、彼をイエス様を証する道具として用いられました。神様は総督や王のような世の権力者達もあわれみ、彼らに福音が宣べ伝えられることを願われました。彼らも救われることを願われました。しかし彼らは高慢と対面と罪を犯す生活を悔い改めず福音を受け入れませんでした。このように神様は福音がどんな人々にも宣べ伝えられ、彼らが救われることを願っておられます。そのために私達を御旨通りに一歩一歩導き、イエス様を証する道具として用いてくださいます。

 結論、以上から私達は要節の御言葉が私達に与える意味をもう一度考えてみたいと思います。26:7節で使徒パウロはアブリッパ王の前で自分はイスラエルの十二部族が切に望んでいる希望のために訴えられていると言いました。また28:20節ではローマのユダヤ人の指導者達にイスラエルの望みのために鎖につながれていると言いました。そして彼らに復活されたイエス様こそイスラエルの希望であることを証しました。イスラエルの希望とは神様がイスラエルを通してメシヤを送ってくださると約束されたのでイスラエルの希望と言っているのです。ですからそれはイスラエル一つの民族に制限された希望ではなく全人類に与える希望を意味します。使徒パウロはイエス様だけが人類の希望であることを証したのです。

 それではなぜイエス様を希望だと言ったのでしょうか。それはイエス様が死の力を打ち破り、復活されたからです。イエス様は私達の真の望みです。人々は死と言う限界のために真の希望を持つことができません。いくら大きな希望を持っていても死とともに消えてしまうからです。それで私達の希望はこの世に生きている間だけ持てる制限された希望、一時的な希望です。このような世の望みは真の希望ではありません。真の希望は永遠に変わらないものでなければなりません。イエス様は私達にこの真の希望を与えてくださいました。イエス様は死者の中からよみがえられ、私達も主とともに復活する希望を与えてくださいました。死の力も打ち破る希望を与えてくださいました。

 私達の希望はイエス様でなければなりません。私達はいろいろな望みを持っています。しかし、真の望みはイエス・キリストでなければなりません。パウロの切なる望みはイエス・キリストを所有することでした。それで彼はイエス様に見習うために自分のすべてのものを投資しました。

 使徒パウロはこの望みのために鎖につながれていると言いました。これは彼がイエス様のために積極的に使命の十字架を負ったことを意味します。彼の真の望みのために彼は喜んで自分の十字架を負うことができました。なぜなら自分の労苦が、主にあってむだでないことを知っていたからです(コリント第一15:58)。彼には復活信仰がありました。彼はこの希望のためにいつでもどこでも大胆にイエス・キリストを証することができました。私達もこの希望のために生きる者となるように祈ります。