1998年使徒の働き第8講

 

アンテオケ教会

 

御言葉:使徒の働き11:19?12:25

要 節:11:26

「彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、

彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。」

 

 神様は世界宣教のみわざをなすために三つの段階を置かれました。第一に、ピリポがサマリヤ人に福音を宣べ伝えました。第二に、ペテロが異邦人コルネリオを受け入れました。第三にアンテオケに至って、決定的な最終段階に至ります。アンテオケ教会は最初に誕生した異邦の教会であり、異邦人伝道の本部として宣教歴史上非常に大切な位置を占めています。今日はアンテオケ教会がどのようにして誕生したか、また、どんな点で神様のみわざに尊く用いられたかについて学びたいと思います。

 

?。アンテオケ教会の誕生(11:19?30)

 

無名の勇士達(19?21)

19節をご覧ください。ステパノの殉教以後エルサレム教会に対する激しい迫害が起こり、聖徒たちは信仰を守るために諸地方に散らされました。彼らはどこに行くのかを知らない旅人となり、将来に対する不安と恐れのために悲しむしかありませんでした。しかし、彼らは信仰によってすべての悲しみや恐れを克服して行く先々に福音を宣べ伝えました。ある人々はキプロス、アンテオケまでも進んで行きました。当時アンテオケは世界で三番目に大きい都市でした。アンテオケは、地中海から24キロ入ったオロンテ川の河口に建設されていて、美しい都市であると共に、国際都市でした。しかし、ぜいたくな生活とその不道徳さで軽視されていました。また、戦車競技や、文字通り、昼も夜も続けられる歓楽の追求者と思われる人々で有名でした。現代風にいいかえれば、アンテオケは居酒屋と賭博とナイトクラブの都市でした。キリスト教が世界宗教となる前進の第一歩はここから始まりました。ですから希望をもてない状況などはあり得ないことがわかります。最初に彼らはユダイズムを克服することができず、同族であるユダヤ人だけに福音を伝えました。ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えました。その時、どんな驚くべきことが起こりましたか。21節をご覧ください。「そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。」当時ギリシヤ人は知識を追求する合理的な考え方を持っている人々でした。それゆえ彼らは理性を越えた神様の存在を認めることが難しい人々でした。彼らは十字架の福音を愚かなものと思いました。ところが彼らのうち大勢の人が信じて主に立ち返るみわざが起こったのです。この出来事を通して何を学ぶことができますか。

第一に、彼らの信仰の勇気です。キプロス人とクレネ人がギリシヤ人に福音を宣べ伝えたことがそれほど大したものと思われないかも知れません。しかし当時には信仰の勇気がなければそれは不可能なことでした。彼らがギリシヤ人に福音を伝えるためには障害物を乗り越えなければなりませんでした。当時ユダヤ人は選民としての自負心のために宗教的な優越感に捕らわれていました。彼らは異邦人を犬や豚のように扱い、蔑視しました。これを私達はユダイズムと言います。このユダイズムは無意識の世界に根強く存在していたのでそれを取り壊すことはなかなか難しいことでした。「ほふって食べなさい」と主に三度も言われ異邦人を受け入れることが神様の御旨であることを悟ったはずの使徒ペテロさえもアンテオケ教会で異邦人といっしょに食事をしていた時、エルサレムから割礼派の人々が来ると、恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったほどです(ガラテヤ2:12)。しかし、キプロス人とクレネ人はギリシヤ人にも福音が必要であることを悟り、大胆に福音を伝えました。彼らには信仰の勇気がありました。彼らはキリスト教の名もない先駆者でした。神様はこのように単純に信仰によって挑戦する信仰の勇気を持っている人を尊く用いられます。神様は彼らの信仰を祝福し、アンテオケ教会を誕生させてくださいました。

第二に、主の御手がともにある時にみわざが起こることを学びます。彼らが福音を宣べ伝えた時に大勢の人が信じて主に立ち返りました。それは主の御手が彼らとともにあったからです。ここで主の御手は神様の力を意味します。神様のみわざは私たちの力によらず根本的に主の御手がともにしなければなりません。主の御手がともにあった時、高慢なギリシヤ人も信じて主に立ち返りました。主の御手がともにあるとき、不可能なことがありません。主の御手がともにある時、私達の宣べ伝える福音を通して大勢の人が主に立ち返るみわざが起こります。主の御手がともにある時、今年90チームの1:1と30人の日本の兄弟姉妹達の礼拝参加ができます。主の御手が私達とともにおられ、それを成し遂げてくださることを信じます。

神様の人、バルナバ(22?26)

 エルサレム教会はアンテオケ教会に起こっている神様のみわざを聞いてバルナバをアンテオケに派遣しました。エルサレム教会はユダイズムを乗り越えて聖霊のみわざがあるところを積極的に支援しました。バルナバはどんな人でしたか。バルナバは貧しい兄弟たちに、惜しみなくキリスト者の愛を示した人でした。またパウロの味方となって、すべての人が疑った時でもパウロの世話をした人でした。また、24節を見ると彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人でした。彼はアンテオケに到着したとき、神様の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ましました。アンテオケは歓楽の都市だったので誘惑が多い所でした。周りの人々はほとんどノンクリスチャンでした。このような環境の中で信仰生活を出発したアンテオケ教会の聖徒達に必要なのはイエス様との人格的な関係性を結ぶことでした。バルナバはそれを悟り、彼らがイエス・キリストとの個人的な信仰を持つように助けました。彼らが誘惑に打ち勝つようにぶどうの木であるイエス様にしっかり結びつけられているように助けました。聖霊と信仰に満ちている人の影響力は大きいです。彼によってアンテオケ教会は霊的な基礎を堅く据えて大きく成長するようになりました。彼によって大ぜいの人が主に導かれました。

教会に大勢の人々が集まって来た時にバルナバは何をしましたか。25,26節をご覧ください。「バルナバはサウロを捜しにタルソヘ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。」ここで私達はバルナバから学ぶことがあります。

第一に、思慮深いバルナバはアンテオケ教会の仕事にパウロがふさわしいと思い、彼を連れて来たことです。バルナバは神様のみわざのために、また羊のために益になることなら何でもする人でした。彼は自分より優れたパウロを歴史の舞台に連れて来ました。彼はスターを誕生させた監督のように真に偉大な人でした。

第二に、バルナバは聖書勉強を熱心にしました。彼はサウロを連れて来て、まる一年の間、大勢の人々を教えました。それによってアンテオケ教会の聖徒達の信仰は御言葉に根ざすようになり、弟子達が立てられるようになりました。13:1節を見ると多くの聖書先生がアンテオケ教会にいまいた。霊的に成長することを願うなら聖書を熱心に学ばなければなりません。御言葉を熱心に学ぶ時、私たちの信仰は健全なものとして成長します。

第三に、バルナバはサウロとよく同労しました。神様のみわざは同労のみわざです。彼らが力を合わせて働く時に、驚くべき神様のみわざが起こりました。エルサレム教会はペテロとヨハネの同労のみわざであり、アンテオケ教会はバルナバとパウロの同労のみわざでした。UBFも李サムエル宣教師とベサラ宣教師の同労のみわざです。マタイ18:19でイエス様は言われました。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」また、伝道者の書4:12節は次のように言っています。「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」同労のみわざを成し遂げるためには片っ方が謙遜になって仕えなければなりません。ところが問題は自分より相手が謙遜になって仕えてくれることを願う心があることです。そのゆえなかなか同労は難しいものです。私達が高慢と利己心を捨てて神様の栄光のために互いに力を合わせて働くことができるように祈ります。

 

?。アンテオケ教会の特徴(26?30)

 

26節をご覧ください。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになりました。ここで私達はアンテオケ教会の特徴について学んで見ましょう。

第一に、アンテオケ教会は御言葉を愛する教会でした。聖徒達は御言葉を愛しました。彼らが御言葉に深く根をおろした時、彼らの人生はまるで水路のそばに植わった木のように豊かな実を結ぶようになりました。御言葉を愛する個人や集まりはいつも恵みと命に溢れていて必ず成長し、豊かな実を結ぶようになります。

第二に、アンテオケ教会はキリストを愛する教会でした。彼らは御言葉を知識的に学んだだけではなく実際生活の中で御言葉を実行する生活をしました。彼らは聖書で学んだイエス・キリストに見習う生活をしました。その結果、弟子達は、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになりました。当時キリスト者とは異邦人が聖徒達をからかうつもりで呼んだあだ名です。アンテオケ教会の聖徒達があまりにも熱心に聖書を学び、イエス・キリストを宣べ伝えるからノンクリスチャン達がクリスチャンをキリストに狂った人々だという意味でつけた名前です。ところが、聖徒達はそれを恥ずかしく思わず、むしろ誇りました。キリスト者とはキリストについて行く者、キリストのために生きる者、一言でキリストの人という意味です。当時クリスチャンはこの名前のゆえに多くの迫害を受けました。しかし、彼らはクリスチャンとしてその名にふさわしく生きるために尊い代価を払いました。ですから私達がクリスチャンと呼ばれるのは決して安価な名ではなく天の御国の命の書に記録された栄光ある名前です。

世の人々は何かに狂っています。お金に狂った人は寝ても覚めてもひたすらお金を考えます。情欲に狂った人はもっぱら情欲的なことを考えます。コンピュータに狂った人は寝ても覚めてもコンピュータのことを考え、コンピュータの前に座ると時間が過ぎるのを忘れてしまいます。アンテオケ教会の聖徒達はキリストに狂った人々でした。彼らはキリストの香りがする人々でした。私たちもキリストの香りを放つ人にならなければなりません。

 第三に、アンテオケ教会は与える教会でした。彼らはユダヤに住んでいる兄弟たちが飢饉で苦しんでいることを聞いて彼らに救援の物を送りました。大抵開拓の時には助けてもらわなければならないと思います。しかし、アンテオケ教会は開拓して一年しか経っていませんでしたが、与える生活に励みました。彼らは主イエス様ご自身が、「受けるよりも与えるほうが幸いである。」と言われた御言葉を実行しました(使徒20:35)。神様はこのように福音精神と宣教精神に満ちていたアンテオケ教会を大きく祝福し、世界宣教のパワーステーションとして尊く用いてくださいました。UBFも開拓の時から与える生活に励みました。貧しい学生達は交通費を節約して与える生活をしました。ある方はセンターのドアまで取り外して他の開拓のセンターに送ったこともありました。神様はこのように与えるUBFを世界宣教に尊く用いておられます。東京センターも与える教会となり、アンテオケ教会のように日本宣教と世界宣教のパワーステーションとなるように祈ります。

 

?。ペテロの出獄(12:1?25)

 

 1、2節をご覧ください。「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」今までは宗教指導者達の迫害がありましたが、今度は政治権力者の迫害が起こりました。ヘロデ王はヘロデ大王の孫であるヘロデ・アグリッパです。ヘロデは正統派ユダヤ人の人気を得るためにヤコブを殺し、ペテロを牢に入れました。使徒ヤコブが殺され、教会の最高の指導者であるペテロが牢に入れられたので聖徒たちは牧者を失った羊のようになりました。しかし、教会は彼のために何をしましたか。5節をご覧ください。「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」彼らは絶望的な状況の中で全能なる神様、歴史の主管者である神様に熱心に祈り続けました。彼らは問題の解決の鍵が主にあることを信じて祈りました。彼らの祈りはヘロデの武力の前に無力に見えます。しかし彼らの祈りは絶望と悲しみを克服する力がありました。危機状態を乗り越える力がありました。ヘロデがペテロを引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していました。ペテロは、両側にいる監視人に両手をつながれていました。だから四人のうちの残りの二人が、戸口を見張っていました。警戒はこれ以上できないというほどペテロが逃げ出さないように警備はもっとも厳重なものでした。しかし、神様は聖徒たちの祈りを聞かれ、厳重な監視の中にいるペテロを奇跡的に救ってくださいました。神様は聖徒たちの祈りを聞かれ、働かれる方です。

神様の教会を迫害したヘロデはどうなりましたか。彼は神様に栄光を帰しませんでした。高慢になって神様に敵対していた彼は結局虫にかまれて死にました。しかし、主のことばは、ますます盛んになり、広まって行きました(24)。

結論的に私達の集まりがアンテオケ教会のように御言葉を愛し、キリストを愛する集まりとなるように祈ります。主の御手が私達とともにおられ、大勢のキャンパスの学生達が主に立ち返るみわざが起こるように祈ります。