1998年コリント人への手紙第二 第1講

 

神様の慰め

 

御言葉:コリント人への手紙第二1:1?24

要 節:コリント人への手紙第二1:4

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。

こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、

どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」

 

コリント人への手紙第二はコリント人への手紙第一に続き使徒パウロがコリント教会に送った手紙です。この手紙でパウロは個人的な問題を多く扱っています。個人の問題を扱っているとして自分の誇りや不満を言い並べているのではなく自分が体験した神秘的な霊的な世界について言っています。ですからこの手紙の中には今日私達が学ぶべき霊的な宝物が多くあります。コリント人への手紙の学びを通して霊的な世界の奥義を悟り、神様に用いられる霊的な人として成長することができるように祈ります。

 今日学ぶ第1講は苦難の中で私達を慰める神様とどんな状況の中でも私達が信頼できる真実な神様について言っています。今日の御言葉を通して本当の慰めはどこから来るのか、私達の信仰生活と福音のみわざの基礎は何であるべきかを学びたいと思います。

 

?.慰めの神様(1?11)

 

 1、2節はあいさつです。パウロは自分が神の御心によってキリスト・イエスの使徒となったと言います。そしてコリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があるように祈っています。コリント教会には様々な問題がありましたが、その教会をパウロは神の教会だと言っています。それは神様が立てられ、神様に属し、神様の栄光のための教会だという意味です。

 3節をご覧下さい。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。」パウロはまず神様を讃美しています。彼が讃美する神様はどんな方ですか。

 第一に、私達の主イエス・キリストの父なる神です。彼はなぜこのように言ったのでしょうか。それは主イエス・キリストの父が私達の父なる神様であるからです。イエス様は死者の中からよみがえられた後、マグダラのマリヤに現れて言われました。「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」〔ヨハネ20:17b〕。神様は私達とかけ離れたところにおられる方ではありません。父親が子供の近くにいるように父なる神様は私達のうちにおられ、助けてくださいます。

 第二に、神様は慈愛の父、すべての慰めの神様です。慈愛とは憐憫、同情という意味で根本的に哀れむことです。私達は苦しみを受ける時に神様が省みてくださらないと思う時があります。しかし、神様は私達が苦難を受ける時に省みてくださらない方ではありません。出エジプト記3章を見るとイスラエル人がパロによって苦しみを受けて嘆いている時に神様はモーセに現われて言われました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、…に、彼らを上らせるためだ。」(出で3:7,8)。神様はイスラエル人が受けている苦難を知らん振りをせず、彼らの悩みを見、叫びを聞いておられました。そして彼らを苦難の中から救い出し、広い良い地、約束の地に導こうとされました。私達は神様を厳しい方、恐ろしい方として考えて近づくことをためらう時があります。もちろん神様は恐れ敬うべき方ですが、根本的に慈愛が豊かな方です。出34:6節を見ると、神様がモーセにご自分について言われるところがあります。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、」神様は私達を救うために一人子をお与えになったほどに愛してくださいました。イエス様はこの世に来られ神様の愛の品性を私達に現わしてくださいました。イエス様はらい病人を哀れみ、彼に手を置いて癒してくださいました。中風の人を哀れみ、彼の罪を赦し、歩かせてくださいました。非難されている取税人の友となってくださいました。情欲によって淫らな女になっていたサマリヤの女を罪に定めず、新しく生まれさせてくださいました。群衆を見て羊飼いのいない羊のようであることを深く哀れみ、御言葉を教えてくださいました。ついに私達のすべての咎と罪を背負って十字架につけられ死なれました。

 神様は慈愛豊かな方ですから私達が受けている苦しみを深く理解し、慰めてくださいます。人生は苦難の連続です。旧約の人ヨブが告白したように人は生まれると苦しみに会います(ヨブ5:7)。神様から離れた人は不安、恐れのために真の安息を得ることができません。人は絶えず生じる罪の欲によって苦しみます。また一日三食を得るために汗が流しながら働かなければなりません。罪を犯すと良心の呵責や裁きに対する恐れによって苦しみます。また、対人関係においても様々な苦しみがあります。このような心の苦しみだけではなく戦争や洪水や地震などの災害によって苦しみます。病気や交通事故のような思いがけなかった事故のゆえに苦しみます。このような苦しみを受ける人には慰めが必要です。

 一般的に人々は苦難を受けると目に見える人や物によって慰めを受けようとします。夫は妻から、妻は夫から慰めを得ようとします。ところが互いに慰められることばかり要求していると、夫婦喧嘩をするようになります。羊は牧者から、牧者は羊から慰めを得ようとします。また、友達から慰めを得ようとします。そのような相手がいない人はお酒を飲んだり麻薬を使ったりもします。しかし人はどこからも真の慰めを得ることができません。私達は時々、身近な人から慰めを得ようとしますが、慰められるどころか傷つけられる場合もあります。すると、「ああ、誰も私を理解してくれない。」と嘆きます。そうです。人は同じ人を根本的に理解してあげることが難しいのです。もしかして理解できても真に慰めることができません。一人息子をなくしたやもめを誰も慰めることができなかったことと同じです。しかし、私達を深く理解し、真に慰めてくださることができる方がおられます。神様は私達の真の慰めの主となる方です。神様は助けを求める人をありのまま受け入れ慰めてくださいます。主によって慰められると、心のすべての傷は癒され、悲しみは喜びに、恐れは平安に、つぶやきは感謝の心に変わります。

 4節をご覧下さい。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」私達は神様から受ける慰めによって、苦しみの中にいる他の人を慰めることができます。シカゴUBFのサラ・ベリ宣教師は1960年代に韓国で福音のみわざに仕えていた時、安息年を迎えてアメリカに行ったことがありました。その時、黒人の怪漢に殴られて鼻の骨が折れるなど顔にひどいけがをしたそうです。誰もサラ・ベリ宣教師を真に慰めることができませんでした。その時、サラ・ベリ宣教師は神様から慰めを受けて多くの人々を慰めることができました。彼女はローマ8:28を通して慰めを受けました。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」私達が苦難を受ける時、人間的な方法によって慰めを受けようとせず、愛と慈愛豊かな方、すべての慰めの源である神様のところへ出て行きましょう。すると神様は私達を慰めてくださいます。こうして、私達も、自分自身が神様から受けた慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

 それでは私達が具体的にどのようにして神様の慰めを受けることができますか。神様は目に見えないので神様に出て行くとしても何をどうすればいいかわかりません。しかし、神様は私達に聖書の御言葉を与えてくださいました。私達は聖書を読む中で神様の慰めを受けることができます。詩篇119:50節は言います。「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。」ですから私達は苦難の時に聖書の御言葉を読みながら主が私達に語る御言葉に耳を傾けるべきです。すると、主は御言葉を通して私達に語り、真の慰めを与えてくださいます。

 また、私達は神様に祈る時に慰めを受けることができます。?サムエル記に出ているハンナは子供を産むことができないことで恥を受けていました。彼女を憎むペニンナは、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにしました。「子供も産めないくせに。死んでしまえ。」夫は彼女を慰めて言いました。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」(1:8)。しかし、夫の慰めも彼女に本当の慰めになりませんでした。彼女は苦しい時、何をしたのでしょうか。いらだたせるペニンナの髪の毛を引っ張りながら喧嘩をしたでしょうか。それとも、夫の愛を利用して彼女を追い出したでしょうか。いいえ。そうではありません。彼女は心の苦しみと悲しみを主に告げました。そして、自分に男の子を授けてくださると息子を主のしもべとして捧げると誓願を立てました。祈った後、彼女は神様から真の慰めを受けました。それから彼女の顔は、もはや以前のようではありませんでした。神様は彼女の祈りを聞かれ、息子サムエルを与えてくださいました。そしてサムエルを通してその時代を救いました。ハンナは人生の苦しみの時に神様に祈り、真の慰めを得ただけではなく神様の救いのみわざに尊く用いられました。

 私達は苦しみの時に御言葉と祈りによって神様と交わり、神様から真の慰めを受けることができます。その他にも讃美を通して慰めを受けることができます。私達が悲しい時、苦しい時、賛美をすると新しい力を得ることができます。また、私達は十字架につけられ死なれたイエス様を黙想することによって慰めを受けることができます。ヘブル人への手紙の著者は次のように勧めました。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」

 5節は私達がキリストとともに苦難を受けると、キリストとともに慰めと栄光を受けることを言っています。信仰生活はキリストの苦難に参加する生活です。私達がキリストの苦難に参加すると自然にキリストの栄光にも参加することになります。6,7節でパウロは自分が受ける苦しみや慰めはコリント教会の聖徒達の慰めと救いのためであると言っています。コリント教会の聖徒達は牧者である使徒パウロを通して慰めを受け、その慰めは、彼らが苦難に耐え抜く力を与えるのです。

 8?11節はパウロがアジヤで受けた苦難について言いながらこのような苦難には神様のどのような御旨があるかを言っています。彼はルステラで福音を伝えていた時には石に打たれ、人々は彼が死んだものと思って、町の外に引きずり出したこともありました。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行って再び福音を宣べ伝えました。そして、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言いました(使徒14:19?22)。彼が死を恐れず、不死鳥のような人生を送ることができた秘訣は何でしょうか。9節をご覧下さい。「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」パウロは苦難を通して自分自身に頼まず、神様により頼む者とならせる神様の御旨を悟りました。10節をご覧下さい。「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」彼の過去の信仰の体験は過去で終わらず、現在も将来にもつながっています。彼は苦難を通して復活の信仰を持つようになりました。イエス様を死者の中からよみがえらせた神様は過去の神様ではありません。今も全能の力によって働いている神様であり、将来にも同じく働かれる神様です。私たちが苦難を受ける時頼むべき方はこの神様です。この神様に頼む時、どんな絶望的な状況の中でも失望せず、勝利の人生を過ごすことができます。

 

?。真実な神様(12?24)

 

 12?24節までを理解するためには使徒パウロがこの手紙を書いた背景を知る必要があります。使徒の働き18章を見ると、パウロがコリント教会を開拓した場面が出ています。パウロは神様の御言葉に捕まえられて一年六ヶ月間心を尽くしてコリント教会を開拓しました。それを通して道徳的に堕落した港町コリントに驚くべき聖霊のみわざが起こりました。多くの人々が悔い改めてイエス・キリストを信じるようになりました。ところが、パウロがそこから離れるとコリント教会に様々な問題が発生しました。それで彼はコリント教会を訪問しようとしました。15,16節を見ると彼の最初の計画はエペソからコリントを通ってマケドニヤに行き、そしてマケドニヤから再びコリントに帰り、彼らに送られてユダヤに行きたいと思いました。しかし彼の計画は変更されエペソからしばらくコリントを訪問してからエペソに帰り、今はマケドニヤにいました。それによってコリント教会の聖徒達の中ではパウロが軽率に約束をして守らない信頼できない人だと非難する人がいました。彼らはパウロの人格だけではなく使徒職さえも疑いました。このようななると彼が宣べ伝えた御言葉も疑われ、パウロが涙とともに開拓したコリント教会が根元から揺れて崩れる結果をもたらします。それでパウロはコリント教会の聖徒達の信仰のために自分の真実性となぜ計画を変更したかを言わなければなりませんでした。

 第一に、パウロはコリントを開拓する時、聖さと神様から来る誠実さをもって、十字架の福音だけを伝えました。12節をご覧下さい。「私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。」コリントはギリシャの哲学が盛んになっていて人々は知恵を誇りました。しかし、パウロは、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜならパウロは、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです(?コリント2:?,2)。彼は純粋に十字架の福音だけを伝えました。

 第二に、神様の真実さに基づいて働いたパウロ(15?22)。パウロがコリント教会を訪問しようとする計画を立てた時、それを軽率にしたでしょうか。また、口では訪問すると言っていますが、内心行きたくないと思っていたでしょうか。そうではありません。彼は軽率に計画を立てたのではなく、祈って神様の御旨に従って彼らのところを訪問しようしたのです。ところが途中彼が旅行計画を変更しなければならない事情が生じました。彼は自分の真実を神の真実にかけて言います。18節をご覧下さい。「しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「しかり。」と言って、同時に「否。」と言うようなものではありません。」彼は神様の真実を信じていたので彼の言葉や行動は真実でした。神様の真実さはイエス・キリストによって御言葉が成就されることによって証明されました。私達が互いに信頼できるのは真実な神様を信頼する時のみ可能です。

 アメリカのお金には”In God we trust”という文字が書いてあります。アメリカ人は神様を信頼した時、人々とも互いに信頼し、信用社会を作りました。しかし彼らが神様を信頼しなくなった時、互いに信頼できなくなりました。世論調査によるとアメリカ人65%が隣人を信頼しないようです。クリントン大統領までもうそをついていたほどだからです。隣人を信頼できないのでスポーツも一緒にすると面白いですが、一人でするようになりました。私達が互いに信頼できるのは真実な神様を信頼する時に可能です。もし私達が真実な神様を信じない時にはクリントン大統領のようにうそつきになるしかありません。ローマ3:4節は言います。「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」

 第三に、彼らの信仰を支配しようとしないパウロ(23,24)。23、24節をご覧下さい。「私はこのいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためです。私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。」パウロはコリント教会の聖徒達が信仰に堅く立っていたので彼らの信仰を支配せず、彼らの信仰を助けることを願ったのでコリントに行きませんでした。

 ここで私達は牧者の役割について学ぶことができます。牧者の役割は羊の信仰を支配するのではなく羊の信仰を助ける協力者です。子供を虐待する親は子供を自分のものだと思うからです。しかし、自分が産んで育てたとしても厳密に言えば自分のものではありません。なぜならすべてのいのちは神様に属し、神様から来るからです。同じく羊も自分のものではなく神様がイエス様の尊い血の代価を払って買い取られた神様の羊です。みわざも私のみわざではなく神様のみわざです。私達はただ管理人に過ぎません。信仰を支配しようとすると、傷つけるようになります。私達は人を助ける時、その人が神様とよい関係性を結んで幸せに生きるように助けなければなりません。

 私達が苦難を受ける時、神様のところに行き、神様の慰めを受けることができるように祈ります。その時、私達は真の慰めを受け、神様に用いられる人として成長することができます。また、私達も苦難を受けている人々を慰めることができます。私達がこの神様によって苦難の中にあっても勝利の人生を過ごすことができるように祈ります。