2000年 新年修養会 第2講
片手で仕事を、片手に投げ槍を
御言葉:ネヘミヤ記4?6章
要 節:ネヘミヤ記4:17
「城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、
片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。」
神様がNew Millenniumを迎えた私達にネヘミヤの信仰と祈り、彼の働きを学ぶようにしてくださり感謝します。本文の御言葉はネヘミヤたちが崩れていた城壁を建て直した出来事です。この働きには敵の妨害から内部の裏切りまでさまざまな問題がありました。しかし、ネヘミヤと民たちは神様に祈り、二重の十字架を担うことによってそれらの問題を克服し、52日間で城壁再建を完成しました。
この時間、御言葉を通して私たちがキャンパスを建て直そうとする時、サタンの妨害は何か、また、私たちがどうやってそれに打ち勝ち、キャンパスを建て直すことができるかを学びます。特に、私たちがネヘミヤのスピリットと信仰、祈りを深く学び、力ある神様のしもべとして新しい出発ができるように祈ります。
?.片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた(4,5章)
4:1―3節をご覧ください。サヌバラテは城壁を修復していることを聞くと、怒り、また非常に憤慨して、ユダヤ人たちを嘲りました。「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。一日で仕上げようとするのか。焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」また「アモン人トビヤ」も貧弱な城壁なら「一匹のキツネ」が上っただけで、石垣は崩れるだろう」と嘲りました。人は一発殴られると二発殴りかえしたくなります。嘲られると嘲りかえしたくなります。しかし、ネヘミヤはどうしましたか。「この野郎!ばか野郎!」言い返しましたか。石を投げて戦いましたか。あるいは「やはりそうだなあー。」と言いながらあきらめましたか。
いいえ。4、5節をご覧ください。ネヘミヤと民たちは感情的に戦いませんでした。神様の御前に進み出て祈りました。「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。彼らのそしりを彼らの頭に返し、彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。彼らの咎を赦すことなく、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らは建て直す者たちを侮辱したからです。」彼らは祈りによってすべての仕返しは神様に委ねました。そして自分たちは、ただ城壁修復のために忠実に働きました。すると「アッ!」という間に城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされました。
城壁の修復は急速に進み、割れ目もふさがり始めました。敵の予想をはるかに越えたスピードで城壁の修復は進んだのです。すると、敵はことばだけではなく、今度は直接にエルサレムに攻め入り、混乱を起こそうと陰謀を企てました。彼らはエルサレムに入り、「城壁の修復を撤回せよ。撤回せよ。」と叫ぼう、歩き回りながら直接に攻撃しようとしたのです。しかし、ネヘミヤと民たちはそれに揺れることもなく神様に祈りました。そして昼も夜も「見張り」を立てて対抗しながら働きました。ところが、このような緊張は長くは続きませんでした。
10節をご覧ください。「荷を担う者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない。」とあります。民全体の気力が低下して行ったことがわかります。しかも、敵は攻撃のうわさをエルサレム近郊の人々に流し続けたので彼らも恐怖に陥りました。彼らは城壁の修復をやっている家族や親戚たちが工事を中止して自分たちのところに戻って来るように十回も要求しました。彼らは愛する者の安全を願い、より大きな目標を見失ってしまいました。しかし、ネヘミヤはどうでしたか。
13、14節をご覧ください。彼は決して諦めませんでした。むしろ積極的になりました。彼は民をその家族ごとに、城壁のうしろの低い所の、空き地に、剣や槍や弓を持たせて配置しました。そしておもだった人々や、代表者たち、及びその他の人々に言いました。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」ネヘミヤは民に大いなる恐るべき主を覚えるように強調しています。この神様は天と地をお造りになった創造主です。あらゆる万物を支配しておられる大いなる方です。世の歴史と人間のいのちを主管しておられる方です。この戦いの主管者です。ですから、彼らは敵を見るより大いなる恐るべき神様だけを仰ぎ見なければなりません。大いなる神様を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦わなければなりません。では彼らが指導者ネヘミヤのことばを聞いて戦うことにしたとき、その結果はどうなりましたか。15節をご覧ください。神様が敵の企みを打ち壊されたので戦う必要も無くなりました。このように私たちが大いなる神様を覚え、積極的に戦おうとするなら、神様は勝利を与えてくださいます。問題はやる気が問題です。本気になって戦おうとすると神様はその心の動機を受け取り、戦ってくださいます。
ユダヤ人の城壁の修復は私たちにとってはキャンパスの開拓であると言えます。私たちがキャンパス開拓のために積極的にフィッシングしようとすると、直ちにサタンも攻撃を始めます。まず心理作戦です。心の中に「今は冬休みでしょう、いや早稲田は試験だから無理ですよ。」と言い訳を植え付けます。勇気を出してキャンパスまで行きますが、祈ることができてもフィッシングはなかなか難しくてためらいます。やっともう一度挑戦して話をかけると「韓国人なら統一協会でないか」と言われたり、「どうして学生でもないのにキャンパスで宗教活動するのか」と言われたりする場合もあります。これらのことを何回も経験すると次は戦う意欲さえ失ってしまいます。サタンはそれをねらって私たちの心に恐れを植え付け、戦わないようにしているのです。ですから私たちはこのようなサタンの策略に巻き込まれてはいけません。むしろ、神様の御前に出て行き、祈らなければなりません。敵を考えるより大いなる神様を覚えて霊的な戦いをしなければなりません。私たちが神様を信じて戦う時、神様が私たちに勝利を与えてくださいます。では工事を続けた人々の姿勢はどうでしたか。
17節をご一緒に読んでみましょう。「城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。」城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていました。このように武器を持って働くようにしたのは戦争が起こるといつでも戦えるためでした。荷をかついで運ぶことはそれだけでも難しいことです。なのに武器まで持って歩くことは本当に大変なことです。私も軍人であった時経験しましたが、本当につらいことでした。同時に二つのことをやることは難しいことなのです。しかし、ネヘミヤは城壁を築くことも、敵を警戒することも諦められないと思いました。それでちょっと苦しくても、つらくても武器を持って働くようにしました。それだけではありません。ネヘミヤは自分のそばに角笛を吹き鳴らす者がついているようにしました。もし危機状況が起こったら、いつでもラッパを吹き鳴らして民たちを集めるためでした。こうして彼らは夜明けから星の現れる時まで熱心に働きました。彼らは寝る時間以外は力を尽くして働きました。何も文句を言わずにすべてを行ないました。なぜならいつ敵から奇襲攻撃を受けるか分からなかったからです。このように警戒態勢を完璧にしてからネヘミヤはどうしましたか。自分の家にいてゆっくり休みましたか。
23節をご覧ください。「私も、私の親類の者も、私に仕える若い者たちも、私を守る見張りの人々も、私たちのうちのだれも、服を脱がず、それぞれ投げ槍を手にしていた。」とあります。ネヘミヤを始め指導者たちは他の人たちよりももっと目を覚ましている生活をしました。彼らは寝るときも服を脱がず、それぞれ投げ槍を手にしていました。ネヘミヤとその一族の献身の姿勢は他の人々に大きな影響を与えたでしょう。リーダがこのように率先して働く時、他の人たちも文句を言わず、彼のことばに従いました。
ここで、私たちも神様のみわざに仕えるとき、片手に御言葉と祈りの槍を握ってサタンと戦い、片手で神様が与えてくださった仕事を熱心にしなければならないことを学ぶことができます。特に私たちは学生牧者、平信徒宣教師として学問の十字架、自立の十字架はもちろん、弟子養成の使命を同時に担わなければなりません。ところがそれはやさしくありません。学生は勉強だけでも精いっぱいなのに、アルバイトしながら、弟子養成に励むことはやさしくないでしょう。また、就職している宣教師や牧者たちを見ると朝早くから夜中まで働いています。それで牧者や宣教師たちはヤコブのように昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有り様でHard Working Hard Studyをしなければなりません。また私たちには大学生に聖書を教えて彼らが一人の羊に教えることができる弟子養成家として成長するように助ける使命があります。ところが、一人の羊だけでも仕えるためには多くの犠牲と愛が要求されます。兄弟姉妹たちは少しでも自分の心に合わなければ各々自分の道に行ってしまいます。それゆえ、学生身分の宣教師は就職すれば全幅的に仕えると思います。就職した方は仕事のために弟子養成は自分の同労者がやってくれることを願います。また奥さまの宣教師は自分の子どもを育てることが背一杯で子どもが大きくなったらみわざに積極的に励もうと思います。とりあえず、一つだけに専念したいのです。私は時間的に余裕があると言われる教師の仕事をやっていますが、それでも教師をやるか、宣教師をやるか一つだけに専念したくなるときが多くあります。しかし、神様は私たちがちょっと難しくても現時点で二つとも徹底に担うことを願っておられます。ここで槍は御言葉と祈りです。神様の御言葉は生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭いです。御言葉には新しい歴史を創造する力があります。また祈りにはサタンの企みを破り、神様の御心を動かすダイナミックな力があります。学問の十字架を担いながら限界的な考えが生じるときがありますか。イエス様は言われます。「できるものならというのか信じる者にはどんなことでもできるのです。(マルコ9:23)」私たちがこのような御言葉の槍を堅く握ると不思議にも新しい力が湧き出ます。また、弟子養成に失敗した経験があってなかなか難しく思われますか。聖書は言われます。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。(詩126:5)」。この御言葉をつかんで新学期からクリスマスまで熱心にフィッシングし、羊たちの罪のために涙の祈りをささげ続けると命の実を刈り取ることができます。私たちが片手に御言葉と祈りの槍を握り、片手では神様の栄光のために弟子養成の使命を積極的に担おうとするなら、それは必ずできます。神様が戦ってくださるからです。問題は信仰とスピリットです。心が燃えていないことが大きな問題です。私たちが世の人々のように同じく眠り、休み、はかない罪を楽しみながら二つのことをやることはできません。また、やるのはやるけど適当にやろうとするならいつまでも疲れる生活から逃げられません。私たちがネヘミヤのように寝る時間以外には夜明けから夜空に星が現れる時まで、Hard Working Hard Studyができるように祈ります。特に指導者として寝るときも服を脱がずに、槍を握っていたネヘミヤのように霊的に緊張して羊たちを守りながら主のみわざに積極的に励むことができるように祈ります。そうすると、必ず神様が二重、三重の十字架、いやそれ以上の十字架も担えるように助けてくださることを信じます。
林ステパノ宣教師は修士課程2年目で論文の十字架だけでも大変だと思います。ところが、3人の家族を支え、羊たちに仕えるために毎日牛乳配達をし、大学でT.A.韓国学校ではコンピュータ講師のアルバイトしています。その中で毎週2人の羊に仕え、南宰牧者にも仕えています。それだけではありません。毎週土曜日のキャンパスのフィッシングに参加し、情報通信部の部員として毎週ヨハネ宣教師のメッセージを整理してプリントし、コピーしてみなに配ることやインターネットに載せることも忠実にやっています。私は彼の忠実な同労に感謝しながら彼の働きぶりに驚いたりしました。ところがよく考えてみると彼のこのような力は神様に対する信仰と御言葉と祈りの槍を握っている生活から生まれているのが分かります。彼は牛乳配達が終わったらセンターに来て夜明けの祈りをささげる生活をしました。また彼は自分の要節であるマタイ6:33節「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」この御言葉に基づいていくら忙しくても毎週ほとんど休まずに所感発表をし、基礎勉強問題もいつもよく準備して参加しています。彼がこのように片手に祈りと御言葉の槍をしっかり握り、片手では神の国のために働くとき、彼の家庭を通して山内、鷹取兄弟、ユンイ、キョンヒ姉妹がよく成長しています。クリスマス礼拝には1:1を休んでいた泉兄弟も来ました。
私たちも自分の中にある「できない」という不信と安逸を悔い改めて積極的にネヘミヤのように片手に御言葉と祈りの槍を握って戦い、片手では自立と、羊を養うことのために積極的に使命を担いましょう。夜明けから星が現れるときまで聖なるキャンパスの城壁を建て直すために励みましょう。そうして今年は宣教師より日本人牧者や羊がもっとお多くなるみわざが起こるように祈ります。
私は今学年度韓国学校で一番難しいと言われているクラスの担任として働きました。実際に今までクラスの全員が出席した日は一日もありませんでした。それに学外学内暴力事件が何回も起こりました。この有り様が韓国の教育部まで知らされて校長も困ることになり、私は校長室に呼ばれて叱れる時が何回もありました。その時ごとに自分の責任を感じながらも悲しくなり、神様のみわざに仕える力を無くしました。その中でパイオニアチームとフェローシップ、羊に仕えることはやさしくありませんでした。しかし、足りなくても復活祭以後一日も休まずに夜明けの祈りをささげながら日ごとの糧を食べ、毎週所感を書くことによって片手に御言葉と祈りの槍を握って主のみわざに励みました。そのとき、神様は勝利を与えられ、大きく祝福してくださいました。〇〇兄弟を牧者として立てて下さったし、井口兄弟、近岡、張姉妹たちが成長するようにしてくださいました。クリスマス礼拝の時は早稲田フェローシップから26名が参加し、牧者兄弟姉妹たちが代表所感、演奏、演劇などに尊く用いられるようにしてくださいました。それで今年は早稲田学生を中心にしたニューミレニアムチームが誕生するようになりました。学校でも校長から「問題が多かったけど鄭先生がたくさん祈ったから大学進学率がいいね。」と言われるようにになりました。ところが、私は12月になって腰が痛くなり、背中も痛くなって一日は全く体を動けなくなりました。その時、私は医者から言われた通りに過労したと思い、来年はまず運動をし、休みながら働こうと思いました。また、東京センターで自分と自分のフェローシップの同労者たちがもっと熱心に働いているかのように思いながら高ぶりました。しかし、メッセージを準備しながらネヘミヤを考える時、自分がいかに高慢になっていたのかを悟って高慢と安逸の罪を悔い改めました。その後、またUBFのNews Letterを読みながら一人の羊のために40日間も断食の祈りをささげたNigeriaのMonica Park宣教師のことや戦争の中でも命を懸けて羊を守っていたYugoslaviaのAndrew Kim宣教師のことを考えるとき、非常に恥ずかしくなり、悔い改めて先週は残っていた休みの3日間羊の家に訪問したり、招いて仕えたりしました。どうか、神様がこのしもべを哀れんでくださり、今年は祝福に安住せず、御言葉と祈りの槍をしっかりと握ってネヘミヤのように働くことができるように祈ります。何よりも指導者として先頭に立って夜明けから星の現れるまでHard Workingをしながら霊的に崩れているキャンパスを建て直すみわざに励むことができるように祈ります。
5章の御言葉は城壁再建中に起こった内部的な問題に対して記録しています。城壁再建のためにエルサレムに多くの人々が集まって来ると食糧が不足するようになりました。その上に飢饉による天災がありました。また、イスラエルは植民地の民であったので多くの税金を支払わなければなりませんでした。それで、貧しい民は二重、三重の重荷を背負っていました。ところが、富と権力を握っている人々は貧しい民に担保をとってお金を貸し、高い利子をとっていました。それゆえ貧しい人々が富める人々に対して強く抗議しました。それは労働組合のストライキーのようなものではなく、もはや生きることができないほどの状況が生じた叫びであり、悲鳴でありました。このことを聞いたネヘミヤは非常に怒りました。ネヘミヤは金持ちたちの利己心と貪欲の罪に挑戦して直ちに悔い改めるように促しました。そして、ネヘミヤは、自分と一族の持っている権利の放棄を宣言しました。「私たちはその負債を帳消しにしよう」と言っています。彼は自ら模範を示すことによって、富める人々に決断を促しました。「『きょう』、担保に取った畑を返し、受け取った利子を返してやりなさい」と言っています。決断は時間がたてばたつほどしにくくなる場合が多くあります。私たちは『きょう』良き決断をするべきです。神様が私たちに『きょう』一つの決断を与えてくださるように祈ります。ネヘミヤの促しに人々は「私たちは返します。」と約束しました。ネヘミヤのことばは民の心を動かしたのです。ことばの力は、それを語る人の人格と行為によって確かなものになります。14―19までにはネヘミヤの人格と生活態度がよく現れています。彼はサポートを受けず、業務上の接待費もすべてを自分のお金で払いました。何よりも彼は神様を恐れて悪いことをしませんでした。ここにネヘミヤの生活規範があります。彼の生活のすべてに「神様への恐れ」が支配しています。彼が恐るべき神様の御前で自分の犠牲にしながら模範を示す生活をしたとき、彼のことばには高慢な人々の心をも動かす力がありました。私たち一人一人がネヘミヤのように少なくても自分のフェローシップの中で、あるいはセンターでだれよりも自分を犠牲にし、模範的な生活をすることによってことばに力がある主のしもべになるように祈ります。
?.私は、大工事をしているから下って行けない(6章)
ネヘミヤがユダの民たちの間に起こった内部の問題を解決し、一致団結して城壁工事に専念した結果、ほとんど完成出来ました。ただ、門にとびらを取り付けることだけが残っていました。この時、またサタンの働きがありました。6:1、2節をご覧ください。敵はもはや嘲りや武力によって工事を中止できないことを知り、「話し合い」を提案してきました。彼らは四度にわたって会談の申し入れをしました。互いに妥協点を見出すために話し合いましょうと言っています。実に今日的な方法です。しかし、神様の国の働きにおいては悪意を秘めた話し合いに応じることはできません。ネヘミヤはこの提案が見せかけだけのもので実は「害を加えようとたくらんでいるものと判断して断りました。すると四度の拒絶にあったサヌバラテは、ついに「一通の開封した手紙」を送り付けて来ました。その内容は真実に基づくものではなく、ネヘミヤに対する悪意に満ちた「うわさ」に基づいていました。ネヘミヤについてのうわさは「あなたは彼らの王になろうとしている」と言うものでした。つまり、あなたの反逆は間もなくペルシャ王に報告されるだろう。だから「さあ、来なさい。いっしょに相談しよう」と言うのです。しかし、ネヘミヤは自らの生活規範である「神様を恐れる」ことと「使命に生きる」ことによって判断しました。そして、祈りによって敵の策略にだまされることなく勝利しました。その結果、城壁再建はどうなりましたか。
6:15節をご覧ください。「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。」とあります。「こうして」この一言にどれほどの思いが込められていたでしょうか。片手に投げ槍を握り、片手で仕事をして城壁は52日間かかって完成しました。外からの攻撃と内部からの裏切りまであったにも関わらず52日間で完成できたのはその背後に神様の御手があったからです。16b節をご覧ください。「この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである」とあります。ネヘミヤはすべての栄光を神様に帰していますが、神様は彼の命より使命を大切していきる忠誠心、神様を恐れるその信仰を喜ばれ、尊く用いられました。このように神様は神様が与えられた使命を心を尽くして担う人を喜ばれます。使徒パウロも使徒の働き20:24節で「けれども、私が自分の走るべき行程を走りつくし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」と告白しながらいのちを惜しまずに使命に生きる人でした。
神様は私たちUBFに崩れた世界のキャンパスを福音信仰によって建て直す重大な使命を与えてくださいました。特に私たちには日本500キャンパスを福音によって建て直す使命を与えてくださいました。これは何よりも急いで、何よりも大切にして担わなければならない聖なる使命です。私たちに神様からこの最も大切な使命をいただいていることは本当に大きな光栄であり、特権です。私たちがネヘミヤのようにこの大切な使命を命懸けで担うことができるように祈ります。
結論的にネヘミヤとユダヤの民は敵の嘲り、脅かしの中でも大いなる恐るべき神様を覚えて片手に槍を握り、片手で仕事をして城壁再建を完成しました。何よりもネヘミヤは祈りの人で、使命に生きる人でした。私たちがネヘミヤのように片手に御言葉と祈りのやりを握って戦い、片手で仕事をして崩れている東京のキャンパスを建て直す偉大な使命を全力を尽くして担うことができるように祈ります。