2000年イザヤ書第3講
主を待ち望む者は
御言葉:イザヤ書40:1?31
要 節:イザヤ書40:31「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
人々の間でよく聞く言葉は「ああ、疲れた。」という言葉です。テレビでは元気を与える薬のコマーシャルをよく見ることができます。誰でも疲れを知らない力ある人生を送りたいと願っています。本文の御言葉は次のように言っています。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」人々への真の慰めと力は神様から来ます。そして、その慰めと力は罪の赦しを受ける時と主を待ち望む時に与えられます。この時間、御言葉を通して神様の慰めと力を得ることができるように祈ります。
?.慰めよ、わたしの民を(1-11)
1節をご覧ください。「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる。」神様の選民イスラエル人は今まで労苦を受けていました。神様は彼らを子供のように養育しましたが、彼らは神様から離れて様々な偶像崇拝をしました。世の快楽を求め、危機の時には神様より周りの強い国に頼りました。悔い改めのメッセージを伝える預言者達を牢に入れ、殺しました。神様はこのような彼らを打たれ、バビロンで70年間捕虜生活をさせました。70年間も遠い国に連れ去られて奴隷生活をした彼らの労苦はどれほど大きかったのでしょうか。彼らは祖国を考えながらどれほど悲しんでいたでしょうか。詩篇137編を見ると、バビロンの捕虜生活の悲しみについて次のように言っています。「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。それは、私たちを捕え移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、『シオンの歌を一つ歌え。』と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。」(137:1?4)。賛美の歌も自分が好きで歌うのは、何曲歌ってもいいですが、強制的に歌わせるとそれは苦しいことです。彼らの賛美は涙と悲しみの歌でした。彼らがそのように悲劇的になった原因は彼らが神様から離れ去ったからです。神様は罪を犯した彼らを徹底して懲らしめられました。しかし、時になると、神様は彼らをバビロンの捕虜から救おうとされました。神様はイスラエルを打たれましたが、今度は彼らを慰めることを願われました。それで神様は、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」と仰せられました。イスラエル人は自分達が犯した罪のゆえに苦しみを受けていましたが、神様は彼らに慰めが必要であることを誰よりもよく知っておられました。
人は慰めが必要な存在です。それで妻は夫から慰めてくれることを願います。夫も妻から慰めの言葉を聞きたがります。羊は牧者から慰めの言葉を聞くことを願います。牧者も羊を通して慰められたいと思います。失敗して落胆している時に暖かいお茶でも一緒の飲みながら慰めてくれると力を得ることができます。私は息子を叱る時があります。時にはお尻を叩く時もあります。そのようにするのは息子が正しく育つことを願っているからです。ですから、お尻を叩いた後には一緒にサッカーをしたり、遊んだりしながら慰めてあげます。このようにすべての人々に慰めが必要です。慰めは人の心の傷を癒し、力と勇気を与えてくれます。人の慰めもこのように力を与えてくれるなら私達の主であり、父である神様が私達を慰めてくださるとどれほど大きな力になるのでしょうか。神様は誰よりも私たちの内面の苦しみをよく知っておられます。イエス様は言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)。私達はイエス様の御前にすべての重荷を下ろすことができます。神様は慰め主です。?コリント1:3,4は次のように言っています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」。ですから、私達が主の御前に出て行き、自分の心の苦しみを打ち明けて祈ると、主は私達に大きな慰めと力を与えてくださいます。それでは神様はイスラエルを具体的にどのように慰められましたか。神様が与えてくださった慰めのメッセージは何ですか。
2節をご覧ください。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」神様はイスラエル人が傷つけられることがないように「エルサレムに優しく語りかけよ。」と言われます。「その労苦が終わり」とは、バビロンの捕虜生活から解放されて祖国に帰還することを意味します。何よりも彼らの咎は償われました。人が受けることのできる最高の慰めは何でしょうか。それは神様からの罪の赦しです。罪を犯した人には苦しみがあります。いくら豊かな生活をする人でもその人が罪の重荷を負っているなら幸せになるはずがありません。刑務所の環境がいくらいいとしてもその中にいる囚人達が幸せな人だと言えるでしょうか。ダビデは罪が赦された人の幸いと罪を犯した人の苦しみについて次のように歌いました。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32:1-5)。
このようにイスラエルの真の慰めは奴隷生活を終えて祖国に帰還することから来るものではなく、罪から赦され神様との関係が回復することから来るのです。私達の中に罪によって苦しんでいる人はいないでしょうか。イエス様は私達の罪を取り除く神の小羊としてこの世に来られました。そして、私達のすべての罪を背負って十字架につけられ死なれました。それによって私達の罪が赦される道を開いてくださいました。誰でも神の御子、キリストの御前に出て行き、自分の罪を言い表すなら、神様はその罪を赦し、すべての悪から私達をきよめてくださいます。その時、私達は真の慰めを受けることができます。何の条件も無しに私達の罪を赦してくださる主イエス・キリストの恵みに感謝します。神様はイスラエルの罪を赦し、彼らを慰めてくださいます。
それではこの慰め主である神様を受け入れるためにはどうすればいいでしょうか。3節をご覧ください。「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。』」「荒野」は、人間の惨めな状態を示しています。私達が神様の慰めを受けるためには主を迎え入れる準備をしなければなりません。どのように主を迎え入れることができますか。4節をご覧ください。「すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。」神様を迎え入れるためには谷のような心は埋め立てられなければなりません。人々は絶望や虚無、快楽、恨みなどによって心が谷のようになっています。そのような心は埋め立てられなければなりません。そして、山や丘は低くしなければなりません。高慢の山は低くならなければなりません。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野にしなければなりません。険しい心とは、よく怒ったり、神経質になったり、血気にはやる人の心です。このような心はイエス様を迎え入れるのに邪魔になります。ですから、このような心を悔い改めることによって主を迎え入れる準備をしなければなりません。私達が悔い改めて謙遜に主の道を整える時、主の栄光が現われます。
それでは彼らが捕虜生活を終えて祖国に帰還する時に覚えなければならないことは何でしょうか。6-8節をご覧ください。「『呼ばわれ。』と言う者の声がする。私は、『何と呼ばわりましょう。』と答えた。『すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。』」イスラエルは過去神様から離れて世の栄華と名誉、権力と情欲を慕い求めていました。彼らは強い国に頼り、偶像崇拝をしました。しかし、彼らを喜ばせ、満足を与えそうだったものはどうなりましたか。それらはまるで野の草や花のようでした。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼみました。強いバビロン帝国も歴史の中に消え去りました。神様を離れたものはみなそうです。世の名誉や富、その栄光はみなこのように消え去ります。だが、私達の神のことばは永遠に立ちます。世の富や栄華、人の若さも年月が経つにつれて枯れます。しかし、世の中に永遠なるものが三つあります。第一に、神様が永遠です。第二に、神様の御言葉が永遠です。第三に、主の御業を行なう人が永遠です。イスラエルは神様を離れましたが、神様の御言葉通りに彼らは苦難を受けました。また、神様の御言葉通りに70年ぶりに捕虜生活から帰還するようになりました。振り返ってみると、神様の御言葉だけが正しかったし、真理でした。世界がどんなに激しく変わって行っても神様の御言葉は変わりなく、その通りに成就しました。ですから、神様の御言葉だけが本当の頼りになります。神様の御言葉、すなわち、罪の赦しの福音、それを受け入れる時に真の慰めを受けることができます。どんどん変わり行く世の中で私達に永遠の神様の御言葉を与えてくださった主に感謝します。私達が何よりもこの神様の御言葉を学び、学んだ御言葉に聞き従う生活に励みましょう。
今、イスラエルは誰を見なければなりませんか。9節をご覧ください。「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を。』」祖国に帰還する彼らには現実の問題、将来の問題などで恐れや心配が多くあったでしょう。それで彼らはこの世のものに目を奪われ、人の声に耳を奪われやすいです。しかし、彼らは神様を見なければなりません。彼らが見なければならない神様はどんな方ですか。10,11節をご覧ください。神である主は力ある方です。その力によって彼らを敵から見守ってくださいます。神様はイスラエルに帰還する彼らを誰も邪魔しないようにされました。また、主は羊飼いのように導いてくださいます。羊飼いのいない羊は哀れなものです。捕虜となっていたイスラエルは羊飼いのいない羊のようでした。しかし、主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導いてくださいます。ですから、イスラエルはこの力ある神様、羊飼いである神様を見なければなりません。この神様を見る時、恐れる必要も心配する必要もありません。
?.主を待ち望む者(12-31)
イザヤは神様がどれほど偉大な方であるかを言うことによって、彼らが神様を信じ頼るように助けています。では神様の偉大さはどうですか。12、13節をご覧ください。「だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。」神様は全知全能なる方です。神様は自らおされる方で、力と知恵に制限がない方です。ある人は「神様。そのようにしてはなりません。このようにしてください。」と神様を教えようとします。しかし、神様は悟りや知識が足りなくて私達を助けることを間違ってしまう方ではありません。15節をご覧ください。「見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。」世の国々がいくら大きくて強くても神様の前では手おけの一しずく、はかりの上のごみのようです。どんなものも全知全能の神様に比べることができません。被造物はすべてこの神様によって造られたものですから、神様と比べることができない小さなものです。イスラエルがこの神様を信じればこの世の何も恐れる必要がありません。イスラエルは自分達は神様の選民であり、エルサレムは宇宙の中心であると思っていました。ところが、国が滅び、神殿が破壊されるのを目撃して当時世界最強の帝国に連れられて来ました。そこで彼らは巨大な帝国、ソロモンの富とは比べられないほど大きな富、世界最強の軍事力、巨大な神殿を見ました。彼らが見るにはバビロンの神が本当の神のように見えました。バビロンは永遠に続くように見えました。しかし、バビロン帝国がいくら強くて大きく見えても神様の前では手おけの一滴のようなものです。バビロンも滅び、今はアラビア地方に石だけが残っています。現代の最強の国はアメリカです。しかし、アメリカも神様がご覧になると、手おけの一しずくのようにみなされます。それで神様は17節で言われます。「すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。」
ですから、神様をだれになぞらえ、神様をどんな似姿に似せようとするでしょうか。彼らは過去神様を捨てて偶像崇拝をしました。鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作ります。貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据えます。しかし、人の手で作った偶像に何の力があるでしょうか。偶像は神ではなく、動くこともできない木に過ぎないのです。天地万物を造られた神様を知らずに人の手で作ったものを拝むとは何と愚かなことでしょうか。それで主は25節で「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と仰せられます。そして、26節で「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。」と言われます。「この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。」神様は広大な宇宙の星を数えて、一つ一つの名前を知っておられます。目に見えない原子の世界も知っておられます。この方は全知全能なる方です。
神様はこのように偉大な方であり、知恵に満ちた方ですが、イスラエルは、彼らの事情と苦しみに対して神様にどれだけ不平しましたか。27節をご覧ください。「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。『私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。』と。」彼らは「主よ。いつまでこんな奴隷生活をしなければならないでしょうか。」と神様に不平していました。その地で子供を産み、また、子供が子供を産んでも変わらない自分達の奴隷生活を考えながら彼らは「主よ。なぜ私から目をそらすのですか。主よ。いったいいつまでですか。」とつぶやいたでしょう。しかし、28節は言います。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」彼らの不平は神様に対する無知から来たものでした。主は永遠の神です。神様の愛は昨日も今日も変わりがありません。神様は創造主です。神様は自分の民を助けることに疲れてあきらめる方ではありません。人は働きすぎると病気にかかりますが、主はそんな方ではありません。自分の民がなぜ苦しんでいるのかを知らない方ではありません。神様は疲れることなく、たゆむことがない方です。御自分の民を見捨てるほど無能な方ではありません。神様の英知は測り知れません。29節をご覧ください。「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」
私たちがどのようにすれば、主の力を得ることができますか。30,31節をご覧ください。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」主を待ち望む者は新しく力を得ます。人々は何を待ち望みますか。多くの人々は世の富と名誉、また、権力を待ち望みます。試験に合格するのを待ち望んでいる人は、睡眠時間を減らしながら勉強します。そのような望みは人々に力となります。しかし、本当の力は主を待ち望む者が得ることができます。主だけが私達に必要なすべての力の源です。私達は様々な出来事によって落胆したり、無力になったりすることを経験します。しかし、その時に主を待ち望む者は新しく力を得ます。鷲は力の象徴です。鷲は力があって暴風の中を通り抜けることができる唯一の鳥です。雀は少し強い風がふいても身を隠す場所を捜します。また、高いところを飛ぶこともできません。しかし、鷲は違います。より高く力強く飛ぶことができるのです。主を待ち望む者は強く天に向かって羽ばたく鷲のように神様の力を受けて歩むことができます。主を待ち望む者は鷲のように無限な可能性にチャレンジします。苦難や迫害の中でもそれを乗り越えて行く強い力があります。弟子養成のことで落胆した人も主を待ち望む者は新しく力を得て再びチャレンジすることができます。主を待ち望む者は悲しみと絶望を乗り越えて生き生きとした日々を過ごすことができます。私達の中に主と福音の御業に仕えることで疲れている人もいるかも知れません。会社生活であるいは学校の勉強のことで疲れている人もいるでしょう。人間関係の問題で疲れている人もいるかも知れません。試練にぶつかって失望している人もいるかも知れません。十分寝てもいつも疲れている人もいます。メッセージを聞く時だけではなく、聖書勉強をする時も居眠りしている人もいます。
皆さんは誰から慰めてもらいたいと思っていますか。どこから力を受けたいと思っていますか。神様は私達の真の慰め主であり、力を与えてくださる方です。私達が目を高く上げて、全知全能の神様、創造主である神様を待ち望みましょう。主に頼りましょう。すると、主は私達に真の慰めと力を与えてくださいます。