2000年イザヤ書第4講

わたしは新しい事をする

御言葉:イザヤ書43:1?28

要 節:イザヤ書43:19

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」

イザヤ書43章は、40章に続く将来あるバビロンからの帰還に関する御言葉です。バビロンからの帰還は第二の出エジプトと言われています。出エジプトがやさしいことでなかったように、出バビロンもやさしいことでなかったので民は恐れていました。しかし、神様は大きな力によって御自分の民を贖い出され、それを通して神様はどんな方であるか、神様とイスラエルとの関係がどうであるかを現わされました。今日の御言葉を通して御自分の民を贖い出される救い主である神様、新しい事をする創造主なる神様について学ぶことができるように祈ります。

?.わたしのほかに救い主はいない(1-13)

1節をご覧ください。「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』」イスラエルは罪を犯してバビロンに連れ去れましたが、今、神様は彼らを救おうとされます。神様は彼らに「恐れるな。」と言われます。現在彼らは恐れていました。バビロンを離れて70年ぶりに祖国に帰ることはとても嬉しいことなのに、彼らはなぜ恐れていたのでしょうか。第一に、彼らは周りの国々の妨害を恐れていました。ネヘミヤ記を見ると、ペルシャ王アルタシャスタの献酌官であったネヘミヤは崩されたエルサレムの城壁を建て直そうとしました。その時、彼は祖国に行こうとしますが、王の許しを得るために、涙を持って祈り、王の機嫌を伺っている姿を見る事ができます。また、国境を通過するために許可証を用意しなければなりませんでした。ネヘミヤと民が城壁を建て直す時にもサヌバラテやトビヤ、アラブ人、アモン人達がそれを妨害しました。このような妨害を考えるとイスラエル人は恐れるしかありませんでした。第二に、祖国に帰る途中、水と火の危険があったからです。バビロンからユダまでは3ヵ月もかかる遠い距離です。その道は荒野の道です。川を渡る時もあります。火の中のような砂漠を歩く時もあります。強盗に襲われる危険もあります。第三に、エルサレムは荒れ果てていたからです。ネヘミヤがエルサレムに帰って城壁を調べると、それはくずされ、その門は火で焼け尽きていました。このようにエルサレムは人が住めるようなところではありませんでした。人々の中にはこのようなエルサレムよりは今まで住み着いたバビロンに留まりたいと思う人々もいたでしょう。イスラエルはバビロンで希望のない日々を送っていました。しかもそれは他人のせいではなく、まったく自分達が神様に対して罪を犯したためでした。彼らはそれを考えると心の中に大きな悔いを覚えていました。そんなわけで彼らはエルサレムに帰還するようになるという喜びの知らせを聞いても恐れるしかありませんでした。

しかし、神様は何と言われますか。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」神様は御自分を煩わす者、御自分に迷惑をかけるイスラエルに対して、「あなたはわたしのもの」と言われます。誰がこのようなことを言えるでしょうか。神様は御自分のものである彼らといつまでもともにおられ、彼らを守ってくださいます。2節をご覧ください。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡る時も、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」神様はたとい彼らが水の中を過ぎるときも、彼らとともにおられ、川を渡る時や火の中を歩く時も彼らを守ってくださいます。神様は彼らの神様であり、彼らの救い主であるからです。神様とイスラエルとは離そうとしても離し切れない愛の関係性が結ばれています。この神様が彼らとともにおられるのに何を恐れるでしょうか。

先週は5人の兄弟姉妹達が牧者として宣誓をし、新しい出発をしました。ジョン・バニヤンが書いた小説、天路暦程には、一人のキリスト者の信仰の歩みを、苦難にみちた巡礼の旅に託して描いています。このように牧者として新しく出発した方々、そして私達の巡礼の旅には水の中を過ぎるときも、川を渡る時も、火の中を歩く時もあるかも知れません。サタンは常に私達を信仰の道から離れるように誘惑するでしょう。このような妨害があるとき、恐れやすいです。しかし、主は言われます。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。あなたはわたしのもの。」まったく自分勝手な、どうしようもない私達に向かって、神様は「あなたはわたしのもの。」と言われます。私は神様のものです。新しい出発をする牧者の方々や私達に大切なことは、「あなたはわたしのもの。」という信仰、すなわち私の神様を信じることです。私を御自分のものとして愛してくださる私の神様に気がつく時、私達は限りない神様の愛に驚かずにいられません。この神様を考える時、どんな時にも心強くなります。この神様を仰ぎ見る時に何も恐れないで勝利の生活を送る事ができます。

4a節をご覧ください。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」罪を犯してバビロンで奴隷生活をしているイスラエル人は人々の目には惨めな存在、哀れな存在として映ったことでしょう。「彼はどうしようもないやつだ。」「愛しようとしてもとても愛することができない者だ。」と言われても仕方がない人々でした。イスラエル人は自らも「私はだめな人間だ。」と思ったかも知れません。ところが神様は何と言われますか。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」誰も尊く思ってくれなくても、誰も愛してくれなくても、神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言われるのです。ルカの福音書15章にはイエス様の有名な放蕩息子の例え話が出ています。放蕩息子は父親から離れて放蕩して湯水のように財産を使ってしまいました。そして、飢え死にしそうになった時に乞食のような姿で父親の家に帰りました。誰がこんな人を愛することができるでしょうか。ところが、父親は彼をかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。父親の目には、息子がたとい乞食のような姿だとしても高価で尊い存在でした。同じく神様の目には私達一人一人は高価で尊い存在なのです。この神様は一人子をお与えになったほどに私達を愛してくださいました。神様は御自分のものをいつまでも愛してくださいます。

ですから、イスラエルは恐れないでどんな望みを持たなければなりませんか。5,6節をご覧ください。「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。わたしは、北に向かって『引き渡せ。』と言い、南に向かって『引き止めるな。』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。」神様は散らされたイスラエル人を集めると言われます。異邦の国々がイスラエル人を引き渡そうとしませんが、神様は「引き渡せ。」と命じられます。いくら遠く離れていても、どんな妨害があっても神様はなさろうとすることを必ずなさる全能な方です。

なぜ神様はそれほどまでに顧みてくださいますか。7節をご覧ください。「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」イスラエルは神様のものです。ですから、神様が御自分のものを取り戻そうとするので「引き渡せ」と言われます。これを通して神様とイスラエルとの関係を確認することができます。イスラエルは神様の名で呼ばれる特別な存在です。神様の栄光のために創造された尊い存在です。神様が形造られた神様の所有です。この尊い神様の民を神様は切なる心を持って再び取り戻そうとされます。

神様は御自分の民と諸国の民を裁判所に集めて神様について教えようとされます。世の人々は神様を知らず神様の救いの御業を知りません。創造主、唯一の神、救い主である神様を知りません。しかし、神様はイスラエルを証人として立てて彼らの証言を通して世の人々が神様を知り、神様を信じるようにしようとされます。イスラエルを通して神様のほかに救い主はいないことを悟らせようとします。

?.わたしは新しい事をする(14-28)

14節をご覧ください。「あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。『あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。』」神様はバビロンの滅亡を預言しておられます。16,17節で神様は過去紅海でエジプトの軍隊を滅ぼしたことを思い起こさせます。神様は海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出したので、彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消えました。主がこれらの出来事を言われたのは、過去イスラエル人をエジプトから救われたようにバビロンから救われることを言われるためでした。出バビロンが難しいことですが、過去出エジプトをしたのではないかということです。このように過去神様がなさった御業を思い出すのは、現在の問題の解決に役に立ちます。過去働いておられた神様は今も働いておられます。神様の救いの御業はエジプトやバビロンのような国によって左右されるのではなく、神様によって左右されます。この神様は、イスラエルの主、イスラエルの聖なる者、イスラエルの創造者、イスラエルの王です。

神様は、昔の事を忘れるほど、どれだけ大きな新しい事をされますか。18,19節をご覧ください。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」人々は昔の事に縛られて今のやるべきことができない時があります。しかし、神様は、「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。」と言われます。先の事どもと昔の事どもとは、何でしょうか。ここには明るい事と暗い事があります。第一に、イスラエルの罪のゆえにバビロンでしたつらかった捕虜生活です。彼らはその事を思い出すたびに苦しくなりました。罪意識のために苦しくなり、つらかった捕虜生活が頭から離れませんでした。そのために涙を流す時が多くありました。罪を犯した自分達に何の良いことがあるかと思いました。昔の事を考えると、無気力になりました。第二に、昔の事とは、出エジプトの事件です。出エジプトの事は大きな事件でした。しかし、神様はそれを忘れるほど大きな新しい事が起ころうとしていると言われます。

私達も昔の事に縛られる時があります。以前の失敗した経験、犯した罪を思い出すたびに「こんな自分に何ができるか。」と嘆息します。しかし、神様は言われます。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。」「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(1:18)。

神様がなさる新しい救いの御業は昔の事と比べられないほど大きな事です。それは具体的に荒野に道を、荒地に川を設けて祖国に帰還するイスラエル人を導いてくださることです。それはまるで出エジプトの時に紅海に道を設けられたことのようです。砂漠を歩く時に水の問題が一番深刻な問題です。神様はこのような砂漠に川を設けてイスラエル人に飲ませます。このような事を見て野の獣、ジャカルや、だちょうも、神様をあがめます。ジャカルは荒野の狂暴な動物です。だちょうは自分が産んだ卵を踏み、子供の面倒も見ない動物です。鳥なのに飛ぶ事もできません。このような動物達は異邦人を指します。異邦人も神様が御自分の民のためになさることを見て神様をあがめるようになります。異邦人にも救いの福音が宣べ伝えられるようになります。この御言葉はイエス様によって成就しました。イエス様はヨハネの福音書7章で、祭りの日に、人々に向かって大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37)。このように神様は、昔のことを忘れるほど、大きな新しいことをされます。ですから、イスラエルは昔の事どもを考えるよりこれから神様がなさる新しい事どもを考えなければなりません。祖国に帰る道がつらくても荒野に道を、荒地に川を設ける神様を見なければなりません。それでは私達は神様からどんな新しい事どもを期待できるでしょうか。

第一に、世界宣教の御業です。神様はUBFを通してすでに世界82ヶ国に1500人の宣教師達を派遣してくださいました。世界国々で聖書勉強による救いの御業が驚くほど起こっています。先週アナン牧者がインドネシアに帰国しました。インドネシアは全人口の90%がイスラム教の人々、10%がキリスト教の人々で構成されています。このイスラム教の国でも救いの御業が活発に起こっています。今年の夏修養会には135人が参加したそうです。インドネシアではどこでも300円ぐらいで麻薬を買えるそうです。若者達は大学を出ても就職するのが難しい現実や腐敗した社会に絶望して麻薬の誘惑に陥ることが多くあるそうです。今年の夏修養会に参加した兄弟姉妹達が麻薬によって惨めになった自分の過去の罪を悔い改めて新しく生まれる御業がありました。イエス様の福音によって彼らは偶像崇拝や麻薬から自由になっています。神様は過去の事に縛られず、いくらでも新しいこと、大きな事を行なうことができる方です。神様は世界233ヶ国のキャンパスの開拓の御業も成し遂げることができます。21世紀を迎える私達は福音があらゆる国の人々に宣べ伝えられることを期待しましょう。

第二に、日本UBFの弟子養成の御業です。先週神様は東京UBFに5人の牧者達を立ててくださいました。特に初めて日本の牧者と聖書を学んでいる姉妹が牧者として立てられました。これは新しい事です。また、今までは主に東京UBFで牧者達が立てられましたが、去年からは地方センターからも牧者達が立てられています。関西UBFでは先週のバイブル・アカデミーの時に、xx兄弟とxx兄弟が牧者として立てられました。そして、xx姉妹は牧童として立てられました。この前は筑波UBFで小田パウロ牧者とアレッセイ牧者達が立てられました。これも新しい事です。祈るところ、聖書を学ぶところには神様が新しい事を起こされます。私達の捧げる祈りを聞いてくださる主は、2010年までこの国に1000人の牧者達を立ててくださることを信じます。

第三に、私達が成熟した主のしもべとして成長することを期待することができます。出エジプトの出来事は初めに救われた出来事だとすれば、出バビロンの出来事は、救われた人々が罪によって神様の訓練を受けた後、再び救われた出来事だと言えるでしょう。私達はイエス様を信じてから信仰によって生きようとしますが、罪悪な本性と不信仰とサタンの誘惑に負けてしまい、神様を悲しませる時があります。私達は東京センターが神様に喜ばれる教会となり、祈る家となり、成長する教会になることを願っています。主の御言葉が流れ出るシオンセンターとなり、キャンパスの兄弟姉妹達が集まって聖書を学び、救われるところになることを願っています。多くの弟子達が立てられることを願っています。そのためには私達一人一人が悔い改めて主に喜ばれるクリスチャンとして成長しなければなりません。私達が成熟した主のしもべとして成長しなければなりません。私達が日々主によって新しくなる時に神様は私達を通して新しい事をなさいます。私一人の変化や成長によって、この国が祭司の国として変わるのです。神様が私達の心に新しい事をなしてくださるように、それで一人一人が成熟した主のしもべとして成長できるように祈ります。

21節をご覧ください。「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」神様がイスラエルに大きな恵みを施してくださった目的は神様の栄誉を宣べ伝えるためです。22?28節はバビロンに帰還することを言われる中でイスラエルがどうしてバビロンに連れ去られたのかを思い出させる御言葉です。彼らは神様から離れて絶えず罪を犯し、神様に苦労をさせ、彼らの不義で、神様を煩わせました。その結果、彼らはバビロンに連れ去られました。

以上の御言葉を通して私達は出バビロンの御業をなさる神様はどんな方であり、神様とイスラエルとの関係はどれほど深いかを学びました。神様は唯一の神であり、唯一の救い主です。イスラエルを宝のように尊く思われる方です。この神様は彼らを世界から集めて新しいことをなさろうとします。この神様は荒野に道を設け、荒地に川を設ける方です。ですから、イスラエルは恐れないで過去の事を忘れて神様がなさる新しい事を見なければなりません。神様は私の神であり、私の救い主です。私達は昔の事どもを考えず、神様がなさる新しい事を期待しなければなりません。私達とこの国に起ころうとしている新しい事を見なければなりません。さらに、この国を通してなさろうとする世界の救いの御業を見なければなりません。