2000年マルコの福音書第10講

信仰がないのは、どうしたことです。

御言葉:マルコの福音書4:35?41

要 節:マルコの福音書4:40

イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。

信仰がないのは、どうしたことです。」

今日の御言葉はイエス様が突風を静められた出来事です。この出来事はイエス様が自然界を支配する創造主であることを示してくれます。イエス様はこの出来事を通して弟子達がどんな突風も乗り越える信仰の勇士となるように訓練されました。

私達の人生を航海にたとえる時、今日の御言葉はその航海の中で何が一番必要なものであるかを教えてくれます。この御言葉を通して人生の航海の中で起こる突風を乗り越えるために必要な信仰を所有することができるように祈ります。

?.ひどく恐れる弟子たち(35-38)

35、36節をご覧ください。「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう。』と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。」一日中神の国を多くのたとえによって教えられるうちにいつのまにか夕方になりました。イエス様は弟子達に「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われました。弟子達はイエス様の言葉が何を意味するのかすぐわかりました。それはしばらくの休みでした。弟子達は久しぶりの休みだったので、「さあ、行こう。」と叫びながら気持ちよく漕ぎ出して行きました。ある弟子達は声を合わせて賛美を歌いました。「父なる神の恵みは限りなき海ぞ」

ところが、航海中どんな予期しなかったことが起こりましたか。37節をご覧ください。「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。」ガリラヤ湖は地中海よりおよそ200メートルも低いです。そして周りは高い山に囲まれています。その山の谷を通る冷たい風が湖の上の暑い風と衝突すると突風を起こします。これは全く予想できないものです。これはガリラヤ湖の特徴です。大きな波が舟に当たると舟は水でいっぱいになりました。弟子達の中で四人はガリラヤ湖の漁師出身でした。彼らは今までこのような突風に何度も遭ったことがあったし、その時ごとに突風を乗り越えて来ました。それで今度も彼らは自分達の持っている技術、経験、若さ、力によって克服しようとしたでしょう。しかし今度は彼らの技術や経験、力に限界がありました。舟は水でいっぱいになり、弟子達は溺れ死にそうになりました。

ここで私達はイエス様がともにおられる弟子達の航海にも突風が起こることを学ぶことができます。人生の航海には予期しなかった突風が起こります。先週金エステル宣教師は突然お腹が痛くなりました。一人では動けないほど痛かったので職場にいる金テモテ宣教師に連絡して病院に行って見ると、盲腸炎でした。幸いに無事に手術が終わり、順調に回復しているそうです。また、先週韓国の私の出身センターからひとりの牧者が天に召された知らせを聞きました。彼は私と歳が同じくらいの人です。彼は有能な人で将来国会議員になる可能性があると言われている人でした。ところが、先々週の土曜日サッカーをする途中心臓麻痺を起こし、病院に運ばれましたが、結局天に召されました。これは彼の家族には勿論、同じく信仰生活をしている人々にも大きなショックでした。神様は彼に今年復活祭の礼拝のメッセージを任せてくださいました。彼はその復活のメッセージを準備しながら多くの恵みを受けたそうです。神様はこのように復活信仰を与えてくださり、天に召されました。人はいつこのような激しい突風に遭うか知りません。若い人は突風は自分とは関係がないと思います。しかし、実は突風はいつも私達の回りにあります。ですから信仰によって準備しなければなりません。突然交通事故に遭う人もいます。最近は突然リストラされる人も増えています。突然病気の突風に遭う人もいます。このような突風の前では人間の知識や技術や経験やお金や社会的な地位などは限界があります。突風は人々に恐れと悲しみを与えます。

それではこのような突風の意味は何でしょうか。人々は突風が起こると絶望したり、つまずいたりします。しかし、クリスチャンにとって突風は意味があります。旧約聖書のヨブを通してその意味を考えて見ることができます。彼にあった突風は一方ではサタンの試みであり、一方では信仰が練られることでした。彼は突風に遭った時、自分の高慢と自己義を深く悔い改めました。ヨブは激しい突風の中でこのように告白しました。「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」(ヨブ23:10)。彼は突風を通して自分の信仰が金のように精練されることを学びました。

私達は突風を通して自分の限界を悟り、神様に頼るようになります。お金さえあれば何でもできると思っていたことがどれほど愚かなことであったのかを悟り、人間の無力さを認めるようになります。理性の限界の中で生きていた人が信仰の世界に入るようになります。高慢を悔い改めて謙遜になります。不信仰を悔い改めて信仰を持つようになります。この世のものは草の花のようにしおれることを悟り、神の国に対する生ける望みを持つようになります。突風は信仰が成長するきっかけになります。ですから、突風に遭ったとき、「イエス様を信じているのにどうしてこんなことが起こるのか」と絶望してはなりません。むしろ突風の意味を悟り、神様が与えてくださる恵みを受けなければなりません。

突風が起こった時、イエス様は何をしておられましたか。38a節をご覧ください。「ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。」イエス様は忙しく働かれたので疲れておられたでしょう。現代人の特徴の一つは不眠症です。心の不安のために酒や睡眠薬を飲まなければなかなか眠れない人々もいます。イエス様が激しい突風の中でも眠っておられたのを見ると、イエス様には心の平安がありました。この平安はどこから来たのでしょうか。それは父なる神様から来ました。神様は愛する人に甘い眠りを与えてくださいます。信仰によって生きている人は突風が起こっている世の生活の中でも平安があります。

ところが、弟子達は突風が起こった時、何をしましたか。38b節をご覧ください。弟子たちはイエス様を起こして言いました。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」弟子達はイエス様に不満をもらしました。イエス様が「向こう岸へ渡ろう」と誘っておいて助けてくださらないことに不満があったでしょう。彼らはイエス様とともにいながらも恐れていました。イエス様の愛を疑っていました。

弟子達は不満をもらしましたが、イエス様を起こしたことは大切なことです。それはある面で彼らの祈りでした。イエス様は突風が起こってもわざわざ弟子達が起こす時まで待っておられたかも知れません。イエス様を知らない人々は人生の突風に遭ったとき、起こす対象がありません。偶像にお願いしても助けてくれる力がありません。しかし、クリスチャンには突風の中で起こす主がおられます。私達の主は私達の祈りを聞かれ、助けてくれることができる方です。これは大きな特権です。詩編121:4節を見ると次のように書いてあります。「見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。」私達が突風の中で主に助けを求めると主は私達の祈りを聞いてくださる方です。突風の中でも私達とともにおられ、助けてくださる主の御名を賛美します。

?.突風を静められたイエス様(39-41)

その時、イエス様はどのように弟子達を助けてくださいましたか。39節をご覧ください。「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。」どんな人も突風を叱り、静めることができません。しかし、イエス様は突風をお叱りになり、静められました。イエス様の御言葉には権威があります。その権威は初めに御言葉によって天と地を創造された権威です。神様が、「光よ。あれ。」と仰せられると、光ができたその権威です。それはまるでオーケストラの指揮者が指揮棒を止める瞬間演奏が止まることのようです。これは奇跡です。イエス様は突風に命じて従わせる方です。このイエス様は自然界を支配する全能なる創造主です。

突風を静められたイエス様は弟子たちに何と言われましたか。「ごめんなさい。疲れてすっかり眠ってしまいました。」と言われましたか。あるいは「ぐっすり寝ているのにどうして起こすのか。」とお叱りになりましたか。40節をご覧ください。イエスは彼らに言われました。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」イエス様は彼らがこわがることと信仰がないことをお叱りになりました。

イエス様は突風に会った時に弟子達がこわがるのは仕方がないと思われませんでした。むしろ「どうしてそんなにこわがるのです。」とお叱りになりました。信仰がなければ弱い風の前でもこわがります。このような恐れはサタンが植え付けるものです。神様が私達に与えるものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です(?テモテ1:7)。ヘブル人への手紙11章に出ている信仰の先祖達はみな、信仰によって恐れを克服して世に打ち勝ちました。信仰がある人は突風に遭っても揺れることなく、神様に頼って信仰によって歩みます。恐れは信仰によってのみ克服することができます。弟子達に向こう岸という目的地があったように私達には天の御国という目的地があります。この目的地に無事に着くために私達に必要な信仰はどんな信仰でしょうか。イエス様が弟子達に要求される信仰とはどんな信仰でしょうか。まず、イエス様が突風も支配しておられる方であることを信じる信仰です。その次は、インマヌエルの信仰が必要です。それは突風の中でも私達とともにおられる主に対する絶対的な信頼です。私達がイエス様に頼る時、イエス様が私達の乗っている船の船長となってくださり、突風の中でも神の国まで安全に私達を導いてくださいます。ダビデは次のように歌いました。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩編23:4)。

ヨセフは17歳の時に兄達によって奴隷としてエジプトに売られました。また彼は淫乱なポティファルの妻の謀反によって監獄に入れられました。しかし、彼は自分とともにおられる神様に対する信仰がありました。彼はこの信仰によって自分の人生の航海の中で遭った突風を乗り越えることができました。そして、神様の祝福によってエジプトの総理大臣になり、命を生かす御業に尊く用いられました。

皆さんは自分の人生の航海の中で何が一番必要だと思いますか。学力も必要です。資格も必要です。お金も必要です。健康も必要です。家族も必要です。人生の航海の中で必要だと思われるものはいくらでもあります。しかし、その中で一番必要なものは神様に対する信仰ではないでしょうか。ともにおられる神様に対する絶対的な信頼、これこそ私達の人生の航海の中で一番必要なものではないでしょうか。この信仰を持って人生の航海をする人は幸いな人です。

現在突風に遭っている方もいると思います。問題は突風ではありません。突風は私達の人生の航海の中で遭うものです。問題は信仰です。主は突風を通して私達の信仰が成長することを願っておられます。ですから、突風に遭った時にイエス様から目を離さないでください。心に生じる恐れ、不安、心配を悔い改めて主イエス・キリストに頼りましょう。主は突風を通して私達の信仰を金のように精練させてくださいます。そして、多くの人々に仕える人として成長させてくださいます。

41節をご覧ください。彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言いました、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」突風を静められたイエス様を見た弟子達は大きな恐怖に包まれました。彼らはイエス様を恐れ敬うようになりました。そして彼らはイエス様に関心を持つようになりました。「いったいこの方はどういう方なのだろう。」彼らは今までイエス様が何をなさるのかに関心がありました。しかし、今や彼らの関心はイエス様はどんな方であるかに変わりました。彼らはイエス様が自然界を支配する創造主であることを知るようになりました。イエス様がどんな方であるかを知ることはとても大切なことです。

結論、イエス様は私達に言われます。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」イエス様は御言葉によって突風を静められました。このイエス様は自然界を支配する創造主です。このイエス様は私達の人生の航海の中でともにおられ、私達を導いてくださる方です。私達がこのイエス様に頼り、天の御国に向かって進みましょう。私達が突風を通して信仰が成長し、この時代の人々に仕える霊的な指導者として成長することができるように祈ります。