2000年マルコの福音書第20講
神を信じなさい
御言葉:マルコの福音書11:1?25
要 節:マルコの福音書11:22
「イエスは答えて言われた。『神を信じなさい。』」
私達は先週仕えるために来られたイエス様について学びました。神様であられる方なのにご自分を無にして、十字架に死なれるまで罪人達に仕えてくださった主に感謝します。今日の御言葉にはイエス様がエルサレムに入城される出来事と宮を清められた出来事、そして、いちじくの木を呪われた出来事が書かれています。イエス様が呪われたいちじくの木が根まで枯れてしまったことを見て驚く弟子達にイエス様は「神を信じなさい。」と言われました。この御言葉を通してイエス様が願われる信仰はどんな信仰であるかを学ぶことができるように祈ります。
?。主がお入用なのです(1-11)
1節をご覧ください。イエス様と弟子達はエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づきました。そこでイエス様は、ご自分のエルサレム入城のために、二人の弟子に不思議な使命をお与えになりました。2節をご覧ください。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」他人のろばを主人の許可ももらわず、引いて来ることは窃盗行為です。驚いた弟子達にイエス様は言われました。「もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」
「主がお入用なのです。」この御言葉はイエス様が万物の主であることを教えてくれます。弟子達は今まで枕する所もないほど貧しい生活をしているイエス様を見て来ました。しかしイエス様は本来そのような方ではありません。イエス様は天地万物を創造し、御旨に従って治めておられる方です。ヨハネ1:3はイエス様について次のように言っています。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」この御言葉から考えて見ると、イエス様は万物を造られた方であり、万物の主人であることがわかります。ですからろばの本当の主人はイエス様であり、ろばの所有者は管理人にすぎません。
私達は自分のために使う時間やお金は少しも惜しみませんが主のために使うと損するように思う時があります。それは自分が所有しているものが自分のものだと錯覚しているからです。しかしよく考えて見ると私達の所有やいのちを主に捧げ、主に用いられることほど栄光になることはありません。歴史的に神様に用いられた偉大な人々はみな「主がお入用なのです。」と言われた時、自分の所有や才能、全生涯を喜んで主に捧げた人々です。主に用いられることはそれ自体が恵みであり特権です。本文に出てくるろばの子は、その背にイエス様を乗せる光栄を受けました。ろばの歴史上一番祝福されたろばとなりました。私達の中にも多くの方々が自分の所有を持って喜んで主に捧げ、兄弟姉妹達に仕えています。彼らの中には大きな喜びがあります。それは主に用いられることこそ一番いきがいがあり、価値があり、光栄であると信じているからです。もし、就職しようとする人に自分が希望している大手会社の社長から「あなたが必要です。ぜひうちの会社で働いてください。」と言われると、どんなに喜ぶでしょうか。ましてや天地万物を創造された主が私達のような者を「主がお入用なのです。」と言われることはどれほど大きな感激であり、喜びでしょうか。私は時々自分が小さな、足りない者であると思い、失望する時があります。ところが、このような私を「主がお入用なのです。」と言われて主の御業に用いてくださることを考えるとその失望は大きな感謝と喜びに変わります。私達が宣教師あるいは牧者として主に用いられることは大きな恵みであり、祝福であると信じます。
弟子達はイエス様が言われたことがよく理解できなかったでしょう。彼らは弟子生活3年目にしてろばの窃盗犯として逮捕され牢に入れられるのではないかと心配が生じたかも知れません。しかし彼らは司令官の命令に単純に従う兵士たちのようにイエス様の命令に従いました。「はい。行って参ります。」4ー6節をご覧ください。弟子達がイエス様の言われた通りに出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないでありました。弟子達は大胆にそれをほどきました。すると、そこに立っていた何人かが言いました。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」弟子達は驚きましたが、イエス様の言われたとおりを話しました。「主がお入用なのです。」すると、彼らはすぐ許してくれました。弟子達は、単純に御言葉に従った時に御言葉の力を体験することができました。
7節をご覧ください。弟子達はろばの子をイエス様のところへ引いて行って、自分達の上着をその上に掛けました。イエス様はそれに乗られました。すると、多くの人が、自分達の上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷きました。上着を掛けることは王に対する尊敬のしるしであり、木の葉を枝ごと道に敷いたことは王に対する尊敬と歓迎のしるしです。彼らはイエス様を王として受け入れました。そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫びました。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」イエス様は民から賛美と尊敬を受けながら王としてエルサレムに入城されました。
それでは群衆はなぜそれほど熱烈にイエス様を歓迎するのでしょうか。「主の御名によって来られる方」とは「神様の代理人として神様の権威を持ってこの世に来られる約束されたメシヤ」を意味します。彼らはイエス様を約束されたメシヤとして信じました。「われらの父ダビデの国」とはメシヤ王国を意味します。イスラエルの歴史上ダビデ王は一番強い国を立てました。ダビデ王は神様の御心にかなう人として神様を恐れ敬い、愛と平和、公義によって国を治めました。ダビデ王国は将来来るべきメシヤ王国の影でした。神様はこのダビデの子孫からメシヤが生まれると約束されました。それでイスラエル人は数世紀の間ダビデのようなメシヤが現われて自分達を治めてくれることを待ち望んでいました。「ホサナ」とはヘブル語の、「どうぞ今救ってください。」という意味です(詩118:25)。「ホサナ」これには救い主を待ち望んでいる民達の叫びでした。それはローマの圧制から救いを求める民の叫びでした。また、それは罪の鎖、サタンの力からの救いを求める民の叫びでした。人々は外側を見ると現実の困難のために苦しみ、叫んでいるように見えます。しかし少し深く耳を傾けて見るとどうしても解決できない人生の問題や罪の問題によってもっと苦しんでいる事がわかります。ある人は人生の意味や目的を知らず虚しさのために苦しんでいます。ある人は情欲の問題で苦しみながら自分を救ってくれるメシヤを待ち望んでいます。「ホサナ!」これはサタンの支配の中で罪によって苦しんでいる人々の叫びです。イエス様は根本的に人類を罪とサタンの力から救うためにこの世に来られました。そしてそのためにエルサレムに入城されました。
それではろばの子に乗って入城されたイエス様はどんな方ですか。ゼカリヤ書9:9ではメシヤのエルサレム入城を次のように預言しました。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」群衆はローマ帝国を粉砕し、おしつぶし、破壊するような王を待ち望んでいました。しかし、イエス様はろばに乗って、来られました。このイエス様は謙遜の王です。ですから誰でも近づくことができます。イエス様はすべての人々の友であり、すべての人々の救い主です。
イエス様は謙遜の王であり、平和の王です。馬は戦争を象徴しますが、ろばは平和を象徴します。イエス様は愛と平和によって私達の心を治めてくださいます。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」この時間、謙遜の王、平和の王イエス様を私達の王として歓迎し、受け入れることができるように祈ります。
11節をご覧ください。イエス様はエルサレムに入城された後、宮にはいられました。ここで言う宮は、エルサレム神殿を指します。イエス様はヘロデ王宮に攻めて行かず、宮に入られました。それはイエス様が政治的なメシヤではなく霊的なメシヤであることを言ってくれます。イエス様はそこですべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれました。
?。宮を清められたイエス様(12ー19)
12-14節までは、イエス様がいちじくの木を呪われ、木が枯れたことが書かれています。12節をご覧ください。翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエス様は空腹を覚えられました。その時、葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれましたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気付かれました。いちじくの木は実が多く結ばれます。パレスチナでは3月にいちじくの木に食べられる小さな実が結ばれ、4月になると葉が茂るようになります。このような小さな実はいちじくのなる5、6月になると熟して落ちます。過越の祭りの時である4月中旬はいちじくのなる季節ではなかったとしてもイエス様が実を期待したのは当然なことです。イエス様はいちじくの木に実がないことに気付かれるとその木に向かって言われました。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」
イエス様はなぜいちじくの木を呪われたのでしょうか。それは葉の茂ったいちじくの木のように外側は立派に見えても実がない人生、集まり、民族は必ず裁かれることを弟子達に視聴覚教育によって教えてくださるためでした。それは14b「弟子達はこれを聞いていた。」という言葉が裏付けます。イエス様はいちじくの木を呪われる時に、外側は立派に見えるが、内側は腐敗している宮をお考えになったのでしょう。エルサレムの神殿には毎年過越の祭りに数百万人も集まって来ました。しかしその際神殿で行われる礼拝は形式に過ぎず、葉だけが茂った実のないいちじくの木のようなものでした。人生はまるで一本のいちじくの木のようです。いちじくの木は実を結ぶ時に存在価値があります。同じく人生も実を結ぶ時に存在価値があります。人は神様が願われる実を結ぶ時に喜びがあり、生きがいがあり、幸せを感じ、神様に栄光を返すことができます。人の偉大さもその実を見て計ることができます。神様の裁きの基準も実にあります。実がない個人や集まりや民族は外側がいくら立派に見えても必ず裁かれるようになります。ヨハネ15:16でイエス様は次のように言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」私達が結ぶべき実はキャンパスの学生たちの弟子養成です。私達が実はなく葉だけが茂ったいちじくの木のようにならないように励みましょう。私は洪ヨセフ宣教師の病気を通して私達の人生はそれほど長くないと思いました。ですから、今の一日を大切にして主と福音のために励み、実を結ぶことだけが残ると思いました。私達が安逸を悔い改めて実を結ぶ人生を送りましょう。
15-18節までは、イエス様が宮を清められたことが書かれています。15、16節をご覧ください。宮の中はみことばを教える声、祈りの声、賛美する声の代わりに動物の泣き声、商売人の叫び声でまるで市場のようになっていました。それをご覧になったイエス様は非常に怒り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者達の腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しになりませんでした。イエス様は柔和で謙遜な方ですが、不義を見ては怒られる方です。
17節をご覧ください。イエス様は宮がどんなところにならなければならないかを教えてくださいました。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」宮は神様がおられる神様の家です。宮は罪人が神様の御言葉を学び、罪の赦しを受けるところです。そして世界の人々の救いのために祈るところです。宮に御言葉がなく祈りもなく宮が世俗し、商売のために用いられるとそれは宮だと言う事ができません。
イエス様が宮をご覧になると、それはまるで強盗の巣のようでした。宗教指導者達は御言葉の研究や祈り、弟子養成や世界宣教に励むより宮を利用して自分の欲を満たしていました。教会は世の光と塩にならなければなりません。教会がこの使命を失って商業化され、私欲のために利用されると厳しい神様のさばきを免れることができないでしょう。東京UBFセンターが祈りの家となるように祈ります。私達はサマー・バイブル・キャンプの準備と洪ヨセフ宣教師の病気を癒してくださるように7月から毎日祈り会を設けて心を合わせて祈って来ました。また、リレー祈りも始め、個人祈りを捧げて来ました。神様が私達の祈りを聞かれ、今年のサマー・バイブル・キャンプがどんな年よりも聖霊の働きによって悔い改めによる罪の赦しと救いの御業が起こることを信じます。東京センターがSBCの時だけではなく、いつも祈りの家となるように祈ります。この主の家に多くの人々が出入りしながらいのちの御言葉を学び、罪の赦しと救いを受けることができるように祈ります。
パウロは?コリント6:19で「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」と言いました。私達のからだは聖霊が住まわれる宮です。ですからそれは清められなければなりません。私達の心の中心が強盗の巣になっていてはいけません。イエス・キリストを心の中に迎え入れなければなりません。毎日、御言葉によって自分の汚れた罪を清くしなければなりません。
?.神を信じなさい(20-25)
20節をご覧ください。朝早く、通りがかりに見ると、イエス様が呪われたいちじくの木が根まで枯れていました。ペテロは思い出して、イエス様に言いました。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」ペテロはイエス様の御言葉の権威に驚きました。いちじくの木が根こそぎされても枯れるまでは一週間はかかるでしょう。ところが、一日過ぎて枯れてしまったのでどんなに驚いたのでしょうか。ペテロはイエス様の御言葉の力をうらやましく思いました。自分にもそのような権威があればいいと思いました。それで彼はイエス様の御言葉の権威がどこからくるのかその秘訣を知りたいと思いました。
それではイエス様は弟子たちに信仰の対象と力の源が何であると教えてくださいましたか。22節をご覧ください。「イエスは答えて言われた。『神を信じなさい。』」この御言葉が意味するのは何でしょうか。それはすべての力と権威が神様を信じる信仰から出てくるという意味です。神様は全能の方です。神様は御言葉によって天地万物を創造された方です。神様が、「光よ。あれ。」と仰せられると、そのようになりました。すべてのものは、この方によって造られました。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもありません(ヨハネ1:3)。神様は海を分けられ、陸地のようにイスラエル人を渡らせることができる方です。岩から水が湧き出るようにできる方です。死んで四日になったラザロを生き返らせることができる方です。この神様には不可能なことがありません。この神様を信じる時、力ある人生を過ごすことができます。この神様を信じて頼る時、無限な神様の力を私達の生活の中で体験することができます。
23節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」言葉によって山を動かすことが不可能なことです。昔から山は動きません。しかし神様を信じると不可能なことも可能になります。それでは私達にとって山のようなものは何がありますか。私達にとって兄弟姉妹たちの心を動かすのが山のように思われる時があります。弟子養成が山のように見える時もあります。仕事や勉強をしながら主の御業に仕えることが山のように思われる時もあります。
それでは誰がそのような山を動かすことができますか。イエス様は23節で「だれでも」と言われました。これは神様に対する信仰があればだれでもできるということです。私達は大きなことをする人は他の人とは違う特別な才能や能力を持っているからだと思います。ペテロはイエス様だからそんなことができると思ったかも知れません。自分のような田舎者に何ができるかと思ったかも知れません。偉大なことができるためには学歴や頭もいい人でなければならないと思います。実際に多くの人々が自分の足りなさや環境や状況を考えながら自己嫌悪に陥ることがあります。私は仕事が忙しいから。私は勉強が忙しいから。私はアルバイトをして自立しなければならないから。私は子供の面倒を見なければならないから。私は歳を取っているから。などを言い訳にしながら自分はできないと思います。しかし、福音書どこを見てもイエス様は人間条件や職業や身分などを問いませんでした。神様の御業のために働くためには時間が必要だとも言われませんでした。ただ「神を信じなさい。」と言われました。そして、イエス様はだれでも大きなことができると言われます。私達も例外ではありません。イエス様が言われた「だれでも」に私達も含まれているのです。ですから、私達がこの山に向かって、「動いて海に入れ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。後にペテロは神様を信じる信仰によって大きなことができました。使徒の働き3章を見ると、ペテロは、生まれつき足のきかない男に「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせました。するとたちまち、彼はおどり上がってまっすぐに立ち、歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しました。このことができたペテロが特別な人だったのではありません。彼は平凡な人でした。私達と同じく咎と罪が多い人でした。彼は一日に三度もイエス様を知らないと否認した弱い人でした。このような彼も神様を信じる信仰によって大きなことができました。神様がアブラハムは召された時、彼は75歳の年寄りでした。彼には子供もひとりいませんでした。エジプトでは自分が殺されるのではないかと恐れて自分の妻サラを妹だと騙す弱い者でした。しかし、このような彼も神様を信じて祝福の源となりました。モーセが荒野で神様から召された時、彼は小市民的な者であり、恐れ多い羊飼いに過ぎませんでした。しかし、彼が神様を信じた時、イスラエル人をエジプトの奴隷から解放する大きな御業に用いられました。
今日私達が主と福音のために働く時に神様が私達に要求するのはただ信仰だけです。一人の救いもこの国の救いの御業もただ信仰によって可能です。私達がやるべきことはただ全能の神様を信じることです。イエス様も「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」と聞く人々に「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」と答えられました(ヨハネ6:28,29)。神様は私達の信仰によって働かれます。信仰があれば1:1聖書勉強も弟子養成もできます。信仰は不可能なことのように見える状況に挑戦することです。信仰がない人は山の前で絶望し、あきらめてしまいます。しかし、信仰がある人は信仰によって挑戦します。ヘブル11章に出ている人々は特別な人々ではありません。みな平凡な人々ですが、信仰によって大きなことを成し遂げた人々です。
ところが私達が神様を信じる時、必ず克服しなければならないことがあります。イエス様は「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」と言われました。心の中に疑いが生じると否定的な考え、弱い考え、運命的な考え、敗北的な考え、恐れなどに捕われるようになります。疑いはサタンが植え付けるものです。サタンは絶えず私達の心に疑いと不信の矢を放ちます。どんなに信仰深い人でも、心の中にはいつも疑いが起こって来ます。サタンの放つ不信や疑いの矢に刺された人は無力になり、ふらふらしてしまいます。結局サタンの奴隷になってしまいます。ですからサタンが植え付ける疑いと戦わなければなりません。疑いは私達の大きな敵です。私達の心は城のようです。私達の力や意志によってはサタンからこの城を守ることができません。ただ全能の神様を信じて聖霊の剣である御言葉と祈りによってのみサタンの攻撃に打ち勝つことができます。
24節をご覧ください。「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」イエス様は信仰の力について教えてくださった後祈りの力について言われました。それは信仰の力は祈りの力だからです。信仰と祈りは針と糸のようなものです。信仰の人は祈る人です。祈りは信仰の具体的な表現です。ですから私達は神様を信じる時、自分が何を求めているのか具体的な祈り題目がなければなりません。私達は父なる神様に子供達として何でも求めることができます。弟子養成も、病気の癒しも、何でも求めることができます。私達は自分が祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなければなりません。父なる神様は子供である私達の願いを聞いてくださいます。旧約聖書に出ているハンナは子供を産めなくて苦しんでいました。それでその問題を持って神様に切に祈りました。祈った後、彼女の顔は、もはや以前のようではありませんでした。それは彼女が祈って求めたものをすでに受けたと信じたからです。その信仰のとおりに彼女はサムエルを産みました。
25節をご覧ください。「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」祈る時、心にひっかかる問題は罪の問題です。私達の罪を告白し、神様から罪が赦され神様と正しい関係性が結ばれる時に祈りが答えられます。ところが兄弟を心から赦すことは山を動かすことのように難しい事です。それである人は死んでも赦せないと言うほどです。また、私達が赦そうとしてもなかなかできません。そのように私達が他人のとがと罪を赦せないなら、祈ることができなくなり、神様の赦しの愛も悟ることができません。それではどうすれば私達は兄弟に対する恨み事を赦すことができますか。それは私達の意志や本性によっては不可能なことです。私達はイエス様の十字架の赦しの愛を受けなければなりません。イエス様は御自分を十字架につける人々のために祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34a)。私達は神様に一万タラントの借金がありましたが、免除していただきました。ですから、兄弟にある百デナリの借金を免除してあげるべきです。
結論、イエス様は私達が山を動かす信仰の人になることを願われます。今週木曜日からサマー・バイブル・キャンプが始まります。神様が私達に神様を信じる信仰を与えてくださり、最後まで信仰によって準備し、信仰の力を体験することができるように祈ります。