2000年復活祭特別講義

よみがえられたイエス様

 

御言葉:マルコの福音書16:1?20

要 節:マルコの福音書16:6

青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを

捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。

ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」

 

今日学ぶマルコの福音書16章はイエス様の復活の記事です。人は誰でもいつかは死んでしまいます。しかし、イエス様は死の力に打ち勝たれ、死者の中からよみがえられました。このイエス様はどんな方でしょうか。また、イエス様がよみがえられたことは私達にどんな意味があるのでしょうか。この時間、御言葉を学ぶ中で私達が復活信仰を持ち、堅く立って動かされることなくいつも主のわざに励むことができるように祈ります。

 

?.復活信仰をお植えになったイエス様(1-14)

 

1節をご覧下さい。「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。」この日はイエス様が十字架につけられ死なれてから三日目になる日でした。三人の女達はイエス様の死体に油を塗りに行こうと思い、香料を買いました。彼女達は、イエス様に最後の愛情のしるしを与えるために来たのです。彼女達はイエス様から救いの恵みを受けたので、心を尽くしてイエス様に仕えました。マグダラのマリヤは七つの悪霊につかれた人でしたが、イエス様が彼女から悪霊を追い出してくださいました(9)。女達にとってイエス様は生きる意味であり、目的であり、希望でした。ところが、それほど恵みと愛の豊かなイエス様、力あるイエス様が十字架につけられ惨めに死なれたのです。彼女達は大きなショックを受けて悲しみと空しさと絶望に陥りました。生きる意欲や希望を失いました。愛するイエス様のことを考えるたびに悲しみに包まれて涙ばかりが溢れ出ました。そのような中で最後にイエス様の死体に香料を塗りに朝早く墓に向かって行きました。イエス様に対する彼女達の忠誠心は変わりませんでした。それゆえに、彼女達は最初の復活の証人となることができました。

 ところが墓に向かって行く彼女達に一つの心配事がありました。3節をご覧下さい。「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」当時ユダヤ人は洞穴を墓として使っていましたが、墓の入口は大きな石で塞いで置きました。彼女達は、そのような石は自分達の力では動かせないことを知っていました。ですから、誰かが彼女達のためにその石をころがしてくれる必要がありました。もし、その時、「力持ちのペテロでもいたら助かるのに」と思ったことでしょう。ところが、ペテロはどこにいるのか見えませんでした。悲しみと心配の中で彼女たちは墓に着きました。ところが、その時予期せぬ光景を見るようになりました。目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあったのです。彼女達は驚いたでしょう。イエス様の死体に何か起きたに違いないと思ったでしょう。恐る恐る彼女達は墓の中に入りました。ところが、これは何と言うことでしょうか。彼女達が墓の中にはいったところ、墓の中に納められているはずのイエス様の死体は見当たらず、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えたのです。彼女たちは再び驚きました。驚いている彼女達に青年はさらに驚くべきニュースを知らせました。6節をご覧下さい。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」

彼女達は十字架につけられたイエス様を捜していました。このイエス様は世の権力に負けて死なれた方です。他人を救ったが、ご自身は救えなかった人です。一生苦しんで死なれた悲しみの人です。様々な病人を癒し、悪霊を追い出してくださいましたが、自分の死の前ではどうしようもなく墓の中に葬られているイエス様です。彼女達はこのイエス様を考えると悲しくなりました。このような彼女達の信仰は限界があり、運命的なものでした。よみがえられたイエス様を知らない人の信仰は彼女達のように限界があり、運命的なものになります。

ところが、青年が伝えたイエス様はどんな方でしょうか。「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」彼が伝えた知らせは、人類史上一番驚くべきことであり、喜びの知らせです。人はいくら立派な人だとしてもみな死んでしまいます。孔子、ソクラテス、ナポレオンも死にました。死は人に不安、恐れ、虚無を与えます。しかし、イエス様は死の力に打ち勝ち、死者の中からよみがえられました。よみがえられたイエス様はどんな方でしょうか。このイエス様は勝利の主であり、全能の方です。永遠に生きておられる方です。万物を支配しておられる方です。それではイエス様がよみがえられたことは私達にとってどんな意味があるのでしょうか。

第一に、罪の赦しに対する確信を与えます。アダムが罪を犯したゆえに死はすべての人々を支配するようになりました。死は人からすべてのものを奪い去ります。イエス様はこの死と罪の問題を解決するために十字架につけられ死なれました。そして、三日目によみがえられたことによってこの事実を明らかにされました。もしイエス様がよみがえらなかったのなら、イエス様が私達の罪のために死なれたことを確認することができません。イエス様は私達の罪のために死なれ、また、よみがえられたことによって、人間の根本問題である罪と死の問題を解決してくださいました。

第二に、イエス様の復活は究極的な勝利を与えます。人は誰でも勝利者となることを願います。しかし、死のためにすべてのものを失い、土に戻ります。私達が勝利の人生を送るためには必ず死の問題を解決しなければなりません。よみがえられたイエス様は私達に真の勝利を与えてくださいます。それでパウロは次のように言いました。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(?コリント15:55、57)。神様は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。神様は生きて働いておられる方です。この神様は信じる者に勝利を与えてくださる方です。

第三に、よみがえられたイエス様は私達に神の国に対する生ける望みを与えてくださいます。イエス様は眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。イエス様の復活は将来私達もイエス様のように復活するという望みを持つようにしてくださいました。人々はまるでこの世の生活がすべてであるかのように生きています。死ねばすべてが終わりだと思い、この世での生活にすべてを投資しています。しかし、世の栄光は草の花のようです。いつか花は落ち、しおれます。世の望みは私達を失望させます。しかし、神様が私達に与えてくださった復活の望みは決して私達を失望させることがない生ける望みです。この世に望みを置いている人は小舟のように波によって揺れ動きます。心配と不安で満ちています。しかし、生ける望みを持っている人はどんな状況の中でも揺れ動きません。この望みを持っている人はいつも主と福音のために献身することができます。

 よみがえられたイエス様を信じる人とそうでない人の信仰生活は違います。復活の世界を知らない時には何をしても空しく、悲しく、孤独です。しかし、復活信仰を持つと信仰生活が変わります。復活の世界は勝利の世界です。生命力が満ち溢れる世界であり、喜びが満ち溢れる世界です。力ある世界です。限界を知らない世界です。最後の敵である死をも滅ぼされる世界です。復活信仰を持つときその人の生活が変わります。ペテロはイエス様を三度も知らないと言いました。しかし、復活のイエス様に出会ってからは大胆に悔い改めのメッセージを伝えました。鞭に打たれながらも喜びました。そしてイエス様の足跡に従って殉教しました。使徒パウロは神の教会を迫害した人でした。ところが、復活のイエス様に出会ってからは彼の人生は180度変わりました。それほど教会を迫害していた彼がイエス様の福音を命がけで宣べ伝える人となりました。復活は一人の人生を変え、人類の歴史を変えました。

6b節をご覧下さい。御使いは復活の証拠としてイエス様を納めて置いた空の墓を見せてくれました。死んだ人は墓の中にいなければなりません。孔子も墓の中にいます。アブラハム・リンカンも墓の中にいます。アインシュタインもそうです。私達の先祖もみな墓の中にいます。しかし、イエス様は墓の中におられません。イエス様の墓は空いています。イエス様は墓の中におられず、よみがえられました。イエス様の空いた墓はイエス様の復活を証ししてくれるものです。

7節をご覧下さい。御使いは女たちが行って弟子たちとペテロに、「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。」と伝えるように言いました。これはイエス様が十字架につけられる前に復活した後の方向として言われた御言葉です。「前に言われたとおり」とは、イエス様の復活が偶然の出来事ではなく、聖書の示すとおりであり、イエス様が言われたとおりであることを言っています。女たちは、墓を出て、そこから逃げ去りました。すっかり震え上がって、気も転倒していたからです。そして恐ろしかったのでイエス様の復活を弟子達に知らせることができませんでした。それほど復活は彼女達にとって衝撃的な出来事でした。イエス様はよみがえられた後、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされました。よみがえられたイエス様に出会ったマリヤは喜びに満たされたでしょう。マリヤはその喜びと感激を嘆き悲しんで泣いている弟子達に知らせました。「イエス様はよみがえられました!」しかし、弟子たちは信じようとはしませんでした。マリヤがショックを受けてたわごとを言っていると思いました(ルカ24:11)。また、女の証しを聞き入れることには自尊心が許しませんでした。

 その後イエス様は誰に現れましたか。12節をご覧下さい。「その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現わされた。」イエス様は暗い顔つきをしてエルサレムからエマオという村に行く二人の弟子に現われました。イエス様は彼らに聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされました。そして、彼らとともに食事をしている時、彼らの目が開かれ、イエス様だとわかりました。二人の弟子もエルサレムに戻ってイエス様の復活を知らせました。しかし、弟子達は彼らの話も信じませんでした。弟子たちが二度復活の知らせを聞いても信じなかった理由は何でしょうか。理性的に理解できなかったからでしょうか。それともあまりにも大きな悲しみに包まれていたので信じることができなかったのでしょうか。14節をご覧下さい。「しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」イエス様は弟子たちの不信仰とかたくなな心をお責めになりました。弟子たちは、死者は決してよみがえらないという固定観念を持っていました。また、よみがえられたイエス様を見た姉妹達と弟子たちの言うところを信じようとしない高慢のゆえにかたくなな心を持っていました。イエス様の復活は確実な証拠と多くの証人達の証しがあるので、信じようとすればいくらでも信じることができます。しかし、いくら多くの証拠や証人の証しがあっても、信じようとしない人は信じることができません。信じないのは証しの問題ではなく、心の問題です。

イエス様は弟子たちの不信仰とかたくなな心を咎められました。イエス様は彼らを咎められることによって、彼らに復活信仰を植え付けようとされました。それは彼らに対する愛の表現でした。信仰は不信仰とかたくなな心を悔い改めて謙遜に復活の御言葉を受け入れる時に所有することができます。復活を信じるか信じないかは永遠のいのちにかかわる大切な問題です。私達の罪のために十字架につけられ死なれたイエス様は墓の中におられず、よみがえられました。この時間、よみがえられたイエス様を受け入れ復活の世界に入ることができるように祈ります。

 

?.世界宣教の使命を与えられたイエス様(15-20)

 

弟子たちに復活の信仰を植えられたイエス様は、彼らにどんな使命をお与えになりましたか。15節をご覧下さい。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」イエス様は弟子たちに世界宣教の使命をお与えになりました。彼らに復活の信仰を植えられてから世界宣教の使命を与えてくださったのは、復活信仰なしにはこの使命を担うことができないからです。また、彼らが宣べ伝える福音の内容はイエス様の十字架と復活だからです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」この御言葉から私達は幾つかの大切な事実を学ぶことができます。

第一に、福音を宣べ伝える対象は全世界のすべての人々であることです。これは全世界の人々の状態がどうであるかを言ってくれます。すべての人々に福音が必要です。富む者にも貧しい者にも必要です。白人にも黒人にも必要です。男の人にも女の人にも必要です。誰でも福音が必要な存在です。なぜでしょうか。それはこの福音だけが人々を罪と死から救うことができる唯一の道だからです。

第二に、福音の絶対性です。16節をご覧下さい。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」弟子たちが福音を宣べ伝える時、信じる人もいれば信じない人もいるでしょう。人々は信じようが信じないようがそれは自分勝手であると思っています。しかし、信じなければそれでいいというわけではありません。福音を信じることと信じないこととは大きな違いがあります。福音はいのちにかかわる何よりも大切なものです。この世には福音を知らず、死んでいく多くの人々がいます。イエス様は彼らに福音が知らされることを切に望んでおられます。ですから、世界宣教は何よりも優先的にしなければならないことです。ここに福音の絶対性があります。

 第三にイエス様のビジョンです。イエス様は幼い弟子たちの肩に全世界をゆだねました。これはイエス様のビジョンであり、信仰です。イエス様は弟子たちに望みを置いておられました。それは彼らが人類の歴史を変える偉大な福音の働き人となることです。イエス様は彼らによって福音が全世界の人々に宣べ伝えられるビジョンを持っておられました。イエス様のビジョン通りに彼らは偉大な福音の働き人となりました。同じくイエス様は私達にもビジョンを置いておられます。そして、そのビジョンの通りに育ててくださいます。私達がイエス様の世界宣教の命令に心から従う時、主が私達とともにおられます。

17,18節をご覧下さい。「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」イエス様は福音を信じる人に力を与えてくださいます。イエス様の御名によって悪霊を追い出す力を与えてくださいます。また、すべての危険から守ってくださいます。神戸大地震の時に千ヨシュア宣教師達が住んでいるアパートは倒壊して一階に住んでいる人の中には死者が出ました。しかし、二階に住んでいた千ヨシュア宣教師の家庭は無事でした。それだけではなく、神様はすべてのことを働かせて益としてくださり、今は地震の被害者として安くて広い市営住宅に入るようになりました。パプアニューギニアでは大きな津波によって多くの死者が出ましたが、バイ・マタイ宣教師は反対側に住んでいて安全でした。使命人は神様がその使命を果たすまで安全を守ってくださいます。

 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれました。イエス様は万物の主として人間の歴史と万物を支配しておられます。そこで、弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えました。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされました。イエス様の命令に聞き従う弟子たちと主はともにおられました。恐れおののいていた弟子たちは復活信仰によって世界宣教の御業に用いられました。弱い弟子たちは力ある主のしもべとして変わりました。

 結論、イエス様は眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。このイエス様は私達に勝利を与えてくださいます。弱い私達を力ある福音の働き人として変えてくださいます。悲しみ、失望している弟子たちを、喜びと勇気に燃える輝かしい人々に変えてくださいました。この時間、よみがえられ、今も生きておられるイエス様に出会い、復活信仰を持つことが出来るように祈ります。さらに、復活信仰によって「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と言われた主の命令に従い、堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励むことができるように祈ります。