2001年収穫感謝祭のメッセージ

ヤベツの祈り

御言葉:歴代誌 第一4:9、10

要 節:歴代誌 第一4:10「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」

日本には「勤労をたっとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」日として「勤労感謝の日」があります。今週金曜日です。これに似た日としてアメリカには「収穫感謝祭」があります。毎年11月の第4木曜日がこの日に当たっています。この日の起こりは、17世紀の初め頃、イギリスの清教徒達がメイフラワー号に乗って自由の天地を求めて新大陸に上陸、食物を得るために苦労の日々を過ごす中で、秋の最初の農作物の収穫を記念したことに始まると言われています。

両者とも収穫の秋に祝われ、感謝するということにおいて共通しています。しかし、決定的に違う点が一つあります。それはだれに対して感謝するのか、すなわち感謝の対象の違いです。「勤労感謝の日」は人間同士が互いに感謝しあうわけですが、「収穫感謝祭」の方は神様に対して感謝をささげるのです。

今日は「ヤベツの祈り」を通して神様の大いなる祝福を覚えて神様に感謝し、その祈りを学びたいと思います。ところが、祈りは学ぶことではなく、することです。祈りは理論ではなく、生活なのです。ヤベツの祈りを通して私たちがさらに深い祈りの生活に向かうことができるように祈ります。

?. 私を大いに祝福してください。

9節をご覧ください。「ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。」とあります。ヤベツという人は聖書の中に、後にも先にもここにしか出てこない人物です。歴代誌のこの部分はイスラエルの系図をしるしている部分ですが、長々と続く系図の中に名前が出てくるだけで、この人について詳しいことは何も知られていません。しかし「名は体をあらわす」というように「ヤベツ」という名前から、また彼がそう名づけられた事情からいくつかのことを推測することができます。

 「ヤベツ」という名前の意味は「痛み、苦しみ、悲しみ」を表わしています。

ヤベツに名前をつけたのは母親でした。母親が彼の名前を「ヤベツ、悲しみ」と名づけたのは、悲しみのうちにこの子を産んだからでした。彼女が子どもに「ヤベツ」という名をつけたのにはそれなりの理由があったようです。おそらく、ヤベツが生まれた時には、父親が亡くなっていたのでしょう。ヤベツの母親は、まだ、夫を亡くした悲しみの中にあったのかもしれません。夫を亡くし経済的にも、精神的にも大変な苦しみ、悲しみの中で、子どもを産み、育てなければならなかったのでしょう。ともかくも、ヤベツは逆境の中に生まれました。生まれながらにして彼は、家庭的に重いハンディキャップを背負わされたのです。ヤベツは心の中に大きな傷を負い、思春期には、自分の名前を呼ばれる度に、悩んだかもしれません。「悲しみ君、苦しみ君」と呼ばれたはずですから、ばかにされないはずがありません。

ジュンスカイウォーカーズというバンドの歌の中に、「ゴミ箱」という歌がありますがこのような歌詞です。「俺は汚いゴミ箱。ソースのついた、ただの箱。誰も気付きもしないから、気が楽でいい。」また、ザ・ブルー・ハーツというバンドの歌にはこんな歌詞があります。「世の中に冷たくされて一人ぼっちで泣いた夜 もうだめだと思うことは 今まで何度でもあった」ヤベツの人生は、そういう人生でした。生きるのが下手というか、調子よく生きれない、不器用な人生だったのです。

現代も、ヤベツのように、親から愛されず、ひどい場合だと虐待されて悩んでいる子どもが大勢います。特に父親がいなかったり、家庭的に重いハンディキャップを持っている子どもたちは友だちの中でもばかにされます。

しかし、ヤベツは兄弟の中で一番重んじられました。なぜそのようになったのでしょうか。それは10節にあるように彼が神様に祈り、そしてその祈りに神様が答えられたからです。ただそのことだけの理由です。ではヤベツはどのような祈りをしましたか。

ヤベツは、「イスラエルの神」に祈りました。「イスラエルの神」というのは、イスラエルの人々が信じている神とか、イスラエル人だけの神という意味ではありません。神様が「イスラエルの神」と呼ばれるのは、イスラエルの十二部族の先祖になったヤコブに働きかけ、彼を助け、彼とその人生を変えてくださったからです。ヤコブはさまざまな苦しみの中を通りましたが、神様に祝福を祈り求めました。すると、神様はヤコブに「イスラエル」という新しい名前をつけてヤコブの生涯を祝福し、変えてくださったのです。ですから、「イスラエルの神」という呼び名には「ヤコブを祝福し、イスラエルに変えてくださった神」という意味があるのです。

そこで、ヤベツはこのイスラエルの神様に「私を大いに祝福してください。」と祈りました。ヤベツは聖書勉強を通してヤコブ、イサク、アブラハムの神様、祝福の神様をよく知っていたようです。何よりも信仰の先祖アブラハムの神様をよく知っていました。アブラハムは偶像崇拝に覆われた大都市カルデヤのウルに住んでいました。このアブラハムに現れて語られた神様のことばはヤベツの信仰の原点でした。聖書は言います。

「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる」(創世記12:2)。「祝福を受けよ。アブラハム。天と地を造られた方、いと高き神より」(創14:19)。「アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」(創15:1)。

これらのことばを勉強して、彼は自分にも語られていることばとして受けとめたのです。アブラハムに語られたことばを読むヤベツは輝いていました。「私を大いに祝福してください」は聖書勉強の結果、当然のように生まれたことばです。ヤベツは異邦人アブラムを神様が大いに祝福されていたことを知っていて、アブラムに与えられたような大いなる祝福を求めたのです。彼はアブラムの神様のご性質が祝福の神様であることを理解していました。アブラムは神様から祝福契約を結ぶように招かれ、アブラハム(多くの国民の父)と改名されました。いわゆるクリスチャンになったようなものです。そのとき、彼は大いに祝福されました。聖書は言います。

「主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた」(創24:1)。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた」(創25:8)。

このように聖書は神様に召された人の人生を祝福してくださることを力強く描写しています。ヤベツはアブラハムを祝福された神様に期待しました。彼に与えられた祝福はきっと自分にも与えられるはずだと結論付けたのです。彼は異邦人であっても聖書を勉強し、神様のイメージを適切に把握していたのです。神様のご性質を正しく知り、神様に対して正しいイメージを持つことはとても大切なことです。

来週のメッセージになりますが、イエス様のたとえ話にタラントの物語があります。そこで、五タラントと二タラントを与えられた者は、それぞれ投資して五タラントと二タラントを儲けました。ところが、一タラント与えられた者は、その一タラントをふくさに包んで地の中に隠しておきました。どうして隠したのか、彼の説明を聞いてください。「ご主人様。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこうわくなり・・・」(マタイ25:24)とあります。

この僕が主人の性格を誤解したように、残念ながら多くのクリスチャンも神様の性格を誤解して間違った神様のイメージをいだいています。神様の性格を誤解すると致命的な失敗を犯してしまうことが、この物語からわかるでしょう。恐れのために閉じこもって、与えられた人生を生きなくなってしまうのです。失敗を恐れてせっかく与えられた才能、チャンスを、そして将来性のある人生を土の中に埋めてしまうのです。

私たちは今年悲しみのうちに出発しました。東京UBFの2001は、母の悲しみのうちに生まれたヤベツのように悲しみの中から出発したのです。私はいっしょに祈り、賛美し、礼拝をささげていた同労者たちが一人一人離れて行く時、神様の対するイメージもどんどんさびしくなって来ました。同労者たちとは話し合うことさえ、自由にできませんでした。自分のことばのためにまた、離れて行く同労者が現われることがこわかったからです。このように神様のご性格に対する考えが変わると、私の霊的な状態は沈んで行き、一タラント与えられた者が自分の与えられた一タラントをふくさに包んで地の中に隠しているようなものになってしまいました。あまり霊的に働くことができなかったのです。

しかし、私は韓国で研修を受ける間、毎日朝食を断食しながらダニエル書を黙想し、祈りましたが、ダニエルの信仰と祈りを通して再び神様に対するイメージが変わりました。異邦人の国の中でも信仰の純粋性を守っていたダニエルを通して私は自分の信仰を人間の組織より内的で霊的なものに戻すことにしました。すると、試練の中でも働いておられる神様の主権と御手の働きが見えて来ました。何よりもこの「ヤベツの祈り」を通して祝福の神様に再び出会うことができました。今、私がイメージしている神様は祝福の神様です。私だけではなく、私の家族、私の同労者とその家族、私の教会、私の職場も祝福してくださる神様です。

神様は東京UBFのみわざを大いに祝福しておられます。考えてみると、離れて行った宣教師たちは、救われ、神様に召されているので、それぞれのところで主のみわざに用いられるはずです。問題は残っている私たちですが、神様は私たちひとりひとりを霊的に、内的に成長させてくださいました。宣教のみわざが本来の目的どおりに宣教師中心より日本の牧者たちが中心になって来ました。牧者たちが、東京UBFをささえる五本の柱として五つのフェローシップのリーダーとして仕えています。〇〇牧者は早稲田UBFの幹事長としても大活躍をしているし、安藤牧者はCBFの部長として仕えています。礼拝の伴奏やSing‐a‐longに仕えている方たちも主に牧者たちです。私は10月から牧者たちの聖書勉強会に参加させていただいていますが、彼らの聖書的な知識の深さ、主のみわざに対する主人意識、情熱を通して恵みを受けています。神様が一人一人に対して「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と告白してくださるでしょう。

神様は各部のみわざも祝福してくださり、レクリェーション部ではバスケットボールチームが結成され、外部のチームとの交流もできるようになりました。宣教事業部も先月からは赤字から黒字に変わりました。何よりも神様は私たちを罪から救い、健康に過ごせるように祝福してくださいました。先週、xx牧者の感謝題目を通しても神様の御手が彼女とともにあり、彼女の人生を大いに祝福しておられることを学ぶことができましたが、主のみわざだけではなく、私たちの人生を祝福し、今年も繊細に導いてくださった神様に心から感謝します。ではヤベツは祝福の神様を信じて何を求めましたか。

?。私の地境を広げてください。

もう一度、10aをご覧ください。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。」とあります。彼はまた「私の地境を広げてください。」と祈りました。ヤベツの生きた時代は、イスラエルの十二部族に約束の土地が分割されたころでした。ヨシュアが大まかな割り当てを決めましたが、それは地図の上でのことであって、実際に土地を自分のものにするには、先住民と戦い、町を建て、畑を耕さなければならなかったのです。そして、自分の家族のため、氏族のために土地を広げるのは「早いもの勝ち」で、自分の努力次第で、また家族や氏族の団結次第でどうにでもなったのです。ヤベツは、苦しみの中にあった自分の家族のために、また将来のために「私の地境を広げてください」と祈りました。彼は自分のリミットをひろげようとしたのです。

 ヤベツは実際の地境が広がるように祈りましたが、実は、そう祈ることによって、彼はまず信仰を広げていったのだと思います。神様の力をより信じれば信じただけ、彼はより広い土地を手にすることができました。私たちも、全能の神様を信じる信仰に制限をつけることなく、信仰を増し加えてくださいと祈ることから始めたいと思います。

 ある方にとって「地境を広げる」とは、個人の霊的成長かもしれません。ほんのわずかなみことばの知識からもっと広いみことばの知識に導いてくださいと祈ることができます。忍耐や寛容という地境を広げて、大きな愛の心で他の人を包み込むことができるようにとの祈りも可能です。今までキリストをあかしすることのなかった人々に思わぬ方法で伝道できるということもあるでしょうし、今まで自分には賜物がないと思っていた分野の奉仕が用いられるということもあります。〇〇牧者は「自分にはギターの賜物がない」と思っていました。去年、収穫感謝祭の時、賛美だけでは神様に感謝することが物足りないと思って地境を広げ、ギターをならいはじめましたが、今は毎週フェローシップでギターを引いています。私たちみなが信仰の歩みにおいても、伝道においても、奉仕においても、いま少しリミットを広げてくださいと祈りましょう。そのようにしてひとりびとりが祝福され、教会が祝福されれば、教会の実際の地境も広げられる日がきっとやってくるでしょう。神様がどんな方法でそれを実現してくださるかわかりませんが、祈りには制限を打ち破る力があるのです。

私は弟子修養会の前、李ヨシュア宣教師から今の都営注宅よりもっと広くて新しい都民住宅を紹介されました。「いいところだなあ」と思いましたが、私の資格で入れるのはただ二件しかないし、先に申し込みしたヨシュア宣教師からもう倍率が70になっていると聞きました。それに家賃も今より高くなることを考えるとあきらめたくなりました。しかし、弟子修養会の帰りに平野耕一牧師先生が書いた「ヤベツの祈り」を読みながら恵みを受け、私を祝福し、地境を広げてくださる神様を信じてチャレンジすることにしました。そして、もし、当選すれば神様が今まで私の人生を祝福してくださったようにこれから大いに祝福してくださることだけではなく、愛する東京UBFの同労者、兄弟姉妹たちも祝福し、みわざも祝福してくださり、主日礼拝参加者の数が50名、120名になるビジョンを確信すると祈りました。夜はセンターで泊まりながらヤベツの祈りをささげました。神様はその祈りを聞いてくださり当選させてくださいました。祈りを聞いてくださり、地境を広げてくださるビジョンを確信させてくださった神様に心から感謝します。

?。御手が私とともにありますように

10bをもう一度ご覧ください。「御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」とあります。ヤベツは「地境を広げてください」と祈りました。そのためにはもちろん彼自身の努力が必要でした。しかし、ヤベツは、自分の努力だけでそれが達成できないことを良く知っていました。神様の御手、つまり神様の力、神様の祝福が必要なことを良く知っていました。祈りは、神の力に信頼し、神の祝福を受ける第一歩なのです。そこで、彼は「御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないように」祈りました。

 一般に、ものごとに成功するためには「自分を信じろ」「人に頼るな」などと言われます。しかし、大きな仕事を成し遂げた人々は、ほとんどといって良いほど、自信にあふれた人たちでなく、自分の弱さを知っていた人たちでした。そして、その弱さをカバーしてくれる友だちを、協力者を持っていた人たちでした。それと同じように、私たちがもし本当の意味で人生において成功したいと願うなら、神様に頼ることを学ぶ必要があります。あるビジネスマンが、成功の公式は(才能)×(熱意)×(誠意)だと言いましたが、私はその上にもうひとつのもの、神様の祝福、神様の御手の働きが必要だと思います。(才能)×(熱意)×(誠意)×(祝福)ですね。人間の側でどれだけ精一杯頑張ったとしても、そこに神様の手が、神様の祝福がなければ決してものごとは成就しないからです。また、たとい、表面ではものごとが期待どおりに行っているように見えても、それが私たちの本当のさいわいには結びつかないのです。

 私たちは、私たちの日常の生活の中にどれだけ神様の御手を見ているでしょうか。私たちの心に、神様の御手のタッチを感じているでしょうか。神様は、いつも私たちと共にいてくださると約束してくださっているのに、また、教会の集まりの中には、イエス・キリストがそこにいてくださるというのに、キリストを信じる者の内には聖霊が住んでいてくださるというのに、日々の生活の中にも、教会の礼拝の中にも、私たちのたましいの内側にも、神様の御手のわざを見ることがないとしたら、それは、神様の御手を意識して求めていないからかも知れません。ヤベツのように私たちも、生活の一こま、一こまで神様に信頼し「御手が私とともにありますように」と祈りましょう。すると、神様は私たちの願ったことをかなえられます。その時、私たちは、わざわいから遠ざけて苦しむことのない人生を過ごすことができます。日々神様がわたしの生活にその御手で触れてくださったことを見て喜び、感謝する生活を送ることができるのです。そして、この神様の御手によってマイナスをプラスに、困難をチャンスに変えて前進していく生涯を送ることができるのです。

 結論、神様はヤベツの「痛み、悲しみ、苦しみ」を祝福に変えてくださいました。「苦しみ」という名前を持った人を他のどの兄弟たちよりも重んじられる、尊敬されるものとしてくださいました。それは彼が神様に祈り求めたからです。私たちもヤベツと同じ信仰を持って私たちを大いに祝福してくださる神様に祈りましょう。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてください。」と