2001年年越し礼拝メッセージ
主は私の羊飼い
御言葉:詩篇23:1-6
鍵 句:詩篇23:5主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません(詩篇23:1)。
人生において、何事でも、最後がもっとも大切です。学校でも、入った時の成績よりも卒業する時の成績が大切です。長く勤めた会社を辞める時、長年住んだ場所を離れて引っ越しをする時、誰かと別れてさようならを言う時、これらはどれも非常に厳粛な時です。私たちは、今日、西暦2001年の最後の主日を迎えています。1年の終わりでありますが、このような時にこそ、神様を見上げ、神様がこの1年間も導いてくださった様々な働きを思い出して感謝するのが、わたしたちにふさわしいことだと思います。
その意味で詩篇23篇は神様に私たちの目を向けさせてくれる詩であると思います。この詩の内容から推測するに、ダビデが若い日に作った歌ではないようです。むしろ、その晩年、人生の終りに書いた詩であると思われます。神様と共に生き、そして神様と共にその人生の終わりに向かうこのダビデの詩は、日頃、目の前のことに振り回され、自分の人生において何が真に大切なことであるか分からなくなっているーそんな私たちの心を静め、神様の御声に耳を傾けさせてくれます。御言葉を通して羊飼いである神様の愛と導きを悟って感謝するとともにこれからの人生も神様の羊の群れの中に身を置いて生きることの決断もできるように祈ります。
1.主は私の羊飼い(1?4)
1?3節をご覧ください。
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
「主は私の牧者、羊飼い」と呼ぶということは、自分を「羊」として見ているということです。神様との関係を羊飼いと羊の関係に見ているのです。
ダビデは少年時代、父エッサイの羊飼いとして仕えました。この経験を通して、ダビデは羊の弱さを知り、羊飼いの役割や配慮を学びました。彼は、羊を守るためにライオンや熊と戦ったと言いますから(?サムエル17:34-36)、健気な羊飼いでした。そして羊のことをよく知っていました。
羊は、緑の牧場や渇きを潤す水のある所を知りませんが、心配はいりません。羊飼いが知っています。羊は無力で敵と戦う手だてを持ちませんが、羊飼いが身を挺(てい)して羊を保護します。羊には帰巣本能が無いと言われますが、導く羊飼いがいる限り迷うことはありません。
ダビデが神様に選ばれてイスラエルの王となった時、彼はいわばイスラエル全国民の羊飼いとなりました。羊飼い時代に学んだ知恵は、彼の指導力に役立ったと思います。しかし、同時にその責任の重さを感じて、負いきれない重荷と思う事もあったでしょう。その中で彼を支えたのが「主は私の羊飼い」という信仰です。
ご存知のように、羊は群れを形成して生活します。当然のことながら、ダビデは自分が羊かのもとでたった一匹で生きている羊であると考えていないはずです。羊が彼らにとって馴染みの深い動物であるならば、そのようなイメージは持ち得ないのです。あくまでも自分の羊の群れの中の羊なのです。さらに、彼は自分が羊の群れの中にいるという自覚によって、主を「私の羊飼い」と呼んでいるということなのです。
これは羊飼いと羊の具体的なイメージを持たない私たちにとって非常に重要な理解です。なぜなら、私たちは「主は私の羊飼い」というような言葉を聞くと、すぐに「ああ、これは彼の個人的な人生の経験から生じた言葉だな」と単純に思ってしまうからです。しかし、実はそうではありません。イスラエルにはもともと神様を羊飼いとして見るという見方がありました。それは恐らく出エジプトの後、主に導かれて荒野を旅したというイスラエルの歴史に根ざした言葉だと思います。たとえば詩篇77:20によると「あなたは、ご自分の民を、モーセとアロンの手によって、羊の群れのように導かれました。」とあります。また、詩篇100:3節には「私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ(新共同訳)」とあります。このように「羊飼い」という言葉は公の礼拝においてイスラエルの民が言い表してきた神様への信頼の言葉だったことが分かります。
その言葉が、この詩篇においては、個人の人生との関わりで用いられているのです。それは彼がその信仰の群れの中に身を置いているゆえに出て来た言葉です。彼は信仰の群れにあって生き、共に主を礼拝して来たのです。それが彼の人生でした。だから、彼は、「主は私の羊飼い」と言い得るのです。晩年になって人生の最後に向かうに当たっても、そう告白できるのです。
羊の群れの中に生き、共に礼拝してきた彼は、自らの人生を振り返る時に、彼は「私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」と告白しています。そこには、平安と休みといのちの回復があります。ダビデ王は、今なおイスラエルが誇る英雄ですが、この詩篇には彼自身の誇りは見受けられません。むしろ、魂の羊飼いである主なる神様に導かれて生き、生かされて生きる自分の姿を告白しています。繰り返しますが、このような個人的な経験が「主は私の羊飼い」という言葉を生み出したのではありません。羊の群れの中に生き、主を羊飼いと呼んで生きることが先にあったのです。経験は後からついてくるのです。主を羊飼いと呼ぶ群れを離れて、羊飼いとの個人的な関係は存在しません。主を「私たちの羊飼い」と呼ぶ群れを離れたら、そこには、もはや羊飼いに養われる豊かさを経験するということもなくなってしまうのです。
3b、4節をご覧ください。
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
ここでは羊飼いによる導きについて歌われています。主の群れに身を置く者は、主の導きを経験します。羊飼いは群れに責任を持ちます。神様は同じように、ご自身の名に相応しく、羊の群れである私たちに対して責任を持って関われるのです。そのお方が導かれるのは「義の道、正しい道」です。それは必ずしも平坦な道ではないかも知れません。高速道路を行くのでもないかも知れません。しかし、それは神様ご自身が導かれる義の道です。滅びへの道ではなくていのちへの道です。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。」とダビデは言い表しています。「羊飼いによって導かれるならば、死の陰の谷を通ることはない」とは言っていないのです。ダビデは今まで幾たびも、そのような死の陰の谷を通るようなことを経験してきたのでしょう。ダビデの生涯は波瀾万丈でした。彼はベツレヘムの平和な家庭で生まれ、育ちますがサウル王に召し抱えられて巨人ゴリアテを倒し、一躍(いちやく)勇名(ゆうめい)を馳(は)せて王女を妻に迎えました。やがて、ダビデの功績はサウル王の妬みとと憎しみの的になり、追われる身になりました。サウルの死後、ダビデはイスラエルの王として迎え入れられますが、小国イスラエルを確立するために、戦いに明け暮れました。またダビデには多くの妻がありましたから、異母兄弟の間で王位継承に絡む争いが絶えず、我が子アブサロムに反逆されて都(みやこ)落ち(おち)したこともあります。これらは彼自身が原因で生じた問題です。そして、彼は人生の終わりにおいて、本当の意味で「死の陰の谷」を行かなくてはならないことも知っているのです。しかし、彼は「恐れません」と言っています。なぜでしょうか。彼は「死の陰の谷」そのものに目を奪われてはいないからです。「あなたが私とともにおられますから。」と告白しているように彼は神様に向かって声を上げるのです。彼は、羊の群れの中にいる自分が、いったいだれによって導かれているのかを知っているのです。この瞬間にも「あなた」と呼びかけることのできるお方がおられる。「あなたが私と共にいてくださる。」死の陰の谷にさしかかった時、そういい得る人はなんと幸いなことでしょう。
そして、共にいてくださる方は、むちと杖をもって導かれます。「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」とダビデは言います。「むち」と訳されているのは、羊を危険から守る棍棒のようなものだそうです。狼などを打つパイプなのです。一方、「杖」は羊を打つためのものです。羊飼いは羊を棍棒のようなもので打つようなことはしません。しかし、杖は用います。羊を正しく導くためには杖を用いるのです。羊が危険なところへ行かないように、あるいは、群れから迷い出ないように、杖を用いるのです。ある時はやさしく、ある時は強く打たれます。それはありがたいことです。ダビデは「それが私の慰めです。」と言っています。新共同訳聖書を見ると「それがわたしを力づける」と言っています。彼はだれが共におられ、だれに導かれているかを知っているからです。彼は経験的に、自分の前途に、相変わらず「死の陰の谷」と呼ばれる困難が待ちかまえている現実を直視していますが、「あなたが私とともにおられます」と言って、恐れから解放されているのです。
?.主の家に住まいましょう(5,6)
5節をご覧ください。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油を注いでくださいます。
私の杯は、あふれています。
ここからは神様の描写の仕方が変わります。そこには羊飼いに変わって家の主人がいます。敵によって苦しめられている者を受け入れ、豊かにもてなしてくれる家の主人です。食卓を整えること、香油を注ぐこと、杯に酒を満たすことは、すべて豊かなもてなしを表現しています。敵によって苦しめられている客人を力づけるのです。また、特に「香油」は詩篇45篇などでは喜びの象徴として出てきます。この家の主人のもとに身を置く者は、主人のもてなしを経験し、慰められ、力づけられ、喜びに満たされるのです。
普通、「敵」という言葉は戦いが思い浮かばせます。しかし、ここでは違います。ここに描かれている主人の関心は、敵に向かうのではなくて、逃げ込んできた人自身に向かっているのです。また、ここで「敵の手から逃れさせてくださる」とも書いてありません。要するに、苦しめる者を取り除いたり、苦しめる者から逃れさせてくださる神様について語られているのではないのです。
苦しめる者がいなくなれば人は幸いであり得るのでしょうか。問題が取り除かれて始めて喜びが来るのでしょうか。多くの人はそう考えます。私も後になって悔い改めましたが一時的にはそう思う時がありました。今はドイツの宣教師になっている後輩の牧者でしたが、「この人さえいなければ同労がよくできるのに・・・」と思ったのです。しかし、自分を苦しめる人、あるいは自分と合わない人を取り除くことによって幸いであり得るならば、生涯幸いであり得ないし、変わらぬ喜びの中に生きることは不可能でしょう。
ですから、ダビデはここで、神様は「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ」て下さると告白しています。苦しめる者のただ中にあって、そのような苦しい現実のただ中にあって、豊かにもてなし、力づけ、慰め、喜びに満たしてくださる神様について語られているのです。「神様、食事どころではありません。彼が私の前にいる限り、何も食べません。何か食べたら食中りになってしまうでしょう。私は苦しめられているのですから、彼らを追い払うか、私を安全なところへ逃がしてください。」それが自然な心情でしょう。しかし、神様はこう言われます。「いや、まずあなたは豊かな霊の食事に与りなさい。力を得なさい。喜びを得なさい。元気になりなさい。私がそうしてあげよう。」これこそ、信仰の群れの中に生きてきた彼が、繰り返し経験してきたことなのだと思います。そして私たちもまた、そのような恵みに与ることが許されているのです。
6節をご覧ください。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
彼は、神様と共に歩んできた長い年月を思い、残された人生を思います。そして、感謝に溢れてこう言い表します。「いつくしみと恵みとが私を追って来るでしょう。」彼の歩む道は険しい道であったかも知れません。死の陰の谷を幾度も通るような道であったかも知れません。常に苦しめ者に囲まれてきたような人生であったかも知れません。しかし、彼はその道のりに確かに恵みと慈しみが彼を追うようにして伴っていたのです。そして、これからもそうであると信じ、信頼を言い表しました。彼は恵みを追い求めてきたのではありません。人が心すべきことは、一生懸命に努力して神様の恵みと慈しみを獲得することではありません。そうではなくて、主を羊飼いとする群れに留まること、神様を家の主人とするその家に身を置くことなのです。
そして、自分がどこにいるべきかを知っているこの人は、また自分の最終的に帰るべきところを知っている人でもあります。「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」それは生涯にわたって私たちを導き、豊かに養ってくださったお方と、いつまでもすなわち永遠にともに住む家に住むことです。
結論的に、私たちは、ここに歌われているように、豊かに養い、導き給う主である神様を礼拝しています。この大いなるお方を思いつつ、新年を迎え、生涯、いつまでも羊飼いである主に導かれますように祈ります。私たちの人生は、一生の間に「何をするか」「何になるか」ということも大切ではありますが、「どのような者であるか」。「どのように生きるか」ということは最も大切なことです。いるべきところにおり、導かれるべきお方に導かれ、帰るべきところへ向かっていてこそ私たちの生涯は永遠の意義を持つのです。