2001年マタイの福音書第10講

権威者イエス様

御言葉:マタイの福音書8:18-34

要 節:マタイの福音書8:26

イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

 イエス様は八章一節から十七節において、特に三人の病を癒されました。このようにキリストの大能の力が現わされるごとに、多くの人々はキリストをたたえて彼のもとに集まり、自らイエス様の弟子になろうとする者も現われて来ました。イエス様は彼らに何を最優先すべきか教えられました。そして、暴風を静められ、悪霊につかれた人を癒されることによって弟子たちにイエス様が最高の権威と大能の力を持っておられることを見せてくださいました。

イエス様の弟子になることはやさしいことではありません。しかし、権威者イエス様を信じて頼り、従う人は大能の力を体験し,勝利の人生を過ごすことができるようになります。ます。本文の御言葉を通して私たちもイエス様の権威と大能の力に対する信仰を持ち、勝利の人生を過ごすことができるように祈ります。

?.イエス様の弟子になるには(18-22)

 山上の教えを聞いた多くの人々は、キリストの教えに驚嘆し、あるいは感嘆しました。さらに病人を癒し、悪霊につかれている者の悪霊を取り除かれたイエス様を見て驚きました。そして、できることなら、このような大先生の弟子になりたいと願う者が続出しました。

19節をご覧ください。“そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」”とあります。律法学者は旧約聖書、すなわちモーセの律法に通じている学者でした。彼は学者として尊敬され、社会的な地位もありました。そんな彼が「イエス様のおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」と言ったのです。それはどういうことでしょう。おそらく、彼はイエス様の教えに感動し、多くの病人を癒されるのを見て驚いたようです。彼の目にはイエス様の生活がとても美しく、すばらしく思ったでしょう。それで自分もこのイエス様の弟子になろうと思ったのです。しかし、イエス様は彼に何と言われましたか。20節を見ましょう。「すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」 律法学者は〈どこにでもついてまいります〉(19)と言ったのに、イエス様は一見冷たく突き放されました。さすらう習性のある狐にも住みかがあります。見たところ放浪しているように見える空の鳥でも巣を持っています。それに対し〈人の子〉イエス様には〈枕する所〉もないのです。

「人の子には枕する所もありません。」と言われた御言葉を通して私たちの大先生であるイエス様の生活を学ぶことができます。イエス様には安住の家はなく、夜ゆっくりと床につく所もありませんでした。このイエス様の弟子になることが何を意味するのかを、私たちは知らなければなりません。今日、マイホームを持つことが、すべての人々の夢と願いのように考えられています。こんな時代に生きている私たちにとって、このキリストに従うことなど至難のわざです。この道には犠牲と痛みが伴います。しかし、犠牲と痛みがあるからこそキリストの弟子として生きることは美しくすばらしいです。また、キリストの弟子らしく生きるときこそ本当の満足と生きがい、幸せを享受するようになります。

21,22節をご覧ください。次にイエス様の所に来た弟子はこう言いました。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」ちょうど父親が死んだのでしょうか。あるいは年老いた親の面倒を見、死んだら、葬った後で従いたいと思ったのでしょうか。彼は親に対する義務を優先しようとしました。しかし,イエスは「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(22)と言われました。この御言葉はイエス様の弟子になるためには親に仕えることよりイエス様について行くことを優先的にしなければならないことを教えてくれます。イエス様はマタイの福音書10:37節できっぱり言われました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」イエス様は私たち人間のいのちの救い主であり、全世界を御心のとおりに動かされる王の王であられます。王であられるからこそ、私たちに最高の優先権を要求することができます。イエス様はご自分が王の王であり、自然の世界も、霊の世界も支配しておられる権威者であられるのです。イエス様はそのことを二つの出来事を通して弟子たちに明らかにされました。

?.暴風を静められたイエス様(23-27)

 23節をご覧ください。イエス様が舟にお乗りになると、弟子たちも従いました。弟子たちは久しぶりに愛するイエス様と一緒に穏やかな時間を持つことができて非常に喜んでいました。弟子たちは嬉しくて歌い始めました。「だれでもキリストのうちにあるなら、新しくつくられたもの・・・」さわやかな風が吹いているガリラヤ湖で航海している彼らの気分もさわやかでした。ところが、これは一体どうしたことでしょう。彼らが湖の真中に来た時、突然、湖に大暴風が起こりました。舟はまさに木の葉のように揺られました。横揺れ、縦揺れのために立って入られず、ひょっとすると、このまま舟の中で・・・と思う瞬間でもありました。人生という航海の中でも私たちは突然暴風に出会う時があります。普段、人々は静かな海をゆったりと揺れながら進む船に乗っているかのように人生という航海を楽しみます。しかし、全く予期しなかった暴風に出会う時があるのです。ガンのような病の暴風に出会う時もあれば、交通事故のような事故の暴風に出会う時もあります。また、誘惑の暴風に出会って、人生を漂流する時もあります。このように、人生という航海には全く予期しなかった暴風に出会う時があるのです。私たちがいつも神様の御前で恐れおののく心を持って生きるべきである理由がここにあります。

 暴風に出会った時、弟子たちは何もできませんでした。彼らが今まで磨いてきた技術も、海に対する知識も、彼らの力と知恵も無用でした。ときどき、「いいかげんにしてくれ」と叫びたい発作に駆けられましたが、大自然が相手ではどうなるものでもありませんでした。彼らは恐れと絶望に捕らえられてしまいました。この時、イエス様は何をしておられましたか。イエス様は安らかに眠っておられました。イエス様は一日中御言葉を教え、人々のわずらいを身に引き受けて助けるためにどんなに苦労したのか、舟に乗るとすぐ眠られました。イエス様は暴風のために舟が丸ごと沈みそうになっていたにもかかわらず、熟睡しておられました。このように熟睡は使命人の生活をしている者たちが享受する祝福です。現代人は不眠症のために苦しんでいる人が多くいます。それで眠れない人々のために深夜番組があります。しかし、使命人は熟睡します。寝すぎて問題です。

弟子たちは自分たちの力で最善を尽くしましたが、何もできなくなるとイエス様を起こしました。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」彼らは自分たちが死にそうになっていると言いました。こんなにひどい暴風なのに、キリストは眠っておられるのですかと言っているのです。彼らはイエス様がそんなに自分たちの問題に無関心でおられるのか、愛を疑いました。私たちも同じです。重い病気にかかった時、極度の貧困に襲われた時、試験や就職などに失敗した時、主の愛を疑います。大能の力を疑います。キリストが自分のそばにいてくださるのをすっかり忘れてとまどうのです。しかし、キリストは必ず私たちを守ってくださいます。「足跡」という詩に次のように書いてあります。

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が

映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが

残されていた。

一つはわたしのあしあと、

もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

あなたは、すべての道において、

わたしとともに歩み、

わたしと語り合ってくださると

約束されました。それなのに、

わたしの人生のいちばんつらい時、

ひとりのあしあとしかなかったのです。

いちばんあなたを必要としたときに、

あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

わたしは、あなたを愛している。

あなたを決して捨てたりはしない。

ましてや、苦しみや試みの時に。

あしあとがひとつだったとき、

わたしはあなたを背負って歩いていた。」

そうです。私たちは暴風に出会った時、人生においてつらい時は主の力を疑い、主に対してさびしい思いをします。しかし、イエス様を仰ぎ見るより、暴風やつらい現実だけを見てと自分の力ではどうすることもできません。ところが、実はつらかったその時、悲しかったその時に、イエス様は私を背負って歩いておられるのです。イエス様は私たちが暴風に出会ったその時にもともにいてくださり助けてくださるのです。問題は信仰がないことです。私たちもペテロたちと同じように、キリストに召され、キリストを信じる者とされて、キリストの弟子となりました。ところが、私たちも多くの場合、この全能のキリストに全き信頼をおいていないのです。ですから、イエス様は言われます。

26a節をご覧ください。「イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」とあります。イエス様は弟子たちが恐がっていることは信仰が薄いからだと叱られました。イエス様は信仰が薄いことを叱られたのです。ここで、イエス様はどんな状況の中でも、溺れて死にそうな状況の中でもイエス様を信じる信仰を持つことを願っておられるのが分かります。また、信仰が薄い時叱られることが分かります。それほど信仰を持って生きることを願っておられるのです。

最近、バイブルアカデミー、SBCが近づいて来るにつれて天国の祭りに対する期待感と希望のために心がうきうきしているはずなのに、むしろ、心に重荷を負っている方たちがいます。特に今年はさまざまなことで心が重くなっている方たちがいます。この間、寺崎牧者はSBC準備委員長としての重荷のために胃潰瘍が再発して薬を飲んでいると言いました。なかなか新しい方が見えて来ない状況を考えてみると、今年のSBCに対して心配せざるを得ません。しかし、問題は条件と状況ではありません。いのちの救いのみわざは私たちとともにいてくださる全能のイエス様が成し遂げてくださいます。ただ、イエス様が私たちに要求することは信仰です。この時間、イエス様は私たちひとりひとりに言われます。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」

イエス様は、弟子たちを叱られてから起き上がって、風と湖をしかりつけられました。すると、激しかった暴風が静まり、海は大なぎになりました。弟子たちは驚いてしまいました。いや、彼らは驚いたよりショックを受けました。彼らは不思議に思い、互いに言いました。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」弟子たちはこの出来事を通してキリストには大能の力があること、自然の世界を支配しておられることを学び、イエス様に対して深い畏敬の念を持つようになりました。イエス様は天地を創造されただけではなく、すべての万物を支配しておられる権威者です。このイエス様がいつも私たちとともにいておられます。私たちはこのキリストが自分とともに、いつもいてくださることを忘れてはなりません。私たちはキリストが一緒にいてくださるのですから、安心して人生という航海を続くことができるのです。もちろん、大能の力を持っておられるキリストを信じつつ、怠けるのではなく、自分に与えられている務め、仕事を忠実に果たしながら日々の生活を送るのです。

?.悪霊につかれた人を癒されたイエス様(28-34)

 イエス様が乗っていた船はついにカペナウム地方の対岸、ガダラ人の地へと行かれました。そこには多くの群衆の姿はありませんでした。しかし、その代わりに、人々が大変恐れている悪霊につかれている人がふたり墓から出て来てイエス様に出会いました。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどでした。彼らは手に負えない乱暴者でした。しかし、そんな彼らがイエス様を見るとわめいて言いました。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」人々はイエス様が神の子であることを知り、信じるまで相当な時間がかかります。ところが、悪霊につかれている人たちはすぐにイエス様が神の子であることが分かりました。しかし、イエス様に礼拝することはしませんでした。神の国の属性は信じて信頼し、従うことですが、サタンの属性は不従順であり、敵対することです。悪霊は自分たちが時になると滅ぼされることを知っていながらも屈服しないで最後まで反発し、敵対します。

 そのサタンの目的は人のうちにある「神のかたち」を汚し、破壊することにあります。今日でもサタンは、偶像崇拝の背後に(?コリント10:19、20)、異端の教えの中に(?テモテ4:1)不従順の子らの中に(エペソ2:2)働いています。私たちはこのサタンの働きにだまされないように気をつけなければなりません。悪霊どもはイエス様が自分たちを追い出そうとしておられることを知っていたのでイエス様に言いました。「どうか、豚の群れの中にやってください。」イエス様はそれを許して「行け」と言われました。彼らは出て行って豚の中にはいりました。すると、豚たちは悪霊につかれて踊り始め、「ブーブー」と叫びながら湖へ駆け下りて行って、水に溺れて死にました。豚は物質を象徴しています。マルコはこの豚の数を二千匹と記しています(マルコ5:13)。仮に豚一匹を一万円とすると、二千万円に相当します。しかし、実際には一匹が数万円はするでしょうから、一億円を越える金額となります。イエス様は代価を払って悪霊の支配下にある人を救われました。それによってイエス様は霊の世界を支配しておられる権威者であられることを明らかにしました。しかし、人間のいのちより物質を愛していた町の人々はイエス様にその地方から立ち去ってくださるように願いました。ガダラの人々は豚の喪失だけに目を奪われて、キリストの大いなる恵みを知りえませんでした。

私たちは私たちの力によって悪霊を追い出すことができません。悪霊を追い出すためにはそれより強い権威と力が必要です。悪霊より強い権威と力を持っておられる方はイエス様しかありません。

結論的にイエス様は私たちに最高の優先権を要求することができます。イエス様は自然界も、霊の世界も支配しておられる真の権威者であられるからです。この世の権威は部分的であり,永遠なるものではありません。しかし、イエス様の権威はあらゆるものを支配し、永遠に治める本当の権威です。イエス様は死の力を打ち破り、死者の中からよみがえり、天においても地においてもいっさいの権威を持っておられる方です。私たちがこの権威者であられるイエス様を信じて頼り、従う時、人生という航海の中で恐れることなく、大胆な勝利の人生を過ごすことができます。真の権威者イエス様の御名を賛美します。