2001年マタイの福音書第15講

いたんだ葦を折ることもなく

御言葉:マタイの福音書12:1?21

要 節:12:20「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」

 先週私達は心に安らぎを与えるイエス様について学びました。イエス様はご自分のくびきは負いやすいと言われました。今日の御言葉でイエス様は安息日律法について全く新しい理解の仕方を示して、イエス様のくびきのすぐれていることを明らかにされます。しかしそうすることによって律法主義と正面切ってぶつかることになります。パリサイ人は律法の精神を知らず、律法によって人々に重荷を負わせ、人々を罪に定めました。彼らはあわらみ深い神様を知りませんでした。しかし、イエス様はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともないあわれみ深い方です。今日の御言葉を通して私達のうちにある律法主義を悔い改めてイエス様のようなあわれむ心を与えてくださるように祈ります。また、いたんだ葦のような私達の心がイエス様によって癒されるように祈ります。

?。弟子達を弁護されたイエス様(1ー8)

 1、2節をご覧ください。そのころ、イエス様は、安息日に麦畑を通られました。弟子達はひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めました。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエス様に言いました。「ご覧なさい。あなたの弟子達が、安息日にしてはならないことをしています。」律法では旅行者が穂を摘んで食べることは認められていました(申23:25)。パリサイ人達が訴えたのは、それを安息日にしたということです。安息日はモーセの律法によって規定されていましたが、ユダヤ教はそれよりもさらに細かい規定を設けていました。弟子達の行為は、安息日に禁じられていた食事の用意をしたことになります。食事の用意は前日にしておくことになっていました。したがって、パリサイ人の目からすれば、イエス様の弟子達は安息日を破ったことになります。ユダヤ人は徹底的に安息日を守っていました。彼らはそのために戦争にも敗れ、生命を失って来ました。マカベヤの乱の時、安息日に攻撃して来たアンティオコスの軍隊に、ユダヤ人は安息日を守るために応戦せず、悲惨に敗れました。同じ理由で、エルサレムはポンペイウスに攻略されました。このようにユダヤ人は、国の危機に直面してもあえて安息日を破ろうとしませんでした。今日の正統派のユダヤ人達も徹底的に安息日を守っているそうです。彼らは安息日に車を運転することが禁じられているので会堂まで歩いて行きます。また、電気も安息日の前日につけて置きますが、誤って電気を消すことがないようにテープをはっておくそうです。彼らがどんな時代においてもそれほど徹底的に律法を守ることは驚くべきことです。ところが問題になるのはそれが自己義になって律法的になってしまうことです。彼らは神様に対する熱心はありますが、神様の心を知りませんでした。それでパリサイ人達は弟子達を理解せず、罪に定めました。律法や規定は人のためにあるものです。しかし人が律法や規定のために存在することになるとそれは人に重荷を負わせるものであり、罪に定める道具になってしまいます。

 イエス様は弟子達のことで困った状態になりました。しかしイエス様は弟子達に「なぜあなたがたは私を困らせるのか」と責められませんでした。むしろダビデがひもじかった時にしたことを話して弟子達を弁護して下さいました。3、4節をご覧ください。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者達も食べてはならない供えのパンを食べました。」供えのパンは、安息日ごとに、イスラエル十二部族を覚えて聖所のパンの机の上に六個ずつ供えられました。これは生命を支える食物を与えられる神様に感謝をささげる象徴的供え物です。新しいパンが供えられると、古いパンは引き下げられ、祭司だけが食べることになっていました(レビ24:5ー9)。ダビデとその連れの者達がこれを食べたことは、明らかに供えのパンの律法を破ったことになります。

 法律にはいつも例外があります。一般の車が車線違反をするとそれは交通違反になります。しかし救急車や消防車は例外です。それは法律よりいのちが大切だからです。イエス様は人間の必要が儀式的制度に優先することを教え、信仰の新しい世界を開かれました。神様は人のために律法を与えられましたが、決して律法的な方ではありません。神様は生命を尊く思われる恵みと愛が豊かな方です。神様はひもじかったダビデのことをよく理解し、彼が律法を破ったのにもかかわらず赦してくださいました。イエス様は続けて律法にも例外があることを言われます。5節をご覧ください。「また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。」祭司達は安息日に供えのパンを替えたり、犠牲の小羊を殺したり、注ぎの捧げ物や、穀物の捧げ物をささげたりしました。しかしそのようにすることが罪にはなりません。そこでは神様への礼拝が安息日律法に優先しています。祭司達は安息日の律法からの自由がありました。ところがこの宮よりも大きな方がいます。6節をご覧ください。「あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」宮より大きな者はイエス様ご自身を指します。弟子達はこのイエス様の中にいるので罪になりません。

 ところがパリサイ人達は、なぜ弟子達を罪に定めたでしょうか。7節をご覧ください。「『わたしはあわれみは好むが、いけには好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者達を罪に定めはしなかったでしょう。」この御言葉はホセア書6:6の引用です。同じ事件を見てイエス様は弟子達を無罪だと思い、パリサイ人は有罪だと思いました。それは判断基準が違ったからです。パリサイ人は律法の文字によって判断しましたが、イエス様は律法の精神によって判断されました。律法の精神は心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛することと隣人を自分のように愛することです。パリサイ人達は神様に仕えながらも神様が好むことが何かを知りませんでした。神様はいけにえよりあわれみを好まれます。いけにえは宗教的な熱心を意味します。神様はあわれむ心がない律法的な信仰生活より心から神様を愛し、隣人を自分のように愛することを好まれます。ダビデは情欲の罪を犯してからナタン預言者に責められて悔い改めました。そして神様が何を好まれるかを悟り次のように歌いました。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩51:16、17)。神様は罪によって滅んで行く人々をあわれみ、ひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。もしパリサイ人達がこれを悟り得たなら、彼らも安息日が本来人間のために設けられたことを知ることができたはずです。

 私達には律法が必要ですが、律法の奴隷になってはいけません。私達の心に愛がない時、律法の奴隷になり、人を罪に定めるようになります。私達は熱心に主のみわざに仕えなければなりません。ところが気をつけなければならないことはその熱心が自己義となり、高慢になることです。そのようになると弱い人やあまり熱心に働かない人を罪に定めるようになります。パリサイ人のように相手を理解しようとするより、さばくようになります。私達はマルタとマリヤ姉妹のことを知っています。マルタはイエス様をもてなすために熱心に働いていました。ところが、マリヤは自分を手伝ってくれず、イエス様のお話に耳を傾けていました。マルタはそのようなマリヤを理解することができず、いらいらしてイエス様に言いました。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」(ルカ10:40)。私達もマルタのようになりやすいです。私達は神様が何を好まれるかを学ばなければなりません。自分があわれみを捧げているのか、いけにえをささげているのかを顧みる必要があります。そして、私達は神様のあわれみを学ばなければなりません。罪人を罪に定めず、ひとり子をお与えになった神様の愛を学ばなければなりません。私達の咎と罪を背負って私達の代わりに十字架につけられ死なれたイエス様の愛を学ばなければなりません。主が私達にあわれみを施してくださらなかったなら一人も救われる人はいないでしょう。主が私達をあわれんでくださるように祈ります。主が私達にあわれむ心を与えてくださるように祈ります。

イエス様は結論の言葉として8節を言われました。「人の子は安息日の主です。」イエス様は安息日の主です。ですからこの方に仕えることがすべてのことに優先しなければならないし、それが当然です。私達が律法の精神をよく学び、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛し、隣人を自分のように愛することができるように祈ります。また、安息日の主であるイエス様との交わりに励むことができるように祈ります。私達がイエス様との交わりに励む時、真の安息が与えられます。

?。片手のなえた人をいやされたイエス様(9ー21)

 イエス様はそこを去って、会堂にはいられました。そこに片手のなえた人がいました。ルカによると彼は右手のなえた人でした。きき腕が仕えないことは深刻な問題です。神様は人を造られる時効果的に働けるように両手を造られました。しかし彼は片手がなえたため効果的に働くことができません。恵みある所感を聞いても拍手することができません。いくら才能があってもナオミ牧者のようにバイオリンを弾くことができません。彼は片手のなえたことで心もなえていたでしょう。彼の内面はいつも暗く否定的で悲しく運命的になっていたでしょう。彼は人々の前に立つのを非常に恥ずかしく思い、恐れていたはずです。彼は助けが必要な人でした。

 イエス様は片手のなえた人をあわれみ彼を助けてあげようとされました。ところがそこにはそれを邪魔する人々がいました。彼らはイエス様に質問しました。「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」。これはイエスを訴えるための質問でした。イエス様は彼らの質問に対して安息日に人をいやすことがなぜ正しいかを言われます。11、12節をご覧ください。「あなたがたのうち、誰かが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値打ちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」穴に落ちた一匹の羊を穴から引き上げることは許されていました。ところが人間は羊と比べられないほど尊い存在です。人々は誰でも自分の羊は尊く思います。それで穴に落ちたら、その日が安息日かどうかを考えずすぐ助けます。パリサイ人達は片手のなえた人を自分の羊よりも尊く思いませんでした。それで彼に対して関心もなく彼を助けようとする心もありませんでした。そこでイエス様は安息日に良いことをすることは正しいという安息日規則の基本原則を教えられます。イエス様は片手のなえた人をご自分の羊として考えどうしても助けようとされました。イエス様は彼を神様のかたちに似せて造られた尊い存在としてご覧になりました。イエス様は彼を愛してくださいました。そしてその人を癒して下さいました。13節をご覧ください。イエス様はその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われました。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになりました。良い牧者であるイエス様は穴に落ちた一匹の羊を助けてくださいました。イエス様のあわれみによって彼は新しい人生を過ごすようになりました。

 それを見たパリサイ人達は自分達の心のかたくなさを悔い改めなければなりませんでした。ところが彼らの心は以前よりもっとかたくなになってどのようにしてイエス様を滅ぼそうかと相談しました。パリサイ人達はなえた手に苦しむ人に同情することも、そのいやしを喜ぶこともできませんでした。イエス様はそれを知って、そこを立ち去られました。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められました。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためでした。18,19節をご覧ください。「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。」イエス様はしもべとしてのメシヤです。また神様の心の喜ぶ神様の愛する方です。それはイエス様がこの世に来られ積極的に神様のみこころを成し遂げられ、神様の栄光を現わしたからです。イエス様は義務感や事業的な動機から使命を担われたのではなく神様を愛するが故に神様のみこころを行ない、神様の栄光を表わされました。イエス様は福音を伝える時に争うこともなく、叫ぶこともされませんでした。イエス様はパリサイ人達と正面切って争うことなく立ち去られました。またご自分のことを人々に知らせないようにと、戒められました。イエス様は柔和で、謙遜な方です。

 イエス様は弱い者達をどのように顧みられましたか。20、21節をご覧ください。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。」葦は弱いものの象徴です。いたんだ葦は少し力を入れても折れてしまう弱いものです。くすぶる燈心は弱い風にも消されてしまいます。人間は葦のように弱い存在です。罪を犯した人はいたんだ葦、くすぶる燈心のようになりました。

 人はいたんだ葦のようです。よく傷つけられ、よく誘惑に負けます。自分の感情をコントロールすることができず感情的になります。今日の若者達はあまり苦労せずに成長して来ました。それで自己中心的になり、依存的であり、自尊心が強く、内面は弱いです。ある人は内面がとても弱くて冗談にも傷つけられるので冗談を言う時にも気をつけなければなりません。このような人に仕えるためには多くの忍耐と愛が必要です。イエス様はこのような人々のためにこの世に来られました。イエス様は手がなえて、いたんだ葦のようになってしまった男の、その手をいやし、くすぶって消えるばかりになっていたその心に光をともされました。痛んだ葦のような取税人マタイを弟子として召され、利己的な彼を3年間育てられました。

 痛んだ葦のような人はいじめの対象になります。人々はくすぶる燈心は消してしまいます。しかしイエス様はいたんだ葦を折ることもなく、癒してくださる方です。イエス様はくするぶる燈心を消すこともなく、そこに油を注ぎ暗いこの世を照らすようにしてくださいます。イエス様はいたんだ葦、くすぶる燈心のような人々に希望と勇気を与えてくださいます。さらにあわれみによって癒し、回復させて健康な人生を過ごすように助けてくださいます。イエス様はその公義によってやがて最後の勝利を得られます。そしてユダヤ人のメシヤ拒否は、イエス様を異邦人の望み、すなわち全世界のメシヤとします。いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない主イエスを賛美します。