2001年マタイの福音書第16講

神の御霊によって働かれるイエス様

御言葉:マタイの福音書12:22?50

要 節:マタイの福音書12:28「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」

本文の22-37節は、聖霊の働きを妨げるパリサイ人たちに対する警告の御言葉です。ここでイエス様は福音の御業は聖霊とサタンとの戦いであり、聖霊はサタンより強いので必ず勝利することを教えてくださいます。また、イエス様は神の御霊によって働かれることを教えてくださいます。38-45節はしるしを求める悪い時代に対する警告であり、46-50節はイエス様の家族観です。今日の御言葉を通して聖霊によって働かれるイエス様について学び、私達もイエス様のように聖霊によって働く者となるように祈ります。

?.イエス様とベルゼブル(22-37)

22節をご覧ください。人々が、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人を連れて来ました。目が見えないことだけでも哀れな人ですが、彼は口もきけない人でした。彼がそのようになったのは、悪霊につかれたからです。彼はいたんだ葦、くすぶる燈心のような人でした。イエス様は彼をあわれみいやしてくださいました。すると、そのおしはものを言い、目も見えるようになりました。これは驚くべき聖霊の御業でした。これに対する群衆とパリサイ人たちの反応はどのように違いましたか。23,24節をご覧ください。群衆はみな驚いて、「この人は、ダビデの子なのだろうか。」と言いました。すなわち、イエス様がメシヤではないかと、驚いのたです。ところが、これを聞いたパリサイ人は言いました。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」彼らは、全く否定的・反抗的な態度を取りました。彼らはイエス様が奇蹟を行なうのは「ベルゼブルの力で」、すなわち「ベルゼブルの助けによって」であると中傷します。彼らはイエス様の力の源が悪霊によるものだと言い、人々に疑いと不信を植え付け、イエス様のなさることを妨害しようとしました。

イエス様は彼らの非難が矛盾していることを悟らせるためにたとえによって話されました。25-26節をご覧ください。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。」国でも町でも家でも、内乱や内部抗争があるならば必ず自滅します。家の中で夫婦が毎日喧嘩ばかりしたら、その家は立ち行きません。会社も同じです。労働者と経営者が毎日争っていたら、その会社は倒産するようになります。互いに弱点を非難し、憎み、争う集まりは自滅するようになります。このようにサタンが仲間である悪霊を追い出すことは内輪もめして争うことですからその国は立ち行くことができません。ですから、サタンは自分の王国を建設するために内輪もめして争いません。

それではイエス様はどんな力によって悪霊を追い出されたのでしょうか。28節をご覧ください。「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」イエス様は神の御霊によって悪霊どもを追い出されました。神様の御業は血肉に対する戦いではなく、サタンとの霊的な戦いです。サタンは強くて人間の力や知恵によっては戦って勝つことができません。サタンとの霊的な戦いで勝利するためにはサタンよりも強い聖霊の力を受けなければなりません。イエス様は神の御霊によって悪霊を追い出されました。使徒ペテロは使徒の働き10:38節で次のように言いました。「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」イエス様が聖霊によって悪霊を追い出すところには神の国すなわち神の支配が来ています。この世には神の国とサタンの国があります。サタンの国はサタンが支配する国です。サタンは人々を支配しています。サタンに支配されている人々は、常に罪意識と恐れ、絶望感と虚無に支配されています。悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人のように惨めな人生を送るようになります。しかし、聖霊が悪霊を追い出せば、神様がその人の心と生活すべてを支配するようになります。神様が支配すると、暗闇は消え去り、心には命の光りが照らされます。その人の心には神の国が臨まれるのです。

29節をご覧ください。「強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。」ここで「強い人」はサタン、「家財」はサタンに支配されている人間、「強い人を縛ってしまう人」はイエス・キリストを指します。サタンに支配されている人は神様に敵対し、真理に逆らい、肉の本性に従って生きています。サタンは人を罪の奴隷にしてしまいます。ところが悲しいことに人は自分の力によってはサタンから自由になることができません。それはサタンが人間よりもはるかに強いからです。イエス様は悪魔の奴隷となっている人々を解放してくださるためにこの世に来られました。イエス様はサタンよりはるかに強い方なので、私達をサタンから解放することができます。私達はSBCに一人の兄弟姉妹を連れて行くために祈っていますが、それがなかなか難しいことです。登録させようとしますが、自分の力の限界にぶつかる時があります。それで諦めたい心が生じます。しかし、私達は兄弟姉妹がSBCに参加することをサタンが妨害していることを知らなければなりません。まるで旧約聖書の出エジプト記に出ているパロがイスラエル人を行かせなかったように、サタンは兄弟姉妹たちがSBCに参加し、救われるのを妨害しているのです。しかし、私達にはサタンを縛ってしまう強いイエス・キリストがおられます。私達はすでに勝利が保証された戦いをしているのです。私達がイエス・キリストを信じて祈りに励み、聖霊の剣である神様の御言葉によって戦う時に主は私達に勝利を与えてくださいます。モーセは神様に力に頼りパロと十回も戦いました。すると、モーセは段々強くなり、パロは段々弱くなりました。そして、最後のわざわいがあって後、パロは両手を挙げてイスラエル人を行かせました。ですから、私達も途中絶望して諦めてはなりません。何度も聖霊に頼って戦う時に主は必ず勝利を与えてくださいます。聖霊によって働かれたイエス様を学び、私達も聖霊によって働くことができるように祈ります。

30節をご覧ください。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」この御言葉は、神様と悪魔は敵対関係にあり、そこでは中立状態はありえないことを示しています。イエス様とその御国の側に立たない者は悪魔とその王国につく者です。また、パリサイ人たちのように、人々がイエス様を受け入れるのを妨げるのは、御国の子らとなる者たちを散らすことになります。これこそ悪魔のしわざです。

イエス様は律法学者たちにどんな警告をされましたか。31-32節をご覧ください。「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」人は生きている間、多くの罪を犯します。ところが、聖書は自分が罪人であることを認め、自分の罪を真実に告白する人はイエス・キリストの尊い血によってどんな罪も赦していただけると言っています。しかし、赦していただけない罪があります。それは聖霊に逆らう冒涜です。聖霊に逆らう冒涜は聖霊の御業を故意に妨害することです。故意に悔い改めることを拒むことです。ペテロはイエス様が受難を予告された時、それを邪魔しようとしまいた。また、イエス様が裁判を受けておられた時、三度もイエス様を知らないと言いました。これらの出来事はペテロの心が一時的に惑わされてのことであって、心から彼は常にイエス様の弟子でした。彼は自分の罪を悔い改めてすばらしい人生を送りました。しかし、ユダの場合はこれと反対でした。彼は外見上はイエス様の弟子となっていながら、いつでも自分自身と悪魔に仕えていました。彼はイエス様から悔い改める機会が与えられましたが、それを拒み、結局イエス様を裏切りました。彼の最後は自殺でした。パリサイ人はイエス様が聖霊の働きによって悪霊を追い出された奇蹟をベルゼブルの力によると冒涜しました。彼らは故意にそれを拒否する意識的な反抗をしたのです。このような拒否は悔い改めを不可能にし、したがって罪の赦しを受けられなくします。それでイエス様は彼らを「まむしのすえたち」と言われます。34節をご覧ください。「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。」「まむしのすえたち」はパリサイ人の本性を示すきびしい表現です。彼らのかたくなで悪意に満ちた言葉は、その心に満ちていることが外に出ただけのことです。それは倉にもたとえられます。35節をご覧ください。「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」人の心はまるで倉のようです。私達が心の倉に義と真理といのちの御言葉と感謝を入れておくとそこから良い物を取り出せます。しかし、心の倉に淫乱、情欲、不信、不平不満、ねたみ、悪い考えなどを入れておくと、そこから取り出せるものはいつも悪いものばかりです。いつも淫乱ビデオや淫乱雑誌を見ている人の心から出るのは淫乱な考えです。ですから私達が心の倉庫に何を入れておくかは大事なことです。なぜならそれによって人格が形成されるからです。日々祈りと御言葉に励み、御霊によって歩む人の口から出る言葉にはいつも恵みがあります。その人は相手に良い影響を及ぼします。その人の顔は明るく、口からはいつも感謝の言葉が出て来ます。36節をご覧ください。「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。」ここで「むだなことば」は、「不注意な」「軽率な」ことばのことで、気をゆるして、うっかり漏らしたことばです。それは心に満ちているものの正直な発言です。さばきの日には、人は当然そのことばによって裁かれます。37節をご覧ください。「あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」いくら言葉に気をつけようとしても心の倉に入っているものが悪いものばかりだったら、仕方なく悪いものが出て来ます。ですから、心の倉に良いものを入れるために、すなわち、人格が変るように励まなければなりません。そのためにはまず真実に悔い改めなければなりません。悔い改める時に悪いものを捨てて良いものを入れることができるからです。私達が日々悔い改めて祈りと御言葉に励み、聖霊に満たされた者となるように祈ります。

?.ヨナのしるし(38-45)

律法学者、パリサイ人たちはイエス様の警告を聞いても悔い改めませんでした。むしろ彼らはイエス様を試みました。38節をご覧ください。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」彼らは異常なものの中に神を見ようとする、根本的にまちがった考え方をしています。それで、イエス様は答えて言われました。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」姦淫の時代は、背信・不真実の時代の意味です。旧約では神とイスラエルとの関係は結婚にたとえられました。神様はイスラエルの夫であり、イスラエルは神の妻です。この関係において背信に走ったイスラエルを代表する宗教指導者たちは、しるしを求めて神様の愛を確かめようと、不信の態度を続けました。彼らはしるしを信仰の必要前提として要求しました。このような不信の要求が信仰に至ることはありません。「預言者ヨナのしるし」とは、ヨナが三日三晩大魚の腹にいて、いわば死んだも同然のところから、全く新しく変った人としてニネベに行き、悔い改めのメッセージを宣べ伝えました(ヨナ1:17-3:10)。「人の子も三日三晩、地の中にいるからです」と、イエス様はヨナの経験がご自身の死と復活の予表であるとされます。背信・不信の時代に与えられるしるしは、ヨナのしるしによって予表されるイエス様の死と復活のしるしだけです。

さばきの時に、なぜニネべの人々と南の女王が立って、この時代の人々を罪に定めますか。41,42節をご覧ください。「ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」宗教指導者たちは、ニネベの人々や、遠く地の果てから旅して来たシェバの女王とは対照的に、不信の態度を取り続けました。このような者たちは、それまで以上のしるしが行われても決して信じないことを、イエス様は知っておられました。彼らの不信はそのまま彼らのさばきとなります。

私達はニネベの人々と南の女王を通してイエス様の御言葉に対してどんな姿勢を持つべきかについて学ぶことができます。私達はイエス様を知りたい切なる願いを持って主の御言葉に耳を傾けなければなりません。そして、主の御言葉を聞いて悔い改めなければなりません。そうしなければパリサイ人たちのように形式的な信仰生活になり、心がかたくなになり、批判的になります。

イエス様は御言葉を受け入れない人々がどうなるのかをたとえによって言われます。43-45節をご覧ください。汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりませんでした。そこで、「出て来た自分の家に帰ろう。」と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくようになりました。その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなりました。この御言葉は救いの恵みを受けた後、続けて主の御言葉に聞き従う生活をしなければ、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなることを教えています。

?.イエス様の本当の家族(46-50)

イエス様がまだ群衆に話しておられるときに、イエス様の母と兄弟たちが、イエス様に何か話そうとして、外に立っていました。イエス様の兄弟たちとはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダのことです(13:55)。彼らはイエス様に何か話そうとして、外に立っていました。マルコはその状況を詳しく記しています。彼らはイエス様が気が狂っているといううわさを聞いて連れ戻しに来ました(マルコ3:21)。パリサイ人たちがイエス様をベルゼブルの仲間としていることを聞いたからでしょう。人々は、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」と知らせました。しかし、イエス様はそう言っている人に答えて言われました。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」それから、イエス様は手を弟子たちのほうに差し伸べて言われました。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」イエス様の家族観は血肉によるものではなく、神様のみこころによって結ばれる霊的な家族観です。イエス・キリストの血の恵みによって新しく生まれたクリスチャンはみな神様を父とする一つの家族です。神様のみこころを行う人は性別、種族、民族、国を越えて誰でも神様の家族になります。日本人も韓国人も中国人もアメリカ人でもイエス・キリストの中では一つの家族になることができます。また、イエス様の家族は永遠に家族です。血肉の家族はいつか離れる時が来ます。いくら愛する家族だとしてもその人の命はいつなくなるかわかりません。しかし、キリストの血によって結ばれた霊的な家族は神の国で永遠に一つの家族として生きるようになります。ですから私達が神様のみこころを行なう兄弟姉妹達、同労者達を家族のように愛することができるように祈ります。

結論、イエス様は聖霊によって働かれました。サタンは自分の所有となっている人々を解放しようとしません。イエス様はそのような人々をあわれみ、解放するためにこの世に来られました。この世では神の国とサタンの国との戦いが絶えず起こっています。サタンは強いです。しかし、聖霊はさらに強いです。私達が聖霊に頼る時、サタンの攻撃を打ち破り、勝利することができます。私達が日々聖霊に満たされ、サタンの奴隷になっている人々を主に導くことができるように祈ります。今年のSBCに兄弟姉妹たちを招き、参加した人々が聖霊の働きによって悔い改めて神の国を所有することができるように祈ります。