2001年マタイの福音書第17講
種を蒔く人のたとえ
御言葉:マタイの福音書13:1?23
要 節:マタイの福音書13:23
「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
マタイの福音書13章は、「水上垂訓」とも言われている七つの天の御国のたとえが出てきます。「たとえ」(parabole)とは、「外に投げかける」という意味で、ある事柄を他のものに照らし合わせて説明することです。それで平凡なたとえの中には多くの秘密が隠されています。今日は、天の御国のたとえの中で、一番最初に出てくる「種を蒔く人のたとえ」を学びたいと思います。このたとえは私たちの人生において、どのようにすれば実を結ぶことができるのか、その秘訣を教えてくれます。神様が私たちにこのたとえの意味を悟らせてくださり、ここにいる一人一人が豊かな実を結ぶ人生を送ることができるように祈ります。
?.種を蒔く人のたとえ(1-17)
1,2節をご覧ください。「その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。」その日、イエス様は家を出て、涼しい湖のほとりに座っておられました。すると、そこへ大ぜいの群衆がみもとに集まって来ました。イエス様が舟に移って腰をおろし、群衆はイエス様の周りに立ちました。すると魚たちもイエス様を一目見ようと水面に顔を出しました。空ではどこからともなく鳥が飛んできてイエス様の頭の上を飛び回っていました。時おり風が吹いて集まって来た群衆の顔をなでました。この光景はさながら一枚の絵をほうふつさせます。
3-8節をご覧下さい。イエス様の時代のイスラエルでは、種を畑に蒔いてから、畑を耕しました。それで蒔かれた種は、道ばたや土の薄い岩地、いばらの中、良い地に落ちました。すると道ばたに落ちた種はすぐに鳥に食べられてしまいました。岩地に落ちた種は土が深くなかったので、すぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまいました。いばらの中に落ちた種は、いばらが伸びてふさいでしまったので、この種も実を結ぶことができませんでした。ところが、良い地に落ちた種は、百倍、六十倍、三十倍の実を結びました。農夫は、悪い種を取り除き、本当に良い種だけを蒔きます。それで種がどこに蒔かれるのかによって、実を結ぶのか、実を結ばないのかが、決まってくるのです。良い地に蒔かれた種は豊かな実を結びますが、最初からそこが良い地であるわけではありません。農夫は畑を買うと、まず畑を耕して土をやわらかくします。そして石や岩を取り除き土地をならします。畑に種を蒔いた後も、よく成長するように、水を蒔き、雑草や害虫を取り除きます。このように農夫が苦労するので、種は豊かな実を結ぶことができます。私たちの人生も同様です。神様は私たちが実を結ぶ信仰生活をすることを願われます。それで私たちは一生懸命実を結ぼうと努力します。しかしこれといった実がなかなかない時、神様に不満をぶつけ、環境のせいにしようとします。実を結ばない原因を外側から見つけようとします。ところが実を結ばない原因は外側にあるのではありません。その人の内面にあるのです。種が実を結ぶためには畑が重要であるように、私たちの信仰生活において実を結ぶためには私たちの心の畑が重要なのです。私たちが心の畑を耕し、実を結ぼうと苦労する時、神様は豊かな実を結ばせてくださいます。
9節をご覧下さい。イエス様はたとえを話されてから「耳のある者は聞きなさい。」と言われました。人は誰でも二つの耳を持っています。湖のほとりに集まった群衆も耳をすませてイエス様の話をじっと聞いたことでしょう。では、なぜイエス様は「耳のある者は聞きなさい。」と言われたのでしょうか。それはイエス様のみもとに出て来たからと言って、誰でも恵みを受けるわけではないからです。恵みを受けようと心の準備をし、真剣に耳を傾ける人だけが恵みを受ける事ができます。ここでイエス様が言われる「耳」とは霊的な望みをさします。その人に霊的な望みがなければ、いくら御言葉を聞いても理解することができず、他のことを考えます。毎週礼拝に参加し、静かに御言葉に耳を傾けるふりをしますが、実際には居眠りをしたり、礼拝に集中できずに余計なことを考えます。「冷蔵庫に入れたおいたアイスクリームをいつ食べようか、昼ご飯に何を食べようか。」そればかり考えます。このような人は聖書の御言葉を理解することができません。ところが、「耳のある者」は違います。じっと御言葉に耳を傾け、その秘密を知ろうとします。いくら考えても分らない時は、マンツーマン牧者のところに行って、分るまでしつこく質問します。そして御言葉に聞き従おうとします。なぜなら「耳のある者」は聖書の御言葉の中にいのちの御言葉があると確信しているからです。このような人は霊的に成長し、豊かな実を結ぶことができます。だから聖書は難しい学問だと考える必要はありません。「よく分らない」と放り出す必要もありません。ただ、注意深く御言葉を聞いていればいいのです。私たちが聞く耳を持って注意深く聖書の御言葉を聞く中で、その秘密を理解し、豊かな実を結ぶことができるように祈ります。
イエス様のたとえ話が終った後、群衆はそれぞれの思いを抱いて帰って行きました。「ああ、イエス様は大工だと思っていたが、農業においても精通していたのか」と感動した人もいれば、「子どもを知り合いに預けていたので、早く迎えに行かなければ」と思った人もいました。ところが弟子たちはこのような群衆とは違っていました。10節をご覧下さい。「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。『なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。』」弟子たちはなぜイエス様が群衆にたとえを使ってまわりくどく教えられたのか、理解できませんでした。「たとえで話さななくても、自分たちでもそれぐらい理解できるのに」と思ったに違いありません。このように弟子たちは、イエス様のたとえ話に対して問題意識を持っていました。そして率直にイエス様からその意味を知ろうとしました。このような弟子たちの態度を見てイエス様は喜ばれました。そして「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」と言われました。
12節をご覧下さい。「というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」私たちは聖書勉強を通していくらでも聖書の中に秘められている秘密を探り出すことができます。聖書勉強の時に、積極的に学ぼうとする人は、その人の信仰も成長し、いのちも豊かになります。しかしやるきがなく、無関心で消極的に仕方なく聖書を学ぶ人は持っているいのちさえを失ってしまいます。聖書から離れ、目に見える現実だけを追い続けるようになるのです。
13-15節をご覧下さい。「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』」この御言葉は霊的なことに無関心な群衆に対する神様の刑罰です。ここで、なぜ私たちが積極的に聖書を学ぶべきかを教えてくれます。聖書を学ぶ動機は人によってさまざまです。しかし私たちは聖書を学ぶ時、ただ単に教養として学び、知識を積み上げるためだけに学ぶのではありません。御言葉に耳を傾け、心で悟り神様に立ち返り、神様に癒されるために学ぶのです。聖書には罪の問題、死の問題を解決する力があります。また聖書を学ぶ時に、その人の人格が変わり、神様を喜ばせ、いのちを生かす御業に尊く用いられるようになります。
16,17節をご覧下さい。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」これはイエス様と共にいる弟子たちがどれだけ幸いであるのかを教えてくれます。旧約時代の多くの預言者や義人たちは、約束された救い主イエス・キリストに出会い、その御言葉を聞きたいと切に願っていましたが、見ることも聞くこともできませんでした。しかし弟子たちは救い主イエス・キリストと寝食を共にし、直接イエス様を見、イエス様の御言葉を聞いています。そしてその御言葉を通して、聖書の御言葉を悟り、完全に救われる道を歩むことができるので、まことに幸いなのです。私たちも同様です。聖書を学ぶことによって、イエス様を見、イエス様の御言葉を聞いているのです。それでイエス様は私たちにも言われます。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」
?.実を結ぶ人々(18-23)
18-23節で、イエス様は「種を蒔く人のたとえ」を解き明かされました。「種」は「天の御国のことば」を指します。「種」は小さくて、みすぼらしいものです。しかし生命力があり、地に落ちて蒔かれる時、多くの実を結ぶ可能性を持っています。このように神様の御言葉は生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭いので私たちの心に蒔かれると、豊かな実を結ぶようになります。しかし聖書の御言葉を勉強しているからといって、みな実を結ぶわけではありません。種が実を結ぶためには心の畑をよく耕さなければならないのです。ここでは心の畑を四種類に分類することができます。
第一に、道ばたのような心の畑です。19節をご覧下さい。「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。」「道ばた」の土は固く種を受け入れることができません。従って、「道ばた」の心の畑の所有者は、御言葉を聞いても、偏見と先入観と敖慢によって御言葉を受け入れようとしない、パリサイ人や律法学者たち、多くの群衆を指します。彼らのような心を持った人は日本にも多くいます。彼らは、「自分は無神論者だから」と言って、御言葉を聞こうともしません。あるいは、「キリスト教だけが救われるのか、どんな宗教であってもしっかり信じれば救われるのではないのか」という人もそのたぐいに入ります。そのような人々は、自分なりの価値観、考え方、哲学、思想によって心をかたくなに閉ざすので、御言葉がその人の心に入っていくことができません。頭から福音を受け入れようとしない時、サタンが来てその人に蒔かれた種を奪って行きます。種がある所に鳥がいるように、御言葉がある所には必ずサタンがいます。サタンは私たちが御言葉によって変えられることを一番嫌がります。それで、私たちが福音を聞いても受け入れないように、恐れ、不安、先入観などを植えて邪魔します。すると御言葉に対する知識はあっても、恐れ、不安、先入観などの理由から御言葉に聞き従うことができなくなります。そのような人はいくら聖書を勉強しても、頭だけが大きくなるだけで救いを受ける事ができません。
第二に、岩地ような心の畑です。20,21節をご覧下さい。「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」岩地のような心の畑を持つ人は、御言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。その人は最初「アーメン」と答え、御言葉に従って歩もうとします。それできちんと聖書を勉強し、所感も書いてきます。しかし岩地のような心の持ち主は自分のうちに根がないため、しばらくそうするだけで、御言葉のために困難や迫害に出会うとすぐに信仰を捨ててしまいます。
私たちが信仰によって歩んでいると、必ず困難や迫害を受けるようになります。テモテ第二3:12節には次のように記されています。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」困難や迫害は最初苦しいだけですが、実は信仰生活においてなくてはならないものです。それで困難や迫害が問題ではなく、私たちの信仰がどれだけ深く根を下ろしているかが問題なのです。では、私たちの信仰が根を下ろすにはどうしたら良いでしょうか。コロサイ人への手紙2:6,7節は言います。「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」「キリストの中に根ざす」とは、イエス様と人格的な関係を結び、イエス様に対する個人信仰を持つことです。そのような人は、罪の赦しと救いの恵みがはっきりとしています。それで御言葉に聞き従い、御言葉に深く信仰の根を下ろそうとします。その人は、どこに行っても実を結ぶことができます。詩篇1:2,3節は次のようにいっています。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」
第三に、いばらのような心の畑です。22節をご覧ください。「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」いばらのような心の持ち主は、御言葉を学び、イエス様と人格的な関係を結び、御言葉に従う生活をしています。困難や迫害を受けてもそれを乗り越えることで信仰がある程度成長します。しかし問題は実を結ぶことができないことです。ではなぜその人は実を結ぶことができないのでしょうか。それはその人の心の中にいばらがあって、いばらがそれを邪魔するからです。いばらは大きく二種類に分けることができます。一つは、「世の心づかいです」が、これは「この世の思い煩い」のことです。すなわち、賃金のこと、住宅のこと、子どもの教育のこと、健康のこと、将来のことなどに心が奪われることです。また、ただ何となく、漠然とした恐れと不安に心が奪われる人もいます。ところが、このような思い煩いは条件が改善されてもなくなりません。つまり思い煩いは神様に対する信頼がないために起こるのです。イエス様は言われした。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)神様は私たちのために必要なものを全て満たしてくださいます。私たちが、神様の愛と全能なる力を信じ、私たちの思い煩いをゆだねる時、私たちの信仰は生き生きとし、豊かな実を結ぶようになります。もう一つは、「富の惑わし」です。これは、今よりもいい生活がしたい、マンションが欲しい、海外旅行がしたい、などの欲望から生じるものです。私たちが富に惑わされると、一生富の奴隷として生きなければなりません。使徒パウロは言いました。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(?テモ6:9,10)誰でも富の惑わしのいばらを取り除かなければ実を結ばないだけではなく、滅びと破滅に陥ってしまいます。では、どのようにすれば、いばらを取り除くことができるのでしょうか。自分の意思や努力によってでしょうか。いいえ、自分の意志や努力によってはどうすることもできません。ただ神様の御言葉だけがいばらを取り除くことができます。いばらを取り除くためには御言葉によって結ばれる実に対するはっきりとした価値観とビジョンを持たなければなりません。私たちの住むこの世界も、私たちの体も、富も、いつかは消えてなくなってしまいます。しかし私たちがこれから入ろうとする天の御国は違います。天の御国は永遠のものです。そして天の御国に入るためには私たちの人生を投資して、主に献身する生活をしなければならないのです。さもなければ、富の誘惑に陥って破滅の道を歩むしかありません。私たちは二人の主人に仕えることができないのです。神様が私たちに天の御国に対する望みをくださり、その望みの中で歩むことができるように祈ります。
第四に、良い地のような心の畑です。23節をみなさんと一緒に読みたいと思います。
「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」その人は、福音を聞いて信じ、深く理解して、御言葉に従って生活する人のことです。このような人だけが豊かな実を結ぶことができるのです。豊かな実を結ぶ時、どれだけ嬉しく、どれだけ生きがいを感じるのでしょうか。喜びのあまり、自分たちの労苦を忘れてしまうほどです。多く苦労すれば、それだけ喜びも倍増します。本文の中には「悟る」という言葉が5回も出てきます。これは、御言葉を悟ることがどれだけ大切なのかを示唆してくれます。では、私たちはどのようにして悟ることができるのでしょうか。実際に、御言葉に聞き従って見なければ分りません。カナの婚礼の席でぶどう酒がなくなった時、イエス様は手伝いの人に「水がめに水を満たしなさい。」と言われました。そしてそのかめから「くんで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と言われました。手伝いの人がイエス様の御言葉に聞き従った時、水がぶどう酒に変わる奇蹟が起こりました。カナの宴会に参加した人はぶどう酒に変わった水を飲みましたが、それがどこから来たのかを知りませんでした。しかしイエス様の御言葉に聞き従った手伝いの人はイエス様の御力を体験し、信仰の世界に近づいたのです。
しかし私たちが御言葉に聞き従うことはやさしいことではありません。時には、神様の御言葉が理解できず聞き従うことが難しくさえ感じます。ところが、実際に聞き従って見ると、信仰の世界を知ることができるのです。そして御言葉に聞き従う生活をする人は、どんな時も神様に信頼し、不平不満をもらしません。サタンが恐れや疑いを植えつけても、世の思い煩いや富の惑わしが私たちを襲ってきても揺れ動かされることなく、信仰の中心を守り続けることができるのです。そうしていくうちに、また霊的な奥義を悟り信仰が成長していきます。そしてついには、信仰の実、祈りの実、聖霊の実、豊かな実を結ぶようになるのです。イエス様は弟子たちがこのような者になることを願われます。そしてイエス様を信じる私たちも、同じことを願われるのです。私たちが良い心の地を所有して豊かな実を結ぶ人生を送ることができるように祈ります。
結論的に、私たちの使命は実を結ぶことです。なぜなら神様は実を結ぶ人を喜ばれるからです。それで、今私たちは、どんな心の畑を持っているのか考えて見る必要があります。そして心の畑を耕して良い地となり、30倍、60倍、100倍の実を結ぶことができるように祈ります。