2001年マタイの福音書第19講
あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい
御言葉:マタイの福音書14:1?21
要 節:マタイの福音書14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人達に何かを食べる物を上げなさい。」
今日の御言葉はイエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせられた事件です。この奇蹟は、四福音書が共通して記録している唯一の奇蹟です。それほど重要な意味を持つ出来事です。この御言葉を通して私達はイエス様が私達に願われる牧者としての責任感と主に対する信仰を学ぶことができます。この御言葉を通して私達が持っている五つのパンと二匹の魚を見つけて主に捧げることが出来るように祈ります。
?.バプテスマのヨハネの死(1-12)
1,2節をご覧ください。「そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」ヘロデはヘロデ・アンティパスで、ガリラヤおよびペレアの国主でした。うわさはイエス様についてヘロデの耳に入ったことで、十二弟子の伝道活動の影響によります(マルコ6:7ー16)。多くの人々はイエス様のうわさを聞いて喜びました。罪と死の陰に座っている人々は光を見つけました。絶望の中にいる人々が希望を持ちました。多くの病人たちが信仰によってイエス様のみもとに来て癒されました。しかし、ヘロデは、イエス様のうわさを聞いて良心の呵責を受けていました。彼はイエス様のうわさを聞いて、自分が殺したバプテスマのヨハネがよみがえったと思い、苦しみました。3-12節にはヘロデがバプテスマのヨハネを殺す背景について書いています。ヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕らえて縛り、牢に入れました。それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張ったからです。何も恐れないヨハネは、ヘロデのことを大胆に責めました。それはまさに自分の死刑執行状に署名したようなものでした。ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れました。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからです。たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせました。それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をしました。ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言いました。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」ヘロデヤは不貞の罪を犯した上に、自分の娘を殺人の共犯に巻き込む罪を犯しました。王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令しました。彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせました。そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行きました。ヘロデは不用意な誓いのゆえに、ヨハネを殺さなければならないはめに陥りました。彼は良心の声よりもメンツを、道徳の要求よりも人の非難と嘲笑を恐れました。彼はヨハネを「正しい聖なる人」と認めていました(マルコ6:20)。彼は正しいことを知りながら悪い道に行く弱い者でした。彼は後に領地、財産をローマによって没収され、遠くガリアに流刑となり、そこで一生を終えました。
?.あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい(13-21)
それから、ヨハネの弟子達がやって来て、死体を引き取って葬りました。そして、イエス様のところに行って報告しました。その報告を聞いたイエス様は何をしましたか。
第一に、弟子達の初めの休暇。13節をご覧ください。「イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。」この出来事は伝道旅行の直後であると思われます。弟子達は伝道旅行でイエス様の権威に頼り、悪霊どもを多く追い出し、大勢の病人に油を塗っていやしました(マルコ6:13)。この伝道旅行が終わると、イエス様は弟子達に休息が必要であると感じました。そこでイエス様は弟子達とともに舟に乗って寂しい所に行かれました。ところがイエス様や弟子達の意図とは違って、多くの人が彼らの後を追い、彼らよりも先に来ていました。群衆はなぜイエス様のあとを追ったのでしょうか。それはイエス様が何回も行なった奇蹟を目撃したからです。イエス様の次の奇蹟を期待して彼らは来たのです。イエス様のみもとに来たすべての人々は病人や助けが必要な人たちでした。福音書を読むと、いろいろな病気の人がいることがわかります。中風の人、盲人、らい病の人、悪霊につかれた人など。彼らは助けを求めてイエス様のみもとに来ました。こうして多くの群衆ができあがりました。その結果、イエス様一行の休息は挫折に終わりました。
第二に、群衆を深くあわれんでくださったイエス様。14節をご覧ください。「イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。」イエス様は彼らを深くあわれんでくださいました。マタイの福音書9:36には、「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」と記してあります。またマルコの福音書6:34には、「イエスは、船から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深く哀れみ、いろいろと教え始められた。」と記してあります。「深くあわれでくださった」とは心から愛し、相手の悲しみと苦しみを理解することです。これは牧者の心であり、神様の心です。人を助ける時に必要なのは義務感ではなく、あわれむ心です。イエス様は彼らに政治的な自由や食べるものがないからあわれんでくださったのではありません。群衆がみじめな状態にあるのは、彼らのせいではなく彼らに羊飼いがいないからであるとイエス様は感じ取られ深くあわれんでくださったのです。羊は羊飼いがいなければ生きられません。私達も、人々の問題が山のように積み重なっているのは彼らに羊飼いがいないからであると認識しなければなりません。キャンパスの学生達は羊飼いがいない羊のように罪の問題で苦しみ迷っています。彼らに必要なのはお金ではなく、羊飼いです。
第三に、弟子達の信仰をためされるイエス様。夕方になると、弟子たちはイエス様にどんな提案をしましたか。15節をご覧ください。夕方になったので、弟子達はイエス様のところに来て言いました。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」イエスの宣教の熱心と群衆の聞く熱心さとのために、思わず時間がおそくなり、夕方近くなりました。その時、イエス様と群衆との間に入り込んで口を開いたのが、弟子達でした。彼らは何よりも人間的なこと、その中でも最も重要な食事のことが心配になって来ました。それで群衆を解散させて、食事の問題を解決するように提案しました。このような提案は、合理的であり、妥当な提案でした。弟子達は常識的な状況認識に基づいて判断しました。彼らは「あなたがたで、何か食べる物を買って食べなさい。」と言ったのです。しかし、イエス様の状況判断は異なっていました。イエス様は群衆が行く必要はないと言われました。16節をご覧ください。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人達に何か食べる物を上げなさい。」イエス様はすでに群衆に食べる物をあげようとしておられました。また弟子達は多くの群衆に上げるような食べる物を持っていないことをご存知でした。それでは「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」この御言葉が弟子達に与える意味は何でしょうか。そして、今の私達に与える意味は何でしょうか。
第一に、イエス様は弟子達が責任感ある指導者として成長するのを願われました。イエス様は弟子達がどんな状況の中でも羊達を助ける羊飼いになることを願われました。なぜなら、イエス様は弟子達をその時代の人々の羊飼いであり、霊的な指導者として召されたからです。指導者には責任感が必要です。まるで親が子供に対して責任感を持つように、指導者はその時代の人々に対する責任感を持たなければなりません。
責任感は牧者の心から出て来ます。それは親の心です。親の心があるなら、自分の子供がお腹が空いて泣いている時、何とかして食べ物をあげようとします。それが牧者の心です。イエス様は私達にも牧者の心から出る責任感を持つことを願われます。それではこの時代、私達は何を上げなければなりませんか。この時代は預言者アモスが預言したように霊的な飢饉の時代です。アモス書8:11,12節は次のように言っています。「見よ。その日が来る。?神である主の御告げ。?その日、わたしは、この地に飢饉を送る。パンの飢饉ではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見出せない。」現代人は過去どんな時代の人々よりも物質的に豊かな暮らしをしています。しかし、精神的には一番貧困な状態です。現代人は群衆の中で孤独を感じながら苦しみ、葛藤、不安の中で暮らしています。学校の中では友達同士で競争、進学のための受験競争、そして職場では昇進するために同僚との激しい競争があります。このような競争は現代人に緊張と不安、挫折を与えます。従って、現代を生きている人々はこの世に生まれてから子供、青少年、青年、中年、老年に至るまで精神的な飢饉の状態が続けられます。このような人々の飢饉はどうすれば解決することができるでしょうか。私達はこのような人々に神様の御言葉を伝えなければなりません。イエス様は私達に命じられます。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」この国のキャンパスの学生達に誰が食べるものを上げなければなりませんか。私たちです。神様は責任感がある人を貴く用いられます。
第二に、イエス様に対する信仰を持たせるためでした。イエス様が弟子達に、「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われたのは、イエス様に対する信仰を持ちなさいという意味です。弟子達は群衆に食べる物を上げることはできないと思っていました。私達は神様の力を自分の理性の世界の限界に閉じ込めてしまう時があります。「私には何もできないので、神様もできない。」と思ってしまいます。しかし、信仰は「私には何もできないが、イエス様にはすべてが可能である。」と信じることです。エジプトから荒野に出たイスラエル人は「肉が食べたい。」と泣いていました。モーセは彼らの泣くのを聞いて主に申し上げました。「なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょうか。私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重過ぎます。私にこんなしうちをなされるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」主は彼らのつぶやきを聞いて、彼らに肉を下さると言われました。それも一日や二日だけではなく、彼らの鼻から出て来て、吐き気を催すほどに一ヵ月も食べさせると言われました。しかし、モーセは申し上げました。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」その時、主はモーセに答えられました。「主の手は短いのだろうか。」そして、風を吹かせ、うずらを運んで来て、宿営の上に落としました(民11章)。神様にはできないことがありません。神様は全能なる方です。私達が神様に対する信仰を持つ時、不可能に見えることも可能になります。神様は信仰を持つ人を通して働かれます。
「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われた弟子達は何をしましたか。彼らは自分たちは群衆に食べる物を上げることができないと思っていましたが、イエス様の御言葉に従って食べる物を探しました。すると五つのパンと二匹の魚が見つかりました。これは多くの群衆に食べる物を上げるにはとても足りないものでした。とても足りなくてイエス様の所に持って行くのも恥ずかしく思われるものでした。五つのパンと二匹の魚が多くの群衆に対して何の役に立つでしょうか。しかし、五つのパンと二匹の魚は多くの群衆を食べさせる可能性を持っているものでした。イエス様は弟子達にこの可能性を探して来ることを願われたのです。弟子達は五つのパンと二匹の魚を見つけました。すると、イエス様は「それを、ここに持って来なさい。」と言われました。私達はある可能性を見つけるとそれが足りなくてもイエス様の所に持って来なければなりません。
「私には何もできないが、イエス様にはすべてが可能である」と信じて五つのパンと二匹の魚をイエス様のみもとに持って行くことが大切なことです。神様は一人一人に少なくとも五つのパンと二匹の魚を下さっています。私達には祈りの五つのパンがあります。1:1聖書勉強の二匹の魚があります。それらを神様に捧げなければなりません。そうすれば神様は私達だけではなく、この国、この世界を祝福してくださることでしょう。19節をご覧ください。イエス様は、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子達に与えられたので、弟子達は群衆に配りました。人々はみな、食べて満腹しました。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごいっぱいありました。食べた者は、女と子供を除いて、男五千人ほどでした。男五千人ほどであったから、女と子供をいれると、もっと多くなります。五つのパンと二匹の魚は、あまりにも少ないものですが、それが主の御手にささげられ、祝福される時、男だけでも五千人、女と子供を数えればその幾倍もの人々が満腹して、なお十二のかごにいっぱい残りました。イエス様の御手が触れる時、常に偉大な御業が行なわれます。イエス様は天と地を創造された全能なる神様です。このイエス様は私達の捧げる小さな祈りや信仰も祝福して下さり、この国のキャンパスの学生達を満腹させることができる方です。食べた残りが「十二かごにいっぱい取り集め」たことは神の豊かな祝福を示しています。イエス様は創造主として私達の願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方です(エペソ3:20)。
主が日本UBFサマー・バイブル・キャンプを大きく祝福してくださったことを感謝します。私達は忙しい中でも毎日SBC準備のために集まって祈りました。寺崎アブラハム牧者は初めてSBC準備委員長という大きな責任が任されて熱心に働きました。小泉ダビデ牧者は仕事が終わると急いでセンターに駆けつけて来て祈り会に仕えました。〇〇牧者はISU国際夏修養会参加から戻って来て休む間もなく賛美礼拝を準備しました。私は宣教師達のために何か食べる物を上げたいと思って韓国から鄭モーセ博士を招きました。私はSBCが行われる前日、仕事が終わって韓国から来る李ダニエル牧者をお迎えして家に着いたのが、夜12時頃でした。私は疲れていましたが、SBCのことが心配になって眠ることができませんでした。小泉ダビデ牧者はメッセージを完成するとメールで送ると言っていましたが、それもまだ確認できていませんでした。それで夜中起きてメールを確認してみたら、小泉ダビデ牧者からのメッセージが届いていました。私はメッセージをチェックして祈りました。すると主はSBCを祝福してくださるという確信が与えられました。そしてSBCが行われる時に主の霊が働いておられることを感じました。暗い顔をしていた人々の心に神の国が臨まれて顔が段々明るくなって行くのが見えました。SBCがすべて終わった時、私は主が私達の捧げた五つのパンと二匹の魚を大きく祝福してくださったことを悟り、主に感謝することができました。私は今年のSBCを通して私達が持っているものが五つのパンと二匹の魚のように小さなものでもとにかくそれを見つけて主に捧げることが大切であることを学びました。主は私達に言われます。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」私達が持っている五つのパンと二匹の魚を見つけて主に捧げることができるように祈ります。そうすれば、主は私達だけではなく、この国を祝福してくださることを信じます。