2001年マタイの福音書第20講

あなたの信仰はりっぱです

御言葉:マタイの福音書15:1?28

要 節:マタイの福音書15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

本文には偽善的信仰を持つ宗教指導者達とイエス様に賞賛される信仰を持つカナン人の女の信仰が対照されて出ています。本文の御言葉を通してカナン人の女の信仰について学び、私達も主に賞賛される信仰、主に祝福される信仰を持つことができるように祈ります。

?.人を汚すもの(1-20)

1、2節をご覧ください。そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエス様のところに来て、言いました。「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」すでに12章でイエス様は、ガリラヤ地方のパリサイ人と安息日についてきびしい論議をかわし、その結果彼らはイエス様を殺す相談をしました。それ以来、彼らはイエス様を監視し続けて来ましたが、イエス様の名声はいよいよ高まるばかりで、パンの奇蹟から群衆はイエス様を王として立てようとしました。もはやこのようなことを放っておくことはできません。そこで、エルサレムからはるばる中央の宗教指導者達が来ました。

彼らの訴えは、イエス様の弟子達が言い伝えを犯して食前に手を洗っていないということでした。弟子達はいつも忙しくて食前に手を洗わないで食べたようです。「言い伝え」とは、成文律法である聖書についての説明的、付加的律法のことで、口伝律法とも呼ばれます。この口伝律法は成文律法と同じ権威を持つとされ、その適用の仕方によっては、ここでイエス様が指摘されるように、成文律法を拘束することにもなりました。汚れを取り除くために複雑な儀式が定められ、その洗い方もたいへんなものでした。彼らが手を洗う儀式を行なったのは聖なる神様に仕える動機から始まりました。ところが、時間が経つにつれてそれは一つの宗教儀式に過ぎないものになってしまいました。マルコの福音書7:3、4節を見ると、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしませんでした。またこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんありました。このように言い伝えはユダヤ人の意識世界を支配し、彼らの生活を拘束していました。

3-6節でイエス様は、彼らが言い伝えを守ることによって事実上神の律法にそむいていることを指摘しています。神の律法は「あなたの父と母を敬え」、また「父と母をののしる者は、死刑に処せられる」と教えています。これは十戒中、人と人との間に関する戒めの最初に出て来るたいせつなものです。しかし、言い伝えの規則によると、「供え物になりました」と言うことによって、すなわち神にまたは神殿にささげたと言うことによって、両親への義務を逃れることができました。またこうして供え物になったと一度誓った場合、それが両親の扶養に必要なものであっても、その取り下げは認められませんでした。このようにパリサイ人や律法学者達は言い伝えを守ることによって、神の律法を破っていました。それはまさに神のことばを無にすることでした。

イエス様は彼らをどのように咎められましたか。7-9節をご覧ください。「偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」真実に権威のあるものを無にして、偽りの権威しかない人間の教えである言い伝えを権威あるものとする、これがパリサイ人や律法学者たちの偽善です。それはイザヤが預言しているように、口先の、うわべだけの偽善的信仰で、実際には心は神様から遠く離れています。彼らは食前に必ず手を洗っていましたが、心は偽りと貪欲、妬みなどで汚れていました。彼らがこのように偽善的信仰を持ったのは、神様の御前で信仰生活をせず、人々の前でしていたからです。彼らは熱心に手は洗っていましたが、神様の御前で真実に悔い改める生活によって心をきよめる生活は怠けていました。すると、段々偽善的信仰を持つようになりました。

イエス様は、その時群衆を呼び寄せて、人を汚すものは何であると悟らせてくださいましたか。10,11節をご覧ください。「聞いて悟りなさい。口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」その時、弟子たちが、近寄って来て、イエス様に言いました。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」弟子達はパリサイ人たちが腹を立てたことを恐れていました。しかし、イエス様は答えて言われました。13,14節をご覧ください。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

イエス様は、パリサイ人たちは神のお植えにならなかった木、すなわち人の教えに頼っていて、神のことばによる信仰のない者たちである、と断言されます。「みな根こそぎにされます」は、彼らを待つさばきです。彼らは神によって植えられた者でないゆえ、滅びの道にゆだねる以外にありません。パリサイ人たちは故意に、かたくなに光を拒み、そればかりでなく、自分達が盲目であるのに、なおも傲慢に「私達は目が見える」と言っています。彼らも、彼らに従う者たちも、破滅に向かって歩んでいます。

そこで、ペテロは、イエス様に「私たちに、そのたとえを説明してください。」と言いました。 イエス様は16-20節で答えて言われました。「あなたがたも、まだわからないのですか。口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」イエス様は人間の心が腐敗していて腐敗した心から出て来るものが人を汚すとご覧になりました。聖書は「義人はいない。ひとりもいない。」と宣布しています(ローマ3:10)。また、「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」と言っています(ローマ3:12)。人は堕落して心が根本的に腐敗しています。人は自分の心を守らなくて放置して置けばいろいろな悪い考えが入って来ます。それでエレミヤは、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」と言いました(エレミヤ17:9)。人の心は腐敗しているのでそこからあらゆる悪が出て来るのです。それはまるで水の源が汚れているとそこから流れ出る水は汚れた水であることと同じです。ですから、人は自分をきよめるためには手を洗う前にまず心を洗わなければなりません。

それでは私達がどうやって心をきよめることができるでしょうか。毎日、体を洗うと清くなるでしょうか。毎日、座禅をすればきよくなるでしょうか。人間の努力によっては根本的に心をきよめることができません。それはただ悔い改めてイエス様の血によってきよめられ、新しく生まれる時に可能です。すなわち、悔い改めて聖霊によって新しく生まれて本性が変らなければなりません。使徒パウロはテトスへの手紙3:4、5節で次のように言いました。「しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」イエス様の尊い血によってのみ私達の汚れた心をきよめることができるのです。

?.カナン人の女の信仰(21-28)

21節をご覧ください。それから、イエス様は異邦人の地ツロとシドンの地方、現在のレバノンに立ちのかれました。イエス様は静けさを求め、ご自身のために、また弟子達のために、来るべき十字架への準備をするため異邦の地に来られました。ところが、ここでもイエス様を必要とする者が待っていました。22節をご覧ください。その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言いました。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」カナン人は、昔イスラエル民族がエジプトを出てパレスチナにやって来た時、そこに住んでいた先住民です。彼らは、イスラエルが忌み嫌い、縁を断つべき民族でした。彼らもまたイスラエルを忌み嫌っていました。それにもかかわらず、このカナン人の女は、悪霊に取りつかれた娘を思う一心からイエス様に助けを求めます。母親は娘が風邪をひくだけでも心を痛めます。ところが、娘がひどく悪霊に取りつかれて発作を起こしながら苦しんでいるのを見ると、どれほど苦しむでしょうか。彼女は娘を直すために有名な医者に見せてもらったり、良い薬を飲ませたりして来たでしょう。しかし、娘は少しもよくならず、段々ひどくなる一方でした。彼女は娘のために毎日泣いていたでしょう。娘が苦しんでいる時、彼女もそれ以上苦しんでいたでしょう。娘がかわいそうであるように彼女もかわいそうな女でした。それで彼女は「私をあわれんでください。」と叫びました。彼女の叫びは聞く者があわれみの情を感じざるをえない母親の叫びでした。

このようなかわいそうな彼女の叫び声を聞いたイエス様は彼女をどのように扱いましたか。23節をご覧ください。「しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。」今までにも異邦人が何人かやって来てイエス様に助けられていますが、このような沈黙は見られませんでした。イエス様はなぜ沈黙しておられたのでしょうか。情けなく彼女の叫びを退けるためでしょうか。いいえ。イエス様は彼女の信仰がどのようであるのかを知ろうとしておられました。主は時には私達の叫び声に沈黙しておられる時があります。そんな時には落胆しやすいです。しかし、主が沈黙しておられるのは、私達に無関心だからではなく、私達の信仰がどのようであるのかを知ろうとしておられるからです。また、私達の信仰を成長させるためです。

そこで、イエス様の沈黙に耐えられなかった弟子たちがみもとに来てイエス様に願いました。「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」イエス様を入れて十三人の男たちの後から一人の女が叫びながらついて来る状況を考えて見てください。そうすれば、弟子達の言うこともわかります。しかし、イエス様は答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われました。神の国の特権はまず契約の子らである選民に提供されていました。そして、イスラエルが全面的にイエス様を拒絶してから、福音は神の国の実を結ぶ国民に与えられるのです。しかし、その最終的拒絶の時まで、イエス様はその使命によって限定された範囲内で働かなければなりませんでした。

イエス様は沈黙しておられましたが、女は再びどんな姿勢でイエス様の助けを求めましたか。25節をご覧ください。彼女はイエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言いました。しかしイエス様は女に何と言われましたか。26節をご覧ください。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」イエス様のことばは彼女にとって衝撃的なことばでした。ここで子供は選民イスラエルを小犬は異邦人を指しています。ユダヤ人は異邦人を犬と呼び、さげすんでいました。パンはイエスが与えられるメシヤ的祝福のわざです。イエス様は今までご自分のところに来る人を一度も受け入れないことがありませんでした。人々が遠ざけていたらい病人が来た時にも体に触ってから癒してくださいました。異邦人である百人隊長が懇願した時にも「行って、直してあげよう。」と言われました。イエス様はいくら急がしくても信仰によってご自分のところに来る人々を喜んで迎え入れて助けてくださいました。ところが、今度は助けてくださるどころか、女を小犬だと侮辱されました。イエス様は彼女が選民ではないので恵みを施すことができないと言われたのです。これは今までのイエス様らしくありません。いくら異邦人だとしても「あなたは犬だ。」と侮辱されると耐えられません。人が一番耐え難いのが侮辱されて自尊心が傷つけられることです。女はイエス様のことばを聞いて耐えられず、イエス様に食って掛かることもできたでしょう。

それではなぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。それは彼女をつまずかせるためではなく、彼女の信仰を確かなものにし、彼女を祝福するためでした。これはまるで神様がアブラハムの信仰を確かなものにし、彼を祝福の源とするために彼をテストしたことと同じです。神様は真実な方ですから、私達を耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません(?コリント10:13)。イエス様は彼女に耐えることのできる信仰があるのをご覧になり、テストされたのです。

女は、イエス様の侮辱的な言葉に対して、どんな知恵のある答えをしましたか。27節をご覧ください。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」女は、小犬と呼ばれても謙遜と服従を持ってその信仰を表わしました。彼女は謙遜に自分は犬のような存在であると認めました。彼女はイエス様のことばに少しも反発しませんでした。彼女はイエス様のどんなことばでも「そのとおりです。」「アーメン」と答えました。そして、積極的に主の恵みを求めました。「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」彼女は主の恵みを求めてすべての自尊心を捨てました。イエス様から恵みをいただけるなら何を言われてもいいと思いました。人々は謙遜に主の恵みを求めれば祝福を受けるのに自尊心を捨てることができず、恵みの世界、信仰の世界に入ることができない場合が多くあります。列王記第?5章には将軍ナアマンの話が出ています。彼はアラムの王の将軍として王に重んじられ、尊敬されていました。しかし、彼はらい病にかかっていました。彼はらい病を直してもらうためにイスラエルのエリシャの所に来ました。ところが、エリシャは彼を迎えに出ても来ないで使いをやって、ヨルダン川へ行って七度体を洗うように言いました。それを聞いたナアマンは怒って帰ろうとしました。その時、彼のしもべたちの話を聞いて考え直し、自尊心を捨ててエリシャに言われた通りにしました。すると、彼のからだは元どおりになって、きよくなりました。もし彼が自尊心を捨てることができず、そのまま国に帰ってしまったららい病を癒すことができなかったでしょう。

それではカナン人の女は侮辱的な言葉を聞いてもどうやって知恵ある答えをすることができたのでしょうか。

第一に、彼女はイエス様の愛と力を少しも疑いませんでした。もし彼女が少しでもイエス様の愛を疑ったならイエス様の言葉を聞いて絶望してしまったでしょう。女はイエス様の愛を疑わず、イエス様を全面的に信頼したので勝利することができました。私達がどんな状況の中でも勝利できる秘訣は、主の愛を絶対的に信頼し、主を全面的に信頼することです。使徒パウロは福音を宣べ伝える時に多くの迫害を受けました。しかし、彼は少しも弱くならず、勝利することができたのは主の愛を信頼していたからです。彼は次のように歌いました。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:35-37)。

第二に、彼女には娘に対する牧者の心がありました。母親が娘を愛することは当然なことですが、ひどく悪霊に取りつかれた娘を愛し続けることはやさしいことではありません。それには本能的な愛を超えた犠牲的な愛が要求されます。女は娘に対する牧者の心があったのでどんな侮辱も羞恥も受ける覚悟ができていました。私達に羊達に対する牧者の心がある時、どんな痛みや犠牲を払ってでも羊達のために主にしつこく祈り求めることができます。

28節をご覧ください。イエス様は彼女の信仰に大きく感動されて彼女に答えて言われました。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直りました。この女は異邦人としてその信仰を賞賛された二番目の人物です。百人隊長にもこの女にも共通することは、主のことばを全面的に従順に受け入れたことです。彼らの信仰の偉大さはまさにその信頼の大きさです。これはユダヤ教指導者達の偽善的信仰とは対照的な美しい信仰です。イエス様は彼女の信仰を喜ばれ、祝福してくださいました。

今日の御言葉を通してイエス様に叱られる信仰者とイエス様に賞賛される信仰者について学びました。私達がどんな信仰者であるかを顧みることができるように祈ります。そして、宗教指導者達のような偽善的信仰生活をしていたなら、悔い改めて心をきよめることができるように祈ります。そして、カナン人の女のように主の言葉に対する信頼と謙遜な心を持って主の恵みを求める信仰者となるように祈ります。私達がカナン人の女のように主に賞賛される信仰、主に祝福される信仰を持つことができるように祈ります。