2001年マタイの福音書第22講

彼の言うことを聞きなさい

御言葉:マタイの福音書17:1?27

要 節:マタイの福音書17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

イエス様は、マタイの福音書16章でペテロの信仰告白をきっかけとして、教会の建設とご自身の受難を予告され、弟子として従う者の条件と栄光の約束をされました。本文ではこれからご自身の上に起こるいろいろの出来事に弟子たちを備えるために、驚くべき変貌をされます。私たちは毎日人々の話を聞いています。人々から話を聞いて慰めや力を受ける場合もありますが、反対に傷つけられる場合もあります。私たちクリスチャンは何よりも主のことばに耳を傾け、よく聞かなければなりません。主のことばをよく聞く人はいのちを得、成熟したクリスチャンとして成長することができるからです。今日の御言葉を通して主の御言葉ば聞く正しい姿勢を持つことができるように祈ります。

?.御姿が変わられたイエス様(1-13)

1節をご覧ください。ペテロの信仰告白があってから六日が経ちました。イエス様は、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれました。そこでどんな驚くべきことが起こりましたか。2節をご覧ください。「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」イザヤ53:2にはイエス様の姿について次のように記しています。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」人としてこの世に来られたイエス様は罪人達に仕えるために多くの苦労をなさいました。このイエス様はヘロデ王のような輝く宮殿に住んでいることもなく、人々から仕えられることもありませんでした。朝から晩まで悪霊につかれた人、さまざまな病気を患っている人々、貧しい人々とともにおられました。イエス様には私たちが見とれる姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもありませんでした。しかし、イエス様は本来神様です。イエス様の御顔が太陽のように輝き、御衣が光のように白くなったのは、イエス様の復活のからだ、昇天して神の右に着座される時の栄光の姿を示しています。このイエス様の姿を黙示録1:13?16は次のように記しています。「それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」

それではイエス様が弟子たちにこのような栄光の姿を見せてくださった目的は何でしょうか。今まで弟子たちは何もかも捨ててイエス様について来ました。ところが、ある日からイエス様は多くの苦難を受けて殺されると言われました。もちろん三日目によみがえることも言われましたが、弟子たちの耳にはイエス様が死なれることだけが聞こえました。彼らはそれを聞くたびに非常に悲しくなりました。悲しいあまり恐れるほどでした。そのようなことをご存知であったイエス様は彼らの重荷を取り去るために栄光の姿を見せてくださいました。弟子達が栄光を望みながら喜ぶことを願われました。ペテロは晩年に、この経験について次のように記しています。「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」(?ペテロ1:16?18)。変貌されたイエス様を目撃した事件は弟子たちの信仰生活に大きな影響を及ぼしたに違いありません。

皆さんの心にはどんなイエス様が印象深く刻まれていますか。受難のイエス様ですか。栄光のイエス様ですか。私たちの心にどんなイエス様の姿が刻まれているかによって信仰生活が変わります。なぜならその姿は私たちに影響を与えるからです。UCLA社会学科の教授であるニコラス・ウィルピンガの研究によると、親の離婚の経験が子供の結婚生活に大きな影響を与えるそうです。すなわち、離婚した親のもとで成長した子供たちの離婚率が正常的な家庭で育った子供たちの離婚率よりもはるかに高いことがわかりました。彼が1997年に発表した論文によると、親の離婚が子供の結婚生活に大きな影響を及ぼし、特に2回以上離婚した親のもとで育った子供たちの場合、彼らもやはり2回以上離婚する傾向が高いと言いました。2回以上離婚した親のもとで育った子供の離婚率は67%にもなりました。それも2回以上離婚する比率は26%で、正常的な家庭で育った子供が2回以上離婚する比率である9%と比べると非常に高かったのです。このように子供の心に刻まれている親の姿は子供に大きな影響を及ぼしていることがわかります。苦しみを受けられたイエス様だけが心に刻まれていると私たちの信仰生活は悲しくなります。苦しみを受けるたびに涙を流します。しかし、栄光のイエス様を考えると苦難の中でも喜ぶことができます。いつも喜び、すべてのことについて感謝することができます。私たちがついて行くイエス様は栄光の神様です。天地を創造され、将来栄光の姿で再び来られる方です。そして、私たちもイエス様のように栄光の姿に変えられます。私たちがこのイエス様を心に刻み、天の御国に向かって力強く歩むことができるように祈ります。

3節をご覧ください。「しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。」モーセは律法の代表です。旧約聖書を表わすのに「モーセと預言者」という表現が用いられています。その預言者の代表するのがエリヤです。したがって、モーセとエリヤが現われたということは、旧約聖書を代表する者たちがその成就者の前に現われたことになります。ルカの説明によると、彼らはそこでイエス様の受難について話しました。イエス様の受難によって旧約聖書から用意して来られた神様の救いのご計画は完成されるようになります。モーセとエリヤは牧者として多くの苦難を受けましたが、栄光の姿に変わっていました。

このような栄光の姿を見たペテロはどんな提案をしましたか。4節をご覧ください。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」神の栄光の場にいることは確かにすばらしいことです。そこにはできるだけ長くとどまることを願います。しかし、ペテロは自分が何を言っているのか知らずに発言しています。5節をご覧ください。「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。」「光り輝く雲」は、昔イスラエルの民に臨んだ全能の神の栄光の雲です。雲は神の臨在の象徴です。したがって、この雲から出た声は、実に神ご自身の御声でした。この御声の語ることばは、イエス様が洗礼をお受けになった時に天から告げられたことばと同じであり、イエス様がメシヤとして神様との特別の関係・立場にあることを示しています。神様からのメッセージは「彼の言うことを聞きなさい。」でした。それでは弟子たちはイエス様のどんな御言葉を聞かなければなりませんか。それは十字架の道が神の御旨であるということです。ペテロたちは、強い人間的な願望がありました。それはイエス様が政治的なメシヤになることです。彼らはその願望のために何もかも捨ててイエス様について来ました。そのために彼らはイエス様と苦しみとともにしました。それなのに、イエス様が受難を受けて死なれると言われるからそれはどうしても聞き入れることができませんでした。そんな言葉は聞きたくもありませんでした。しかし、彼らが聞きたくなくても主の言葉は聞かなければなりません。そして、自分の人間的な願望を捨てて、主の言葉に聞き従わなければなりません。十字架のことばが負担になってもそれに聞き従わなければなりません。彼らがイエス様に従うためには自分を捨て、自分の十字架を負わなければなりません。

イエス様の御言葉を聞かない人の特徴は何ですか。その人は高慢です。考えが複雑です。無気力になります。不信があります。恐れがあります。喜び、幸せがありません。霊的な成長がありません。しかし、イエス様の御言葉をよく聞く人の特徴は何ですか。謙遜です。単純です。明るいです。心に平安があります。霊的な成長があります。ですから、私たちは主の御言葉を聞くことを邪魔するすべてのものを捨てて主の御言葉をよく聞かなければなりません。よく聞くためには自己中心的な考えを捨てなければなりません。不信を捨てなければなりません。世の価値観を捨てて神様中心にならなければなりません。イエス様に対する愛と信頼を失ってはなりません。イエス様の御言葉をよく聞くことが真理の道であり、いのちの道であり、栄光の道です。皆さんはイエス様の御言葉をよく聞いていますか。いくら主が語ってくださっても耳をふさいでいると聞くことができません。不信や高慢な心が心の耳をふさいでいると聞くことができません。礼拝に参加していても自分の考えばかりしてぼんやり座っていると聞くことができません。私たちが一言でも主の御言葉を真に聞くことができるならその御言葉は私たちの人生を変えます。「義人はいない。ひとりもいない。」この言葉はマルチィンチン・ルータの人生を変えました。ローマ人への手紙13:12節はアウグスチヌスを放蕩息子から偉大な主のしもべに変えました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」この一言は鄭ダニエル宣教師をビリの人生から勝利の人生に変えました。私たちが日々主の御言葉に耳を傾け、主の御言葉を聞く生活ができるように祈ります。

弟子たちは、神様の御声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがりました。しかし、イエス様は恐れている弟子たちにあわれみの御手を伸べ、「起きなさい。こわがることはない」と慰めのことばを与えてくださいました。変貌の出来事が終わって、そこに立たれたのは、自然の姿に戻られたこの慰めのメシヤでした。山から降りる時、イエス様は弟子たちに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられました(9)。もしペテロたちが変貌の出来事を言い広めたなら、民衆はますますイエス様を王として立て、政治的解放運動の指導者とすることは、容易に考えられたからです。そこで、弟子たちは、イエス様に「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」尋ねて言いました。変貌の際に現われたモーセとエリヤのことは、イエス様がメシヤであることのユダヤ人に対する強力なあかしとなります。モーセは申命記18:15に約束されたメシヤの型であるし、エリヤはマラキ書4:5にメシヤの先駆者として現われると預言されていました。それならなぜ、エリヤの出現を知らせて彼らも民衆もすべてイエス様をメシヤと受け入れるようにしないのか、という疑問が起こります。そこで弟子たちは、「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」と尋ねます。イエス様はエリヤについてのマラキの預言を、バプテスマのヨハネにおいて成就したとされました。律法学者たちは、自分たちがエリヤに期待することに固執して、ヨハネをエリヤと認めませんでした。それと同じように、メシヤを政治的解放者と決め込んでいた彼らは、イエス様をメシヤと認めることができませんでした。そこでイエス様も彼らに好き勝手にあしらわれると、ご自身の受難を予告されます。

?.悪霊につかれた子どもを直されたイエス様(14-27)

ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子がイエス様とともに山に行っている間に、ふもとでは大騒ぎが起こっていました。イエス様と三人の弟子たちが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエス様のそば近くに来て、御前にひざまずいて言いました。「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」それを聞いたイエス様は、何と答えて言われましたか。17節をご覧ください。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」弟子たちは前に悪霊を追い出す権威を与えられました。しかし、不信仰のゆえに無力になってしまっています。不信仰は、弟子たちをはじめ、そこに集まって議論する群衆、宗教指導者たち、てんかんの息子の父親などのすべの者の態度でした。18節をご覧ください。そして、イエス様がその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直りました。では弟子たちが悪霊を追い出せなかった原因は何ですか。19,20a節をご覧ください。「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。『なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。』イエスは言われた。『あなたがたの信仰が薄いからです。』」弟子たちの無力さは、その信仰の薄さ、不信仰のためです。それでは弟子たちが持つべき信仰はどれくらいの信仰でしょうか。20b節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」彼らが持つべきものはからし種ほどの信仰でした。それは小さくても大きく成長する力を秘めています。「山を移す」とはユダヤ人の慣用句で、「困難な問題を解決する」の意味です。イエス様はここで、小さな信仰でもあるなら、それは神の力を受けるので、山のように大きな問題をも解決できると教えられます。この場合、弟子たちは悪霊を追い出す権威をすでに受けていたので、小さくてもまことの生きて働く信仰があったなら、てんかんの息子から悪霊を追い出すことができたのにとイエス様は言っておられます。主が私たちにからし種ほどの信仰を与えてくださるように祈ります。

22、23節をご覧ください。「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。」イエス様は再度受難の予告をされます。復活の予告にもかかわらず、弟子たちは受難のみを考えて、非常に悲しみます。マルコとルカによると、その意味を悟ることができず、それを尋ねることすら恐れるほどでした。しかしイエス様は、これから起こるべき出来事に対して弟子たちをこうして準備しなければなりませんでした。

24節をご覧ください。また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言いました。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」宮の納入金は、エルサレムの神殿維持にかかる経費のために、二十歳以上のイスラエルの男子が納めることになっていました。イエス様はペテロに王の子供たちは王に税や貢を納めないことと同じように、神殿の神の御子も納める必要はないと言われました。しかし、イエス様は納入金を納める人たちに不必要なつまずきを与えないために、権利を主張せず、なすべきことをされました。27節をご覧ください。「しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」スタテル一枚は二人分です。イエス様は人々への愛の配慮に生きておられました。

私たちが信仰生活をすると苦難もあり、栄光もあります。ある人は信仰生活は苦難だけだと言います。ある人は栄光だけだと言います。しかし、イエス様が私たちに教えてくださるのは、苦難によって至る栄光の道です。イエス様は受難を受けて死なれました。しかし、死者の中から三日目によみがえられ、栄光の主になられました。誰でもこのイエス様を信じて従う者は苦難を通して栄光といのちを得ることができます。パウロは今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと考えると言いました(ローマ8:18)。私たちはイエス様の御言葉に耳を傾けてよく聞かなければなりません。主の御言葉は力があって私たちを生かし、私たちを励まし、私たちを癒してくれます。主の御言葉は私たちが行くべき道を照らす光です。主の御言葉をよく聞く人は日々新しくされます。主の御言葉をよく聞く人には喜びがあります。私たちが主の御言葉をよく聞くことができるように祈ります。たとえその御言葉が十字架の御言葉だとしても聞いて従うことができるように祈ります。