2001年マタイの福音書第31講

大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来られるイエス様

御言葉:マタイの福音書24:1?51

要 節:マタイの福音書24:30「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、 

    地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」

 マタイの福音書24章は、イエス様がエルサレムの滅亡とさらに人類の終末とキリストの再臨について予言されたところです。また、イエス様の再臨を待っているクリスチャンが持つべき態度について教えてくれます。人々は期待を持って21世紀を迎えました。21世紀には科学文明のさらなる進歩によって人々の生活がますます豊かになることを期待しています。ところが、21世紀は初めから災難の連続です。アメリカで起こったテロ事件は世界の人々を驚かせました。アメリカの経済発展の象徴であった世界貿易センタービルが一瞬に崩れ落ちました。さらに炭そ菌事件はアメリカの人々はもちろん世界の人々を恐怖に陥れています。アフガニスタンへの攻撃は毎日続いており、いつまで戦争が続くが誰もわかりません。日本もその戦争に三隻の軍艦と軍隊を派遣しました。この世界はこれからどうなるのか、人類の歴史はどこに向かって行くのか、21世紀を迎えたばかりの人類はますます不安と恐れに包まれています。本文の御言葉は人類の歴史の流れと方向は何であり、また、人類の究極的な希望は何かを教えてくれます。本文の御言葉を通してキリスト教の歴史観を学び、再臨を待ち望んでいる私達の生活がどうであるべきかを学ぶことができるように祈ります。

?.全世界に宣べ伝えられる福音(1-14)

 1節をご覧ください。イエス様が宮を出て行かれるとき、弟子達が近寄って来て、イエス様に宮の建物を指し示しました。この宮の建物は美しく白い大理石で建てられていたそうです。ガリラヤの田舎に育った弟子達はその建物を見て思わず感嘆の声をもらしました。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」(マルコ13:1)。このような弟子達にイエス様は何と言われましたか。2節をご覧ください。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」イエス様は、この宮の建物の完全な破壊を予言されました。イエス様は宮の建物の美しさより当時の宗教指導者達と人々の堕落した姿を貫いてご覧になりました。預言者達を殺し、メシヤを殺そうとしている彼らのかたくなな心をご覧になりました。神なしに築き上げた文明を誇る人間の高慢をご覧になりました。祈りの家となるべき神殿が強盗の巣になっていることをご覧になりました。金の屋根と大理石のまぶしいばかりの建物が荒れ果ててしまうとは、弟子達にとってとうてい考えられないことです。しかし、この預言は、紀元70年に文字どおり成就しました。ローマ軍隊によってエルサレムは陥落し、宮の建物は焼き尽くされました。その時、屋根の金が溶けて大理石の間に流れ込んだので、ローマの兵士達は石と石の間の金を見つけるためにすべての石を崩しました。こうして廃墟となったエルサレム神殿は、その後二度と建てられることなく、今はそこにイスラム教の会堂が建てられています。

 この御言葉を聞いた弟子達は何に関心を持つようになりましたか。3節をご覧ください。イエス様がオリーブ山ですわっておられると、弟子達が、ひそかにみもとに来て言いました。「お話ください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」イエス様は弟子達の質問に答えて幾つかの起こるべき終末の前兆をあげます。それでは終末の前兆は何でしょうか。

 第一に、偽キリストの出現です。4、5節をご覧ください。そこで、イエス様は彼らに答えて言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」エルサレムの滅亡の前に多くの偽キリストが現われて人々を惑わしました。初代教会にも、「主の日がすでに来たかのように」ふれ回る者がいました(?テサ2:2)。近代でも、前世紀にジョセフ・スミスという人が預言者として啓示を受け、モルモン教という異端が起こっています。また、1914年にイエス・キリストが再臨するという主張から、「エホバの証人」という異端が現われました。今日も多くの偽キリストが現われて人々を惑わしています。統一教会の文宣明は、「私は再臨したキリストだ」と言っています。これらの偽キリストの背後にはサタンが働いています。私たちはこのような偽キリストに惑わされないように気をつけなければなりません。

 第二に、災難の連続です(6ー8)。6、7節をご覧ください。「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気を付けて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」国際法協会によると、さる四千年以来戦争がなかった時期はわずか268年だったそうです。今日も絶えず戦争が起こっています。また、アフリカでは飢饉で4歳未満の子ども達が7.5秒毎に一人死んでいます。地震が起きる数もますます増えていますし、それによる死者も増えています。

 しかし、その時、あわてる必要がありません。なぜなら終わりが来たのではないからです。そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。産婦にとって産みの苦しみは新しい命を誕生させるために必然的な過程です。産む時間が迫って来ると陣痛も段々激しくなり、その間隔も短くなります。1時間、20分、10分、5分、1分、そして、ついに「おぎゃー」と大きい泣き声とともに赤ちゃんが生まれます。すると産婦は産みの苦しみを忘れるほど喜びに満たされます。このようにイエス様は戦争、地震、ききん、偽キリストの出現などを新しい世界が渡来するための必然的な過程としてご覧になりました。イエス様は人類の歴史は産みの苦しみのように明確な方向があり、苦しみがありますが完成に向かって行く希望の歴史としてご覧になりました。イエス様が再臨する時が近づくと災難も激しくなります。そして、イエス様が再び来られると私たちは新しい天と新しい地に入るようになります。ですから、災難が連続して起こるとあわてないで再び来られる主を待ち望む心を持たなければなりません。

 第三に、教会に対する迫害です(9ー14)。

 教会に対する迫害は外部からの迫害と内部からの背教があります。9節をご覧ください。「そのとき、人々は、あなたがたを苦しめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」使徒の働きを見ると弟子達は多くの迫害を受けました。大部分の弟子達は殉教しました。クリスチャンが迫害を受けるのは、闇を愛する人々が光を憎むからです。また、教会内部の腐敗があります。10節をご覧ください。「また、そのときは、人々が大勢つまずき、互いに裏切り、憎み合います。」互いに愛し合うべきクリスチャンの間でも互いに裏切り、憎み合い、人々を惑わし、愛は冷たくなります。それではこのような時に、クリスチャンが持つべき態度は何でしょうか。13節をご覧ください。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」外部から迫害を受け、教会内部の人々の間でも憎み合うようになると、つまずきやすいです。しかし、最後まで妥協せず、信仰を守る人は救われます。パウロのように勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した人のためには義の栄冠が用意されています(?テモテ4:7,8)。

 第四に、福音が全世界に宣べ伝えられます。14節をご一緒に読んで見ましょう。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」神様は歴史の主管者です。神様は人類が堕落して後、長い間福音を用意し、ついにイエス・キリストをこの世に遣わされました。イエス様は十字架の死と復活によって福音を完成されました。神様はこの福音宣教を通して人類の救いの御業を成し遂げておられます。福音宣教は決して妨げられることなく、福音は全世界に宣べ伝えられます。それゆえ、福音の世界宣教も終末の前兆の一つです。終わりの日は歴史の終末であり、救いの御業の完成を意味します。表面的に見ると人類の歴史は絶えず戦争や疫病、地震やききんなどがありました。また、キリスト教に対する迫害もありました。しかし、神様はそんな中でも世界宣教の御業を変わらず成しておられます。この世の歴史がどんなに揺れ動いてもその中で神様は全世界に福音が宣べ伝えられるように歴史を主管しておられます。ですから、人類の歴史は初めがあり、終わりの日があります。神様は全世界に福音を宣べ伝えるために私たちを選ばれました。私たちは神様の救いの御業のために選ばれた歴史の主役です。私達が聖書的な歴史観を持って、御国の福音を全世界に宣べ伝えることができるように祈ります。

?.雲に乗って来られるイエス様(15-31)

 イエス様はこれからご自分の再臨について言われます。15ー22節はこの箇所は、紀元70年のエルサレム神殿破壊の予告です。しかし、それだけではなく終末の前兆への注意を述べ、すべてのキリスト者に終末に備えることを教えています。15節をご覧ください。「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば」「荒らす憎むべき者」はカイザルの肖像のついたローマ軍の軍旗を指し、それを持つ軍隊が聖なるエルサレムを囲む時の意味です。そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなければなりません。ところが、歴史家ヨセフォスによると、一人の偽預言者が「神殿に上れば助かる」と言ったことを聞いて神殿に上った人々は皆死んだそうです。またその時には地上の宝に心を奪われてはいけません。ロトの妻は神様の裁きによって滅びるソドムから逃げる時に後ろを振り向いてはいけないと警告した御使いの言葉を忘れて後ろを振り向いた時、塩の柱になってしまいました(ルカ17:31-33)。神様は選ばれた者のために、その日数を少なくされます。

 ところが、再臨の時にもやはり偽預言者と偽キリストが現われてクリスチャンを惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことを見せます。にせ預言者達は大きなしるしや不思議なことをして見せるので惑わされやすいです。そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。なぜでしょうか。27節をご覧ください。「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」キリストの再臨は、他人から「ここだ、あそこだ」と教えてもらう必要も、そのような時間的余裕もありません。それゆえ私達は、「キリストの再臨は、どこそこで、いつ起こった」と言うような異端者に惑わされてはなりません。

 それではイエス様の再臨の時、何が起こりますか。29節をご覧ください。「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」イエス様の再臨の時には宇宙的異変が伴います。今まで秩序を保っていた宇宙に異変が起こり、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ちます。その日は人類の最後の日です。その時、イエス様が来られます。30節をご一緒に読んで見ましょう。「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」再び来られるイエス様は王の王として、裁き主として来られます。輝かしい栄光の姿で来られます。その時、キリストに属するすべての聖徒は、キリストにあって永遠の御国を受け継ぐことができます。そのとき主は、神を知らない人々や、私達の主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けます(?テサロニケ1:8,9)。

 しかし、クリスチャンにとってその日は勝利の日であり、喜びと感激の日です。31節をご覧ください。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使い達は、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」主は号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。その時、いのちの書に名前が記されている人々の名前が呼ばれます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私達が、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。その時に主は主と福音のために自分を犠牲にし、苦しみを受けたクリスチャンの目の涙をぬぐいとってくださいます。そして、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と誉めて下さいます。それから神様が用意された新しい天と新しい地に入り、私達は、いつまでも主とともにいることになります(?テサロニケ4:16,17)。そこはもはや死もなく悲しみもなく罪もないパラダイスです。ですから、選びの民であるキリスト者にとって、イエス様の再臨は、究極的な救いが実現する待望の時であり、喜びの時であり、勝利の時です。この望みは私たちを失望させることがありません。この望みがある時、私たちはどんな苦難の中でも失望することがありません。

?.目を覚ましていなさい(32-51)

 それではイエス様の再臨を待ち望む人々はどんな生活をしなければならないでしょうか。32,33節をご覧ください。「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」以上の終末の前兆を見たら、終末が近づいていると知るべきです。イエス様の再臨はどれだけ確かなものですか。35節をご覧ください。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」イエス様は終末の預言が絶対に成就することを強調されます。今までイエス様の預言の御言葉は一言も間違いなく成就されて来ました。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知らない一級秘密です。ですから、もし何年何月何日にイエス様が来られると予告する者があれば、それは偽キリスト、偽預言者です。イエス様はその日、その時がいつであるかは、誰も知らないとはっきり言われたからです。ただ、終末の預言や前兆が与えられているので、その日、その時が近づいたことを知って、いつも目をさましていなければなりません。

イエス様が来られるのは、ちょうど、ノアの洪水のようです。人々は、ノアが箱船にはいるその日まで、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりすることにしか関心がありませんでした。そして、彼らは洪水によってみな滅びました。

 それでは再臨を待つクリスチャンの生活がどうであるべきでしょうか。42ー44節をご覧ください。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」イエス様は私たちが今日のように礼拝をささげている時に来られるか、家で寝ている時に来られるかわかりません。ですから、いつでも主を迎えることができるように目を覚ましていなければなりません。

 それでは目を覚ましているということはどのようにすることでしょうか。45ー51節をご覧ください。忠実な思慮深いしもべにならなければなりません。忠実な思慮深いしもべは主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えます。主人が帰って来た時に、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。このしもべの立場はすべてのキリスト者に当てはまります。すべてのキリスト者は、主からの賜物を与えられて、その管理を任されているからです。いつも主の再臨に備えて目をさまし、用心しているキリスト者こそ、忠実な思慮深いしもべとして、主から任された努めを全うする生活に進みます。しかし、目を覚ましていないしもべはどうですか。彼は「主人はまだまだ帰るまい。」と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりします。しかし、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。酔っ払って仲間達を打ちたたいているしもべを見た主人は彼をきびしく罰するに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。彼が悪いしもべになったのは、主人はまだまだ帰るまいと心の中で思ったからです。多くのクリスチャンの堕落も、「主の再臨などはない」と考える不信仰に起因しています。私達がキャンパスで伝道している時にイエス様が再臨すればどんなに嬉しいことでしょうか。兄弟姉妹達のために涙を持って祈る時に主が来られたらいいでしょう。1:1聖書勉強している時に来られ、羊と牧者が一緒に主を迎えたらどんなに幸いなことでしょう。主は「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と誉めて下さるでしょう。私達が忠実な思慮深いしもべたちになるように祈ります。

 結論、神様は歴史の主管者です。私達が住んでいるこの時代には多くの終末の前兆が起こっています。それほどイエス様が再び来られる時が近づいていることになります。私達が最後まで耐え忍び、喜びを持って主を迎えることができるように祈ります。また、任されたキャンパスの牧者としての使命を忠実に果たすことができるように祈ります。