2001年 マタイの福音書第33講

契約の血

御言葉:マタイの福音書26:1?30

要 節:マタイの福音書26:28「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」

 Happy Christmas! 今年も喜びで胸がときめくクリスマスシーズンになりました。人々は12月になると、今年のクリスマスには何かいいことが起こるだろうと期待します。しかし、信仰のない人には何も起こりません。イエス様を救い主として信じて心から受け入れる人々だけにこの上もなく喜ぶ喜びが与えられます。

今から2000年前、全人類の救い主としてお生まれになったイエス様は全人類の罪のために多くの苦難を受けました。ついには、罪を赦すために、多くの人のために、この私のために十字架につけられて御血を流されるようになりました。ところが、イエス様は十字架につけられて御血を流される前に、一人の女の人から香油を注がれました。イエス様はいと高き方として拝められたのです。

どうして、イエス様はそれほどに崇められたのでしょうか。イエス様は最後の晩餐会の時にその意味を教えてくださいました。聖霊様が私たちのうちに働き、その深い意味を教え、悟らせてくださいますように祈ります。

?。イエス様に香油を注いだ女(1?13)

 1,2節をご覧ください。1節には「イエスは、これらの話をすべて終えると」とあります。イエス様は今まで語って来た四つの再臨についてのたとえばなしを終えられると、これから起こるご自分の受難に関して予告されます。二日たつと過越の祭りになります。過越の祭りはユダヤ人が偉大な歴史的出来事である出エジプトを記念して守った祭りです。彼らは自分たちをエジプトの奴隷からの解放し、約束の地に定住するようにして下さった神様の恵みを覚え、傷のない1歳の雄の子羊をほふって家の門柱とかもいに塗りました。それは神様が10の災いを持ってエジプトをさばかれた時、イスラエルの民は家の門柱とかもいに子羊の血を塗ることによってさばきと罪の奴隷から救われたからです。それゆえ、毎年過越の祭りには全イスラエルが罪の赦しを求めて何千、何万頭もの小羊をほふりました。ところが、今度の過越の祭りにはイエス様ご自身が過越の子羊になって罪のために、多くの人のために御血を流されるようになります。イエス様が過越の子羊になって全人類を汚れと罪から救い出し、罪の拘束と永遠の滅びから解放する、つまり真の自由を与えてくださる過越の祭りになるのです。

そこで、イエス様はご自分は十字架につけられるために引き渡されますと語られました。そして弟子たちがキリストの十字架に直面した時にそれに耐えられるように、キリストの十字架の後、復活と再臨を待ち望む期間の預言と励ましのためにも語られたのです。

そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、イエス様をだまして捕え、殺そうと相談しました。民衆を恐れたので、すぐに捕えに行ったのではありませんが、イエス様の十字架につける具体的な動きが始まったのです。イエス様はこの緊迫した状勢の中でベタニヤに行かれました。

6,7節をご覧ください。イエス様はエルサレムからわずかに離れたベタニヤに行かれました。ヨハネの福音書によると、この出来事は、このベタニヤの3人兄弟、ラザロ、マルタ、マリヤの家で起こったことのようです。もしそうしますと、らい病人シモンとは彼らの父親あるいは親戚ということになりますし、一人のの女とは3人兄弟の一人マリヤということになります。

マリヤはたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓についておられたイエス様の頭に香油を注ぎました。それは「非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラム」でした。ナルドは、おみなえし科の草で、今日もなお、ヒマラヤ山中の村々で栽培されていると言われています。またその乾燥したものは漢方の甘松香(かんしょうこう)として輸入されているそうです。(聖書辞典) さらにヨハネはイスカリオテ・ユダがもしこの香油を売れば三百デナリにはなったことを語っていると記しています。今日の日本の価格で言えば300万円程に当たります。石膏の壷に油を蓄えることは、今日的には貯金と似た感覚があると思います。マリヤは少しずつ香油をつぼに入れるたびにその心の愛情も入れられていたことでしょう。マリヤはその大切な香油をイエス様の頭から足先まで、惜し気なくを注いだのです。

ナルドは大変香りの強いものだそうで、シモンの家は、このナルドの強いしかも麗しい香りでいっぱいになったと思われます。この香りはこのシモンの家だけにとどまらず、そのままピラトの法廷に、ゴルゴタの丘にまで香り続けたはずでしょう。(「聖書辞典」)

このマリヤの行動に対する人々の反応はどうでしたか。8,9節をご覧ください。これを見た弟子たちは憤慨しました。彼らにはこれが無駄なことに思えたようです。もし私が、この場にいたら、同じように憤慨したかも知れません。300万円は常識を超えています。非常識ではなく超常識です。普通の感覚では理解できないかも知れません。

そこで彼らは「この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」と言いました。使徒ヨハネによれば、この中心人物はイエス様を裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダです。彼らの考えは合理的で実用的でした。彼らはこの女が香油を無駄に使ったと思いました。実用的な立場から見ると、マリヤの行動は非生産的で愚かなものです。しかし、彼らはマリヤの心を見ることができませんでした。マリヤの真心と愛情を見ることができませんでした。彼女の純粋で献身的な愛を見ることができなかったのです。なぜなら、彼らは貧しい人たちに心を配っているようですが、実はお金に関心があったからです。彼らは物質主義者でした。実際にヨハネはユダに対して「彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである」(ヨハネ12:6)と記しています。

今日も物質的で実用的な価値観を持っている人たちは私たちが主にささげる真心を見て非現実的であり、非生産的であると非難します。私たちが伝道のために時間と物質をささげ、マンツーマン聖書勉強のために心を注いで犠牲することに対しておかしく思います。しかし、外見上は何もかも無駄遣いをしているように見えても、実は内的にはどこでも得られない貴いものを得ています。私たちはいのちを生かす働きを通して本当の満足と喜びを享受します。また、御言葉と霊的な生活を通して確実な人生観と霊的な価値観を持ち、どんな状況の中でも揺れることのない信仰を持つようになります。また、この世に対する正しい見方、この世で勝利する内的な力を持つことができます。お母さんの涙をH2Oで計算できないことと同じく、主と福音のためにささげる真心を物質によって計算することはできないのです。

ではイエス様はマリヤの行動をどのようにご覧になりましたか。10節をご覧ください。イエス様は言われました。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。」イエス様はマリヤの真心を快く受け入れてくださいました。私たちは真心を込めてマンツーマン聖書勉強をし、兄弟姉妹たちに仕えたつもりなのに、それが人々から誤解されたり、非難されたりすると非常に悲しくなる時があります。「貴い時間と物質を無駄遣いしたんだなあ」と思われるのです。しかし、結果はどうであっても私たちが神様にささげた真心と献身は何一つ無駄にならず、主に受け入れられています。また、考えてみると、キリストに献げられるものでささげすぎるというものは無いと思います。なぜなら、イエスキリストが私達に何をしてくださったのかを考える時に、それに十分答える事が私達に出来ると言えないからです。十字架の上で私達のためにキリストが払われた代価の大きさ、その愛の深さ、その価値、このキリストがささげてくださったものと比較して私たちがキリストになしうるものは、わずかです。

何よりも彼女の行動はイエス様に対してりっぱなことをしたことでした。「りっぱなこと」とは美しいこと(a beautiful thing)です。自分のために惜しみなく使いながらも主と福音のためにはけちな人を見ると醜く見えます。しかし、主と福音のために真心をささげ、惜しげなく献身している人々を見るとほんとうに美しく見えます。

11節をご覧ください。イエス様は言われました。「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」この御言葉は決して貧しい人たちに施しをすることを否定しているわけではありません。タイミングが問題です。私たちは何よりもまず、貧しい人よりもまず、キリストを愛し、キリストに仕えなければなりません。人を愛し、人に仕えることはその次です。貧者救済などの慈善に心を奪われて、キリストを忘れ、あるいは後にする者は、キリストのすもべではありません。マリヤはまず第一にイエス様を愛したのです。イエス様はこの女性の行動を次のように評価しておられます。

12節をご覧ください。「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」ユダヤでは香油を葬儀の時に死体や衣服に塗って用いられるという習慣がありました。イエス様はこの女性の行為を当時の習慣化されていた死者への備えの行為として受け止められたのです。そして言われました。「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」とあります。今、マリヤのしたことは、今日の礼拝で語られました。これもこのイエス様の預言の成就でもあります。東京UBFだけでなく、世界中の教会でこの女性の話が何回語られたでしょうか。おそらく何千何万何億と言う回数のメッセージが語られたと思われます。神様は名のある政治家の慈善事業やスターのチャリティーではなくこの一人の女性のささげもの、いや献身と言ったほうが良いかも知れません。それを福音と共に語られ続ける記念とされました

先月23日私たちは故洪ヨセフ宣教師の一周忌記念礼拝をささげましたが、私は彼に対する寺崎アブラハム牧者の思い出を聞きながら大きな恵みを受けました。寺崎牧者は10年余る付き合いの中で一度も彼から不平不満のことばを聞いたことがないと告白しました。彼は日本のみわざにおいてもほんとうに献身的に仕えました。特にクリスマスが間近になると、彼の献身の生涯とクリスマス演劇のために全身全霊を尽くした姿が思い出されて来ます。彼の短い人生はイエス様のためにささげられたささげものです。

私たちの人生はそれぞれ最後には神様にささげられる作品のように思えます。自分の一生をどのような作品として描いて神様にお渡しするのでしょうか。純粋なナルドの香油のように良き物をいさぎよく(潔く)主にささげ、主のかおりで満ちるような人生を主におささげ出来たらどんなに幸いでしょうか。

?。最後の過越の食事(14?30)

 14?16節をご覧ください。「そのとき」とありますが、ユダはマリヤの300万円にも相当する高価な香油をただイエス様に注いだ姿を見て、イエスを売る決心をしたようです。その時、彼は祭司長たちのところへ行って、イエス様を売り渡す交渉をしましたが祭司長たちは銀貨30枚を支払いました。この銀貨はシェケル銀貨で、一シェケルは4デナリであるから、銀貨30枚は120デナリです。

マリヤが300デナリもする香油をイエス様にささげたに対し、ユダはその半額にも満たない120デナリのためにイエス様を売り渡したのです。何と恐ろしい対照でしょうか。まさに、彼の心に「サタンがはいった」(ルカ22:3)としか考えられません。人間がサタンの思いのままに動かされるとは実に恐ろしいことです。

 17?19節をご覧ください。いよいよ、「種無しパンの祝いの第一日」が来ました。これは、イスラエルの民が神様によってエジプトから脱出することができたことを記念して行われる過越の祭りを指しています。この祭りは一週間行われましたが、ユダヤ人たちはこの一週間パン種(イースト菌)を入れないパンを食べたので、種無しパンの祝いとも呼ばれていました。その第一日目の夜、ユダヤ人は家族そろって、聖書の定めに従って特別な食事をします。これが「過越の食事」です。

 弟子たちはイエス様が命じられたとおりにしてこの過越の食事を用意しました。こうして、イエス様と弟子たちの最後の晩餐は始まりました。愛する人たちと一緒に食事をすることは本当に楽しいことです。私は職場でどんなにつらいことがあったとしても家に帰って家族と一緒に食事をする時間は幸せを感じます。ところで、イエス様は12弟子と一緒に過越の食事をしながら、衝撃的な事を言われました。

21節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」とあります。イエス様は自分の最も親しい弟子達であった十二人のうちの一人によって裏切られると言われました。それを聞いた弟子達は皆驚いて、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエス様に言い出しました。「主よ。まさか私のことではないでしょう。」という彼らの質問は誰でもイエス様を裏切る可能性があることを現わしています。イエス様は、十二人の中のひとりで、イエス様といっしょに、同じ鉢にパンを浸している者だと言われました。そして彼に警告の御言葉を言われました。「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」イエス様はご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられました。ですから、一日も早く処罰しなければなりませんでした。しかしイエス様はそのようにされず、裏切る者を過越の食事に招かれました。それでは、なぜイエス様はご自分が裏切られるのを弟子達に公開されたのでしょうか。

 第一に、イスカリオテ・ユダを助けるためでした。イエス様はユダを最後まで愛してくださり彼が悔い改める機会を与えてくださったのです。自分を裏切る者さえこのように最後まで愛するイエス様の愛に感動します。

 第二に、弟子達の心を用意させるためでした。イエス様がただユダの裏切りによって死なれたとすれば、イエス様の死は何の意味があるでしょうか。しかしイエス様の死は聖書に書いてあるとおりになることです。イエス様はそれを弟子達に教えてくださることによって弟子達の心を用意させられました。

26節をご覧ください。食事をしている時イエス様は十字架の死の意味を言われました。イエス様はパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」イエス様はパンをご自分のからだと言われました。それはイエス様が私達の罪のために十字架につけられ体が裂かれることを言ってくれます。イエス様は、また杯に対しては何と言われましたか。

27、28節をご一緒に読んで見たいと思います。「また、杯を取り、感謝を捧げて後、こう言って彼らにお与えになった。「みなこの杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」 イエス様は杯をご自分の契約の血だと言われました。そして、この血は罪を赦すために多くの人のために流されるものだと言われました。それではイエス様はなぜ血を流しながら死ななければならなかったのでしょうか。イエス様の血はどんな役割をし、その力はどうでしょうか。

 罪はひどいもので罪を犯した者にその代価として死を要求します(ロマ6:23a)。死は肉体の死だけではなく魂の死も意味します。人間には一度死ぬことと死後には裁きを受けることが定まっています。罪を犯した人間には死んだ後に火と硫黄との燃える池の中に入る第二の死が待っています(黙21:8)。それは非常に深刻な問題であり、恐ろしい問題です。人間はこの罪の問題が解決できない限り決して幸せになりません。ところが人間は罪の問題を解決するためには血を流して死ななければなりません。レビ記17:11を見ると肉体のいのちは血にあるからです。それで、旧約の時代の人々は人間の代わりに動物の血を流し贖うようにされました。イスラエルの地で毎年過越の祭りの時、数千、数万頭の子羊がほふられて、その血が流れたのは罪を赦してもらうためだったのです。しかし、動物の血は根本的に人間の罪の問題を解決することができませんでした。神様はこのような人間を哀れみ、救いの道を開いてくださいました。イエス様ご自身が子羊となられ、御血を流されるようにして下さったのです。今から約2000年前にイエス様は神の小羊としてこの世に来られ、全人類の罪を背負って十字架につけられました。バプテスマのヨハネはこのイエス様を見て言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)。イエス様は何の罪もない方ですが私達の罪のために十字架につけられ私達の代わりに死んで下さいました。そして私達の罪の問題を解決してくださったのです。ここで私達はイエス様の血に対して二つのことを学ぶことができます。

 第一に、イエス様の血の恵みです。私達の罪が赦され永遠の破滅から救われたのは、私達の行ないや自己義によってではありません。ただイエス・キリストの血の恵みのゆえです。ローマ人への手紙3:25には次のように書いてあります。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。」血による新しい契約は私達の行ないを要求するのではなく信仰を要求します。新しい契約はイエス様が私の罪のために死なれたことを認めてイエス様を心の中に救い主として受け入れることだけで成立するものです。するとイエス様の血は私達のすべての罪を赦し、私達を永遠の破滅から救ってくださいます。

 第二に、イエス様の血の力です。ある人は自分のような罪人は救われる見込みがないと言います。またある人は繰り返して罪を犯すと主は赦してくださらないかも知れないと思います。しかしそれはイエス様の血の力を知らないからです。ヘブル人への手紙9:13,14は言います。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私達の良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」イエス様の血は十字架の強盗を新しく生まれさせる力がありました。サマリヤの女を新しく変える力がありました。映画「親分はイエス様」を見るとやくざも変えられて神様のしもべになります。

イエス様があのゴルゴタの丘の上で「罪を赦すために多くの人のために流された」契約の血は私のためにも流された血です。イエス様が「罪のために多くの人のために御血を流された」ために私のような者も救われて新しい人生を過ごすようになりました。罪の中でビリの人生、惨めな生活をしていた私を罪と病から救い出し、宣教師の人生を生きるようにして下さったイエス・キリストの御血の恵みを心から感謝します。

結論的に、イエス様は過越の小羊として私達の罪のために十字架につけられました。イエス様は十字架につけられ体が裂かれ、血を流してくださいました。イエス様は私たちの罪を赦すために尊い血を流されました。誰でもイエス様が自分の罪のために十字架につけられて御血を流されたことを信じると、キリストの血によってきよめられます。

私たちが2001年クリスマスを迎えてキリストの誕生ともに十字架の死、罪のために多くの人のために流された契約の血の恵みを覚えて神様に感謝することができるように祈ります。罪のために多くの人のために貴い御血を流されたイエス様に純粋なナルド香油を注いだ女性のような真心と愛を注いでクリスマスの礼拝を準備することもできるように祈ります。