2002年エペソ人への手紙第6講
光の子どもらしく歩みなさい
御言葉:エペソ5:1‐21
鍵 句:エペソ5:8「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」

 私はたまに自分の人生を自分らしく生きて行きたいと思います。男として男らしく、親として親らしく生きたいです。宣教師として宣教師らしく、教師として教師らしく歩んでいきたいのです。ところが、今日の御言葉は私たちに「光の子どもらしく歩みなさい」と命じています。果たして光の子どもらしく歩むということはどういうことでしょうか。この時間、聖霊が私たちのうちに働いてくださり、光の子どもらしく歩む生き方を教えてくださるように祈ります。本文の御言葉を三つに分けて学びたいと思います。「第一に、神にならう者となりなさい。第二に、光の子どもらしく歩みなさい。第三に、賢い人のように歩みなさい。」です。

第一に、神にならう者となりなさい(1-7)
1節をご覧ください。「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」ここでパウロが使っている「ならう」は、ギリシヤ語では、「模倣する」とか「真似をする」という意味になっています。「日本人は模倣するのが上手だ」とよく言われるし、「物まね大会」もよく行いますが、そういう時に使う「まねる」ということなのです。ならうことに抵抗感を感じ、勉強が大嫌いだという方もいますが、実は、「神様の物まねをしなさい」と言っているのです。物まねをすることは面白く、楽しいでしょう。信仰生活も本当はそうです。
 そして、「愛されている子どもらしく」とあります。パウロは、両親に愛されている子どものことを話しています。幼い子どもは、親から愛されていることによって生きています。そして、親が言うこと、行なうことを真似しながら生きています。私たちは御怒りを受けるべき子どもでしたが、神様の大いなる愛によって神様の子どもとなりました。ですから、私たちは愛されている神様の子どもらしく、神様が言われること、行うことを真似して生きなければならないのです。私たちが真似する対象はタレントや俳優、スポーツ選手ではありません。この世の価値観や世の流行ではありません。創世記6:2節では、当時の神様の子どもたちが世の人々を真似していたことを教えてくれます。「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とあります。「神の子ら」とはクリスチャンを指し、「人の娘たち」とはノンクリスチャンを指しています。クリスチャンが世の人々の世俗的な価値観を真似して肉体的な美しさを見て結婚しました。世の人々がクリスチャンのライフスタイルを真似しなければならないのに、むしろクリスチャンがノンクリスチャンの真似をしていたのです。神様のこのようなクリスチャンの生き方をとても悲しまれたので、主の霊は彼らのところに留まりませんでした(創6:3)。結局、ノア洪水によってさばかれるようになりました。私たちはこの世にならう者ではなく、神様にならう者でなければなりません。この世の人々が何をしようも、どのように生きていようとそれらを真似してならないのです。みんなが肉の欲に従って結婚するから、私もそのようにしようとしてはなりません。みんながお金のためなら何でもするから、私もそうしようというふうに生きていてはならないのです。ローマ人への手紙12:2節は言います。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」では具体的に神様にならうことは何でしょうか。
2節をご覧ください。「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」イエス様は私たちのためにご自身を神様へのささげ物として神様におささげになりました。これより大きい愛はありません。ローマ5:6-8節を見ると「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とあります。私たちがならうべき神様はまさにこの愛の神様なのです。 
私たちが生きているこの世には愛という言葉が氾濫しています。映画にも、演劇にも、歌にも、小説にも愛ということば使われています。また愛がささやかれていて、愛なしには生きられないような有様です。それにもかかわらず、多くの人々は愛に渇いています。それは、本当の愛は自分自身が犠牲を払って、ほかの人に与えるものであるのに、人々は自分のためにすべてを奪うものとして考えているからです。「あなたは愛されるために生まれた。」というゴスペルソングはノンクリスチャンも歌っているほど流行っていますが、「愛するために生まれた」という歌はまだ聞いたことがありません。それほど人は愛されることだけを求めています。しかし、私たちの主イエス様が私たちを愛するためにこの地に来られました。その愛の模範は、「ご自身を神へのささげ物、また供え物」としておささげになった自己犠牲です。この愛が分かれば、私たちは愛される価値のない者をも愛してくださるその愛のゆえに、高慢で自己中心的な人でも愛することができます。
 牧者や宣教師たちは純粋に兄弟姉妹たちを犠牲的な愛によって仕えています。自分の勉強や、仕事だけでも精一杯なのに時間と物質をささげて兄弟姉妹たちに仕えようとしています。それが可能なのは私たちが主から、あるいは先輩の牧者や宣教師からそういう神様の愛を受けたからです。L.Aのマリロペス宣教師は自分の家をオープンして共同生活をしながら兄弟姉妹たちに仕えています。これはやさしいことではありません。人間的に考えるとこのような愛を施す義務がありません。それにもかかわらず、こういう愛を施すことができるのは、キリストの愛のゆえです。キリストの愛はこの世の中がどんなに利己的であってもその光を照らします。キリストの愛を受けている私たちクリスチャンがその愛にならって生きている限り、その愛は続きます。
 3節をご覧ください。「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。」とあります。当時、エペソは豊かで、活気のある、誇り高き港町として栄えていました。市民生活のために劇場、音楽堂、巨大な銭湯、ラブホテルなどがありました。エペソにあったアルテミスの壮大な神殿は、古代世界の不思議の一つです。そこに建てられたアルテミス女神は24個の乳房を持っていました。エペソは偶像崇拝と性的堕落のシンボルになっていたのです。クリスチャンもこのような雰囲気の中で、不品行とあらゆる汚れ、むさぼりに心が奪われてしまいました。彼らは教会から出ると、下品な冗談を交わしました。
4節をご覧ください。「また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」とあります。彼らはクリスチャンとして呼ばれながらも、私的に集まった時は、みだらなことや、愚かな話で下品な冗談をしていたのです。パウロは「そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」と勧めています。言葉はその人の人格を表わします。美しいことば、高尚な言葉、霊的な言葉は人の心を潤し、生かします。今の時代も下品な冗談が氾濫しています。だからと言って私たちクリスチャンさえこのような世の調子に合わせてはいけません。冗談だからといって何でも話してはいけないのです。私たちはこの世の人々と違うべきであり、世俗社会とは区別された生活をしなければなりません。偶像崇拝者たちと同じ言葉遣いをするなら神の御国を相続することができません。マタイの福音書7章21節には、「『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」というイエスさまご自身の言葉があります。私たちはむなしいことばに、だまされてはいけません。神様の怒りは不従順の子らに下るのです (6,7)。 
第二に、光の子どもらしく歩みなさい(8-14)。
私たちの過去と現在はどのように違いますか。8節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」イエス様を信じる以前は暗やみでしたが、イエス様を信じている今は、主にあって光となりました。過去私たちは道徳的にも無感覚になり、好色に身をゆだねていました。あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっていたのです。これが「暗やみ」です。しかし、今は、「主にあって、光となりました。」とあります。キリストによって新しい人に変えられて光の子どもになりました。光の子どもたちは考え方が明るく、肯定的で、積極的です。その生活には活気があり、愛に溢れています。キリストのうちにいのちがあり、本当の愛があるからです。このイエス様・キリストの光が私のたましいに照らされて私たちは暗やみの人生から光り輝く人生に変わりました。ですから、私たちは光の子どもらしく生きるべきです。
それは神様にならい、その愛を実践することです。そうすると、あらゆる善意と正義と真実の実を結びます。ところが、実は自然に結ばれるものではありません。具体的に主に喜ばれることが何であるかを見分けなければなりません。見分けなければ、この世の暗やみに引っ張られて行きます。ですから、神様に喜ばれるための闘争が必要です。主に喜ばれる生活の土台は信仰です。ヘブル人への手紙11:6節は言います。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」神様がおられることを信じて瞬間瞬間神様の御前で生きる生活、また神様を求める者には報いてくださることを信じる信仰によって生きる生活、これこそ光の子どもらしく生きることです。
11節をご覧ください。「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。」 私たちが、主にあって聖い生き方をしていると、周りにいる人たちは、自分たちが何を行なっているのかを知るようになります。私たちは適当にこの世と調子を合わせて生きているクリスチャンに出会うと、自分が損しているかのように思われます。牧師でも、神父でもないの奉仕しすぎているのではないかと思うのです。しかし、本当にきよく正しく生きているクリスチャンに出会った時は、口にすることも恥ずかしい自分の姿が現われて来ます。私たちが暗やみのわざに仲間入りしないで光の子どもらしく生きる時こそ、眠っている人も目をさめてキリストの光に照らされるようになるのです。暗やみのわざが明らかにされて、人は光のところに来るようになります。自分の行ないに気づき、悔い改めて、神を信じるようになるようになるのです。つまり、暗やみの中にいて眠っている人が目をさまして、神様に立ち返り、光の中に入れられるようになるのです。そして、彼らが光の子どもらしく歩んでいくと、彼らを通してまだ暗やみの中にいて眠っている人が目を覚まして神様に立ち返り、光の中に入れられるようになるみわざが起こり続くようになります。
第三に、賢い人のように歩みなさい(15?21)
 15、16節をご覧ください。「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」とあります。パウロは、5章のはじめから、エペソの信者たちが、異教的な社会の中にいることを念頭に入れながら話しています。彼らが住んでいるエペソは、不品行や汚れが充満し、口に出すことさえも恥ずかしい暗やみのわざを行なっている者たちがいます。このような時代に住んでいる者にとって大事なことは、賢く歩むということです。よくよく注意しなければ、不品行や汚れた充満している世の中で正しい価値観を持って生きることが難しくなってしまいます。ですから、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなければなりません。若い時にもっと価値あることのために励まなければなりません。健やかな時、弱い人を助けることができます。健康な時に大声で祈ることも、伝道することもできます。勉強もそうです。年をとれば取るほど一日が短く感じられるようになります。ある人二十代の時時速20km、30代の時は時速30km、四十代の時は時速40kmの速さを感じるそうです。まだ若い時、健やかな時、機会を十分に生かして主と福音のためにもっと励むことができるように祈ります。17、18節をご覧ください。「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」先ほどは、「主の喜ばれることはなにか、見分けなさい」でしたが、ここでは、「みこころは何であるかを、よく悟りなさい。」という勧めです。この場面における主のみこころは何か、あの場面では主はどのようにお考えになっているのか、一つ一つを、みことばに照らしあらわせながら調べていく必要があります。そして次にパウロは、賢い人として歩むこととして、「御霊に満たされなさい」という勧めをしています。御霊がどのような方ですか。イザヤ書11章2節に書かれています。「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」御霊は、知恵と知識の霊です。私たちが自分の知恵で考えていると、疲れてしまいます。伝道者の書では、知恵を尽くして労苦しても、むなしいということをソロモンが述べていますが、知恵を尽くせば労苦が増えるのです。そこで私たちは、自分たちの意志を支配する、何らかの影響力を欲します。何もかも忘れて何かに支配されてたくなるのです。そこで多くの人は酒に走るのです。しかし、私たちクリスチャンは、神様の御霊に求めることができるのです。神様の御霊が私たちを満たされるとき、私たちは、自分自身からではない、上からの知恵が与えられます。その知恵にしたがって生きることは、とても楽なことなのです。もちろん、それは労苦がなくなったということではありません。いろいろ労しますが、しかし、御霊から知恵をいただいているので、とても楽なのです。そこでパウロは、「御霊に満たされなさい」と勧めています。そして御霊の満たしの現われとして、次のことも勧めています。19節をご一緒に読んで見ましょう。「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」素晴らしいですね。私たちが賛美の歌によって、心が満たされます。私たちは、どのような時でも、賛美することができます。寝床から起き上がったときから、トイレで用を足しているときも。皿を洗っているときも。電車の中で吊革につかまって立っているときも、声に出さなくても心の中でうたうことさえできます。私たちが御霊に満たされて、そして、賛美を心から歌うのです。20節をごらんください。「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」 賛美だけではなく感謝します。私たちはどんなときに感謝するのでしょうか。「いつでも」ですね。どんなことについて感謝しますか?「すべてのことについて」です。ある一部のことではありません。そして、誰を通して感謝しますか?主なるイエス・キリストをとおしてです。イエスさまにあって、私たちは感謝することができます。そして誰に感謝しますか?「父なる神」です。感謝な思いになるだけでなく、神に感謝をささげる行為が大事です。それから、御霊の満たしの現われとして、キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。 とあります。私たちは、だれにも従いたくない肉の性質を持っています。自分の意思を貫きたい、自分が支配したいという思いを持っています。そしてクリスチャンだと、「私はキリストに従っているけれども、あなたには従わない。」という考えも持ってしまいます。けれども、ここでは、キリストを恐れ尊んで、従いなさい、と命令されています。私たちは、主に従うように、人にも従っていくのです。このことも、御霊の満たしによってしていくことができます。

結論的に、私たちは、神様にならうことについて学びました。それは、愛のうちに歩むこと、光の子どもとして歩むこと、そして賢く歩むことです。不品行なことを口にさえ出してはならないこと、暗やみのわざを明るみにすること、そして、主のみこころは何かをよく悟ることでした。この時間、私が本当に自分らしく、宣教師らしく、牧者らしく生きているのか、何よりも光の子どもらしく生きているのかを顧みることができるように祈ります。