2007年ヨハネの福音書9講

いのちをお与えになるイエス様

御言葉:ヨハネの福音書5:19-47         
要 節:ヨハネの福音書5:24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

 先週、私たちはイエス様がベテスダの池のほとりで38年間も病気だった人を癒してくださったことを学びました。病人はイエス様の御言葉を聞いて癒されました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われるイエス様の御言葉を聞くと、歩き出すことができたのです。
そこで、イエス様は神の子、イエス・キリストの言葉を聞くことの大切さを教えてくださいます。事実、私たちの生活の中でも「聞く」というのはとても大切なことです。人の言葉でもよく聞くことは大切なことなのです。この世の中には様々な問題がありますが、その原因の一つは、「聞く」という姿勢が、本当におろそかになっているからだと思います。例えば、「国民の声を聞かない」「先生の言うことを聞かない」「親の言うことを聞かない」「子どもの言うことを聞かない」ことなどが取り上げられると思います。聞くよりも自分の考えを主張する自己中心ばかりです。私は学校で自分が受け持っている生徒たちに朝礼や終礼を通して伝達事項を伝えますが、私が伝える前に自分の質問だけを言う生徒がますます増えています。話を聞いていれば質問しなくても済むのに、聞こうとしないで自分に必要なことだけを求めるのです。それで、私は毎日のように生徒たちに「まず静かに聞きなさい。」と言っていますが、本当に「聞く」と言う姿勢は大切だと思います。
親が子どもの話を聞いてあげることも大切です。私は教師として問題行動を起こした子どもの話を聞いてみると、自分の話をそのまま黙って聞いてくれる人がいなかったのかなと思われる時がよくあります。自分の言葉に同意してくれる人がいないのは、かなり寂しいでしょう。子どもたちは親も説教するだけで、本当のところ、気持ちを分かってくれないと思いが強く、ついつい「こっちを向いて」の意思表示として、問題行動をとる場合が多くあります。しかし、同意してくれないまでも、黙って聞いてくれる人がいるだけでも救われたと言われる時もあります。ですから、親はじっくり子どもの話を聞く態度を学び、人と人としてつきあえる親子関係を作って行く必要があります。牧者や宣教師も兄弟姉妹たちに御言葉を丁寧に教えることも大切ですが、よく聞いてあげることはとても大切なことです。どんなことでもよく聞いてあげることができるなら、その人はほんとうに素晴らしい人です。ただ、聞いてあげるためには、日ごろ自分自身がよく聞く生活をしなければなりません。何よりも大切なのはイエス様の御言葉を聞くことです。人の言葉を聞くという姿勢も大切ですが、それよりイエス様の御言葉を聞くことが重要なことなのです。なぜならイエス様の言葉こそがいのちを与えてくれるからです。
そういうわけで、今日は「いのち」をお与えになるイエス様の御言葉を聞くことについて学びます。主の御言葉を聞いて、主の言葉を悟る、その御言葉の意味が分かる、心に響くということほどに、素晴らしいことはありません。そのことに勝る喜びはありません。時々、私は月曜日に同僚の顔を見て感じていますが、日曜日にゆっくりと昼寝したり、ゴルフをしたりする人よりも教会で御言葉を聞いている人が輝いています。なぜなら御言葉を聞くことは、ただ知識が増えるということではなく、今、ここに生きる力であり、いのちであるからです。さらに、それは私だけではなく、私に関わるすべての人々の生涯に深い影響を与えることであるからです。人間の救いが、いのちが、主の言葉を聞くことにかかっています。
 どうか、この時間、イエス様の御言葉をよく聞いて生き生きといのちにあふれた人生を生きることができるように祈ります。

?.聞く者は生きるのです(19?29)
19節をご一緒に読んでみましょう。「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」ここに、「まことに、まことに(アーメン、アーメン)」が記されています。この「まことに」ということばは、「真実です」「その通りです」という意味のことばです。イエス様は、重要なことを教えられる時、いつも「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」と前置きして話されます。そして、今日の本文の中では24、25節にも同じ言葉が繰り返されています。と言うのは本文の御言葉は主イエス・キリストがその言葉を聞く人々に、どうしてもわかって欲しい、よく聞いて欲しいという願いをこめて、語った重要な言葉なのです。ですから、私たちも同じように、心を開き、耳を澄まして聞かなければなりません。この言葉に私たちのいのちが、それも永遠のいのちがかかっているからです。
ここで、イエス様はご自身が父なる神様と等しく一つであることを説明しておられます。イエス様は子なる神様としてのご自身の行ないは、そのいっさいが神様の行ないを手本として行ない、完全に一致したものであることを強調しておられるのです。実際に38年もの長い間床に伏せっていた病人が癒されたのはイエス様を通して行なわれた神様の力あるわざでした。父なる神様がしておられることを見て行なう、神様の行ないを手本にして行なうことこそが、イエス・キリストの偉大な力の源であったのです。そして、神様と等しく一つである行ないができた土台、その源泉は、神様が御子に注がれた愛です。
20節をご覧ください。「それは父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」とあります。父なる神様が御子を愛して、ご自分のなさることをみな、御子にお示しになるからこそ、水をぶどう酒に変えることも、死にかかっている王室の役人の息子や38年もの長い間病気だった人を癒すこともできました。さらに、イエス様は「また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。」と言われました。では、その大きなわざとは何でしょうか。
21、22節をご覧ください。子なるイエス様は、さらに大きなわざとして、父なる神様と同様、死人(霊的いのちを失った人)にいのちを与えて生かします。同時に父なる神様に代わってさばく権威も与えられました。私たちの救いだけではなく、さばきもまた、イエス様の御手に委ねられているということは驚き怪しむことですが、イエス様は正しいさばきをしてくださいます。イエス様の正しいさばきは私たちクリスチャンにとって大きな慰めでもあります。私たちは自分が犯してしまった様々な過ちのために、また誤解受けて苦しみ悩みます。生きていることが嫌になり、すべてを投げ出してしまいたくなるような苦難に遭うときもあります。人に自分の真実を分かってもらえなくて苦しい時もあります。ところが、イエス様は私たちのすべてを正しく理解し、真実を分かってくださいます。私たちにかかわるすべてのことを、じっと見つめておられ、最終的に正しいさばきをしてくださいます。そのためにイエス様は十字架にかかって死んでくださいました。また、死者の中からよみがえられて私たちの主、キリストであることを明らかにしてくださいました。ですから、イエス・キリストによって「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)」とあるとおりになります。何よりも、最終的に正しいさばきをしてくださるイエス様は神様と一つである権威を持っておられます。神様はすべての人が父なる神様を敬うように、子なる神様イエス・キリストを敬うためにイエス様にさばきの権威もお与えになったからです。それで、イエス様を神様のように敬う人々はイエス様によって救われます。イエス様はその権威によってご自身を敬う人々をすべての苦難から、死の危険からも救い出してくださるのです。
ですから、イエス様は神様の主権を持って大胆に宣言されます。24節をご一緒に読んでみましょう。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
イエス様のことばを聞いて、神様を信じ受け入れる人は、イエス様のさらに大きなわざによって、霊的死の状態から救い出され、さばきに会うことなく、永遠のいのちを持つことができると言われています。これは本当に驚くべき宣言です。多くの人々が人生における救いを求めます。死んでゆく人生から、生かされて行く人生を生きることを望んでいます。そのためにありとあらゆる努力をしています。その中にあって、主は言われるのです。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」と。世界中の宗教に共通する教えがあります。将来における神のさばきです。日ごろの行ないによって死後のさばきが決まると言うことです。彼らは、未来のさばきを告げて信仰を迫っています。しかし、イエス様は、今、現在イエス・キリストにあって実現している神の救いを信じなさいといわれました。それが「まことにまことに」と強調されている真理です。キリストを信じる者は、今すでに死からいのちに移っているのです。 
神様の前に生きる道が、将来ではなく、今すでに与えられています。そしてそれは、主イエスの言葉を聞く人にもたらされるというのです。これがキリストの教えです。
25節もご一緒に読んでみましょう。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」ここでの「死人」とは、「霊的に死んだ人々」を意味します。パウロの表現によると、私たちは自分の罪過と罪との中に死んでいた者でした(エペソ2:1)。何が善であり、何が悪であるかが分かっているにもかかわらず、善を行なうことができず、悪を行なってしまう者になっていたのです。パウロはそのような自分の姿に対して「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)」 と言っています。つまり、死人とは未だ神様の前に生きていない、罪過と罪の中にいる惨めな人、死のからだのように善を行なうことができない人のことなのです。ところが、そのような望みのない人も、やがて、神様の前に生きる者とされる時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
私たちの人生には、何もできず、ため息しか出ないような時があります。特に今、私たちの社会は希望の見えない方向に向かっていると言われています。イラクの混乱した状況、年金改革法案における強行採決、凶悪犯罪の低年齢化など暗い話題ばかりが聞こえてきます。6月1日に発表された警察庁のまとめによりますと、昨年の自殺者は32552人で、8年連続3万人超と報告されました。これは交通事故による死亡者数をも上回っています。人口10万人あたりの自殺者で表される「自殺率」は驚くべきことに25.5です。これはアメリカの2倍以上、世界でも、旧ソ連諸国と共にトップレベルの数字で、日本が自殺大国と言われる理由にもなっています。「暗い。哀しい。切ない。救いがない。」と言うような言葉しか思い浮かべないような状況です。その中でキャンパス伝道活動もますます難しくなっています。奥さんチームの宣教師たちの話や大阪センターの報告によると、キャンパスで学生会の人、警備員、守衛さんたちから追い出されることが増えてきました。私はバイブルアカデミーと夏修養会の準備のためにいろいろ考えましたが、霊的な状況も暗くなっているような気がしました。しかし、聖書の御言葉を通して確かな希望をつかむことができました。神様は私が絶望的な考えに陥っていた2001年に与えてくださったエゼキエル書37章の御言葉を思い起こしてくださったからです。
ではこのような困難な状況に対して聖書はどのように語っているでしょうか。旧約聖書のエゼキエル書37章の中に、ひどく干からびた骨がよみがえる幻を見た預言者の話が記されています。主なる神様はエゼキエルに次のように言われました。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。―――(37:11?14)」
エゼキエルに語られているこの御言葉が意味するところは何でしょう。私たちをとりまく状況がどんなに困難で、絶望的な状況であったとしても、神の言葉が語られ、それがひたすらに聞かれるならば、そこには確かな希望があるということです。今、私たちがどんなに困難な状況であってもそこに語られる御言葉を聞く者たちには明るい将来があり、生き生きとしたいのちがあることが語られているのです。イスラエルの歴史はそのことを証ししていました。世界の歴史もイエス様の御言葉を聞くことによって死の影に座っていたBCからキリストに支配されるADの歴史に変わりました。AD2007年間の歴史はイエス・キリストの御言葉を聞く人々によって動かされてきたと言えます。何よりも、ヨハネの福音書はイエス様の御言葉を聞いていのちを得、豊かに得た人々のことを証しています。いのちの源はイエス様です。イエス様はご自身の言葉を聞いて信じる者にいのちを豊かに与えてくださいます。ですから、イエス様の御言葉を聞く者は生きるのです。イエス様の言葉によっていのちを与えられた私たちは、死んでも永遠に眠り続けるのではありません。必ず目覚めるときが来ます。輝かしい復活の朝、いのちの朝を迎えるようになるのです。その時、善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです(29)。
この間、パウロチームの勉強会の時、御言葉を聞いている時の恵みを分かち合いましたが、金ヨハネ宣教師は聖書の御言葉を聞くためにMP3を買って旧約聖書から新約聖書まで聞いています。エズラ宣教師、パウロ宣教師は電車の中で聞いていますが、御言葉を聞いて覚えるとそれが力になると証していました。人の言葉は私たちを疲れさせる場合が多いですが、イエス様の御言葉を私たちにいのちを与え、私たちを生かしてくださるからです。そこで、私たちはどうすれば御言葉を聞けるかを考えて実践する必要があることも話し合いました。どうか、私たち一人ひとりが礼拝の時だけではなく、生活の中で御言葉を聞ける方法を見つけて実践することができるように祈ります。そして、私たちの教会は神様の言葉が神様の言葉として語られ、聞かれるところでありますように祈ります。特に今年のSBCはまだ霊的に死んでいる兄弟姉妹たちが御言葉を聞いて生きる者となりますように祈ります。牧者や宣教師たちも謙遜に御言葉を聞いて生かされる修養会となりますように祈ります。私たちを取り巻く状況がどんなに困難で、絶望的な状況であったとしても、神の言葉が語られ、ひたすらに聞かれるならば、そこに確かな希望があります。明るい将来があり、生き生きとしたいのちがあるのです。

?.イエス様に対する証言(30?47)
イエス様はご自分が父なる神様と一つであることを宣言し、ご自分の言葉を聞いて神様を信じる者は永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っていることを教えてくださいました。さらに、今、イエス様の御言葉を聞く者は生きるということを明らかにされました。このようにご自分のことを明かされたイエス様は自分で自分のことを証言するだけではなく、法的にも正しいとみなされる証拠として、他の人の証言をユダヤ人に語られました。
第一にバプテスマのヨハネの証言(30?35)
ヨハネはイエス・キリストのことを「私にまさる方」(1:15)、「私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません。」(1:27)、「世の罪を取り除く、神の小羊」(1:29)として証しました。ヨハネは、燃えて輝くともしびとして真理について力強く大胆に証しをなし、ユダヤ人たちはその証しの中に喜びを見い出していました。しかし、ヨハネが彼らに厳粛な悔い改めを迫ったとき、彼らはそれを素直に受け入れず、離れていきました。彼らがヨハネを見た喜びは、しばらくの間の出来事だったのです。
 第二にイエス様が行なわれるわざに証言(36)
 36節をご覧ください。「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。」とあります。ヨハネは、主イエス様が神の子であることを証しましたが、それ以上にイエス様は徹底して、父なる神の業を行いました。つまり、イエス様の行ない、聖書に出て来る奇跡のすべてが、神様が地上で私たちのために働いておられるということの優れた証言であったのです。それだけではありません。
第三に父なる神様ご自身による証言(37?47)
37、38節をご覧ください。「また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。」とあります。ユダヤ人たちは、神様の御声を直接聞いたこともなければ、その御姿を見たこともありません。しかし、その御言葉を与えていただき、生活の中でそれに触れていました。それにもかかわらず、父なる神様が遣わされた御子を信じ受け入れない頑なな心のために、その御言葉が心の中にまで入ってこなかったのです。彼らは事実、永遠のいのちを神様の御言葉である聖書の中に求めているのですが、その聖書こそは、イエス・キリストについて証言している神様の御言葉なのです。
 
 結論を言いますと、私たちはイエス様が御言葉を通して私たちにいのちをお与えになることを学びました。イエス様の御言葉は聖書にあります。私たちは聖書を通してイエス様の御言葉に出会い、いのちの御言葉を聞いて永遠のいのちを得るようになります。いのちを得、豊かに得ていのちにあふれた生活ができるようになります。今週も主の御言葉に耳を傾け、御言葉を聞いて生きる者でありますように祈ります。