2007年ヨハネの福音書 第10講

五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせたイエス様

御言葉:ヨハネの福音書6:1?21
要 節:ヨハネの福音書6:11「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。」
 
 先週、私たちは「イエス様はいのちをお与えになる方」であることを学びました。いのちをお与えになるくらいのお方なら、五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせることは簡単だと思われます。でも、この日本にどれだけの人がそのとおりであると信じるでしょうか。むしろ、五千人の給食を馬鹿馬鹿しく思っている人も多くいるでしょう。彼らはこんなアホらしい話し、だれが信じるだろうと思うでしょう。しかし、私たちクリスチャンはそれを信じているわけです。人にはできなくても神様にはできないことなど一つもないと信じているのです。
では、ここにいる私たちは本当にそのとおりだと信じているでしょうか。私たち教会は毎年福音書を学んでいますが、学んできたとおりに行なっているでしょうか。まさか、この聖書の出来事は毎年繰り返される昔話であるかのように思っている方はいないでしょうか。もし、そんな気持ちが少しでもあるなら、悔い改めて新たな心で聞きましょう。イエス様の言葉を聞く者は生きます。謙遜になり、新たな心を持ってイエス様の教えに耳を傾けましょう。この出来事が四つの福音書全部に書かれていることは、それほど重大な意味を持っているということです。では重大な意味とはどういうことでしょうか。それを深く悟って学ぶことができるように祈ります。

 ?.ピリポをためされたイエス様(1?7)
1、2節をご覧ください。「その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。」とあります。イエス様がテベリヤの湖の向こう岸へ行かれると、大ぜいの人の群れがイエス様につき従っていました。それはイエス様が病人たちになさっているしるしを見たからです。当時、イエス様が行かれる所々には大ぜいの病人たちがいました。今のように明るい昼でも何もみることができず、暗闇の中にいる盲人たちがいました。ひとりではまっすぐに歩くことができない足なえもいました。38年間も人に対する依存心と不平不満、敗北感、運命主義から開放されなかった病人もいました。体は健康であっても悪霊につかれて墓場に住み着いている人もいました。何度も夫を変えても満足できずに渇いていたサマリヤの女性のように不満足の中で苦しんでいる人もいました。収税人レビのように金儲けができ、世の快楽を楽しめることができる職場を持っていても人との付き合いができない孤独と不安の中で惨めな生活をしている精神病の人々もいました。そのほかにも病名が知らない病人たちも数多くいました。そして、彼らはイエス様がガリラヤ地域でなさった数々のしるしを見ました。そのしるしを通して彼らはイエス様が自分たちの病もいやしてくださると期待し、希望をかけていたでしょう。しかし、そのような時に、イエス様は何をなさいましたか。
3、4節をご覧ください。イエス様は山に登り、弟子たちとともにそこにすわられました。なぜ、イエス様は山に登られたでしょうか。山登りがお好きだからでしょうか。イエス様の趣味は山登りであったかも知れません。しかし、「山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた」と記していることからイエス様の山登りは弟子たちと交わるためであったと思われます。イエス様は大勢の人の群れがご自分につき従っている時にも弟子たちに関心を持ち、彼らと交わることにも励んでおられたのです。弟子養成を通して大勢の人の群れを助けようとされたイエス様のみこころがうかがえます。ところが、時がユダヤ人の祭である過越が間近になっていたので大勢の人が異動していましたが、その大勢の人の群れが山の上におられるイエス様のところにやって来ていました。イエス様と弟子たちは山の上にいますから、下からどんどん人が来るのが見えたのです。男性だけで5千人だから2万人くらいの人々がどんどん来ていました。その時、イエス様は何をなさいましたか。
5節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」」イエス様は目を上げて、大勢の人の群れがご自分のほうに来るのをご覧になりました。イエス様がご覧になると数えきれいほどの人々が「I love Jesus! I love Jesus!」と叫びながら山に登っていました。せっかく弟子たちとともに交わりの時間をとったのに大勢の人の群れがやって来るのをご覧になったイエス様のお心はどうだったでしょうか。せっかくいい時間になったのに余計なことが起こると、それほど嫌なこともないでしょう。私は土曜日仕事が終わると、体が疲れているから1,2時間休んでからメッセージを書きます。ところが、メッセージのために祈り、黙想して書こうとするのに、可愛い2歳の娘が「お父さん!」と呼んでノックする時があります。すると、可愛い自分の娘であっても「何でこの時間に!」と思ってしまいます。しかし、イエス様はご自分の働きに邪魔するようなことがあっても怒られませんでした。むしろ、彼らを助けることを考えられました。彼らを食べさせることをお考えになったのです。そこで、イエス様はピリポに「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と言われました。ところが、イエス様は弟子たちとともにすわっておられたのに、わざとピリポにパンのことを聞かれました。実は大勢の人が来ているから弟子たち全員に協力してもらうべき状況です。それなのになぜ、イエス様はピリポだけに話されたでしょうか。それはピリポをためすためでした。
6節をご覧ください。「もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。」とあります。「もっとも、イエス様はピリポをためしてこう言われたので」ありました。NKJV聖書によると「But this He said to test him,」とあります。イエス様はテストのためにピリポに言われたのです。学校には中間テスト、期末テスト、模擬テストなどがありますが、テストによって学生は自分のレベルを知り、先生も学生のレベルを確かめることができます。それによって学生のレベルアップのためにふさわしい対策を立てていくことができます。ですから、イエス様はこのテストを通してピリポが自分の信仰の状態を知り、そこから成長することを望まれたのです。もし、ピリポがこのテストに合格すれば、次はさらに大きい信仰へと成長していきますが、このテストに不合格しても自分の状態を知り、それにふさわしい対策を立てて行くことができます。つまり、イエス様はピリポを大勢の人の群れを養う牧者であり、指導者として育てるために彼をテストされたのです。ピリポは頭の回転が速い人でした。状況判断力も、計算力も優れていました。それゆえ、彼は人知を超えた神様の愛も、大いなる神様の力を体験できず、自分の考えを超えたこと、自分が持っている能力以上のことはできませんでした。そこで、イエス様は今回の出来事を通して自分の限界を超えた信仰の世界に目が開かれることを望まれたのです。ではピリポはテストされるイエス様の質問にどのように答えましたか。
7節をご覧ください。「ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」」とあります。1デナリは今のお金に換算すると1万円くらいと言われています。実際数えたら男性だけで「その数はおよそ5千人」(10節)だったから女性と子どもを含めたら2万人くらいはいたでしょう。そして、200万もの大金は無かったでしょう。こんな状況、弟子達にとってはまさにお手上げです。ピリポはその状況を速やかに把握しました。やはり、ピリポの判断力、計算力はすごいです。しかし、彼の答えは否定的なものでした。イエス様に期待することが何もありません。こう言う人は二百デナリのパンが与えられると、次は三百デナリのパンでも足りませんと否定的な言葉を言います。彼らはマイナス思考の考え方に陥っているのです。しかし、アンデレはどうしてか。

?.アンデレの信仰を祝福されたイエス様(8?15)
 8、9節をご一緒に読んでみましょう。弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
アンデレにも男性だけで5千人の人が見えました。ピリポのように頭の回転が速くなくても、彼なり状況を判断して自分の意見を言うこともできました。ピリポに「座って頭だけを回さないでよ」と言うこともできました。また、アンデレはイエス様に注目されていなかったから何もしないでいることもできません。彼は自分の兄弟シモン・ペテロをフィッシングしましたが、自分よりもペテロがイエス様に注目されていました。今回もイエス様は頭の良いピリポには関心を持って話されたのに自分には何も言われませんでした。このように自分が認められないと働く意欲もなくなってしまうでしょう。事実、多くの人々が認められないと働きません。神様のみわざにおいても目立たない奉仕を黙々とする人は多くありません。しかし、アンデレは群衆を食べさせよとしておられるイエス様の御心を知り、どうしてもイエス様のために働きたいと思いました。私だけでもイエス様のために、群衆のために奉仕しようと思いました。それで、彼はピリポが明晰な頭脳で計算している時にも何とかして自分ができることをやろうとしました。そして、人には何もできない状況であってもイエス様のお言葉には意味がある、イエス様なら何とかしてくださるとイエス様に期待しました。それで彼は食べ物を探すためにあちこち歩き回りましたが、ある少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っていました。それは少年一人分の食物にすぎませんでした。でもアンデレは少年にそれをイエス様にささげるように助けました。その様子を想像してみるとアンデレは少年に「少年ちゃん、それをイエス様にささげましょう。たぶん、あなたがひとりで食べると自分のお腹だけが満たされるでしょう。しかし、それをイエス様にささげると、あなただけではなく、ここにいるすべての人のお腹が満たされるようにしてくださるよ。イエス様に期待してみましょう。」と誘いました。すると、少年は言いました。「これを与えてしまうと、僕はどうするの? 今、お腹がペコペコだよ。」でも、アンデレはあきらめないで少年に信仰を植えつけました。「少年ちゃん!イエス様は『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われましたよ。それを皆のためにイエス様に与えましょう。あなたが皆のために与えると、きっとあなたも祝福されますよ。」と言いました。すると、少年の心が開かれて「アンデレ牧者!持って行ってください。よかったら、みんなで食べてください。このパンと魚をイエス様にあげます。」と言いました。しかしです。弟子たちの目の眼下に広がるのは5千人以上の人々の群れです。五つのパンと二匹の小魚なんて、どれだけちっぽけに見えたことでしょう!だからアンデレはこう言いました。「しかし、こんな大勢の人々では、それが何になりましょう。」(9節)。
おそらく、アンデレはこう言いながらニッコリと笑ったでしょう。「それが何になりましょう」・・・けれどもその心の中に、ある心が潜んでいます。アンデレが本当にどうにもならないと思っていたなら、持ってくるはずがなかったでしょう。「もしかしたらイエス様だったら何とかしてくれるかもしれない。何かが起こるかもしれない」という位の期待感がありました。「これだけではこんなに大勢の人にとって何になりましょう」というのは不信仰の言葉であるようですが、ピリポとは違います。アンデレはちっぽけなものだからと言ってあきらめたのではなく、それをイエス様の元に持ってくる信仰は持っていたのです。イエス様はその心、その信仰、イエス様に対する期待感を受け取ってくださったでしょう。
私たちも、日々の生活の中で、アンデレのように呆然とつぶやかずには要られないことがあまりに沢山あります。人を助けたいのに自分には何もないと思われるとき、大事を成し遂げなくてはならないのに状況が困難なときがあります。一年中一番大きい行事であるSBCが近づいて来たのに「何が出来るだろう」と思われる時もあります。そして、自分に自身が持てなくて、こうも言います。「私が役に立つものか・・・」「日本の四十七道都府県の開拓、アジア47カ国の開拓ができるというけれども、私のこの短い祈りが何になりましょう。」と。でも、イエス様のお考えは違います。イエス様は弟子達の目には無価値に見えた少年のささげものを喜んで優しく受け取られました。そして、弟子達の目には全く力及ばないそのささげもので、期待される以上のことを成し遂げられました。
 10?15節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」
 「それが何になりましょう。」と言いながら持って来た2匹の魚と5つのパンでした。それをイエス様は感謝し祝福されたのです。どのようにしてこの食物が大勢の人の群れの手に渡ったのか聖書には書かれていません。皆さんの想像力を発揮して考えてください。私が想像するにはモーセ時代のマナのように天から落ちたのではないと思います。「すわっている人々に分けてやられた」と書かれているのを見ると、パンを裂いても、裂いても、それを分けても、分けても、パンはどこまでも増え続けていったと思います。しかし、確かな事実は皆さんが天国に行けば分かるでしょう。ただ、全部合わせれば2万人の人が満腹し、そして余ったということは確かな事実です。余りを集めて12の籠がいっぱいになったことも事実です。ちょうど満たされただけではなくて余るほどに与えられたのです。この出来事は4福音書全部に記されています。それほど重大な意味を持っているということでしょう。そこで、私は皆さんと共にこの出来事の中から2つのことを学びたいと思います。
 一つ目はイエス様が「ピリポをためしてこう言われた」ということを通して学びます。つまり、イエス様はピリポをテストされたのです。このようなテストは、聖書全体にちりばめられています(「The Purpose Driven Life?Rick Warren?参照」神様は人々の気質、信仰、従順、愛、正直さ、そして忠実さを事あるごとにためしておられます。アダムとエバは、善悪の知識の木にある実によって試されていました。アブラハムは、息子イサクをささげるようにとの命令を受けた時、その信仰を試されました。ヤコブは、ラケルを自分の妻とするために余分な年月を働かされることによってテストを受けました。ダビデも、ヒゼキヤ、ダニエルなどなどもテストを受けました。
 その中でアダムとエバは、エデンの園における彼らのテストに失敗しました。ダビデも神様から与えられたテストに何度か失敗しています。しかし、聖書はまた、驚くべきテストに合格した多くの人物の例を挙げています。ヨセフ、ルツ、エステル、そしてダニエルなどがその良い例でしょう。今日、学んだアンデレもイエス様のテストに合格していると言えるでしょう。
 人格というものは、試されることによって成長し、真価が問われていきます。人生は毎日がテストの連続です。神様は、日々私たちにふさわしいテストを用意され、私がどのように物事に反応するかをご覧になっておられます。すなわち、私がかかわる人たちに、問題に、成功に、失望に、病気に、あるいは天候にどのように反応するのかを見ておられるのです。神様は非常に小さなことにも注意を払っておられます。たとえば、他の人のためにドアを開けてあげたこと、ゴミを拾ったこと、あるいは電車の中で年寄りや妊婦の方に礼儀正しく席を譲ったことなど、そういったことまで神様はご覧になっておられるのです。そして、神様は私たちがテストに合格する度にそれを覚えていてくださり、永遠においてその報いを用意して待っていてくださいます。
特に神様は大切なテストを通して私たちを成長させます。そのテストとは、人生において神様の臨在が感じられなくなった時どうするかということです。第二歴代誌32:31(NLT)を見ると「神はヒゼキヤを試して、彼がその心の中で何を考えているかをご覧になるために、彼から御顔を隠された。」とあります。ヒゼキヤは神様との親しい関係に歩んできましたが、神様は彼の人生の最も厳しい状況の時にあえて彼を一人にされました。それは、彼の人格を試し、その弱さを明らかにし、さらに責任ある働きに就かせるために彼を整えるためだったのです。おそらく、イエス様に試されたピリポもこの出来事を通して責任ある働きに就く牧者として整えられて行ったでしょう。アンデレの姿を通して自分の不信仰を悔い改めて計算や言葉よりも行動する真心と信仰、イエス様に期待してイエス様に持って行く希望と祈りを学んでますます成長して行ったと思うのです。
 二つ目はアンデレの姿を通して学びます。それはただすわって計算し、発言することよりも真心を持って行動する信仰と、ちっぽけなものでもイエス様に期待してイエス様に持って行く希望と祈りです。イエス様はそのようなアンデレの姿を感謝して祝福し、大いなることをなさってくださいました。私たちは「だめだ」と思って何もしないことが多いのではないかと思います。合理的な提案をしますが、働き手にはならない場合も多くあります。しかし、アンデレは5つのパンと2匹の魚をイエス様のところに持ってくる信仰があったのです。具体的にどのようにしてくださるかはよく分からなかったけれどもイエス様に対する期待があったのです。聖なる期待感を持ってイエス様の元に来ました。今の私たちの言葉で言えば”祈る”ということをしたのです。私たちも祈ることなら出来るでしょう。そのように自分ができないことを考えてあきらめるのではなく、小さなことでも自分でできることからイエス様のところに持ってくる者でありたいと思います。その時にどうにもならない5つのパンと2匹の魚が源になり用いられます。それにより本当に2万人からの人々がみな満腹するという驚くべきことが起きたわけです。
私たちの中には自分自身が小さな存在だと思っている方もおられるでしょう。自分なんかどうでもいい存在だと思っているのです。でも、そんな自身でもイエス様にお捧げするのならば、何が起こるでしょう。今から今年の夏修養会のために自分にある時間と真心を五つのパンと二匹の魚としてささげるなら、きっと素晴らしいことが起こるでしょう。もしかしたら、今、神様が私たちにある五つのパンと二匹の魚をおささげできるかどうかを試しておられるかも知れません。私は夏修養会を準備しながら祈るために6月から一日に一食を断食することを決断しました。ところが断食はしているものの、祈りの時間は変わりませんでした。しかし、本文の御言葉を通して悔い改め、私にある五つのパンとして食事時間の代わりに五十分の祈りをささげ、二匹の魚として週に二回は早稲田大学に行って祈る決断をしました。私たちがこの五つのパンと二匹の魚を通して大いなる神様の祝福の体験ができるように祈ってください。
私たち一人ひとりがアンデレのように自分にとって可能な五つのパンと二匹の魚のために行動し、イエス様に期待して行くことができるように祈ります。すると、私たちの想像を超えた素晴らしいことが起こると信じます。