2007年ヨハネの福音書 第16講

良い牧者であるイエス様

御言葉:ヨハネの福音書10:1?18
要 節:ヨハネの福音書10:11「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

先週、私たちは生まれつきの盲人のいやしを通して神のわざが現われたことを学びました。生まれつきの盲人は見えない目のために悲しく、暗い人生を生きるしかありませんでした。しかし、イエス様は彼の暗闇、彼の悲しみと苦しみを知られ、彼をあわれんでくださいました。イエス様は盲人の目が見えるように助けてくださったのです。しかし、パリサイ人たちは盲目であった人を会堂から追放しました。彼らは宗教指導者として、当時の牧者として立てられていましたが、哀れな羊を助けるどころか捨ててしまったのです。そこで、イエス様は霊的には盲目であるパリサイ人たちの罪を指摘されました。そして、この時間、私たちが学ぶ御言葉を通してイエス様は牧者と羊の関係、良い牧者であられるイエス様ご自身について教えてくださいます。
この時間、良い牧者であるイエス様を学んでイエス様に感謝し、私たち自身もイエス様に見習う良い牧者として成長して行くことが出来るように祈ります。

 1ー6節は「牧者と羊のたとえ」ですが、ユダヤ人にとってこのたとえは真新しいものではありません。旧約聖書においても牧者と羊に関するたとえに関する記事はしばしば見られます(イザヤ40:11、エレミヤ23:1?4、エゼキエル34章、詩篇23編など)。特に彼らは民族史の流れの中で牧畜に関わる生活をしていますから体験的になじみのあるたとえであったわけです。ではたとえにある牧者の特徴は何ですか。
一つ目は「牧者は門からはいる者」であるということです。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。「羊の囲いに門からはいらない」ということは正々堂々とはいることができないからでしょう。しかし、羊の牧者は門からはいります。正しくない動機ではいる盗人や強盗は門ではないところからはいります。しかし、正しい者は門からはいります。羊のためにはいる牧者は門からはいるのです。牧者が来ると門番は「どうぞ入って下さい。」と門を開けます。すると、牧者は門からはいって羊をその名前で呼びます。全体の群れとしてではなく、群れの一匹一匹をそれぞれにふさわしい名前で呼ぶのです。そして羊を囲いの外に連れ出す時はその先頭に立って行きます。
牧者の特徴の二つ目は羊の先頭に立って行くということです。4節をご覧ください。「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」とあります。牧者は囲いの中で外部の敵から羊を守り、個々の羊との親しい関係を結びます。しかし、それだけではなく外に出して移動させながら牧草を食べさせることもします。牧者は羊を外に出して運動をさせ、食物を与えるのです。そのような牧者の活動によって羊は生命を健康に保ち、また新しい生命を生み出します。このような活動の中で、牧者は羊の群れの「先頭に立って行く」という重要な役割を担っています。人々の中でも方向音痴であると言っている人は誰かが一緒にいなければよく迷います。ところが、羊は近視眼で2m先しか見えない動物です。2m以内で案内してくれるものがなければ迷ってしまいます。狼が2mまで近付いてきても分かりません。だから羊は一匹だけで2m以上離れるとすぐ迷子になってしまいます。そういうわけで、羊にとって先頭に立っていく牧者の役割は非常に重要なことです。ですから、さまざまな危険、また外敵から羊たちを守りつつ、導く牧者は先頭に立って行かなければなりません。このような牧者に対して羊の特徴は何ですか。
一つ目は牧者の声を聞き分けます。羊は弱い存在ですが、牧者の声を聞き分けることはできます。何も知らないような赤ちゃんでも母親の声を聞き分けることと同様に牧者の声が分かるのです。ある旅行者はイスラエルに行った時、牧者の服を借りて牧者の姿を真似しました。けれども羊たちは全然動かなかったそうです。ところが、牧者が旅行者の背広を着ていても、声を出すと羊たちは彼について行ったそうです。見せかけではだまされなかったのです。声を聞き分けて、牧者にだけついて行くのです。
二つ目の特徴は牧者についていくことです。4節をもう一度ご覧ください。「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」とあります。牧者が先頭に立っていくと、羊は彼の声を知っているので、彼について行くのです。羊は自分と交わり、自分を養い、守ってくれる牧者の声を知っているので、何の疑いも、ためらいもなく牧者について行くのです。
 イエス様は以上のたとえをパリサイ人たちにお話になりました。パリサイ人たちが牧者の役割は果たしてほしいという願いが強かったでしょう。また、あなたがたが大切な牧者の役割を果たすなら、民はあなたがたの声を聞き分けてあなたがたについて行くはずだと言っておられたでしょう。同時に、盲目であった人を会堂から追放してしまった彼らは盗人で強盗であると指摘なさったと思います。つまり、イエス様は彼らに「悔い改めて弱い羊のような人たちを助け、彼らの先頭に立て導きなさい、」と言われたのではないでしょうか。しかし、彼らはイエス様の話されたことが何のことかよくわかりませんでした。全く悔い改めようとしませんでした。そこで、イエス様は偽者の牧者になっている彼らに真の牧者であるご自分について話されます。本当の牧者を紹介されるのです。私たちが偽物を見分けるためには、いつも本物に触れていることです。本物に触れている人は偽物がきた時にちょっとした感覚の違いが分かります。私たちが間違った者に惑わされない秘訣は、本物といつも交わっていることです。問題児と言われる子どもたちの多くは家庭の事情によって本物の愛に触れていないからです。幼い時に本物の愛に触れていないから偽者にだまされていくのです。私たちの霊的な生活においてもまことの牧者であるイエス様といつも交わっていることはとても大切です。イエス様の本当の愛に触れていれば変なものにだまされることは無くなるからです。そこで、イエス様はご自分のことを紹介されるのです。ではイエス様はどんなお方ですか。
 
第一に、イエス様は羊の門です。
7節をご覧ください。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。」とあります。先ほどのたとえで「門からはいる者は、その羊の牧者です」と言われたので「わたしは羊の門です。」ということが理解しがたいかも知れません。でも、これは前のたとえとは違う話です。そして、当時のユダヤ人としてはよく理解できる話ですが、前の話の”門”は冬に羊を入れておく囲いの門のことです。冬はたまに羊を外に出すものだからそこには門番も立っています。しかし、7節以降の話は、夏に山の上に羊を放牧する時のことです。羊たちは昼の間あちこちの牧草地に移動しながら草を食べ、夜は囲いの中にはいります。そして牧者はその場所に野宿をするそうです。野宿をする牧者が囲いの門になって野生動物から羊を守るのです。少年ダビデのことを通して分かるように、時には狼とか、ライオンのような動物と戦いました。そこでイエス様は『わたしは羊の門です』と言われたのです。そして、イエス様は門の役割を説明してくださいます。
9節をご一緒に読んでみましょう。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」他に惑わされずこの門から入って行く者、つまりイエス様を通ってはいる者は『救われます』また『安らかに出入りし、牧草を見つけます。』そこで安心して必要な物も与えられていく生き方が出来ます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためですが、イエス様が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためであるからです。イエス様を通って出入りする人は豊かに丸々と太って動きにくくなるほどではありません。適当に太って健康に育ちます。敵からも守られて安らかに過ごし、おいしい牧草を見つけて食べることができます。私たち人間はイエス様を通らなければ救われることができません。私たちが救われるための唯一の門はイエス様です。聖書は道であり、真理であり、いのちであるイエス様を通してでなければ、だれひとり神様のみもとに来ることはないと言っています(ヨハネ14:6)。私たちはイエス様を通してのみ救われるのです。また、イエス様を通してのみ神の国に安らかに出入りし、羊の牧草であるいのちのパンを食べることができます。そして、イエス様を通して神の国にはいり、御言葉を食べる生活に励むと、私たちは命を得、また豊かに持つことができます。パリサイ人は神の国にはいり、神の国の民としての素晴らしさを経験したいと思っていました。しかし、彼らはイエス様を通して入ろうとしませんでした。彼らは「律法」や自分の力によってはいろうとしました。イエス様を通してではなく、自分の熱心とか努力で神様に近づいていこう、救いを得ようとしたのです。今もそのような生き方で生きている人々がいます。彼らは救いも、神の国の素晴らしさも経験できず、いのちを得、豊かに持つこともできません。私たちはイエス様を通してのみ、救われます。イエス様を通してのみ安らかに神様に近づき、いのちを得ることができます。イエス様はその羊にとって、いのちに至る門であり、そこを通ってはいる羊はみな豊かさの中でそのいのちを保つことができるのです。
第二に、イエス様は良い牧者です。11,14節を見ると、イエス様はご自分のことを『良い牧者』と言われました。では牧者と良い牧者はどのように違うでしょうか。牧者のことは先ほど話しました。牧者は囲いの門からはいって羊を助けます。羊の特徴をよく知ってその名前を呼び、一匹一匹の羊にふさわしく助けます。囲いの外に連れ出すと、羊の先頭に立って行きます。牧草地に移動させながら牧草を食べさせ、健康に育つように助けます。これらのことは一般的な牧者の働きであり、牧者の役割です。しかし、良い牧者はそれくらいで終わりません。良い牧者は自分の囲いに属さないほかの羊も導きます。何よりも良い牧者は羊のために自分のいのちを捨てます。
11節をご一緒に読んでみましょう。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」15節後半部も読んでみましょう。「また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」17節から18節の前半部までも読んでみましょう。「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」これらの御言葉の共通する良い牧者の特徴はいのちを捨てることです。私は今回この御言葉を黙想するうちに「捨てる」ということばがとても力強く心に響いてきました。良い牧者は心優しく、まじめな牧者ではありません。良い牧舎は羊のためにいのちを捨てるのです。また、良い牧者は自分の夢のためにいのちを捨てるのではありません。自分を助け、自分を守ってくれた恩人のために、自分のボスのためにいのちを捨てるのでもありません。良い牧者は羊のために自分のいのちを捨てるのです。「羊のためにいのちを捨てる」ということは羊のために自分にとって大切なものを犠牲にすることです。ある牧者にとってはお金が大切であるでしょう。ある牧者にとって大切なのは時間であるでしょう。家族や友達、趣味生活、会社生活なども大切でしょう。良い牧者はそういう大切なもの、大切なことを羊のために犠牲します。そして、良い牧者は羊のために自分のいのちまでも犠牲にするのです。
まさに、イエス様は羊のためにご自分のいのちまでも捨ててくださった良い牧者です。私たちは自分に良くしてくださった方のためにも自分を犠牲にすることがやさしくありません。自分を育ててくださった親のためでもいのちまでも犠牲にすることはやさしくないでしょう。ましては自分に良くしてくれたこともなく、これから良くしてくれる可能性もない、弱い者のために自分を犠牲にすることはほんとうに難しいでしょう。ところが、「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:7、8)」
事実、イエス様にとっても羊のためにご自分のいのちを捨てることがやさしくありませんでした。イエス様は十字架の死を前にしてオリーブ山に行かれ、こう祈られました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、私の願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)。イエス様は苦しみもだえて、いよいよ切に祈られました。汗が血のしずくのように地に落ちるまで祈られました。イエス様はできることなら十字架の死の杯を避けたいと思われたのです。そして、ご自分が避けようとすれば十字架の死を避けることもできました。だれも、イエス様からいのちを取ることはできません。イエス様にはいのちを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があったのです。(18)。しかし、イエス様はご自分からいのちを捨てることになさいました。イエス様が十字架の苦しみと死を避けるなら、ライオンと狼のようなサタンが羊たちを強奪し、殺すことを知っておられたからです。それでイエス様は羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためにご自分からいのちを捨てる決断をなさいました。ついに、イエス様は十字架につけられました。そのとき、イエス様はこう言われました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」イエス様は羊たちを赦し、永遠のいのちを与えるためにご自分のいのちを捨てられたのです。このイエス様こそ私たちの良い牧者です。
私たちはイエス様の小羊であり、イエス様は私たちの良い牧者です。イエス様は私たちが良い羊だから、良い羊を守るためにご自分のいのちを捨てられたのではありません。正しい人で、情け深い人だから私たちのためにご自分のいのちを捨てられたのでもありません。弱い小羊である私たち、2m先しか見えない羊と同じような私たちのためにいのちを捨ててくださいました。
今、私たちが生きている現代の社会はイエス様の当時のパレスチナの荒地、砂漠のようです。そこには多くの試練と誘惑があり、行き詰まりと破れがあります。この世の中心部で力強く、明るく、元気よく生きて行きたいですが、自分の弱さのために何もできない小羊と同じ私たちがいます。本当に私たちの中には険しい世の中で様々な心の傷を持っているのではないでしょうか。人々とのつきあいの中ではいやされないものがあるのではないでしょうか。イエス様はそのような私たちをよく知っておられ、私たちを癒すために十字架にかかって死んでくださいました。私たちは悩みや苦しみが、苦しければ苦しいほど、辛ければ辛いほど、本当のその苦しみや悩みを分かってくれる人はいないと思います。ところが、イエス様はこんな私たちの苦しみや悩み、辛さをよく知っていてくださった私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださったのです。ですから、私たちがイエス様の御声を聞き、私たちの先頭に立って行かれるイエス様について行くならいのちを得、またそれを豊かに持つようになります。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私の義の道に導かれます。私の良い牧者である主は、「御名のために」つまり神様の栄光のために私たちを命溢れる青草へと、朽ちることのない命の泉へと導いて下さるのです。
ただ、私たちがその恵みの世界、いのちあふれる世界で生きるために羊の門であるイエス様を通して神様に近づき、御声を聞く生活、イエス様の道、十字架の道を歩むことに励まなければなりません。イエス様のたとえで学んだように羊の特徴は牧者の声を聞き分け、牧者について行くことです。牧者の道を歩んでいくのです。ところが、私たちはイエス様の羊として日々羊の門にはいってイエス様と交わり、イエス様の道、十字架の道を歩んでいるでしょうか。弱い私のような羊のためにいのちを捨ててくださったイエス様、十字架につけられて死んでくださったイエス様を覚えているでしょうか。自分の心が燃えていない、心がカラカラになってきている時は、十字架が縁遠いものになってはいないでしょうか。
私たちが本気になってイエス様と交わり、イエス様がこんな私のために命を捨てて下さったこと、死んで下さったことが分かると私たちの心は燃えてきます。こんな私がイエス様に受け入れられている、赦されているという感謝の心に満たされるようになります。大事なのはイエス様がいのちを捨てられた十字架です。これがよく知っている知識になっていて「イエス様は私たちの罪のためにいのちを捨ててくださった。」というなら、あまり力がないでしょう。「こんなに弱い私のため、惨めな私の罪のためにいのちを捨ててくださった。死んで下さったのだ。だから私は赦されている。癒されている」というところに本当に立った時に私たちの心は潤されます。驚くばかりの恵みに感動し、恵みによる喜びが溢れてきます。「驚くばかりの/恵みなりき/このーみのけがーれを/知れるわれに/2節;めぐみはわがみの/おそれをけし/まかーするここーろを/おこさせたり」(229番)と歌えるようになります。何よりもその驚くばかりの恵みのゆえに、イエス様について行く、十字架の道を歩んでいく力も沸いてきます。

それで、私たちはイエス様のように自分を犠牲にして羊たちに仕える人生を歩むことができます。羊のために週末の休みも、会社の休暇も、家族と楽しめる時間も犠牲にすることができます。どうか、私たちの良い牧者であるイエス様の御声を聞き、イエス様について行く生活を通していのちを得、それを豊かに持つことができるように祈ります。また、イエス様の羊である同時に、荒のような世の中でさまよっている羊たちの牧者として彼らを導く聖なる牧者の使命を忠実に担うことができるように祈ります。特に近づいて来た夏修養会の牧場に一人の羊でも導くことができるように祈ります。すると、緑の牧場のようなYMCA東山荘でたましいが生き返り、豊かないのちを得るようになります。そして、私たちが良い牧者であるイエス様について行くうちに私たちもイエス様のような良い牧者に変えられて行きます。栄光から栄光へと変えられていきます。イエス様の御姿にまで変えられていくのです。私たちの良い牧者になってくださったイエス様に感謝し、私たちひとりひとりがイエス様のような良い牧者になることを目指して行くことができるように祈ります。