2009年マルコの福音書第1講

神の子イエス・キリストの福音のはじめ

御言葉:マルコ1:1?13
要 節:マルコ1:1「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」

 東京にも桜が咲きましたが、皆さんの顔は桜に負けないほどに素晴らしい顔をしていますね。この美しい季節にマルコの福音書の学びを始めるようにしてくださった神様に感謝します。
 マルコの福音書の著者はマルコですが、彼の家は初代エルサレム教会の本部のようになっていました。聖書に、母マリヤの家には「大ぜいの人が集まって祈っていた」と記されています。また、彼は初代エルサレム教会の中心人物だったバルナバの従兄弟です。そのお蔭で彼は記念すべきパウロの第一次宣教旅行に宣教師たちの助手として同行しました(使徒13:5)。しかし、彼の信仰は弱かったようで宣教旅行の途中に一行から離れて、お母さんのいるエルサレムに帰ってしまいました。そこで、第二次宣教旅行のさいに、パウロはマルコと同行に強く反対しました。
使徒の働き15章を見ると、パウロとバルナバの間に激しい対立と論争が生じたことが分かります。おそらく、バルナバはこう言ったでしょう。「確かにマルコは迷惑をかけた。でも今は悔い改めている、セカンドチャンスを与えるべきだ。それこそ信仰の弱い者への愛だ」と。一方パウロは「そんな甘い考えは駄目だ。宣教は真剣勝負だ。あのだらしない人と一緒には行けない。」と反論します。バルナバは「そんなことを言えるのか。あなたは「信仰の弱い人を受け入れなさい」と教えていたのではないか。」このような対立と論争があって喧嘩別れしました。
では、パウロとバルナバのどちらが正しかったと思いますか。後のことから考えてみると、どちらも正しかったと思います。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神様がすべてを働かせて益としてくださるからです。実際に、パウロはこの「喧嘩別れ」のお陰で、その旅行の範囲をヨーロッパに向け、大切なヨーロッパ教会の基礎を築きました。一方バルナバはマルコをしっかりと回復させました。後に、マルコは監獄生活も共にするパウロの同労者になっています(コロサイ4:10)。それだけでなく、マルコはペテロにも大きな信頼を受けていました。ペテロの手紙第一 5:13bを見ると「また私の子マルコもよろしくと言っています。 」とあります。マルコは、ペテロからも我が子と呼ばれているのです。結局、マルコはペテロ牧者にも、世界一の偉大な宣教師パウロに役立つ人として尊く用いられたのです。それだけではなく、人類歴史2,000年の間にどれだけの人々がマルコの福音書を通してイエス様に出会い、救われたことでしょうか。今年も、私たちの教会を通して数多くの兄弟姉妹たちがこのマルコの福音書を通してキリストに出会い、救われて行くでしょう。
私はこのマルコを通して大きく慰められています。おそらく、マルコは「弱虫だ、だらしない人間だ」と呼ばれていたかも知れません。でも、主は彼を見捨てになりませんでした。主は、弱い彼を偉大な宣教のみわざに用いてくださいました。私は、主の恵みのゆえに感謝し、今の生活を幸せに思っています。でも、ものすごく、寂しく悲しくなる時があります。自分が知的にも、才能的にも、体力的にも、弱くて足りないと思われる時です。また、大きな失敗を犯してしまったと思われる時です。でも、今回マルコの生涯を考えながら、私のような者でも、主は用いてくださることを深く悟りました。この世の愚かな者、弱い者、無に等しい者を選んで用いてくださる神様の愛と導きを心から感謝します。もし、皆さんの中で自分に対して絶望している方がいらっしゃるでしょうか。「自分はもうダメなんだ。」というレッテルを貼るようなことはしないでください。主にあって誰にも希望があります。イエス様が私たちに仕えてくださるからです。
マルコは自分を最後まで愛し続け、仕え続けてくれたバルナバ、パウロ、ペテロたちを通して仕えるしもべとして来られたイエス様を深く学んだようです。それで、彼はマルコの福音書を通して仕えられるためではなく、かえって仕えるために来られたイエス様をよく表わしています。それで、この福音書の要節は10章45節です。ご一緒に開いて見ましょう。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」とあります。私たちがマルコの意図したとおりに、この福音書を通して仕えてくださるイエス様を深く学ぶことが出来るように祈ります。そうして、私たちもイエス様のように、マルコのように多くの人々に仕える偉大な人生を生きることができるように祈ります。

 少し序論が長くなりましたが、今日の御言葉は「神の子イエス・キリストの福音の始め」に関することです。ここで、私たちは神の子イエス・キリストが始めた福音について、イエス・キリストの道を備えるバプテスマのヨハネについて、荒野で誘惑に勝たれたイエス様について学ぶことが出来ます。

一つ目は、神の子イエス・キリストの福音(1-3)
 1節をご覧ください。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」とあります。国語辞書[大辞林]によると「1喜びを伝える知らせ。よい便り。2イエス=キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ。また、福音書にしるされているキリストの生涯と教え。」とあります。まさに、その通りです。神の子イエス・キリストが人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせを始められました。では、皆さんにとって喜ばしい知らせとは何でしょうか。UBFのMSU修養会が行なわれた2004年に、寺崎アブラハム家庭にマリヤちゃんが生まれました。結婚してから7年間も祈りながら待ちに待ったマリヤが生まれたのです。この知らせはアブラハム牧者だけではなく、私たち皆に大きな喜びでした。先月、朴エズラ宣教師から東京大学の特認教授になった知らせを聞きました。東京大学に合格したことだけでも、人々は大変喜びますが、エズラ宣教師はその大学の教授になったのです。これも私たちに喜ばしい知らせでした。CBFのメンバーは自分たちの先生が東京大学の教授になったので、いずれ自分たちもなれると思うでしょう。今年、サムエルも希望していた戸山高校に入学するようになりましたが、私にとっては、これも喜ばしい知らせです。鄭マリヤ宣教師は合格の知らせを聞いてどんなに喜んだのか、隣の宣教師たちから「そんなに嬉しいですか」と言われたそうです。このように、子どもの誕生、就職、合格のような知らせは私たちに喜びを伝えてくれます。
 しかし、それは、神の子イエス・キリストによってもたらされる人類の救いと神の国に関する福音ほどに素晴らしい知らせではありません。イエス・キリストが始められる福音は私たちの人生を決定的に、根本的に変える力を持つ知らせです。神の子イエス・キリストは罪と暗やみ、死の陰にすわっている人々を救うために、人となってこの地に来られました。そして、罪と咎だらけの私たちのために十字架につけられて死なれましたが、三日目によみがえられました。この神の子イエス・キリストに関することこそ、喜ばしい知らせ、福音です。死者の中からよみがえられたキリストが、今は聖霊として私たちと共にいてくださいます。そして、聖霊は私たちに生きる力と知恵を与え、慰め、励ましてくださいます。暗やみの中で苦しんでいる人々を救い出して驚くべきご自分の光の世界に招き入れてくださいます。そういうわけで、今も神の子イエス・キリストが始められた福音を受け入れ、信じる人々は新しい人生を始めることができます。罪と死の勢力に支配されて苦しみ、悲しんでいる状態から救われて新しい人生を始めるようになります。新しい学校に入学したから人が救われるのではありません。新年度、新学年度を始めたから新しい人生になるのではありません。神の子イエス・キリストが始められた福音によって新しく生まれ変わることができます。
ここにいる宣教師たちや牧者たちが生きた証人です。私も神の子イエス・キリストによって生まれ変わりました。私が大学の新入生になった時は、1日に12時間寝ても疲れが取れない肝炎の病、自分の無能さのために暗やみの中で苦しんでいました。しかし、1:1聖書勉強を通して悔い改め、神の子イエス・キリストの福音を受け入れた時に、不思議にも病は癒され、心は明るくなりました。特に、「信じる者はどんな事でもできる」という信仰によって生きる、新しい人生を始めるようになったのです。ですから、誰でも神の子イエス・キリストが始められた福音によって生まれ変わります。人生をやり直すことができます。では、神の子イエス・キリストの福音はどのように始められましたか。
 2,3節をご覧ください。「預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、」とあります。神の子イエス・キリストの福音は、いきなりに始まったのではなく、すでに預言されていました。イエス・キリストの道を用意するバプテスマのヨハネの活動から預言されていたのです。では、ヨハネはどのようにしてイエス・キリストの福音の道を用意しましたか。

二つ目は神の子イエス・キリストの福音の道を備えるバプテスマのヨハネ(4-8)
 4節をご覧ください。「バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」とあります。ヨハネは預言者イザヤによって預言されたとおりに、荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。アダムの子孫として生まれた私たち人間は原罪と自分が犯した罪が赦されなければなりません。罪は、神様の祝福とキリストの恵みを受けるに妨げになっているからです。私たちも生活の中で、神様の祝福とキリストの恵みの体験ができず、喜びもないなら、罪が妨げになっていることを知り、悔い改めなければなりません。悔い改めて罪が赦された時に私たちのうちにイエス・キリストが来られます。そうして、キリストによる救いと力あるわざを経験することができます。ですから、ヨハネは初めから罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。では、ヨハネが悔い改めのメッセージを説いたとき、どんなみわざが起こりましたか。
5節をご覧ください。「そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」とあります。大勢の人が来て、罪を告白し、バプテスマを受けていました。これは驚くべきことでした。というのは、罪を洗い清めるバプテスマが必要なのは汚れた異邦人だ、というのがユダヤ人の信念だったからです。ところが、ヨハネのメッセージによってあのユダヤ人たちも自分たちの罪を認めて告白し、悔い改めるみわざが全国的に起こったのです。では、どうしてヨハネの説教にはそれほどの力があったのでしょうか。
6-8節を読んでみましょう。「ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
ここで、主の道を備える伝道者、説教者としての姿勢を学ぶことが出来ます。まず、彼が説教した場所は荒野でした。そして、彼は荒野で簡単に手に入れることができるラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締めました。食べ物も荒野ではどこでも簡単に食べられたイナゴと野蜜を食べていました。つまり、彼はとてもシンプルな生活、世の人々とは区別された生活をしていたのです。それだけではありません。彼はイエス様が自分よりもさらに力のある方であると証しています。自分はかがんでイエス様のくつのひもを解く値打ちもないと言いました。当時、靴のひもを解くのは奴隷の仕事でした。ですから、ヨハネはイエス様と比べると自分は奴隷の役割にもふさわしくないほどに身分が低い者だ、と言っているのです。
このように、彼は外面的にこの世の人々とは区別された聖なる生活をしました。そして、内面的には、常に謙遜でありました。そのヨハネのメッセージに人々を悔い改めさせる力があったのです。私にも、説教者としての人格が求められていますが、ヨハネのように生活をし、心は常に謙遜であるように祈ります。本当に、聖なる生活と謙遜があってこそ人々の心を動かす力、悔い改めさせる力を持つことができるのです。私たち一人一人がクリスチャンとして聖い生活をし、常に謙遜であって霊的に力ある主のしもべとして用いられるように祈ります。すると、霊的に荒野のようなこの国でも多くの兄弟姉妹たちが罪を告白し、悔い改めるみわざが起こるでしょう。多くの兄弟姉妹たちが神の子イエス・キリストの福音によって救われ、新しい人生を生きるようになるのです。

三つ目に荒野で福音のみわざを始められたイエス様(9-13)
9節をご覧ください。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。」とあります。イエス様は罪のないお方です。だから罪が赦されるために悔い改めのバプテスマを受ける必要がありません。ところが、イエス様はヨハネからバプテスマを受けになりました。その理由はマタイ3:15にあります。イエス様は、ヨハネに「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と言われました。ヨハネがご自分の先駆者であることをご存知のイエス様は彼の働きを正しいこととして認めてくださいました。また、人として来られたイエス様はご自分を罪人と同化してバプテスマを受けられました。ではイエス様がバプテスマを受けられた時、どんな驚くべきことが起こりましたか。
10,11節をご覧下さい。「そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」とあります。神様は、福音のみわざを始めるイエス様に聖霊を注がれ、公に御子として認めてくださいました。
12、13節をご覧ください。「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。」とあります。聖霊がイエス様を荒野に追いやられたのでイエス様は荒野でサタンの誘惑を受けられました。なぜイエス様は福音の御業を始める前にこのような誘惑を受けられたのでしょうか。
第一に、イエス様が神の子として福音のみわざを始めるためにはサタンの誘惑に勝たなければならなったからです。人間の不幸と悲劇はアダムがサタンの誘惑に負けたことから始まりました。だから、イエス様とサタンとの戦いは避けられず、サタンの誘惑に勝ってアダムの失敗を挽回しなければならなかったのです。
第二に、私たち人間の弱さに同情できることのためでした。イエス様は荒れている荒野で四十日間サタンに試みられることを通して、私たちの人間の限界と弱さをしみじみに体験することが出来ました。そうして、イエス様は険しい世の中で生きている私たちの弱さに同情できるキリストとなられたのです。ヘブル人への手紙4章15節は言います。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
ですから、イエス様は私たちの弱さに同情できるお方です。サタンの誘惑から逃れることができない人間の弱さに同情できるのです。あるUBF教会ではイエス様の四旬節の期間にメディア断食を宣言していましたが、それはインターネットやテレビによるメディアの誘惑に弱いからでしょう。イエス様は、そのような私たちの弱さに同情できるのです。だから、誘惑に弱い私たちを無視し、捨ててしまうようなことはなさいません。
しかしながら、確かなことは、イエス様が御言葉によってサタンの誘惑に打ち勝たれたことです。イエス様は、私たちの弱さに同情しながらも、私たちがどんな誘惑にも打ち勝つことを願っておられるのです。そして、私たちがイエス様に頼る時、誘惑に勝つように助けてくださいます。誘惑に負けず、神の子イエス・キリストの福音を伝えるようにしてくださいます。だから、もし、今、自分が誘惑に負けていると思われるなら、神様の御前で真実に悔い改めましょう。そして、サタンの誘惑に打ち勝たれたイエス様に頼って謙遜にお祈りしましょう。すると、イエス様が助けてくださるし、イエス様に仕えていた御使いたちも私たちに仕えてくださいます。それで、私たちは悔い改めによる罪の赦しを経験し、その心に注がれる聖霊の力によってどんな誘惑にも負けず、圧倒的な勝利者の人生を生きるようになります。

結論的に、私たちは悔い改める時に、福音が福音として伝えられ、福音による救い、真の喜びを体験して行くことができます。へりくだって悔い改めない人は喜ばしい知らせを聞いても喜べなくなってしまいます。どうか、日々、悔い改める生活によって神の子イエス・キリストの福音による神様の祝福とキリストの恵みを豊かに体験する生活ができるように祈ります。悔い改めるということは自分の生活の過ち、安逸、情欲などの罪を告白し、そこから向きを変えて新しく出発することです。このような悔い改めによって私たちは罪が赦され、私たちのうちに注がれる聖霊に満たされた生活ができます。どうか。新年度を始める私たちが心を新たにして悔い改め、力ある神のしもべとして神の子イエス・キリストの福音のみわざを始めることができるように祈ります。