2009年マルコの福音書第2講

人間をとる漁師にしてあげよう

御言葉:マルコの福音書1:14?28
要 節:マルコの福音書1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

  先週、私たちはイースター修養会を通して最も大切な福音を学びました。それはイエス・キリストの復活です。「イエス様が死者の中からよみがえられた」、この知らせこそ、最も素晴らしい、喜ばしい知らせ、福音です。イエス様に死に打ち勝つ復活の力があったからこそ、死んだラザロを生き返らせることも出来ました。ですから、今もイエス・キリストの復活を信じる者は、復活の力をいただいて生きることができます。パウロのように、先週、復活の証人として証したアブラハム牧者、サムエル宣教師、エズラ宣教師のように力あるキリストの証人として生きることができるのです。ご自分の復活によって私たちが死までも打ち勝つ圧倒的な勝利者の人生を生きるようにしてくださったイエス・キリストの御名を賛美します。
今日は、神の子イエス・キリストが公の活動を始められたことについて学びます。ここで、私たちはイエス様が優先的になさったことについて学ぶことが出来ます。この時間、イエス様が大切にしておられる働きを学び、私たちもイエス様がなさるみわざに用いられるように祈ります。

14a節をご覧ください。「ヨハネが捕えられて後、」とあります。このことは時代の状況を示唆してくれます。ヨハネは霊的に偉大な指導者でした。彼が悔い改めのメッセージを伝えた時、ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところに集まってきたほどに影響力のある指導者だったのです。また、彼は正義のメッセージを伝える指導者でした。その正義のメッセージはヘロデ王にも向けられました。ヘロデは自分のすべての悪事が責められるようになったのです。その結果、ヨハネは捕らえられてしまいました(マルコ6:17,18)。このように、その時代は霊的な指導者が指導者として認められず、正義が正義として認められない状況になっていました。そのような時代にイエス様は何をなさいましたか。

第一に、イエス様は神の福音を宣べ伝えられました(14、15)
14b、15節をご覧下さい。「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」とあります。イエス様はガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えました。ガリラヤは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれているほどに無視されている地域でした。彼らの生活は貧しく、不義のヘロデの支配のために苦しんでいました。彼らは暗やみの中にすわっている民、死の地と死の陰にすわっている人々になっていました。彼らのために最優先的にするべきことは何だったでしょうか。もし、麻生総理だったら、彼らのために経済対策を立てて一人当たり1万2,000円の定額給付金を支給するようにしたかも知れません。すると、貧しい人々には良い知らせになったでしょう。先週、新宿区にも定額給付金の申請書を届けられるようになりましたが、ある方は「こうなると、麻生さんの支持率は上がるでしょう。俺も好きになりますね。」と言いました。しかし、イエス様はそういうことよりも、最優先的に神の福音を宣べ伝えられたのです。神の福音とは「『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」ということです。一言で「神の国が近くなった」ということです。イエス・キリストによって、神の国は近くなりました。ここで「神の国」とは、場所のことではなく、神様のご支配のことです。領土としての神の国は、まだ来ていませんが、神様のご支配と主権の事実としての神の国はすでに来ています。つまり、義と平和と聖霊による喜びの神の国が来ているのです(ローマ14:17)。
人間はアダムとエバがエデンの園で罪を犯してしまった時に神の国を失ってしまいました。それでその時から神の国を待ち望んで来ました。ところが、神様の時が満ちて神の子イエス・キリストが来られ、それによって神の国が近くになっているのです。ですから、今は誰でも悔い改めて神の福音を信じるなら、罪が赦されて神の国の民になります。神様との交わりの中で神様の愛を味わい、平安と喜びを経験するようになります。救いと力あるわざと不思議なわざも経験するようになります。では悔い改めるということはどういうことでしょうか。
ルカの福音書15章に記された放蕩息子は父の財産の分け前をもらって遠い国に旅立ちました。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまいました。何もかも使い果たしたあとでその国に大ききんが起こりました。彼は食べるにも困り始めました。彼は豚の食べるイナゴ豆で腹を満たしたいほどになりました。その時、やっと彼は砕かれた、悔いた心を持つようになりました。彼は「お父さん、私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」言いました。こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行きました。これが悔い改めです。もし、今の現実に平安も、喜びもないなら、神の国を失っている自分の罪を認めます。その上、神様の支配を受けずに自分勝手な道に歩んでいるところから向きを変えて父のところに戻って行きます。それから福音を信じることです。福音を信じるということは私たちのすべての罪と咎を赦してくださる父なる神様の愛を信じることです。自分の罪の代わりに十字架の苦難を受けられ、死なれたイエス・キリストの恵みによって私のような罪人も価なしに赦されたことを信じるのです。その心の中に神の国が臨まれます。神の国の平安と喜びを与えられるのです。放蕩息子が自分の罪を悔い改め、父のところに戻って来ると、そこには大いなる父の愛がありました。父は彼をありのままの姿で受け入れて子どもの権威を与え、音楽や踊りの祝宴を開いてくださいました。
私たちもへりくだって自分の罪を悔い改め、父なる神様のところに戻って行くと、父なる神様が迎え入れてくださいます。そこで。私たちは大いなる神様の愛に包まれるようになります。愛と義によって支配される神の国の喜びと幸せを味わい、神の国の民としての権威と大いなる力をいただけるようになります。ですから、イエス様は最優先的に神の福音を宣べて言われました。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』と。誰でもこの福音を聞いて悔い改め、福音を信じるなら神の国の祝福を受けるようになるのです。
しかし、へりくだって悔い改めることがなければ、神の国を経験することはできません。マンネリ化している生活の中で熱くも冷たくもない生活しか出来ないでしょう。春だから新しい始まりができるのではなく、むしろ、春だから眠くなるばかりの生活が続いてしまうでしょう。しかし、放蕩息子のように惨めな状態になっている自分の姿を発見して悔い改め、福音を信じるなら、神の国の祝福を受けるようになります。すべての罪が赦されて平安を得るようになります。何もかも、否定的に考えてしまう死の世界から、「死んでも生きる」という信仰の世界、いのちの世界に移されます。愛と義によって支配される神の国の民として新しい人生を始めるようになるのです。だから、イエス様は神の国の福音を宣べ伝えられたのです。

 第二に、イエス様は人間をとる漁師たちを召されました。
イエス様は神の国の福音を宣べ伝えることだけではなく、具体的に悔い改めて福音を信じ、イエス様に従う人々を探しておられました。なぜなら、全人類を救うみわざは、イエス様のように神の国の福音を宣べ伝える人々によって受け継がれていくからです。そこで、イエス様はご自分に従う人々を探してガリラヤ湖のほとりを通られました。すると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になりました。彼らは漁師でした。イエス様は彼らに何と言われましたか。
17節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」」それに対する彼らの反応はどうでしたか。
18?20節もご一緒に読んでみましょう。「すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。」素晴らしい光景ですね。イエス様の御言葉にすみやかに反応してすぐに従う人たちがいました。ここで、私は二つのことを学ぶことができると思います。
一つ目は「すぐにイエス様に従った弟子たち」のことです。シモンとアンデレは、すぐに網を捨てて従いました。当時、多くの人々がイエス様のことを知り、イエス様の教えを聞いていました。ルカの福音書や、ヨハネの福音書を通して考えてみると、ペテロたちもすでにイエス様のことを知り、イエス様の教えを聞いていました。ところが、今回はイエス様の声を聞くことに留まらず、イエス様に従いました。彼らは方向転換して、イエス様に従い始めたのです。
昔も、今もイエス様を知り、イエス様の教えを聞いている人たちが多くいます。イエス様の恵みに触れる人も多くいます。力あるわざと不思議を経験する人も少なくないでしょう。しかし、イエス様が求めているのは、従って行く人です。そして、イエス様に従った人たちがいたから今日のキリスト教会があります。いくら恵まれても従う人たちがいなかったら2,000年のキリスト教の歴史がなかったはずです。しかし、ペテロとアンデレのように、ヨハネとヤコブのようにイエス様に従った人たちがいたのです。90カ国に広がっているUBF教会の歴史を見ても、ある人は裁判官の仕事も捨てて、ある人は外交官の仕事も捨てて、父と母を残してイエス様に従った人たちがいました。御言葉の恵みを受けたこと、癒されたことを喜んでいるだけではなくて、イエス様に従った人たちがいました。イエス様に従う時に険しい道を歩かなければならない時もあったでしょう。自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様について行くことは決してやさしい道のりだけではなかったと思います。それどもイエス様に従い続けた人々がいました。その先に、今日の教会があるのです。
そして、イエス様は今日も、私たちに「わたしについて来なさい。」と語っておられます。イエス様は「わたしがあなたについて行きます。私を使ってくれ。」と言われませんでした。「わたしについて来なさい」と言われました。もちろん、私たちの信仰が幼い時、また弱くなっている時は、イエス様が私たちについて来てくださいます。しかし、私たちがイエス様について行くことが求められているのです。イエス様がどこに向かって行かれてもついて行くこと、どのように私たちを用いようとしてもイエス様について行くことが求められているのです。イエス様を信じるということは、イエス様に従うことです。どこまでもついて行くことです。今もイエス様は言われます。「わたしについて来なさい」イエス様について行くことはイエス様に見習うことでもあります。私たちが何をしても、「イエス様だったら、どうなさるだろうか」と考えて行動することが出来るように祈ります。
二つ目は「人間をとる漁師にしてあげよう」と約束されたイエス様を学ぶことができます。ペテロたちの目は魚に向かっていたでしょう。魚が彼らの生活を支えてくれる手段であるからです。今の時代も、人々の関心は主に魚のようなものにあります。どうすれば儲かるか、どうすれば経済的によくなるかということに関心があるのです。しかし、イエス様の目は人間に向かっていました。イエス様の関心は人間に関心にあったのです。イエス様にとって最も大切なのは人間でした。ペテロと言うひとりの人間、アンデレという一人の人間。カンバット・バイスというひとりの人間に深い関心を持っておられます。人々は政治経済、スポーツ、旅行などに関心を持っています。しかし、イエス様はひとり一人の人間に関心があったのです。そして、一人一人がイエス様に出会い、神の国を所有するように助けてくださいます。そして、キリストにあって新しい人に変えられて行くようにしてくださいます。アブラムが国々の父アブラハムに、サライが国々の母サラに、ヤコブがイスラエルに、シモンがペテロに、サウルがパウロに変えられたように、一人一人がイエス・キリストにあって変えられるように助けてくださいます。キリストの御姿にまで変えられて行くように助けてくださいます。そうして、彼らもイエス様ご自身のように人間に関心を持ち、人間をとる漁師になるように助けてくださいます。
イエス様は「人間をとる漁師になれ!」と言われませんでした。イエス様は「人間をとる漁師にしてあげよう」と約束してくださったのです。イエス様が人間をとる漁師にしてくださるのです。実際にペテロは来る日も来る日も魚を取る退屈な生活をしている人間に過ぎませんでした。人格的にもすぐれた人間ではなかったようです。彼はイエス様に従う中でも様々な失敗をします。イエス様が捕らえられたあの夜、彼は三度もイエス様を否認しました。それでもペテロは人間をとる漁師になりました。一度の説教で三千人も救いに導くことができた偉大な漁師になったのです。それは、イエス様がご自分の言葉の通り、ペテロを人間を取る漁師にしてくださったからです。ペテロだけではなく、初代教会のメンバーも様々な弱さを持っていました。パウロはコリント教会の聖徒たちに言いました。「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い人も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」このように、神様はこの世の愚かな者、弱い者、無に等しい者を選んで人間をとる漁師にしてくださいました。ただ、私たちの側からはイエス様に従うことが必要です。たとえ、失敗が多くても、いつまでもイエス様について行くなら、イエス様は私たちを「人間をとる漁師」にしてくださいます。新しい歴史の主役として人類の救いのみわざに尊く用いてくださるのです。
私たちが有能であるか、無能であるか、学生であるか、おばさんであるか、おじさんであるか、そんなことは関係ありません。人間的な弱さや過ちが絶えない者であっても、イエス様について行くなら、イエス様が私たちを人間をとる漁師にしてくださいます。私たちがイエス様について行くことをやめることさえしなければ、それで良いのです。「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われるイエス様の約束を信じて従うなら、私たちも、ペテロのようになることができます。一度に3千人をとることはできないかも知れません。しかし、この日本では一本釣りで巨大なマグロとる漁師たちがいます。彼らのように、私たちも偉大な神様のしもべをとることができるのです。そういう面では私は日本宣教のための伝道方法も一本釣りの漁師たちから学ぶ必要があるのではないかと思うようになりました。一本釣りで巨大なマグロをとるまでは長い時間、忍耐しなければならないし、誰も見えないような海で寂しく戦わなければなりません。そういう忍耐と寂しい戦いを通して質の高い魚をとることができるのです。だから巨大マグロを狙う漁師たちも、少しでも高い価値で取引するため、1対1の勝負に挑みます。日本宣教においてもそういう忍耐と孤独な戦いが必要ではないでしょうか。私たちも一本釣りをしている漁師のようにあきらめることなく、人間をとる一本釣りの1:1聖書勉強にますます励んで行くことができるように祈ります。すると、必ず一本釣りで巨大なマグロを獲る漁師のように人間をとる漁師として用いられます。一本釣りで獲った魚は、網で取る魚より傷つく事が少なく、価値が高いですが、この日本でアジア47カ国に仕える宣教師たちをとる漁師にしてくださると信じます。

第三に、イエス様は権威ある者のように教えられました(21?28)
21節をご覧ください。「それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。」とあります。カペナウムはガリラヤ湖の北西岸にある町です。イエス様の宣教のうち最も重要なガリラヤ伝道の本拠地となっていました。そこで、イエス様は安息日に会堂にはいって教えられました。ユダヤ人は安息日ごとに会堂に集まり、律法学者やラビたちの教えを聞いていました。彼らは、その教えに感動して笑ったり泣いたりしていました。もちろん、律法学者の教えを聞くことが退屈になって眠ってしまう時もありました。それでも会堂で教えられた聖書の言葉が彼らの人生を支え、ユダヤ社会を支える力になっていました。だから、彼らは毎週の安息日には、必ず会堂に行って御言葉を聞いていました。ところが、イエス様が教えられると、人々はどうなりましたか。
22節をご一緒に読んで見ましょう。「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」人々はイエス様の教えに驚きました。ただ、恵まれたのではありません。人々はイエス様の教えに驚いたのです。それはイエス様が、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからです。では権威ある者のように教えられるイエス様によってどんなみわざが起こりましたか。
23、24節をご覧ください。「すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」とあります。権威あるイエス様の御言葉が伝えられる時、汚れた霊につかれた人も驚きました。そこでイエス様は彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われました。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行きました。人々はみな驚いて、互いに論じ合って言いました。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」権威あるイエス様の教えがある所に驚きがあったのです。こうして、イエス様の評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まりました。

以上でイエス様は神の福音を伝え、人間をとる漁師を召され、権威ある御言葉を教えられたことが分かります。私たちもイエス様のように何よりも優先的に神の福音を宣べ伝えましょう。自分の生活のために忙しく、関心をもたなければならないことも数多くあると思います。何よりも優先的に人間に関心を持ちましょう。イエス様が私に深い関心を持って導いているように私たちもこの国の若者たちに関心を持つように祈ります。それによって、多くの人々を探して人間をとる漁師してくださるイエス様のみわざに用いられますように祈ります。そして、人間をとるみわざのためにこの教会では権威あるイエス様の御言葉が権威ある御言葉として伝えられて行きますように祈ります。