2009年マルコの福音書第4講 

罪人を招くために来られたイエス様

御言葉:マルコの福音書2:1?17
要 節:マルコの福音書2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

先週、私たちは寂しい所で祈られたイエス様を学びました。静寂の時を持ち、祈れることは幸せなことです。なかなか忙しい生活の中で規則的に祈ることが知れませんが、イエス様のように祈ろうと決断するなら、聖霊が助けてくださることを信じます。
 今日は、イエス様がひとりの中風の人の罪を赦し、癒してくださった出来事、孤独な収税人レビを召された出来事を学びます。この時間も、イエス様は私たちの痛み、苦しみ、孤独などに関心を持っておられます。そして、私たちの罪を赦し、癒してくださいます。どうか、私たち一人一人がイエス様を通して癒され、赦されますように祈ります。さらに、私たちもイエス様のように実践することができるように祈ります。

1、2節をご覧ください。「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。」」とあります。イエス様はカペナウムにある誰かの家におられましたが、それが知れ渡って多くの人々が集まって来ました。あまりにも多かったために戸口のところまですきまもないほどになりました。そこでイエス様は彼らに御言葉を話しておられました。人々は今の皆さんのようにイエス様の教えをよく聞いていました。律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えておられるイエス様の教えに感動していました。イエス様のお話を聞く前に賛美を歌いながら心が熱くなっている人々の中では「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。」と驚いている人もいました。でも、疲れている人の中では静かに眠り始めた人もいました。
そのときです。集会に遅れて来た人々もいました。3節をご覧ください。ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られました。ところが、彼らは家の戸口のところまですきまもないほどに集まっている群衆のためにイエス様に近づくことが出来ませんでした。常識的に考えてイエス様のみもとに近づくは出来なかったのです。しかし、彼らはどうしましたか。
4節をご覧ください。「群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。」なんと失礼なことでしょうか。その人々はイエス様のおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を降ろしました。ここにイエス様がおられたとすれば、この真上から中風の人を寝かせたままその床をつり降ろされて来たのです。皆さんはどう思われますか。世間体や常識から考えると理解できないことでしょう。納得できません。しかし、イエス様は何といわれましたか。
5節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。」ここで、二つのことを発見することができます。イエス様は彼らの信仰をみてくださったことです。信仰は心の問題であって、他の人が見ることは出来ないものだと思われています。でも、信仰がある人と信仰がない人を区別することは出来ます。それでは普通の人でも「あの人は信仰がありますね。」とか、「彼は全然信仰がないよ。」と言っています。イエス様は中風の人を担いで来た四人の信仰を評価しました。彼らの信仰とは一体どのようなものだったのでしょうか。まずそれはこの4人が隣人を愛していたことです。隣人である友人の病を真剣に心配し、無力な彼のために何とかしようと心動かされたのです。そしてただ心動かされただけでなく、その熱い思いが行動となって表れました。中風の人を担いでイエス様のみもとに連れて来たのです。さらに、彼らは群集に遮られても諦めませんでした。二階に上り屋根を剥がし、穴をあけてイエス様のところに連れて来たことです。何とかこの友人にイエス様を紹介したいという熱意が表れています。それはイエス様こそ癒してくれると信じたからでしょう。その信仰がイエス様の目に見えたのです。
では私たちの信仰はイエス様の目にどう映っているのでしょうか。果たして私の信仰はイエス様の目に見えているでしょうか。イエス様の目には、ひとりの人間をどうしても助けようとする、病んでいる人を見て動かされた心があるでしょうか。何よりも何とかしてイエス様に解決してもらうまであきらめないその信仰がイエス様に見られているでしょうか。
二つ目は、まず病気の癒しより罪の赦しを宣布されたことです。おそらく、中風の人も、彼を担いできた四人の人も、肉体的な病が癒されることを望んでいたことでしょう。しかし、イエス様は中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。ここで、罪の赦しといやしの関係について少し考えてみたいと思います。皆さんが教会に来るまでは、あるいは、クリスチャンになるまでは、自分が罪人であるとは考えてもいなかった方も多いでしょう。ある方にとっては、自分がどれほど罪深い人間であるかということに気づき始めて、神様を求め始めた方々もいると思います。病気や失敗などを通して自分の罪に気づいている方もいるのです。そういう方には自分が罪を告白し、悔い改めるなら、すべての罪を赦していただけるということを聞くと驚きます。イエス・キリストの十字架による赦しの知らせがそのまま福音です。そして砕かれている心から素直に福音を信じて救われます。病の癒しも体験して罪が赦され、病も癒されたと証ししている方が多くいます。しかし、すべての病気が個人的にその人の罪の結果だと言えません。
ある日、弟子たちは生まれつきの盲人についてイエス様に質問して言いました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」そこで、イエス様は答えられました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:2,3)。つまり、イエス様が言われたとおりに、「すべての病気は、罪の結果である。」と言えないのです。ただ、聖書によると、病気と言うものがこの世にはいって来たのは、人が罪を犯すようになってからです。あらゆる苦しみの根本的な原因は、アダムとエバ以来、人類に入り込んでしまった罪なのです。ところが、多くの人たちは、その根本的な原因については考えようとしません。あらゆる不幸や悲惨な出来事の根本的な原因である罪の問題を考えようとしないから、「罪の赦し」も求めません。根本的な原因より、財政問題、子どもの不登校、夫婦関係、健康問題、年金問題など心配しています。それらが解決されると、毎日の生活の安全と平和になるし、幸せな生活ができると思っているのです。しかし、根本的に罪の赦しがなくては、肉体の健康もむなしいものではないでしょうか。ですから、イエス様は彼らの信仰を見て、この中風の人に「罪の赦し」を宣言されたのです。実際に、罪の赦しを経験している人は告白しています。赦されて赦し時に、肉体的な病も癒されることを経験したというのです。現代の医学も、心が体に影響を及ぼすと言っています。つまり、心が健康でなければ、体も健やかにはならないのです。その心は罪が赦されてから健康になります。
それゆえ、中風の人を深くあわれんでくださったイエス様は、何よりも先に「子よ。あなたの罪は赦されました。」と宣言されました。イエス様は彼に「罪が赦された確信」をお与えになったのです。「あなたの罪は赦されました!」この短い御言葉を通して、いかに多くの人々が心に安心と平安、新しく生きる力を得ることができたでしょうか。事実、私たち人間はイエス様によって罪が赦されるとき、全生涯的に癒されます。新しく喜びと確信に満ちた生活を始めることが出来ます。ですから、私たちもまずは、罪を赦していただくために祈り求めなければならないと思います。どうしたらよいかを真実に求めて、その赦しの恵みを自分のものにしたいと思います。
6,7節をご覧ください。「ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」とあります。その場にいた律法学者たちはイエス様の御言葉を素直に受け止めることが出来ませんでした。彼らは心の中で理屈を言いました。確かに、律法学者たちの言っていることは正しいものでした。神様おひとりのほか、誰にも罪を赦す権威はありません。さすが、聖書に詳しい律法学者です。しかし、彼らの態度は間違っています。理屈を言っています。理屈は、つけようと思えば何にでもつけることが出来ます。つまり、理屈を並べ立てて相手を責めることは出来ます。ですから、そのような態度で人々に臨むとき、たとえ自分の言っていることが正しくても人を癒すことは出来ません。理屈を言うことでは力にならないのです。そこで、イエス様は何と言われましたか。
8-9節をご覧ください。 「彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」とあります。イエス様は律法学者たちの心を見抜いておられました。彼らの理屈はイエス様に対する妬みから来ていることを見抜かれたのです。もし、イエス様が人の姿を取って来られた神様ご自身であることを認めたら、その途端、自分たちは権威を失い、立場がなくなると恐れていたのです。それを見抜いておられたイエス様は「『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらが、やさしいか。」と聞かれました。では「どちらがやさしいでしょうか。」。「罪が赦された」と言うほうがやさしいでしょう。なぜなら、罪が赦されたこと自体は目に見えないからです。罪の赦しを信じた人だけが分かります。しかし、「起きて歩きなさい。」と言っても歩けなかったら、その人の言葉には権威がないことが明らかになりました。そこで、イエス様はわざと言われました。
10-12節をご一緒に読んでみましょう。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。」イエス様は人々の目の前で中風の人を立たせ、堂々と歩かせました。ご自分に罪を赦す神の権威があることを人々に知らせるためでした。
実際に、イエス様の御言葉は理屈ではありませんでした。イエス様の御言葉には権威がありました。それはイエス様の御言葉に自分に対する愛を込められていたからです。彼はイエス様の御言葉から自分をイエス様の所に連れて来てくれた友達以上に自分を愛してくださるキリストの愛を体験したのです。彼が屋根からつり降ろされた時、どんなに非難されたでしょうか。だれも、彼をあたたかく迎え入れてくれなかったでしょう。むしろ、「邪魔者だ。自分のことしか知らない最低の人間だ。何で人の家を壊してくるのか。」言われたのではないでしょうか。しかし、イエス様はエチケットのない行動よりも、彼の心の中心を見てくださいました。イエス様なら必ず癒してくださると信じるその信仰を見てくださいました。イエス様は理屈を言う方ではありませんでした。ただ、罪のため、肉体的な病のために、苦しみ悲しんでいるひとりの人間の罪を赦し、癒すことのために働かれました。事実、イエス様は中風の人の罪を赦すことだけではなく、私たちの罪をも赦すために十字架の道を歩んでいかれました。ゴルゴタの丘を上られ、そこでむちに打たれ、辱められました。ついに十字架にかかって剣に刺さられて死なれる時「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」と語ってくださいました。これほどの苦難を負い、犠牲を払ってくださるキリストの愛の言葉に彼は起き上がり、床を取り上げて歩き出すことが出来たのです。
今日も、このキリストの愛を信じて御言葉に従うなら、中風の人のような状態から起き上がり、新しい人生を始めることが出来ます。どんな罪を犯したとしても、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはありません。イエス様は今も宣言しておられます。「子よ、あなたの罪は赦されました。」どうか、罪の赦しを信じて立ち上がり、霊的にも肉体的にも健やかな人生を始めることが出来るように祈ります。
 13?15節には肉体的には健康であっても、社会的に、霊的には中風の人のように病んでいた収税人レビが召された出来事が記されてあります。
13、14節をご覧ください。イエス様はまた湖のほとりに出て行かれました。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられました。 イエス様は、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われました。当時、ユダヤ人は、ローマの植民地でしたが、収税人は、そのローマ政府のために税金を取り立てる仕事をしていました。ですから、同族のユダヤ人から売国奴のように卑しめられていました。一般社会から罪人として排斥されていました。それで、彼らの中に自分の仕事や生活の中で心の渇きを持っていても癒されるところがありませんでした。社会とあまりにかけ離れているために、その飢え渇きを癒す道も知らないで孤独な生活を続けている人が多かったのです。誰も彼らの心を理解してくれませんでした。宗教指導者たちも彼らのことを理解してくれません。収税人は、当時の教会に行きたくても行けない身分になっていたのです。ところが、イエス様はそのように寂しくなっているレビの心を見抜かれたようです。イエス様はレビが収税所にすわっているのをご覧になって「わたしについて来なさい。」と召されたのです。先にイエス様はガリラヤの田舎者である漁師たちを召されたのですが、ここで、人々から見下されているこの収税人レビを召されたのです。「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました(?コリント1:28)」という御言葉が思い出されます。イエス様が召されると、彼は立ち上がって従いました。レビは理屈を言わないで従いました。
それから、イエス様は、レビの家で食卓に着かれました。取税人や罪人たちも大ぜい、イエス様や弟子たちといっしょに食卓に着いていました。こういう人たちが大ぜいいて、イエス様に従っていたのです。素晴らしい光景です。私はこの日本でも、このようにイエス様に従う人々が数多く現れてくることを夢見ています。孤独な人、うつ病の人、いじめられている人、勝ち組に入れなかった人々などがイエス様に従うことによって新しい人生を生きるようになることを望んでいるのです。今日も、イエス様はその素晴らしいみわざのために私たちを先に召され、用いてくださることを感謝します。
ところが、この素晴らしい光景を喜ばない人たちがいました。16節をご覧ください。「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」」とあります。この律法学者たちは、心の中ではなく、公に理屈を言いました。彼らの言うことは正しいです。彼らは律法を学んでいただけでなく、それを伝統にしていました。その伝統によると、罪人にさわると、自分も汚れることになります。それで、彼らは道を歩く時も、異邦人や罪人に着物がふれないように気をつけていました。ですから、罪を赦す権威があることを示されたお方、聖なるイエス様が収税人や罪人と食事をするとは、到底考えられないことであったのです。そこで、彼らは理屈を言い出したのです。しかし、イエス様は自分の罪を認め、悔い改める者たちとともにいることを喜ばれ、一緒に交わってくださいます。黙示録には、こう書かれています。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」主は、砕かれたたましい、へりくだった心を喜ばれ、その人と親しく交わってくださいます。

結論的に、17節をご一緒に読んでみましょう。「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
渡辺信夫という神学者[1923-]が「罪人とは、キリスト以外からは受け入れてもらえない人のことだ」と定義しております。そしてこういうのであります。罪人とは、キリスト以外からは受け入れてもらえない人のことなんですね。自分の事を考えて見れば、私たちもまた、やはりイエス様以外に受け入れてもらえなかった人間ではないでしょうか。ある方は「あなたのような人がどうして教会に悔い改めに行く必要があるのですか、と言われるかもしれません。そのように見られるかもしれないけれど、そういう見た目の世間の評価とは別に、私たちもみな、イエス様以外に受け入れてもらえなかった人間ではないでしょうか。そんな罪人を招くためにイエス様は来てくださったのです。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」ほんとうありがたい言葉です。このイエス様のお言葉によって癒され、元気付けられて健やかに過ごすことができますように祈ります。何よりも罪が赦された新しい人生を生きるように祈ります。