2009年マルコの福音書第6講

十二弟子を任命されたイエス様

御言葉:マルコの福音書3:7∼35
要 節:マルコの福音書3:14,15「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」

先週、私たちは「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる」ことについて学びました。私たちの心が新しいぶどう酒のイエス・キリストにふさわしい、弾力のある新しい皮袋になりますように祈ります。そうするなら、私たちのうちにはいって来られるイエス・キリストによる喜びと幸せを味わうことができるようになります。キリストとの交わりの中で、イエス様に見習い、全世界に福音を宣べ伝えるようになります。
今日の御言葉では、イエス様が福音を宣べ伝え、悪霊を追い出すために12弟子を任命されたことについて学びたいと思います。イエス様は12弟子を任命してご自分の身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせる弟子訓練を始められました。ここで、私たちはイエス様が12弟子を任命された時代的な背景、イエス様の夢とビジョンを学ぶことが出来ます。
この時間、12弟子を任命してご自分の身近に置いて訓練し、彼らを遣わして福音を宣べさせようとされたイエス様の御心を学ぶことが出来るように祈ります。特に、12弟子を任命されたように、私を任命してくださったイエス様の愛とビジョンが私たちの心に伝わって来ますように祈ります。

7、8節をご覧ください。「それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。またユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。」とあります。この御言葉は先週の御言葉に関連しています。イエス様は安息日に片手のなえた人に「手を伸ばしなさい。」と命じられました。すると、彼は手を伸ばしましたが、元どおりになりました。イエス様は安息日の規定に違反するようなことを行なわず、ただ御言葉だけで癒されました。結局、イエス様を訴えるためにじっと見ていたパリサイ人たちの完全な敗北になりました。すると、パリサイ人たちは、今度は、敵対していたヘロデ党とも結束してイエス様を葬り去る相談をしました。彼らは訴える口実を見つけるくらいではなく、イエス様を葬ることまで相談するほどに挑戦的になってきたのです。そこで、イエス様は弟子たちとともに湖のほうに退かれました。「退かれた」というと、イエス様は臆病なお方であるかのように思われるかも知れませんが、そうではありました。先週、学んだように、片手のなえた人を癒される時は、大胆に、挑戦的に敵対者たちに直面しておられました。しかし、ここでは無茶な争いを避けて退かれたのです。
聖書を読んで見ると、イエス様はしばしば寂しい所へ退かれたのですが、今回も寂しい所で祈り、弟子たちとの親密な交わりの時を持つために退かれたようです。ところが、そこにも大勢の人々がついて行きました。ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がイエス様の所に集まったのです。また、ガリラヤ人を軽蔑的に見ていたユダヤから、エルサレムからも集まって来ました。イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりからも集まって来ました。大勢の人々が、イエス様の行なっておられることを聞いて、みもとにやって来ました。彼らはイエス様が中風の人を赦して癒し、片手のなえた人も癒されたこと、多くの人々がイエス様の教えを聞いて恵みを受けたことなどを聞いた時、「そんなことがありうるか」と思いませんでした。むしろ、イエス様の教え、イエス様の癒し、イエス様が行なわれたすべてのことに対して新しい皮袋のようになりました。真新しいイエス様の教えを聞いて恵まれたい、自分の病を癒してもらいたいと期待し、希望を持つようになったのです。それで、四方八方から大勢の人々がイエス様の所に集まって来ました。
 9,10節をご覧ください。イエス様は、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられました。それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエス様にさわろうとして、みもとに押しかけて来たからです。どんなに、熱狂的ですさまじいものであったのでしょうか。イエス様が弟子たちに「押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように」言いつけられたほどに大勢の人が集まったのです。また、汚れた霊どもが、イエス様を見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫びました。彼らはイエス様が「神の子」であることを知っていました。しかし、彼らはイエス様を愛したり従ったりはしませんでした。ペテロのように、ヨハネとヤコブのように、イエス様に従うことはしませんでした。収税人レビのようにイエス様に従い、宴会を設けて愛を実践するようなこともしなかったのです。ですから、イエス様は「ご自身のことを知らせないように」と、きびしく彼らを戒められました。ここで、イエス様のことを知っている知識だけなら「イエス様のことを知らせないように」と、戒められることが分かります。
事実、イエス様との交わりもなく、イエス様の御言葉に従った従順の経験もない人がイエス様のことを知らせるなら、どうなるでしょう。それはむなしいことでしょう。ペテロのしゅうとめのように自分の家に来た人をもてなしたり、レビのように人々を自分の家に招いてもてなしたりしている人の言葉に力と権威があるでしょう。イエス様はイエス様に従い、愛を実践している人がイエス様のことを知らせるように望んでおられます。
ところが、その時代を見ると、イエス様と交わる人も、イエス様に従う人は多くありません。さまざまな病気を癒してもらいたい人、愛されたい人、助けてもらいたい人、さまざまな問題を解決してもらい人は多くいました。しかし、人々を愛し、片手のなえた人のように、哀れな人を助ける人はなかなか見えませんでした。聖書のことを知っていてその知識を誇り、論争する人は多くいますが、聖書の教えのように神様を愛し、隣人を愛する人々は、なかなか見えませんでした。大勢の人々がイエス様の所に集まって来ましたが、イエス様のように、多くの人々を助け、自分のいのちまでも惜しまずに人々を愛する人は、ほとんどいませんでした。人々を救うため、苦しみもいとわないイエス様のように生きようとする人は少なかったのです。ではそのような時代に、イエス様は何をなさいましたか。
 13-15節をご一緒に読んでみましょう。「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」押し迫る大勢の人を目の前に、イエス様は時の短さを感じられたでしょうか。羊飼いのいない羊のようにさまよっている人々のために良い牧者を育てなければならないと痛感されたでしょうか。おそらく、さまざまな病気のために苦しみ、汚れた霊につかれて苦しんでいる大勢の人を助けるためにどうすれば良いのかと、深く考えられたでしょう。しかし、ただ考えられることに留まられませんでした。イエス様は山に登られました。何のために山に登られたでしょうか。この箇所と並行しているルカの福音書6:12節を見ると「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」とあります。イエス様は祈るために山に行かれました。そして、神様に祈りながら夜を明かされました。皆さん!祈りながら夜を明かされた経験があるでしょうか。1時間、2時間祈ることが出来ても祈りながら夜を明かすことはやさしくありません。先週の土曜日、私はなかなか動けない腰の痛みのために何度も何度も祈りました。思い出される罪を悔い改めながら何とかメッセージを書いて伝えることが出来るように祈りました。完全になることに信仰が至らず、メッセージを書いて伝えることでも出来るように祈ったのです。主はその祈りを聞いてくださったのですが、イエス様は何のために祈られたでしょうか。まさか、ぎっくり腰が癒されるために祈ったのではないでしょう。おそらく、イエス様は、その時代の人々のために、さまざまな病気のために苦しんでいる人々、汚れた霊につかれた人のために祈られたでしょう。また、偽善と形式だけで古い皮袋になっている指導者たちのために祈られたでしょう。何よりも、東西南北四方から集まって来た大勢の人々をどうやって助けることができるか、その時代、その地域だけではなく、後の世代の人々、全世界の人々を助ける方法を求めて祈られたではないでしょうか。その祈りの中で12弟子を任命して、彼らを育てて福音を宣べさせ、悪霊を追い出すように、また、彼らも弟子たちを任命して弟子養成をし、それ通して次の時代も、全世界の人々も助けるように示されたことでしょうか。すると、イエス様は立てられる12弟子のために、また切に祈られたことでしょう。イエス様は祈り、また祈り、祈りながら夜を明かされました。
 このように祈ってから、ご自分のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来ました。ここで、私たちは祈りの力を学ぶことが出来ます。祈りに祈ってから、ご自分のお望みになる者たちを呼び寄せると、人々がみもとに集まって来たのです。私たちクリスチャンは学校や職場で伝道しています。特に私たちUBFはキャンパス伝道のために励んでいます。ところが、なかなか伝道の実を結ぶことが出来ません。キャンパスのベンチに座っている兄弟を見てこの人だと思って話しかけてもなかなか話を聞いてくれない場合もあります。しかし、私たちもイエス様に見習って祈りながら夜を明かすほどに祈るなら、神様が私たちの祈りを祝福してくださると信じます。山に登って祈りながら夜を明かすことは出来なくても、日々切実に祈り続けるなら、神様が私たちの祈りを聞いてくださってまず学生5人の弟子を立て、12弟子も立ててくださると信じます。私たちが祈り続けるなら、近くの早稲田大学を初め、東京にある各大学にも12弟子を立ててくださるでしょう。私たちがイエス様のように祈ることによってこの時代にイエス様の弟子を養成し、霊的指導者を立てるみわざに用いられますように祈ります。
 イエス様は呼び寄せられた人々が集まって来ると、12弟子を任命されました。なぜ、12人を選ばれたのでしょうか。私はよく分かりません。ただ、12という数字は扱いやすい数です(サブライム数)。2で割っても、3で割っても、4で割っても、6で割っても割り切れます。だから、二人ずつでも、3人ずつでも、4人ずつでも、6人ずつでもグループ分けが出来て弟子訓練のためにはとても良い数であると思います。ルカの福音書によると、弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選ばれました(6:13)。多くの弟子の中から、この12人が選ばれたのです。
 ここで、イエス様のみわざの性格、その方法を学ぶことが出来ます。大勢の人が集まって来ましたが、12人だけを選ばれました。後で見ると、12人の中でもペテロ一人を集中的に助けておられたことが分かります。まさに、これは神様のみわざの方法です。神様はアブラハム一人を選んで人類の救いのみわざを始められました。アブラハムが自分の子どもを神様にささげることが出来るほどに成熟した信仰を持つまで25年間も仕えてくださいました。モーセひとりをエジプトの宮殿で四十年間、荒野で40年間訓練してイスラエルを出エジプトさせるみわざに用いられました。新約時代にイエス様はこの12弟子を訓練して1世紀のアジアとヨーロッパの宣教に用いられました。また、彼らが立てたマルコ、テモテのような弟子たち、またその弟子たちによって今日までの世界宣教のみわざが成し遂げられて来ました。ですから、イエス様は100年、1000年、2000年後の未来も眺めながら少数の12弟子を任命されました。私たちUBF教会も世界中にありますが、少数の12弟子養成のために励んでいます。まず、私たち自身がイエス・キリストの弟子らしい弟子になるために、一人でもキリストの弟子を養成するために励んでいます。これこそ、イエス様がなさった世界宣教方法だからです。これからも、少数であっても、一人一人を大切にしてイエス様のように弟子養成に励むことが出来るように祈ります。
では、彼らを任命された目的は何ですか。
 第一に、彼らを身近におくためでした。人は一緒にいると、互いに影響を受けます。私はマリヤ宣教師と結婚して19年目になりましたが、かなり影響を受けていると思います。教会で見ると、結婚してから信仰が急速に成長する人もいるし、弱くなってしまう場合もあります。だれと一緒にいるかはとても重要なことなのです。ところが、花婿のイエス様と結婚してイエス様と一緒にいる生活に励んでいる人は決して弱くなりません。イエス様とともに歩むなら、どこにいても圧倒的な勝利者の人生を生きることができます。イエス様は弟子たちが身近にいてそのような生活を経験することを願っておられました。イエス様とともにいてイエス様のようになり、イエス様とともにいることの素晴らしさを体験してほしいと願っておられたのです。
イエス様は私たちにも、イエス様の身近にいてイエス様に見習い、イエス様のようになることを願っておられます。私たちの罪のために、罵られ、嘲られてから十字架にかかって死なれたイエス様は死者の中から三日目によみがえられて天に上られていきます。しかし、今は、聖霊として来られ、いつも私たちとともにいてくださいます。だから、私たちが心から願うなら、イエス様の身近にいてイエス様に見習うことができます。私の好きな聖歌の中で382番がありますが、「心から願うのは主のようになることです」(一緒に歌ってみましょう)。どうか、私たち一人一人がいつもイエス様の身近にいてイエス様に見習い、イエス様のようになりますように祈ります。イエス様の御姿にまで変えられていくように祈ります。
 第二に、彼らを遣わし、福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためでした。イエス様は弟子たちが身近にいてイエス様を学び、イエス様を体験してからは福音を宣べ伝える宣教のために働くように彼らを任命されたのです。事実、イエス様は3年間12弟子を身近に置いて育て、訓練してからは「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命じられました。そして、このマルコの福音書の最後である16章20節を見ると「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、御言葉に伴うしるしを持って、御言葉を確かなものとされた。」とあります。結局、イエス様が12弟子を任命された目的のとおりに弟子たちはイエス様の身近にいてイエス様を学び、イエス様の昇天の後には福音を宣べ伝える人生を生きるようになったのです。私たちもこの弟子たちのようにイエス様のようになってその信仰、愛、望みを持って福音を宣べ伝えることが出来るように祈ります。
 16?19節には12弟子の名前が記されてありますが、彼らのことを考えてみると、別に偉い人たちではありません。昨日、民主党では鳩山代表が選ばれましたが、彼のように総理大臣の孫である人はひとりもいません。すぐれた才能をもっているわけではありません。力も弱さも持ち合わせた普通の人間でした。彼らは、動揺しやすく、激情的で、懐疑的で、人を出し抜こうとするずるささえ持っていました。社会的地位もさまざまで、漁師もいれば、収税人もおり、収税人のような売国奴を殺すべきだと思っている熱心党員もいました。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネのように兄弟関係での人もいました。つまり、イエス様が任命された12人の弟子たちは、普通 の人間だったのです。しかし、彼らがイエス様の弟子としてイエス様の身近にいたとき、彼らは新しく創られました。栄光から栄光へ変えられて行きました。どうか、私たちもイエス様の身近にいて、イエス様と交わり、イエス様によって新しく造られますように祈ります。そうして、ひとりの人にでも影響を及ぼすキリストの立派な弟子として生きることができるように祈ります。
 20節から36節までは聖霊を汚す罪、新しい霊的な家族関係について記されてありますが、今日のメッセージを19節までにします。シンガポールに派遣されるPeter Lee牧者の所感発表もあるからです。皆さんが本文の御言葉をよく読んで深い恵みを受けてください。