2009年クリスマス第2講
救いの角・日の出であるイエス様
御言葉:ルカの福音書1:57?80
要 節:ルカの福音書1:78,79
「これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」
メリー・クリスマス。インマヌエルの神様の恵みに感謝します。十二月に入ると、どのCMにも、クリスマスキャロルが流れるようになりました。さて、昨年のヤマザキパンクリスマスケーキのCMソングは「いざもろとも主を拝せよ」(聖歌130番)が流れました。韓国語の賛美歌122番「本当に喜ばしい聖徒よ」(참 반가운 신도여)4節には次のような歌詞があります。「主の御言葉が肉体を着て、私を救う救い主になった。いつも感謝の賛美をささげよう」(여호와의 말씀이 육신을 입어 날 구원할 구주가 되셨도다 늘 감사한 찬송을 돌려 보내세)となっています。私はこの賛美歌を歌うたびに、神様の大きな愛と恵みを実感しています。
先週は、第1講の御言葉を通して、「私たちの間に住まわれるイエス様」について学びました。
本文の御言葉は、「ザカリヤの賛美詩」です。長い間、子どもがいないまま年老いていったザカリヤとエリサベツ夫妻に、神様は大きな憐れみを施してくださいました。そしてその時生まれたのが、バプテスマのヨハネです。ザカリヤはこの神様に賛美の歌を歌いました。彼の賛美には、救い主イエス・キリストが「救いの角」であり、「日の出」として来られることを預言しています。では、「救いの角」であり、「日の出」として来られるイエス様は、私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか。
この時間、もう一度、一人一人が、「救いの角」であり「日の出」であるイエス様を心に受け入れる中で、神様の大きな愛と豊かな恵みが臨まれるように、お祈りします。
?.「彼の名はヨハネ」(57-66)
57,58節をご覧ください。「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。」とあります。この御言葉はルカ1:13節以下と関連しています。御使いガブリエルは子どものいなかったザカリヤに、「あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。」と告げました。その言葉どおりにエリサベツは身ごもりました(24)。それでエリサベツは次のように告白しました。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」(25)。年老いて、不妊の女だったエリサベツ(7)が子どもを持つようになるとは。何と驚くべきことでしょうか。月が満ちて、エリサベツは男の子を産みました。近所の人々や親族は、「主がエリサベツに大きな憐れみをおかけになった」と聞いて、彼女とともに喜びました。
子宝に恵まれない問題は今日でも深刻な問題です。実に多くの人々が医者のところに行って、カウンセリングを受けています。長い時間をかけて不妊治療を受けています。また出産に良いと思うことは何でも行なっています。ザカリヤ夫婦ほどではありませんが、私の家庭もそうでした。結婚してすぐ子どもができませんでした。そのために長い間、悩み苦しみました。ある日トイレに行って見ると、「しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」(創17:21)の御言葉が張り出されていました。私は、この御言葉をつかみ、マリヤ宣教師と心を合わせて、切なる思いで神様に祈りました。すると神様の大きな憐れみによって、七年目に元気な女の子が与えられました。この知らせは日本だけではなく、遠い韓国にも伝わりました。全世界にまで広がっていきました。それで家族、親戚、私の周りにいる人々は神様の憐れみと恵みのゆえに喜びました。神様に感謝し、賛美しました。私の家庭に子どもが生まれても、人々はこのように喜びます。
ましてや由緒正しいザカリヤ家の跡継ぎが生まれたのです。近所の人々や親族たちの喜びはどれだけ大きなものだったのでしょうか。早速ユダヤの律法に従って八日目に割礼を施しました。幼子に名前をつけようとした時、問題が起こりました。彼らは偉大な父親の名前にちなんで「ザカリヤ」と名づけようとしました(60)。恐らく周りにいる人々は、「父ザカリヤのように、神様の御前で正しく生き、律法と戒めを落ち度なく行なう(6)子どもとして育つように」と望みを抱いていたようです。
ところがエリサベツは違いました。
60節をご覧ください。「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。」エリサベツのとった行ないは、当時ユダヤの伝統としきたりを無視した行為でした。日本でも子どもが生まれれば、周りから日本人らしい名前をつけることが要求されます。カタカナの名前よりも、「人名漢字字典」に載っている漢字を使うことが望ましいと考えます。何より家族や親族の意見を十分に反映することが常識とされています。これは日本だけに限ったことではありません。韓国人は韓国人らしい名前をつけるでしょう。その国、その地方、その家に合った名前をつけることが、当然のこととして扱われる傾向にあります。それでもエリサベツは幼子の名前に関しては誰にも譲ろうとはしませんでした。なぜでしょうか。それはエリサベツが御使いガブリエルの言葉に従おうとしたからです。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」(13)とあるように、神様はザカリヤ夫婦が幼子に「ヨハネ」とつけることを願っておられました。それでエリサベツは子どもが生まれたことを喜んだだけではなく、積極的に神様の御言葉に聞き従おうとしました。
62節をご覧ください。「何と強情な。本当に空気が読めないねえ。嫁だけでは話にならない。父親の意見も聞こう。」と思った親族たちは、身振りで父親に合図しました。「幼子に何という名をつけるつもりか」と尋ねました。ところが、ザカリヤの答えも予想外のものでした。
63,64節の御言葉を皆さんと一緒に読みたいと思います。「すると、彼は書き板を持って来させて、『彼の名はヨハネ』と書いたので、人々はみな驚いた。すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。」ザカリヤは御使いの言葉を信じなかったために、子どもが生まれるまでの間、ものが言えず、話せなくなりました(10)。子どもが生まれるまでの間、ザカリヤは何を考えていたのでしょうか。皆さんなら、どう思うでしょうか。自分のような者にも目をとめられ、祈りを聞いてくださった神様のことを深く黙想したに違いありません。この神様のことを考えながら、いつも感謝と賛美の生活をしていたでしょう。それで書き板を持って来させ、迷わず「彼の名はヨハネ」と書きました。すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解けました。話ができるようになってからは、声を高らかに神様を賛美しました。神様に対する感謝のゆえに、心から神様の御旨に従って幼子に「ヨハネ」と名づけたようです。このザカリヤを見て、近所の人々は恐れました(65)。大いなる神様の働きがユダヤの山地全体にも語り伝えられて行きました。聞いた人々はみな、それを心にとどめて言いました。「いったいこの子は何になるのでしょう。」主の御手がザカリヤとともにあったからです(66)。ザカリヤ夫婦の小さな信仰ある行動によって、周りにいる人々に大きな信仰の影響を及ぼすようになりました。神様の栄光が現れるようになりました。
?.救いの角、日の出であるイエス様(67-80)
67節をご覧ください。「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言をして言った。」とあります。バプテスマのヨハネの誕生を通して、聖霊を受けたザカリヤは神様に感謝と賛美の歌をささげました。さらに進んで、将来来る救い主イエス・キリストについて、預言しました。では、このイエス様は一体どんな方なのでしょうか。
第一に、「救いの角」であるイエス様、です(68-75)
68,69節を皆さんと一緒に読みたいと思います。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、購いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」
ザカリヤはまずイスラエルの神である主をほめたたえました。この神様はご自分の民を愛し、慈しみ、憐れまれる神様です。「主はその民を顧みて、購いをなし」とあります。神様は選民イスラエルに深い関心を持って観察される神様です。モーセの時代、イスラエルがエジプトの地で奴隷生活を送った時、民たちの苦しみをただ黙って傍観されませんでした。深い憐れみと熱い眼差しで関心を注いでくださいました。そしてその民たちの悩みをご覧になりました。それでエジプトのパロの手から民たちを救い出してくださいました。この神様が今、ザカリヤの時代に罪と死の奴隷である民たちを憐れまれました。罪と死の勢力から救い出そうとされました。ここで「購う」とは、代価を払って奴隷から解放することを、意味しています。すなわち罪と死の奴隷だった人たちを、イエス様の尊い十字架の血によって解放してくださるのです。それだけではありません。神様の一方的な恵みによって、ご自分の子どもとされます。神様はこのイエス様がお生まれになることを、古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、話されたとおりに、成し遂げてくださったのです。
このイエス様は「救いの角」です。救いの角であるイエス様は私たちを「われらの敵」、「すべてわれらを憎む者の手」から救い出してくださいました(74)。この救いは政治的な救いではありません。また、経済問題からの救いを言っているわけではありません。罪から救いであり、死からの救いです。サタンの支配からの救いです。サタンは七つの頭と十本の角を持っています(黙17:7)。また神様の被造物(ユダ1:6)なので、人間の目では見ることはできません。それでこのサタンと戦って勝つことはできません。いくらきよい生活、正しい生活をしたいと願っていても、自分の強い意志と決断だけではどうすることもできません。メディアを通して、淫乱な文化が蔓延する中で、聖書の御言葉に従って生きることは容易なことではありません。目の前の誘惑、好奇心、関心によって心が奪われてしまうと、そこから抜け出すことができません。頭では「良くないことだ」と分かっていたとしても、なかなかそこから抜け出すことはできません。それだけ罪の力、死の力は強いものです。
しかしイエス様は私たちの罪のために十字架につけられ死なれました。そして三日目に死者の中からよみがえられました。死の勢力を打ち砕かれました。このイエス様の十字架の力によって、私たちは罪と死の勢力から抜け出すことができるようになったのです。それだけではありません。
74,75節の御言葉を皆さんと一緒に読みたいと思います。「われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」イエス・キリストを信じて受け入れた私たちは新しい人生を生きるようになります。イエス様に出会う前は、神様の御前に立つことができませんでした。教会の敷居がすごく高いものに感じられました。自分の罪ととがのために、恐れおののくしかありませんでした。しかし「救いの角」であるイエス・キリストによって、救われた私たちの人生は大きく変えられるようになりました。きよい生活、正しい生活、恐れない生活をすることが許されました。これは一方的な神様の恵みです。この神様の恵みによって、この世とは区別された生活、御言葉に従って歩む生活、神様と父と呼び、自由に交わる生活ができるようになりました。バプテスマのヨハネは民たちをイエス様に導く尊い使命を担うようになります。このイエス様を紹介し、人々が悔い改めて、神様に立ち返る生活ができるように助ける働きをします(76,77)。ヨハネは旧約時代最後の預言者としての使命を担います。幼子は成長して、その霊は強くなりました。救い主イエス・キリストが現れるまで、荒野で生活していました(80)。
第二に、「日の出」であるイエス様、です(78,79)
皆さんともう一度、78,79節の御言葉を読みたいと思います。「これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」救い主イエス・キリストの誕生は、神様が信仰の先祖アブラハムと交わした約束の御言葉を成就したものです。しかし同時にそれは神様の深い憐れみによるものです。神様は、モーセの律法を通して民たちがきよい生活を送るように、助けられました。ところが、誰ひとりその律法を完全に守り行なった人はいませんでした。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ロマ3:10-12)とあるように、人の行ないによっては誰も救いを受けることができません。
「日本人は礼儀正しい」と言われています。幼い時から「人に迷惑をかけないように」と教育されています。それで多くの人が社会の秩序を重んじ、約束を守ります。何か人の役に立ちたいと考えている人もいます。それで「あなたは罪人だ」と言われると、「違う」と反論したくなると思います。それは日本人に限ったことではありません。ところが、いくら自分が正しいことをしていると思っていても、相手にそれが伝わっていないことがよくあります。たとえそれが「よかれ」と思ってしたことであっても、何気ない言葉、しぐさによって、相手に不快な思いをさせたり、深い傷を与えたりします。するとひずみが生じます。人間関係がこじれ、ついには関係性が壊れてしまいます。その時、皆さんならどうするでしょうか。心から「ごめんね」と言えるでしょうか。素直に自分のあやまちを認め、謝罪することは本当に勇気のいることです。イエス様は私たちと共におられ、壊れた関係を修復してくださいます。神様との関係が回復され、隣人との関係が修復されます。
今年に入って、新型インフルエンザが流行しました。このインフルエンザに多くの人が感染しました。その中には死んだ人もいます。連日のようにテレビで報道されるため、自分も感染するのではないのか、という恐れにとらわれます。ところが予防接種を受けたくても、ワクチンが不足しています。果たして自分に回ってくるのかと心配します。あるいは、不景気のために、いつ会社が倒産するのか、家や職場を失ってホームレスになるか、分からない状態です。はっきりとした将来が見えません。すると絶望し、無気力になります。その場に座りこむしかありません。人生に疲れ、精神病を患っている人も少なくありません。神様はこのような人々に深い憐れみをかけてくださいました。そしていと高き所から希望の光を照らしてくださいました。
夜明け前は、もっとも暗いとされています。私たちの心の中にイエス様がいない時、もっとも暗く、もっとも苦しく、もっとも辛い人生を送るしかありませんでした。しかし日の出であるイエス様が私たちの心の中に入って来てくださいました。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハ1:5)とあるように、誰でも、「日の出」であるイエス様を受け入れるなら、恐れ、不安、悲しみ、絶望が一瞬のうちに消えてなくなります。代わりに、平安、喜び、希望が与えられます。心の傷が癒されます。イエス様が私たちの行くべき道を照らしてくださいます。まことの平和の道に導いてくださいます。預言者マラキは次のように言っています。「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」(マラ4:2)
私は、今回クリスマスの御言葉を準備する中で、「日の出」であるイエス様を黙想するようになりました。毎週土曜日早天祈祷会に参加するために朝5時に起きると、外はまだ暗く、肌寒く、疲れや眠気と戦いながらセンターに向かいました。特に、月に1回自分の順番が回って来ると、メッセージをプリントして正装して祈り会に参加するため、普段よりも緊張しました。ところが祈りが終わった頃には、外は明るくなりました。辺り一面に朝日が広がっていました。この光景を見ると、私は疲れていることも忘れ、新しい気持ちで仕事に行くことができました。すると将来に対する恐れと不安が消えてなくなりました。健康も与えられました。夏修養会に参加する時以外は、一日も休むことなくホームヘルパーの仕事を担うことができました。健康診断では何の異常も見られませんでした。試験に対する恐れや不安もなくなりました。限られた時間の中で、集中して勉強に打ち込むことができるようになりました。すると、専門知識も身につくようになりました。試験の時も、落ち着いて問題を解くことができました。今年会社で四回目の賞をもらうようになりました。確かに仕事の上では心身共に疲れることがあります。ところがFELLOWSHIPの基礎勉強、所感発表、主日礼拝を通して、日の出であるイエス・キリストを仰ぎ見るようになりました。すると私の心の中に希望の光が差し込みました。力がみなぎるのを感じるようになりました。
ところが、残念ながらケアマネジャー試験には落ちてしまいました。このメッセージを準備しているその時に、その知らせが届いたので、本当にショックを受けました。私の心はひどく揺れ動きました。その時、神様はマルコ5:36節「恐れないで、ただ信じていなさい。」という御言葉を堅くつかむように助けてくださいました。必ずイエス様がベストの道に導いてくださる信仰を持ち続けるように助けてくださいました。
私がこのイエス様を信じた時、すぐにショックから立ち上がるように助けてくださいました。再び、御言葉を用意する力が与えられました。そして来年は必ず合格するという信仰が湧き出るようになりました。私がこのイエス様を堅くつかむ中で、新たに試験を準備して、合格できるように祈ります。私がこのイエス様にとどまる中で喜び、力強く、大胆に生きることができるように、祈ります。
誰でも、心の中に「救いの角であるイエス・キリスト」を受け入れるなら、罪と死の勢力から解放され、神様の子どもに変えられます。また、「日の出であるイエス・キリスト」を心に受け入れるなら、心の傷が癒され、新しく変えられ、感謝と賛美で満ちた人生を歩むようになります。
今年クリスマスを迎える中で、一人一人がもう一度新たに、救いの角、日の出であるイエス・キリストをお迎えすることができるように、祈ります。特に、来週行なわれる聖誕礼拝に、多くの方々を招き、共に幼子イエス・キリストの誕生を心から喜び、恵みを分かち合う時間となりますように、お祈りします。
もう一度、78,7節の御言葉を読んで終わりたいと思います。