2013年マルコの福音書第6講(賛美歌344) 李ヨシュア 作成
人手によらない神の働き
御言葉:マルコの福音書4:21〜34
要 節:マルコの福音書4:28, 29「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
「日本の夏」と言えば何でしょうか。夏によく目にする風景は楽しく踊る人々の姿と、空を綺麗に彩る花火です。特に花火が打ち上げられますと、人々はそのあまりの美しさに酔い、「うわ〜っ、すげぇ!おお、めっちゃ綺麗!」と歓声を上げてしまいます。
今日は、御言葉の花火を高く打ち上げて、皆様と一緒にいのち豊かな不思議な神の世界を目で見て耳で聞く、そして心にそれを感じて喜びを分かち合いたいです。人は誰でも多くの実が結ばれる人生を過ごしたいものです。4章20節の御言葉のように、三十倍、六十倍、百倍の実が熟して、収穫にあずかるならば、それは最高に幸せでしょう。そのために大事なのは、主の御言葉を良く聞いてそれを信じることです。なぜなら、主の御言葉には、実を結ばせる生命力や成長力が秘められているからです。
イエス様のたとえ話には特徴があります。それは、自然界や当時の人々が日常生活でよく用いていたものを取り上げていることです。また、聞く耳を持って聞けば分かりやすく、すぐ悟ることができるようになっています。そもそもたとえ話というのは、深い教えを人々が悟れるように分かりやすく伝えるためのものです。しかし、いくら分かりやすいたとえ話でも、悟る人がいる一方、全然悟らない人もいます。それは聞く耳を持っているかどうかによるものです。私たちは聞く耳を持って主のたとえ話を聞くべきです。聞き方を注意して、主の御言葉に耳を傾けると、主は豊かな恵みを増し加えてくださるからです。この時間私たちは、主のたとえ話に良く耳を済ましてお聞きしましょう。
21節をご覧下さい。この箇所は、「あかり」のたとえ話です。「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。」常識的に、人はだれでも燭台の上にあかりを置いて部屋を明るくします。私が幼い時は家に電気が通っていなかったので、ランプを壁の上に掛けて置きました。
ここで「あかりを持って来る」というのは、原語では「あかりが来る」と書かれています。あかりがやって来る、ということです。あかりは「光」である主イエス様を指しています(ヨハ1:4)。そのイエス様はまことの光でこの世に来られ、すべての人を照らしているのです(ヨハ1:9)。イエス様は「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と言われます(ヨハ1:9)。ここにイエス様が光として来られた目的があります。それは、やみの中を歩んでいた者たちや、死の陰の地に住んでいた者たちを救い出されるためです。
22節をご覧下さい。「隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。」とあります。「隠れているもの」や「隠されているもの」は、神の奥義や神のご計画などと言えます。マラキ預言者以降、イエス様が現われるまで約400年もの間、神の奥義は隠されていました。しかし、イエス様が来られると、隠れていた神の奥義は現れるようになり、おおい隠されていた神のご計画は明らかにされたのです。
私たちの胸に突き刺さるような出来事があります。主イエスの「十字架」です。イエス様は人類が抱えている罪の問題を解決するために十字架に掛けられ、その上で息を引き取られました。すると、太陽は光を失い、全地が真っ暗になったのです。まるで光が暗闇の渦中に飲み込まれたようにも見えます。恐らく、イエス様を嘲り罵った者たちはみな、「主イエスという者は、まことの光ではなかった。ほら!ごらん。彼はもう死んだのだ。」と、思っていたことでしょう。ところが、人がいくら光を消そうとしても、まことの光は決して消えません。むしろその光は照り続けます。そして光である主を信じる人を通して必ず現われるのです。イエス様の十字架を実行し、その正面に立っていた百人隊長は、「この方はまことに神の子であった」(マルコ15:39)と告白しました。まさに、神様の救いの御業が彼を通して現われたわけなのです。
それでは、隠れた神の奥義やおおい隠されている救いの御業は、どんな人に現れ、明らかにされるのでしょうか。23,24節をご覧ください。それは聞く耳を持って主の御言葉(聖書)を良く聞く者にです。なぜ、よく聞くことが大切かというと、主の御言葉には、不思議ないのちの力が隠れているからです。私たちは、しっかりと主の御言葉を聞き、受け入れ、信じましょう。すると、主の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けることができるのです(ヨハネ1:16)。
さて、26節から34節には、「神の国」に対する二つのたとえ話が記されています。世の営みは、普通、懸命に努力して報酬を手にするという原則で成り立っています。何かを成し遂げた際は自らの栄誉となり、その逆は失意や落胆となります。しかしここに、もう一つ別の世界があります。その世界は、人の努力や行いに寄らず、ただ信仰によってのみ入れる恵みの世界です。人手に寄らず神の働きによって豊かに実る世界です。それが「神の国」です。ですから、この神の国を受け入れる心のありようが大切です。神様の語りかけを受け入れない人生は寂しいものです。では、神の国を受け入れる人には、どのような恵みが与えられるのでしょうか。
第一に、人手によらない収穫にあずかるのです(26〜29)。
農作物はそれ自体、生命力を持っています。ある農夫の人が地に種を蒔きました。種は人が寝起きしている間に、芽を出してどんどん成長していきました。まず種から芽が出て、次に穂、そして最後に穂の中に実が入りました。しかし人は、どのようにしてその種から芽が出て沢山実ったのか知りませんでした。農夫は種を蒔いた後は、昼夜をおかず寄り添ったり、見つめていたりはしません。植物の成長は、種自体に秘められた命の力によるのです。人はそこに少し手を添えるくらいのものです。人は種を蒔いた後に手入れをします。土に肥料を入れ、水やりや雑草抜きもします。何もせず手をこまねいていては、良い実はみのりません。しかし、それはあくまでも手入れであって、それ以上ではありません。その手入れがあったから実がみのるのではないのです。基本的に、地は人手によらずとも実をならせるからです(28)。
もう一度、28,29節をご覧下さい。「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」ここで「人手によらず」という言葉を、別の聖書では「おのずから」(口語訳)、「ひとりでに」(新共同訳)と訳されています。これは、神の国は、人間の努力や働きによって来るのではないということを物語っています。パウロはこう言いました。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」と(?コリント人への手紙3:6、7)。地は人手に寄らず実をならせるものです。わたしたちの人生でも、私たちが全てを知り尽くして物事を進めていっているでしょうか。いつも私たちの知らない力が働いているのを感じていないでしょうか。種の成長がそれを示しています。神様は、まどろむこともなく、眠ることもありません(詩121:4)。時が来ると実は熟します。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の恵みにあずかるのです。それは不思議な神の働きがあるからに他なりません。
横田早紀江(よこた・さきえ)さんの話を、みなさんもご存じかと思います。京都生まれの彼女は、1977年に長女めぐみ(当時13歳)が下校途中で消息を立って以来、苦悩の日々が始まったといいます。その後、彼女は宣教師夫婦に導かれて84年に洗礼を受けました。彼女は東日本大震災・復興支援トラクト「Love Japan」でこう言っています。「少しずつ聖書を知るうちに、自分のちっぽけさや、汚さに気付かされていきました。そして私のように罪あるすべての人間を救うため、キリストが十字架の苦しみを体験され、血を流して死んでくださったことを知り、深い感動を覚えました。神様!私は本当にあなたを知ろうともしない罪深い、生まれながらのわがままな者です。人知の及ばないところにあるあなたのご存在、この世の悲しみ、全てのものをのみ込んでおられることを信じます。めぐみの悲しい人生も、この小さな者には介入できない問題であることを知ります。こうして、私は神を受け入れました。」このように彼女の心に神様が働いて、主は彼女を救ってくださったのです。
第二に、小さな信仰は、次第に大きくなり、そして多くの人を養うことになるのです(30〜34)。
この箇所では、神の国はからし種のようなものにたとえられています。からし種は、地に蒔かれる種の中で、一番小さく、目にもとまらないほどのものです。直径が0.5ミリにも満たないので、黒点しか見えないと言われます。ところが、それが蒔かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになるというのです。これが神の国の特徴です。神の国は、初めは小さいけど、終わりは大きくなるのです。
からし種のたとえは、「信仰の世界」と言ってもいいでしょう。神の国は、小さなからし種ほどの
信仰から出発して、やがて時が来ると、大きな実を見ることになります。今アメリカのペンシルベニア州インディアナ大学では、UBF国際修養会が行われています。世界の国々から宣教師や牧者など約三千五百人が一つの場所に集い、きっと神様が成してくださった大きな御業を体験して喜んでいるでしょう。UBFの世界宣教の御業も初めから大きかったのではありません。からし種のように、たった二人で聖書を読むことから始まったからです。東京UBF教会も同じです。初めは数人の宣教師が四畳半の部屋で主の御言葉を蒔き、祈り始めたのが、今このように成長して来たわけです。このように信仰は主の御言葉を聞くことから始まります。ローマ10章17節には、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉によるのです」とあります。そういう訳で聖書読みや聖書の学びは本当に大切なものです。なぜかというと、主の御言葉の種が人の心の中に蒔かれると、やがてその人の信仰は大きく成長していくからです。すると、その陰に人々が集まって御言葉によって養われていくようになるのです。
ふつう人は、からし種のような小さなものを軽視し、もっと大きいものばかりに目を奪われてしまいがちです。人々はあまりに忙しいので、神の御言葉を聴く事に関心がないし、関心があっても後回しにしてしまう人が多いです。神の御言葉なしにも生きられるし、それで十分やっていけると考えている人も少なくないでしょう。私たちはどうでしょうか。聖書読みや祈り、賛美、交わりなど、それは大切だと考えていても、すっかり忘れて生活してはいないでしょうか。
私が宣教師になったのも、からし種のような信仰があったからです。今までの日本生活を振り返ってつくづく思うのは、人手によらない神の働きのことで、自分がこの国の収穫にあずかっているという点です。また、この教会の一員として主の救いの御業に参加させていただいていることに、いつも感謝し喜んでいます。しかし残念ながら、今自分の心にはからし種のような信仰がなくなり、むしろ、世の心づかいや富の惑わし、そして色んな欲望が入り込んで、荒れ果てた畑になっているような気がします。会社はまるで信仰を試される訓練場になっています。からし種の信仰なしには、気が狂っても不思議でないような日々が今も続いています。今年2月末には、レベカ宣教師が国へ帰らざるを得ませんでした。これも神様の御旨だと思い、私は9月ごろに今の会社を辞めて母国へ帰ろうと思っていました。しかし、私の計画や思いよりも、神様の強い働きによって、レベカ宣教師は8月末再び日本に戻って来るようになりました。皆様の切なる祈りに感謝いたします。これからもこの国の救いの御業に快く同労しながら、皆様と共に人手によらない神の働きを大いに体験し、いのちの収穫にあずかることができますように祈ります。
「蒔かぬ種は生えぬ」という諺があります。種を蒔かなければ花も実もなるはずがなく、収穫があるはずもありません。農夫は、種が種のままだと思って蒔きはしません。必ず多くの実がなるものと思って蒔くのです。それは、種には人手によらない強い生命力や成長力があることを信じているからでしょう。主の御言葉の種は、私たちの心の内にまかれ、時が来れば必ず実になります。そして、今日も働き続いているのです。詩篇1:2,3は言っています。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」ハレルヤ、アーメン!