2013年マルコの福音書13講

信じる者には、どんなことでもできるのです

御言葉:マルコの福音書9:14-29
要 節:マルコの福音書9:23 “「するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」”

先週、私たちはイエス様がキリストであられることをもう一度確認し、イエス様に対する信仰を新たにすることができました。ではイエス様をキリストとして信じる者は、この世でどのようなことができるでしょうか。イエス様は私たちに何を求めておられるでしょうか。どうか、神様が不信仰な私たちを助けてくださいますように、私たちがますます信仰の人として成長して行きますように祈ります。

 9章の前半部を見ると、イエス様はペテロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に導いて行かれました。そして彼らの目の前で御姿が変わりました。イエス様はご自身が、その本来持っておられる栄光の姿を見せてくださったのです。そこで3人の弟子たちは、ペテロが「私たちがここにいることは、素晴らしいことです。」と告白したほどに素晴らしい経験しました。ところが、彼らがイエス様と一緒にその山から降りて来ると、どんなことがありましたか。
14節をご覧ください。「さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。」とあります。律法学者たちと弟子たちとが論じ合っていて、その回りを群衆が取り囲んでいました。イエス様は彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか。」と聞かれました。すると群衆の一人がイエス様にその事情を話しました。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。(17,18)」と報告しています。
報告をした人は、口をきけなくする霊につかれた人の父親でした。彼の息子につかれたその霊は口をきけなくすることだけではなく、ところかまわず、息子を押し倒しました。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせました。息子は悪霊によって苦しめられていたのです。そこで、父親はお弟子たちに、霊を追い出すように願ったのです。しかし、弟子たちから悪霊を追い出してもらうことはできませんでした。父親はそれをイエス様に報告したのです。それは大変悲しい報告です。彼は悪霊につかれた息子のために苦しみ、悲しんでいたのですが、イエス様の弟子たちにお願いしても助けてもらえなかったのです。
本当はイエス様のところに連れて来ました。父親は「先生、口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。」と言っています。でも、イエス様がそこにおられなかったのでイエス様の弟子たちにお願いしたのですが、助けてもらえなかったのです。そこで、今度はイエス様にお願いしているのです。ところが、イエス様は何と言われましたか。
 19節をご一緒に読んで見ましょう。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」イエス様は「ああ、不信仰な世だ。」と嘆かれました。ここでイエス様は父親とか、弟子たち、律法学者たちなどの特定の人の不信仰を嘆かれたのではありません。イエス様は「不信仰な世だ」と言われました。つまり、イエス様はそこにいるすべての人の中に「不信仰」を見いだしました。弟子たちの中に、律法学者たちの中に、群衆の中に、悪霊につかれた息子を持つ父親の中に不信仰を見いだしたのです。イエス様はその彼らの不信仰を知って嘆かれました。
父親の報告によると、「その霊が息子に取り付く」と表現しています。弟子たちはその霊を追い出すことができませんでした。群衆もその子を助けることはできませんでした。それでも弟子たちを批判していたようです。「お前たちも、あの評判の良いイエス様のお弟子なのか。」と問い詰めたでしょう。すると、律法学者たちは「そうだ、そうだ。」と弟子たちを嘲り、弟子たちはそれに対して言い訳をしていたようです。つまり、彼らはあの息子を助けていたのではなく、論じ合っていたのです。弟子たちにとって、苦しんでいる子どもの状態よりも、自分たちができなかった理由を説明することがもっと重要でした。だから、彼らは何とかして子どもを助けることより律法学者たちと論じ合っていました。誰一人として子どもを愛して手当てをするようなことはしませんでした。まさに不信仰な世だったのです。もし、信仰な人たちだったなら、自分でできることからあの息子を助けていたことでしょう。
 マザー・テレサはインドで多くの人たちが路上で死んで行く姿を見てもインドの人々を非難しませんでした。インドの政治家たちと論じ合うようなことをしませんでした。ただ、死んでいく人々をかわいそうに思って「死を待つ人々の家」を開設しました。路上の人々を運び、最後の看病を始めました。彼女は彼らから悪霊を追い出したり、病を癒したりすることができないから放り出したのではなかったのです。彼女がしたことは死んでいく者が人間としての尊厳を持って死ねるように、その人を抱きしめ、介抱したことだけでした。自分でできることから人を助けていたのです。
イエス様が弟子たちと世の人々に求めたことも同じです。彼らが子どもを癒すことはできなくても、そのことで論じ合うのではなく、子どもを愛して抱きしめ、助けることでした。しかし、彼らは苦しんでいる子どもよりも自分たちの立場を主張し、自分を守ろうとしていました。そんな彼らにイエス様は信仰を求めたのです。それはイエス様が彼らと一緒にいなくても可哀そうな人を見ると可哀そうに思って助けることです。愛を実践することなのです。そこで、イエス様は「その子をわたしのところに連れて来なさい。」と命じられました。イエス様は彼らと論じ合うのではなく、ひとりの子どもをかわいそうに思って助けようとされたのです。すると、人々はイエス様のところにその子を連れて来ました。その子がイエス様を見ると、悪霊はすぐに子どもをひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、転げ回りました。何度も、このような状態を見て来た父親の心はどうなったでしょうか。絶望的になったに違いありません。イエス様の目の前でも息子が発作してしまったからです。イエス様はそんな父親を助けてくださいます。
父親が絶望して癒しをあきらめないように、イエス様は「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と尋ねられました。イエス様は父親に話をかけて絶望的な状況の中でも希望を持ち続けるように助けておられます。すると、父親は言いました。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助け下さい。」この言葉の裏には子どもの長い苦しみがあります。その苦しみを見て来た父親の苦しみもあります。これまで失望の連続だった絶望感が表れています。だから、父親はイエス様を信じ切れず、「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助け下さい。」と言いました。イエス様に期待しているけれども半信半疑しながらお願いしたのです。ただ、主のあわれみに頼っています。それに対してイエス様はなんと言われましたか。
23節をご一緒に読んで見ましょう。「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』」イエス様は半信半疑の父親に「信仰」をお求めになりました。しかも、「もし、おできになるものなら」と言っている父親に「できるものなら、と言うのか」と言って彼の問題を指摘されました。彼の問題点は「信じるかどうか」の、信仰の問題だったのです。だから「できるものなら」という「不信仰」、半信半疑の心を捨て去るように言われました。では、それに対する父親の反応はどうでしたか。
24節もご一緒に読んでみましょう。「するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」」この父親は、今まで考えてもみなかった自分の側の不信仰に気づかされました。弟子たちの無能力が問題ではなく、自分の信仰が問題であることが分かったのです。そこで彼は「信じます。不信仰な私をお助けください。」と叫んだのです。彼は不信仰な自分を徹底的に自覚したのです。そして「信じます。」と言いました。だからと言って信じ切っているのではありません。彼は「不信仰な私をお助け下さい」とも叫んで言いました。つまり、彼は自分の不信仰を自覚しながらも「信じます。」と告白し、イエス様の助けも求めたのです。
ここで真実な信仰について学ぶことができます。私たちに自分の不信仰に対する自覚がなければ、本当の信仰に立つこともできないでしょう。不思議にも不信仰な者が信じるのです。逆説的にも聞こえるかも知れませんが、信仰とは、信仰のない者が、信仰の必要を痛感した時に生まれて来るのです。ここで父親はイエス様に「不信仰な私をお助け下さい。」と叫んだのですが、そこから信仰が生まれて来ました。だから、彼は自分の不信仰に眼覚めた時、すぐにイエス様に叫びの祈りをしたのです。
私たちは自分の信仰が成長すると、いろんなことができると思います。何かを整えてからイエス様に頼もうとします。しかし、信仰とはイエス様の御言葉を通して自分の不信仰が分かったら、すぐに応答することです。父親は自分が不信仰な者であることを自覚したとき、すぐにイエス様に叫んで言いました。不信仰なまま、ありのまま、イエス様のもとに飛び込んでいるのです。彼は不信仰のまま、疑う心を持ったままですが、そんな自分の状態を分析して整えるのではなく、イエス様の助けを求めて叫んで言ったのです。つまり、彼は自分の信仰に頼ったのではなく、自分をあわれんでくださるイエス様の恵みに頼ったのです。
私たちも自分の信仰より神様の恵みに頼らなければならないと思います。しばしば、私は人々から「自分にはまだ信仰が足りないからできない。」と言うことを聞きます。私の方から「信仰によってやってみましょう。」と言いますと、「ダニエル宣教師は信仰があるからそう言えるでしょう。」とも言われます。そう言う方は、自分なりに考えて自分の信仰がこうなったら、ああなったらできると思っているようです。しかし、自分が満足するほどの信仰に成長する日は、なかなか来ません。ある時は信じるけれども、ある時は疑います。疑いの心が私たちにあるのです。だから、自分の心のどこかに、「信じたい」という思いが少しでもあるなら「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」と言ってイエス様にお願いするのです。もし幼い時からの病でも、イエス様なら癒してくださるだろうということに気づいたら、そのまま「信じます。不信仰な私を助けてください。」と言って祈るのです。不信仰なまま、神様の恵みに頼って行くのです。「自分は信仰が足りない。信仰がある人はいいなあ。」と言わないで、助けてくださる神様の恵みに頼るのです。自分の信仰の成長を待っているのではなく、イエス様のお言葉にすぐに応答して信仰告白をし、神様に祈ることが信仰なのです。あれこれ論じ合うのではなく、神様に助けてもらいたいなら、すぐに叫んで言うのです。その信仰によってどんなことでもできることを体験して行くことができます。
今、皆さんにはどういう問題があるでしょうか。私が知っている限り、幼い時から何度も火の中や水の中に投げ込まれた子どもの問題を持つ親はいません。でも、幼い時からの病があるかも知りません。牧者や宣教師にお願いしても助けてもらえない問題があるかも知れません。牧者にあきらめてイエス様に祈っていますが、「これはできるかなあ」と半信半疑している問題もあるかも知りません。何とか解決してもらいたいさまざまな問題があるでしょう。そんな私たちにイエス様は何と言われるでしょうか。イエス様は「『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』と言っておられると思います。皆さんは何と答えるでしょうか。(私がイエス様の代わりにイエス様のお言葉を言いますので答えてみてください。信仰は告白することに意味があるからです。)「信じます。不信仰な私をお助けください。」その子の父は叫んで言いました。私たちも叫んで言ってみましょう。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
私はこの父親の真実な言葉に感銘を受けます。「信じます。不信仰な私をお助けください。」最近、何度も、何度も、私が言いたくなる言葉でもあります。秋の弟子修養会が近づいて来ていますがメッセンジャたちとの基礎勉強もできない状態です。来年度の日本UBF、アジアUBFの方向を決めて支部長修養会の準備もしなければなりません。特にアジア支部長修養会のことを考えると、自分の乏しい英語力のために頭が真っ白になります。その上に、職場では、去る2年間が国から支援を受けている特別事業の報告書も書かなければなりません。いろいろ考えると肩が重くなるし、自分の十字架を担って行けるかなあという恐れと不安も生じました。しかし、本文の御言葉を準備しながら再び力を得ました。イエス様は私に静かに言われます。「できるものならと言うのか、信じる者にはどんなことでもできるのです。」
今までも私はこの御言葉を通して恵みを受けて来ました。イエス様は何度も私を叱りながら大きな声で言っておられるような気がしました。しかし、今回はなんだか、イエス様が静かに私を見つめながら「できるものならと言うのか、信じる者にはどんなことでもできるのです。」と言っておられるような気がしました。そこで、振り返ってみると、今まで神様は本当に不信仰な私を助けてくださいました。
「できるものならと言うのか、信じる者にはどんなことでもできるのです。」と言う御言葉は私の宣教要節ですが、私が日本の宣教師になろうとした時、何の準備もできていませんでした。日本語もできない、留学できるほどの実力もない、海外に出て行けるような資金もありませんでした。金ヨハネ宣教師が日本の宣教師に行くと言ったから自分も宣教師になりたいと希望したものです。だから心の中には不安と恐れがありました。そんな私にある日、主は「できるものならと言うのか、信じる者にはどんなことでもできるのです。」という御言葉をくださいました。すると、不思議にも自分がイエス様を信じていると言っても信仰がなかったことに気づかされました。そこで私は自分が通った大学の裏山に上って祈りました。「神様!信じます。不信仰な私を助けてください。」と叫んで祈ったのです。その後、父に日本に留学したいから手続きに必要なお金だけ貸してくださいと言いますとあれほど反対していた父が日本留学を許可してくれました。
そして、日本に来てからは数多くの信仰の体験ができました。日本語もできないのに日本に着いた二日後に印刷工場のアルバイトができ、一年後に東京韓国学校の時間講師としての就職ができました。宣教活動を通して神様が牧者たちを立て、日本人の宣教師を派遣するみわざにも用いられて来ました。四畳半から始めたセンターが四階建てのこの場所になるまでも信仰の力を体験して来ました。3年前からはアジア支部長にも任命されてアジア宣教にも用いられて来ました。時間講師として出発した学校でも今週からは教頭として働くようになりました。
振り替えてみると、耐え難い試練も苦しみもありました。ただ、自分の不信仰に気づかされた時、神様の恵みに頼って祈ると、神様が助けてくださいました。そのうちに、私は自ら力量が足りなくても信仰があると思うようになりました。しかし、今回、このメッセージを準備しながら自分に信仰があったからではないことが分かりませんでした。自分には何もないから仕方なく神様に頼り、「不信仰私を助けてください」と祈った時に神様が助けてくださったことを深く悟りました。だから、私の信仰がまだまだ未熟ですが、毎週与えらえる主日の御言葉、毎日与えられる日ごとの糧の御言葉に対してすぐに応答して神様に祈り求めて行きたいと思うようになりました。すると、これからも神様の奇跡を体験して行くように導いてくださることを信じます。先週、クリスチャン新聞を見ると、日本でクリスチャンは1%にもなりませんがさらに減っていて主日礼拝参加者は0.4%になっていました。でも、神様は私たちの祈りに答えて47都道府県に牧者を立て、アジア47か国に宣教師を遣わすみわざに私たちを用いてくださると信じます。

 25節をご覧ください。信仰の祈りを聞かれたイエス様はその子をいやしてくださいました。イエス様は、汚れた霊をしかって言われました。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行きました。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言いました。しかし、イエス様は、彼の手を取って起こされました。するとその子は立ち上がりました。イエス様は悪霊を追い出せる権威を持っておられる方です。
イエス様が家にはいられると、弟子達がそっとイエス様に尋ねました。「どうしてでしょう。私達には追い出せなかったのですが。」弟子達はイエス様が悪霊を追い出した秘訣が何であるのかを知りたいと思いました。すると、イエス様は言われました。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」イエス様が信仰の力を体験させられた後、祈りについて言われました。祈りは信仰の表現だからです。イエス様を信じると、どんなことでもできますが、それを信じる信仰は祈りによって成長していきます。弟子たちが伝道旅行の時にいろいろな奇跡を体験したからこれからもずっと力あるわざを行なうことができるのではありません。またイエス様を信じて祈らなければ何もできなくなってしまいます。
私たち教会は、今まで祈りを通して神様の愛と力を体験して来ました。イエス・キリストを信じて救われた私たちは体も心も癒され、生きる力を得て来ました。これからもイエス様を信じるなら、私たちの知らない、理解を超えた大いなる神様のみわざを体験するようになります。しかし、祈りによらなければ何もできません。どうか、私たちが祈りによって神様の力を体験しますように祈ります。特に、秋の弟子修養会のために祈りましょう。秋は実りの季節ですが、聖霊の実を結ぶ実りの季節になりますように祈りましょう。信仰と祈りのあるところに神様の大いなる力が働きます。力は祈りによって得ることができます。どうか、私たちひとりひとりが信仰と祈りの人として成長して行きますように祈ります。