2013年マルコの福音書第21講
契約の血
御言葉:マルコの福音書14:1ー31
要 節:マルコの福音書14:24 「イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」
メリークリスマス!
クリスマスが近づいて来ています。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
先週、アメリカ・ホワイトハウス前の広場では、オバマ大統領一家が出席して恒例のクリスマスツリー点灯式が行われました。オバマ大統領は「寛容のために闘った南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領に感謝の気持ちをささげたい。彼は信じられない勇気をもってわれわれに恵みを与えてくれた」と語りました。クリスマスシーズンなのに、イエス様ではなくマンデラ氏の功績をたたえたことは残念です。もちろん、マンデラ氏は寛容のために戦った戦士であり、世界に平和と人権のメッセージを訴え続けた平和の使徒であったと思います。私自身も心から尊敬する方です。あの柔和な笑顔から心の強さと優しさを感じて来ました。できれば、私も反キリストの勢力とは戦い続け、人に対しては限りなく優しい人として生きて行きたいと思っています。だから、オバマ大統領を含めて世界中からマンデラ元大統領に哀悼の意を示すことは素晴らしいと思います。
しかし、今はクリスマスシーズンです。私たちクリスチャンは平和主義者マンデラよりも平和の王であられるイエス・キリストを拝み、礼拝しなければなりません。マンデラは偉い人でしたが私たちのために死んでくれたのではありません。しかし、イエス様は私たちのために死んでくださいました。私たちの罪を贖うために、イエス様はご自分の体を裂いてくださいました。私たちのために、イエス様は血を流してくださいました。
この時間、私たちのために契約の血を流してくださったイエス様を覚えて感謝し、イエス・キリストの血の恵みを心に刻んで行きたいと思います。神様は先週も日ごとの糧に記されたレビ記の御言葉を通して罪のいけにえ、罪の償い、和解のいけにえなどについて教えてくださいました。この時間、レビ記の御言葉も思い出しながらイエス様が流された契約の血の意味を学んで行きます。それによってイエス様が何のために生れてきたのか、どのように生き、また死ぬために生れてきたのかを、より鮮やかに心に刻むことができると思います。まず、イエス様に対して尊い物をささげた「ひとりの女」の信仰を学びます。ここで、私たちのささげ物の意味を知ることができます。
1節をご覧ください。「さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。」とあります。「過越の祭り」とはエジプトの奴隷であったユダヤ人が、モーセに率いられてエジプトを脱出したことに由来しています。その時、神様は、エジプトに何度も災いを下しました。最後には、人であれ家畜であれ、すべて初子が打ち殺される災いを下されました。しかし、神様の御言葉に従って小羊の血を入口に塗ったユダヤ人の家だけは過ぎ越しました。それで、ユダヤ人は家の入口に塗った小羊の血によって初子が殺される災いから救われました。エジプトの奴隷の状態からも解放されました。その日は、ユダヤ人にとって救いの日、解放記念日になりました。何よりも神様は、この歴史的なその日を過ぎ越の祭りとして行ない、神様がイスラエルに行なわれたことを思い出しなさい、と命じられました。それで、ユダヤ人は過越の祭りを守り、先祖がエジプトの奴隷の身分から救い出されたことを記念しています。種なしのパンを食べながら七日間も行っています。
ところが、祭司長、律法学者たちは歴史的な「過越の祭り」のことを考えませんでした。それよりどうしたらイエス様をだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいでありました。ところが、このような状況の中でもイエス・キリストに愛を示すひとりの女性がいました。
3節をご覧ください。「イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」とあります。このナルド油は、弟子たちの何人かが「三百デナリ以上」に売れると言っています。一デナリは一日分の給料です。今の日本の円に換算すると三百万円ぐらいになります。マリヤはその高価な香油を注いだのです。家中に香りがしたのでしょう。ただ、今回、私が気づいたのは香りが濃すぎて芳しくなかったのではないかと言うことです。たまに、娘たちからお父さん匂いがすると言われて私も香水をつける時があります。少しつけると良い香りがします。しかし、つけ過ぎると逆に不快感を与えてしまいます。だから、「ナルド油」の香りは、良い香りを通り越して人々に不快感を与えたかも知れません。何人かの者が憤慨して互いに言いました。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人達に施しができたのに。」と言って香油を注いだその女をきびしく責めました。彼らはイエス様のことより、香油の価値だけを考えました。もし、ひとりの女性が高価なナルド油の代わりに、高価なプレゼント、高級料理を持って来てくれたら大歓迎したことでしょう。しかし、彼らの目には無駄に無くなってしまう香油に見えたから、マリヤの行動に憤慨したのです。ところが、イエス様は、マリヤの行為に対して何と言われましたか。
6節をご覧ください。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」イエス様は彼女の真心と献身をりっぱなこととして高く評価してくださいました。彼女はりっぱなことをしようと思わなかったも知れません。彼女は自分の香油が300万円もする高価なものであることも知らなかったでしょう。ただ、ただ、彼女は自分にできることをしたのです。持ち物でイエス様への愛を表現しました。イエス様はその純粋な行動を喜ばれました。?コリント15:58を見ると「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分達の労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」。とあります。そうです。私たちが励んでいる福音のみわざは無駄なことのように思われる時もあります。毎週、姉妹宣教師たちの中には毎週木曜日にキャンパスに行って伝道します。警備員さんから追い出されたり、変なおばさんに見られたりして寂しい時もあるでしょう。特に何年間も続けているのに伝道のみが見えないことで虚脱感があるかも知れません。その時間にアルバイトをしていたら300万円は儲けたのにと思われる時があるかも知れません。しかし、私たちの労苦は主にあって無駄ではありません。イエス様は「わたしのためにりっぱなことをしている。」と言ってくださいます。何をしても主のためにするなら、主が高く評価してくださいます。
7、8節をご覧ください。「貧しい人達は、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに前もって油を塗ってくれたのです。」とあります。イエス様は彼女の行ないを高く評価することだけではなく、『埋葬の用意にと』意味を与えてくださいました。
確かに当時、死体の腐敗した匂いを打ち消すために油を塗るという習慣があったようです。16章を見ると、イエス様が死なれて三日目の朝、女たちはイエス様に「油を塗りに行こう」としたことが記されてあります。でも、彼女たちはイエス様の死体に油を塗ることはできませんでした。イエス様は油を塗られる前に復活されたからです。だから、この女性はイエス様の埋葬のために油を塗った唯一の人になります。彼女はイエス様が死なれてからはできないから、前もってイエス様のお体に油を塗ったのです。それがイエス様の解釈です。もちろん、彼女はイエス様の埋葬のために油を注ぐつもりではなかったかも知れません。彼女はとにかく、イエス様への愛を現すために、「自分にできること」をしただけだと思います。イエス様を愛して「自分にできること」をしたのです。ところが、イエス様はそれを見て「りっぱなことだ」と、「これは、わたしの埋葬の用意なのだ」と言われました。イエス様は主にあって彼女の行ないを評価し、意味を与えてくださったのです。
このように、イエス様は私たちが自分にできることさえすれば喜んでくださるお方です。イエス様は私たちに無理な要求をなさいません。できることをやることを願っておられます。クリスマスが近づいて来ました。自分にできることは何でしょうか。賛美ができる方もいらっしゃるでしょう。教会堂の掃除ができる方もいらっしゃるでしょう。祈りしかできない方もいらっしゃるでしょう。大切な事は自分にできることをすることです。小さな事でも主にあってするならイエス様はそれを高く評価し、喜んでくださいます。小さなことでも自分のできることをやれば、神様はそれを喜んでくださいます。
私は今回メッセージ準備の中で「この女は、自分にできることをしたのです。」と言う言葉に大きな恵みを受けました。私たちは仕事や勉強をしながら主のみわざに仕えています。私も普通のサラリマンのように毎日仕事をしています。大学生から小学生までいる子どもたちの父親としての役割も果たしています。それで、神様のみわざに専念できなくて神様の御前に「申し訳ない。」と思わされる時があります。神様に「こんなに足りない私に何ができると思っておられますか。」と言いたくなります。でも、イエス様は私に「あなたは、自分にできることをしているのだ。」と言ってくださいます。主は私に無理な要求をなさいません。自分にできることをすればいいです。私が足りないけれども最善を尽くして自分にできることをして行きますように祈ります。特にクリスマス礼拝を準備し、年末年始のみわざもよく準備して仕えることができるように祈ります。
9節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」とあります。このイエス様のことばの通りに今日も世界中でこの物語が語られています。香油を注いだ女とは対照的にイスカリオテのユダは、何をしていましたか。
10,11節を見ると彼は、イエス様を売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行きました。結局、ユダは自分の先生をも売ってしまい、人類歴史の中で裏切り者の代名詞になりました。
12-16節をご覧ください。種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子達はイエス様に言いました。「過越の食事をなさるのに、私達は、どこへ行って用意をしましょうか。」そこで、イエス様は、弟子のうちふたりを送って、こう言われました。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子達といっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」とあります。弟子達が言われた通りに出かけて行って、都にはいると、まさしくイエス様の言われたとおりでした。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をしました。では、過越の食事の時にイエス様は12弟子たちに何を教えてくださいましたか。
18−20節をご覧ください。イエス様は「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」と言われました。最も親しい弟子であった十二人のうちの一人によって裏切られると言われたのです。それを聞いた弟子達は悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエス様に言い出しました。「かわるがわるイエスに言いだした」とあることからユダも「まさか私ではないでしょう。」と言ったようです。このことは彼が建前と本音が違う生活をしていたことが分かります。最後まで本音を隠していました。そこで、イエス様は十二人の中のひとりで、イエス様といっしょに、同じ鉢にパンを浸している者だと言われました。イエス様はますます具体的に話してユダが悔い改めるように助けておられます。しかし、彼は悔い改めませんでした。残念ながら悔い改める機会を失ってしまいました。そこで、イエス様は彼に警告の御言葉を言われました。
21節をご一緒に読んでみましょう。「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」イエス様はどれだけ心を痛めながらおっしゃったのでしょうか。愛する弟子に「生まれなかったほうがよかった」と言うのも辛いことでしょう。でも何とかして最後までイスカリオテ・ユダが悔い改めるように助けられたのです。しかし、彼は悔い改めませんでした。彼が出て行ってしまいました。そこで、イエス様は弟子たちに何を教えてくださいましたか。
22節をご覧ください。「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」とあります。イエス様はパンをご自分のからだと言われました。それはイエス様が私達の罪のために十字架につけられ、体が裂かれることを言ってくれます。イエス様は、また杯に対しては何と言われましたか。
23,24節をご一緒に読んで見ましょう。「また、杯を取り、感謝を捧げて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」すでに、イエス様が「わたしのからだ」と言われました。そのからだの中に、肉も、血も含まれているはずです。なのに、ここでまた「血」だけを取り出されたのは何か意味があるのでないでしょうか。確かに意味があります。血を流すことなしに罪の赦しはあり得ません。先週、日ごとの糧を通して分かるように罪を犯す者は誰であってもその代価を払わなければなりません。和解のいけにえ、罪のためのいけにえなどをささげなければなりません。出エジプト29:36節を見ると「毎日、贖罪のために、罪のためのいけにえとして雄牛一頭をささげなければならない。祭壇のための贖いをするときには、その上に罪のためのいけにえをささげ、これを聖別するために油をそそぐ。」とあります。毎日、注がれる動物の血によって贖われていたのです。ところが、ヘブル人への手紙9:13,14は言います。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私達の良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」。むかし、やぎと雄牛の血も力がありました。ましてキリストが傷のないご自身をとこしえの御霊によって神様におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめてくれるでしょうか。イエス様ご自身が血を流して神様にささげることによって私たちのすべての罪の代価を払われたのです。キリストの血によって私たちは罪と快楽の死んだ行いから離れて生ける神様に仕える神様の子ども、聖なる国民として生きることができます。どうか、キリストの血の力を信じましょう。悔い改める生活を通して血の力を体験しましょう。イエス様の血は十字架の強盗を新しく生まれさせる力がありました。サマリヤの女を新しく生まれ変わらせる力がありました。取税人レビを聖マタイに変える力がありました。誰でもキリスト・イエスの血の力によって新しく造られた者になります。
24節をもう一度ご覧ください。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」とあります。イエス様は愛する弟子たちのためだけではなく多くの人のために血を流されました。
だれのためにキリストは御血を流されたでしょうか。私たちのためです。この私のためです。イエス様は私を永遠のさばきから救うために、サタンの奴隷の状態から救うために御血を流されたのです。この血を飲む者は死んだ良心がきめられてきよく正しく主に仕える人生になります。それで新聖歌235番は次のように歌っています。「罪重荷を除くは、血の力 主の血は、悪魔のわざをこぼつ 奇しき力なり、力ある主イエスの血、受けよ、受けよ、力ある主イエスの血、受けよ。今受けよ。」肉の欲を除くのも血の力です。私たちを雪より白くするのも血の力です。どうか、心からキリストの血を受け入れ、信じることによって私たちがきよめられますように祈ります。
25節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」とあります。先週、私たちはイエス様が再び来られることを学びました。その時に神の国が建設されます。私たちは新しい天と新しい地を見るようになります。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もありません。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない世界です。イエス・キリストの血によって契約が結ばれているクリスチャンはその神の国で永遠に生きるようになります。そこでは罪を犯すことも、罪を贖う必要もありません。ですから、イエス様は「神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」と言われました。
26節をご覧ください。イエス様と弟子たちは食事ののち、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行きました。目指すところは「ゲツセマネ」です。ゲツセマネでの出来事は来週学びたいと思います。
私たちは高価なナルド香油を主に注いだひとりの女の人の真心と信仰を学びました。彼女の行為に対してイエス様ご自身の死を前もって用意したと言われたイエス・キリストの御心も学びました。何よりも、イエス様は私たちを愛してくださり私たちの罪を贖うために十字架につけられて貴い御血を流してくださったことを学びました。どうか、私たちが日々この御血の恵みを覚えて感謝し、香油を注いだマリヤのように主のために自分のできることをして行きますように祈ります。