2013年ローマ人への手紙第14講
測り知れない神の知恵
御言葉:ローマ11:1-36
要 節:ローマ11:33「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」
私たちが先々週から学んで来たローマ人への手紙9章から11章には同族ユダヤ人に対する愛情を深く感じられます。9章ではユダヤ人が不信仰のために捨てられたからと言って、神様の約束が無効になったのではないと証しました。9章の終わりから10章にかけてはユダヤ人の失敗が異邦人の救いにつながっていることも証しました。異邦人であってもイエス様を心から信じ、口で告白するなら、救われるのです。また、神様はユダヤ人が異邦人の救いを見て嫉妬することを通して彼らも救われるようにしておられることを証しました。そして、今日の本文である11章においてイスラエルは必ず救われると預言しています。
結局、測り知れない神様の知恵、不思議なご計画によって異邦人もイスラエル人も救われて行くのです。そこで、パウロは「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」と神様をほめたたえています。
では、神様はどのようにしてユダヤ人を救いに導いて行かれるでしょうか。先に救われている異邦人はどのような態度で生きるべきでしょうか。どうか、聖霊が私たちに神様の奥義を悟らせ、教えてくださるように祈ります。
?.残された者(1-10)
1節をご覧ください。「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。」とあります。パウロは10章の最後の部分で神様が神様を求めなかった異邦人、不従順で反抗する民に対しても手を差し伸べておられると証しました。つまり、神様の救いは異邦人に及んでいるということです。すると、この手紙を受け取っているローマの人々から「神はご自分の民を退けてしまわれたのですか」と問いかけられるはずです。特に、ユダヤ人から考えると、神様から退けられてしまうことはあり得ないことです。そこで、パウロは「絶対にそんなことはありません。」と答えています。その理由はイスラエルに「残された民」がいるということです。パウロ自身もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身なのです。神様は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。イスラエルの歴史においてどの時代にも神様が残して置いた民がいました。いわゆる「残された者(レムナント)」がいるのです。そして、彼らこそ、アブラハムから始まった神様の祝福を受け継いできた人たちです。日本のことわざでも「残り物には福がある」と言いますが聖書でも「残された者」は「祝福された者」です。しかも、諺で言う「残り物」とは比較できないほどの価値ある存在です。それである方は「取って置きの者」と言い換えていました。「残された者」とは神様の「取って置きの者」なのです。パウロはユダヤ人が最も偉大な預言としているエリヤ時代の出来事を通して「残された者」について説明しています。
聖書がエリヤに関する個所で言っていることを調べてみると、預言者エリヤが活動していたアハブの時代はとても暗い時代でした。アハブの妻イゼベルが持ち込んだバアルとアシェラの偶像崇拝のためにイスラエルの民は神様から離れて行きました。エリヤは信仰によってバアルの預言者たちと戦って大勝利を収めましたが、そのことで彼は殺される危機に処せられました。アハブの妻イゼベルが激しく怒ってエリヤを殺そうとしたからです。そこで、エリヤは荒野に逃げて行きました。エリヤは大勝利の直後に疲れ果ててしまったでしょうか。彼は落ち込んでしまいました。彼は恐れた余り「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」と祈るほどでした。でも、神様は彼を退けてしまったのではありませんでした。神様は、彼の所に訪れて彼を休ませ、食べ物を与え、語りかけてくださいました。「エリヤよ。ここで何をしているのか」と。その時、エリヤは何と答えました。
3、4節をご覧ください。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子7千人が、わたしのために残してある。」とあります。エリヤは、「自分はひとりぼっちだ、味方は誰もいない」と考えていたのです。しかし、神様は、「エリヤよ。おまえ一人が残されているのではない。私はイスラエルの中に、真の神様を信じる人々を七千人残してある。」と言われたのです。エリヤは、自分一人で頑張ってやってきたと思っていました。しかし、エリヤの背後には、七千人もの人たちが準備されていたというのです。パウロはエリヤの例をあげてこう言いました。
5節をご覧ください。「それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」とあります。イスラエルの民の中にも神様が残して置いた7千人がいるということです。イスラエルの民全部が神様から離れたのではないのです。そのように確信できる理由は何でしょうか。
6節をご覧ください。「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」とあります。神様が残して置いた民は何か良い行ないをしたからではありませんでした。パウロがユダヤ人の行ないを見ると、神様の義に従うのではなく、自分の義を立てようとする高慢な人たちでした。彼らの行ないを考えると残された者がいないはずです。でも、神様の恵みによるものだから「残された者(レムナント)がいるのです。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。神様の恵みによって残されるからこそイスラエルの民にも希望があります。反抗的な民で、自分の義を立てようとしている民ですけれども、彼らのうちに神様の恵みの川が流れているのです。
今の時代にも同じことが言えるでしょう。行ないによって残されるなら、私のような人間は残れないでしょう。退けられてしまう者です。でも、神様の恵みの選びによって残された者になれるのです。何よりも恵みによるのだから、この国にも神様が残して置いた者、残された者、取って置きの者たちがいるのです。これこそ私たちの希望です。日本にもクリスチャン人口が全国民の1%にもならないと言われています。事実、私たちの周りにはノンクリスチャンが多いでしょうでしょう。私たちは無宗教の人、偶像崇拝者たちに囲まれています。そのことを考えると心細く寂しくなるでしょう。でも自分と同じような状況の中にあって苦難に耐えている人が他にもあるのです。これを思うと励まされます。私たちは、主に忠実なのは自分だけ、自分の教会だけだと思うべきではありません。他にも隠れた敬虔なクリスチャンがいます。日本だけではなく、世界中にいます。聖書の神様を信じて純粋に敬虔に生きようとする仲間たちがいるのです。
この時代がどんなに暗くなっても神様が残して置いた7千人がいます。実は、私たち自身が神様の取って置きの者とされています。私たちひとりひとりが残された者、レムナントであるのです。ただ、恵みの選びによって残された者にしてくださった神様の恵みを心から賛美します。この世の中に、まだ選ばれていない人々も多くいます。ユダヤ人でもそういう人々がいます。神様は、イエス様を信じないユダヤ人について、その人たちをかたくなにされました。そして、神様の義を得ることはできなくなっています。このことをパウロは、預言から証明します。
8-10節をご覧ください。「こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」」とあります。これは恐ろしい呪いです。悲しいことにある人たちにはこの呪いがすでに臨まれています。「食卓」ばかり考えている人たちです。「食卓」とは人々が追い求める肉的な関心事を指しています。私たち人間に「豊かな食卓、美味しい食卓」を求める心があると思います。私自身も出来れば美味しいものを豊かに食べたいです。おいしい食卓を楽しむことは決して悪くないでしょう。ただ、その食卓がわなとなり、網となり、つまずきとなる場合もあります。つまり、豊かな食卓、美味しい食卓が健康につながるのではなく、病となり、喜びではなく悲しみになってしまう場合もあるのです。何よりも、人生の最後まで、イエス・キリストが再臨されるその日までも霊的なことは求めず、肉的なことだけに留まっているなら、大きな問題です。彼らはノアの洪水の時のように裁かれるからです。マタイ24:38,39節を見ると「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」とあります。飲むことも、食べることも罪ではありませんがそれだけが人生のすべてであるなら、それは神様からの恵みを受けていない人々の生活なのです。神様は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられたからです。この御言葉はなかなか理解しがたいです。何で神様が勝手にある人は選ばれ、ある人は捨てるのですかと抗議したくなる方がいるかも知りません。毎日のように豊かな食卓、美味しい食卓で食べている金持ちにとっては不快な言葉でもあるでしょう。
しかし、私たちは選ばれていない人たちの立場よりも、自分が選ばれていることにもっと関心を持ち、感謝しなければなりません。選ばれてない人々、かたくなな人々に対しては心を痛めることですが、神様が選んでくださらなければ神様の御言葉を悟ることもできません。人の力で彼らを救いに導くことはできないのです。私たちは彼らに福音を宣べ伝えなければなりませんが、何で、何で彼らは選ばれないんだろうと悩む必要なないのです。むしろ、何で私のような者を選んでくださったのかを深く考えるべきです。これもなかなか理解しがたいことですが、わたしのような者でも「残された者」、「取って置きの者」にしてくださった神様の恵みを深く考えるのです。そして虫にも等しき者を救ってくださった主の恵み、測り知れない神様の恵みに感謝し、賛美するのです。ご一緒に新聖歌106番を歌いましょう。それこそ私たちが持つべき神様に対する態度であり、心構えです。
?.測り知れない神様の恵み(11-36)
11節をご覧ください。「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。」とあります。ユダヤ人は、イエス様がメシヤであることがわからずに、つまずいてしまいました。けれども、ユダヤ人たちがイエス様を拒んだことによって、イスラエルの役目は終わってしまったのではありません。パウロは、イスラエルがかたくなにしているときでさえ、神様が彼らを用いておられることを証しています。「かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。」とあります。この事はパウロ自身が経験していました。パウロは、まずユダヤ人に福音を宣べ伝えました。しかし、彼らが福音を拒むことによって、異邦人に宣べ伝えていました。使徒の働きを見ると、10章から異邦人伝道が始まっています。ユダヤ人が拒んだので、救いが異邦人に及んだのです。そのようにして救われた異邦人を見て、ユダヤ人たちにねたみを起こすことです。ユダヤ人は異邦人がイエス様を信じることによって救われ、祝福されていることを彼らがうらやましくなり、ねたむようになります。そしてその妬みからイエス様を信じて救われる人が起こるようになるのです。
神様は私たちも救われた者としてノンクリスチャンがうらやましくて妬むほどに祝福くされた者として生きることを願っています。私は東京UBF教会の聖徒たちも、私たちの家族も、子どもたちも人々から妬まれるほどに祝福されることを望んでいます。私たちの子どもたちの将来を見て人々が聖書の神様は生きて働いておられることを知ることができるように祈ります。
イスラエルが福音を拒んだことによって、世界中の異邦人に福音が言い広められる結果となりました。彼らが拒んでいるときさえ、そのようなすばらしい結果がもたらされているのです。それではなおさらのこと、イスラエルが回復するときは、さらにすばらしいことが起こります。これまで、異邦人の多勢が救いに導かれました。これはとても喜ばしいことです。けれども、これをはるかに越えた、とてつもない祝福が将来に備えられています。それはイスラエルの完成です。彼らが国民的にイエス・キリストを信じます。イスラエル人は約束の土地を相続します。イエス様がエルサレムに世界を支配されているので、世界には、正義と平和で満ちあふれます。そして、回復されたイスラエルを中心とする神の国に、私たち異邦人クリスチャンも加わることができるのです。パウロは、自分が異邦人の使徒であると言い、その務めを重んじていると言っています。けれども、ユダヤ人の救いも願っています。そして、彼らも救われることを確信しています。
16節をご覧ください。「初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。」とあります。初物とは、アブラハム、イサク、ヤコブのことです。そして、粉は現在のイスラエルの民です。もし、私たちがアブラハム、イサク、ヤコブを神様に選ばれ、祝福され、聖なる者とされていると信じているなら、イスラエルの民も神様に選ばれて、祝福され、聖なる者とされていると信じなければなりません。聖書の中での話しと、現在のイスラエルを切り離してはいけません。つながっているのです。初物が聖ければ、粉の全部も聖いのです。同じように、根もアブラハム、イサク、ヤコブのことを指しています。枝とはイスラエルのことです。そこでパウロは、神様とイスラエルとの関係、神様と異邦人との関係について説明します。聖書の中で、イスラエルはオリーブの木にとたえられています。パウロはこのオリーブの木を通して神様とイスラエルとの関係、神様と異邦人の関係を教えてくれます。
17-20節をご覧ください。「もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」とあります。イスラエルは不信仰によって折れたオリーブの木です。彼らは不信仰によって神様のさばきを受けたのです。彼らがイエス様を十字架につけて殺したのですが、その後、祖国を失い、離散の民となりました。神様に選ばれた民、イスラエルでも不信仰であった時はさばきを受けたのです。だから、野生種のオリーブである私たち異邦人が不信仰の者になったら、言うまでもなく、神様にさばかれえるのです。信仰によって立っていないかぎり、すぐにでもさばかれてしまいます。ただ、イスラエル人も、異邦人も信仰によって救われるのです。特に、パウロが心配し、心を痛めていたユダヤ人も神様の主権的な働き、恵みの選びによって救われます。何と神様の知恵と知識は、測り知れないことでしょう。神様の知恵と知識に感動し、感激しています。
33節をご一緒に読んでみましょう。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」神様の知恵と知識は計り知れません。私は今回ローマ人への手紙のメッセージを準備しながら以前より深い恵みを味わっています。でも、理解できなくて困る時も多くあります。ただ、私が確信することは神様の愛です。神様は愛です。全く正しい方です。また、あわれみに富む方です。ですから、神様が立てておられる計画、それは、私たちに将来と希望を与えるためのものです。私たちは皆、私たちの思いを遙かに超えたすばらしい神様の計画の中にいるのです。
イスラエルの民の多くは、イエス様を拒否しました。だから、捨てられて、それで終わりなのでしょうか? そうではありません。パウロは、イスラエルもいつか神様に立ち返るときが来ることを信じ期待していました。神様の計画はすべての人にとってすばらしい計画であるからです。すべてのことが神様から発し、神様によって成り、神様に至ります。私たちもこの測り知れない神様の計画の中に置かれています。神様の豊かな恵みが注がれているのです。
ですから、私たちは安心してたくましく強く生きることができます。私たちには将来と希望があります。しかも圧倒的な勝利者としての将来です。そして、この国に残されている人々に福音を伝えていきますように祈ります。特に神様の恵みによる選びに感謝し、謙遜に神様の救いと祝福を証して行きますように祈ります。