2013年ローマ人への手紙第18講 

祭司の務め

御言葉:ローマ15:14−33
要 節:ローマ15:16「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」

先週まで私たちはローマ人への手紙を通して福音の本質的なことを学んできました。パウロは「信仰とは何か、罪の赦しとは何か、クリスチャンはどのように生きるべか」と言うようなことについて記しました。そして、結論的に「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように(15:13)。」と書き記しました。これで手紙が終わったと思われます。ところが、パウロは今日の本文と16章を付け加えて個人的に言いたいことを書いています。ここで、私たちはパウロの恵みに対するパウロの考え、祭司の務めと開拓精神、世界宣教ビジョンについて学ぶことができます。そして、来週学ぶ16章を通してひとりひとりの同労者や聖徒たちに対するパウロの思い、忠実な牧者としての心を学ぶことができます。
今日は本文の御言葉を通して神様がパウロに与えられた祭司の務めについて、それを忠実に担うパウロの開拓精神と宣教ビジョンを学びたいと思います。

?.祭司の務めを果たしています(14−21)。
14節をご覧ください。「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」とあります。パウロが確信しているローマ教会の姿を見ることができます。彼らは善意にあふれていました。すべての知恵に満たされていました。また互いに訓戒し合うことができる教会でした。本当に素晴らしい教会の姿です。これ以上何を求めることができるでしょうか。それなのに、パウロはこの長い手紙を書いたのです。その理由は何でしょうか。
15-16aをご覧ください。「ただ、私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。」とあります。パウロはローマの聖徒たちに新しいことを教え、何かを命令するために手紙を書いたのではありませんでした。彼が所々、かなり大胆に書いたのは彼らにもう一度思い起こしてもらうためでした。神様から受けた恵みを思い起こしてもらいたかったのです。福音による恵みを思い起こすことによって聖徒たちに福音による恵みと感動を回復させてあげようとしたのです。パウロは手紙の初めにも、キリストによる恵みと使徒の務めに関して記しました。ところが、最後にもう一度その事実を思い起こしています。パウロがイエス・キリストに出会ってから分かったことの一つは恵みです。彼がイエス様に出会う前は「恵み」という言葉すら知りませんでした。しかし、彼がイエス・キリストに出会ってから胸いっぱい感じました。つねに神様の恵みを心いっぱい身体いっぱいに感じ、体験して来ました。そして、パウロはローマの聖徒たちもその恵みを思い起こしてほしいと切に願ったのです。
この恵みについては皆さんも知っているでしょう。恵みとは全くいただく資格のない人が返すことのできないプレゼントをもらうことを意味します。つまり、恵みをいただいたということは第一に自分には資格がないのにもかかわらず過分なものをただでいただいたということを意味するのです。それが恵みです。ではパウロが神様からいただいた恵みとは何でしょうか。一言で「私のような罪人が救われた」と言うことです。パウロはこの事実を何度も告白しています。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(3:24)」「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。(5:2)」パウロはただ信仰によって救われた恵みがあまりにも大きくて何度も告白し、証しているのです。それは自分自身が神様からの恵みを思い起こして感激し、感謝することだけではなく、ローマの聖徒たちも恩知らずの人間にならず神様の恵みを常に胸いっぱい感じることを願っていたからです。
神様はこの手紙を通して私たちにも救いの恵みを思い起こしてほしいと願っておられるでしょう。新聖歌233番歌いながら神様からいただいた恵みを思い起こしましょう。「♪驚くばかりの恵みなりき この身の汚れを 知れるわれに 2恵みはわが身の 恐れを消し まかする心を 起こさせたり…」
どうか、私たちがパウロのように常に神様からいただいた救いの恵みを心いっぱい身体いっぱいに感じますように祈ります。パウロは救われた恵みだけではなく、その恵みを伝えることも恵みとして認識し、感謝していました。
16節を読んでみましょう。「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいたからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」パウロがいただいた神からの恵みは救われた恵みだけではありませんでした。まだ救われていない異邦人に福音を伝える務めがありました。
私たちが何か素晴らしいことを発見するとそれを知らせたくなるでしょう。それが世界的な雑誌に載せられるとどれほど光栄に思うでしょうか。たとえば、朴エズラ宣教師が経営学者として今の日本の経済を生かす論文が書いて、それが有名な雑誌に載せられ、安倍総理大臣にも伝えられるなら、日本のために役立つものになります。しかし、いくら素晴らしい理論でも人々に伝えられなければ意味がないのです。ところが、パウロは自分がイエス・キリストに出会って驚くべき恵みの福音を知りました。そして、それを異邦人に伝える恵みをいただいたのです。では、パウロは神様から与えられた恵みをどのように担いましたか。
16bをご一緒に読んでみましょう。「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」パウロが神様からいただいた恵みは「祭司の務めを果たす」ことでした。
聖書によると、私たち人間は神様に罪を犯し、神様の敵となりました。神様はそんな人間と和解することを願いました。しかし、創造者の神様と被造物の人間は和解できない関係です。永遠に聖なるお方と永遠に呪われるべき罪人と和解することはできないでしょう。人間と人間なら、敵対関係になったとしても、何とか話し合いながら和解することもできるでしょう。しかし、神様と人間の間にはできないのです。その問題を解決するために神様は「神に受け入れられる供え物」を求めました。供え物をささげるためには神様と人間の間に仲介者の役割を果たす祭司が必要です。そして、神様と人間をつなげる役割を果たす人が祭司のです。この祭司の務めはだれでも担えるものではありません。出エジプト記26:1,2節を見ると「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表わす聖なる装束を作れ。」とあります。神様はアロンとその子を祭司として神様に仕えさせました。全能の神様、聖なる神様、いと高き神様に仕える務めは神様に認められ、選ばれた人だけができたのです。ウジヤは素晴らしい王でしたが、高慢になって祭司の務めをしたら、主が王を打たれたので、彼は死ぬ日まで、らい病に冒され、隔離された家に住みました[?列15:5]。このように、旧約時代には王であっても神様に選ばれていなければ祭司の務めはできなかったのです。
 ところが、私たちは神様からこの聖なる祭司の務めをいただいているのです。それは神の福音を宣べ伝えるためです。?ペテロ2:9を見ると「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。私たちには自分を罪とやみの中から救ってくださった恵みを伝える祭司の務めが与えられています。ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった神様の素晴らしいみわざを伝える祭司の務めがあるのです。これは驚くべき恵みです。宣教師たちはこの恵みを伝えるために日本まで来ました。どうか、私たちもパウロのように「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」と言える生活ができるように祈ります。それこそ、自分が癒され、生かされる道です。ではパウロは祭司の務めをどのように果たしていましたか。
17、18節をご覧ください。「それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行いにより」とあります。パウロは「この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何か話そうなどとはしません」と言っています。「この私を」という言葉の中にこんなに惨めな私を用いて下ったことに対するパウロの謙遜と神様への感謝が込められています。パウロは神様だけを誇りに思っていました。
19-21節をご覧ください。「また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」とあります。パウロは神様ご自身がしるしと不思議をなす力により、さらにまた、聖霊の力によって自分を用い、宣教の働きを成し遂げてくださったと証ししています。その結果、パウロはエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。彼の宣教原則は、他人の土台の上に建てないことでした。私たちUBF教会もこの原則を持っています。つまり、他の教会に通っている人をうちの教会に連れてくるのではなく、できるだけ福音を聞いたこともなく、聖書も知らない人々に福音を伝えることです。それはやさしくありません。でも、私たちUBFはパウロのような原則を持って情熱的に未信者に福音を伝えることのために励んできました。すると、神様は聖霊の力によって私たちを用いてキャンパス宣教、世界宣教を成し遂げてくださいました。どうか、私たちが初心を失うことなく、パウロのような心を持って福音の種を蒔いて行くことができるように祈ります。

?.イスパニヤに行くことにします(世界宣教ビジョン)(22-29)
 22-24節をご一緒に読んでみましょう。「そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので−というのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです、−」
 パウロは幾度もローマに行こうとしましたが、その道が妨げられました。それはローマ帝国の東方にある異邦人たちに福音を宣べ伝える働きを終わらせなければならなかったからです。その働きが終わらなければ、イスパニヤに行くこともできません。それで、イスパニヤに行く旅の途上にローマにも行けなかったのです。しかし、今は、もうその地方には彼の働く所がなくなりました。つまり、パウロは、ローマ帝国の東にあるコリント、エペソなどの地方で自分に与えられた責任を果たしつくしたのです。その時が、パウロはすでに引退する年を過ぎた老人でした。それでも、彼はその働きに満足し、休もうとしませんでした。パウロは、何年も次の働き場所であるイスパニヤ(スペイン)に行くことを希望していました。その旅の途上でローマに立ち寄り、ローマの教会からも祝福を受け、励まされて、送り出してもらいたいと望んでいたのです。結局、パウロは囚人として、ローマに連れて行かれるようになりました。彼は囚人として、ローマに連れて行かれるとは、考えもしなかったかも知れません。けれども、彼の希望はかなえられたのです。
 イエス様を信じる人々はビジョンを持っています。聖霊がキリストを信じる人々にビジョンを与えてくださるからです。
聖書に『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』(使徒2:17)とあります。ここに出て来る預言、幻、夢を合わせたものがビジョンです。それで、キリスト教を指して、夢の宗教、ビジョンの宗教と言います。使徒パウロはいつも世界宣教へのビジョンを抱いていました。そして、神様がそのビジョンを用いてくださいました。
 私がUBF教会に通いながらこういうビジョンに燃えている人々に出会ったことは大きな恵みです。学生の時もそうでしたが、今も先輩の宣教師たちがから刺激を受けています。この間、私はパウロのチームの勉強の時、定年になったら、どうしますかと言われた時、休みたいですと答えました。その後、私はいろいろ考えました。すると、60歳、65歳を超えても新しい国に宣教師として遣わされて言う先輩の宣教師たちが思い浮かびました。皆さんが良く知っている全UBF世界総裁であられる全ヨハン宣教師をはじめ、アフリカの鄭ヨセフ宣教師、李サムエル宣教師、李ダニエル宣教師たちなどは70歳を超えて新しく宣教師になったり、宣教師を移して行ったりしています。
私たちももう一度、自分の心を点検してみましょう。心を新たにしてビジョンを抱くことができるように祈ります。定年後だけではなく、30代、40代のうちに、50代、60代のうちにどうするか、ビジョンを持つことができるように祈ります。
私たちが主にあってビジョンを持つなら、聖霊の力によってかなえられます。イエス・キリストにあって待ち望む希望は神様がかなえさせてくださいます。
25-29節ではパウロがエルサレムによってローマに行く計画を言っています。パウロはエルサレムの貧しい人々のために、パウロ自身が設立した様々な教会からの献金を伝えるために、エルサレムに行くのです。ここで、パウロはこの献金が自発的なものであること、また異邦人の聖徒たちは、エルサレム教会から霊的なことにおいて負債を負っていることを思いこしています。異邦人の使徒とであるパウロ自身もエルサレム教会から派遣されていました。ですから、パウロから救いの福音を受けた異邦人たちは究極的にパウロを派遣したエルサレム教会に負債を負っています。だから彼らも物質的な献金を通しても負債を返さなければならないと言っているのです。成熟するということは恩返しのできる人間になることでもあるでしょう。恩返しが100%できなくても、諦めることなく、感謝する生活はとても大切なことです。
私たちもパウロから始まった異邦人宣教のために、福音を受けて救われました。救いの福音が私に伝えられるまでは数え切れない主のしもべたちがキリスト・イエスの仕え人として祭司の務めを忠実に果たしてきたからです。どうか、私たちもその恵みを覚えて、まだ福音を知らない人々に恩返しすることができるように祈ります。

?.祈りもお願いします(30-33)
 パウロは自分のビジョンを知らせることだけではなく、祈りもお願いしています。
30-33節をご一緒に読んでみましょう。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところへ行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。」
パウロはローマの聖徒たちに祈りをお願いしています。その祈りの課題はユダヤにいる不信仰な人々から救い出されること、またエルサレムに対する自分の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなることです。そして、その結果として、ローマに宣教師として行くことです。

私たちは聖霊のとりなしと多くの方たちの祈りによって支えられています。ですから、私たちも祭司の務めを果たすことができます。聖霊の力によって世界宣教に用いられることもできます。神様は私たちを愛して、ご自分の御子を惜しみなく私たちに与えてくださいました。私たちがその神様の愛、恵みに感謝し、感激して自分を生きた供え物として、神様にささげましょう。自分に与えられた祭司の務めを忠実に果たして行きますように祈ります。