2013年ローマ人への手紙第5講
その血による、また信仰による
御言葉:ローマ3:21〜31
要 節:ローマ3:25「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです」
私たちは先週までのローマ人への手紙を通して人間は一人残らず罪人であることを学びました。異邦人もユダヤ人も、皆さんも、私も罪人です。「義人はいない。ひとりもいない」と書いてあるとおりです。私たちは絶望と悲しみの中に死ぬしかありません。そして死後にさばきを受けることが定まっています(ヘブル9:27)。「ああ、私はどうしたら救われるでしょうか。」と叫んでも律法によっては救われる道がありません。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです(3:20)。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
今日はそのことを学びます。そういう意味で本文の御言葉はローマ人への手紙全体の中心であると言えます。ここで、パウロは福音の最も大切なことを伝えています。どうか、御言葉を通して人間の罪の問題をどのように解決なさったのか、どうやって義と認められる救いの恵みにあずかるかを学ぶことができるように祈ります。
21節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」パウロは「しかし、今は、律法とは別に。」と言っています。つまり、律法を守るという道ではないけれども、律法も賛成していて、預言者も賛成している神の義が示されたのです。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義です。それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません(22)。
パウロは今まですべての人は罪人であることを証してきました。すべての人が罪を犯したのです。ですから、だれも神様からの栄誉を受けることが出来ません。ユダヤ人も異邦人も神からの栄誉を受けることが出来ません。日本人にも、中国人にも、韓国人にも同じです。何の差別もありません。ではどうやって私たちは義と認められて救われるのでしょうか。
23、24節をご一緒に読んでみましょう。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです(23,24)。 ここで、私たちはどうやって義と認められるか、すなわちどうやって救われるかを知ることができます。
第一に「ただ、神の恵みによる。」ものだと言うことです。神様は救われる価を要求なさいません。ただ、恵みによって義と認めてくださいます。
私たちはこの恵みを神様が創造された世界から見ることができます。私たちが生きて行くために欠けてはならない空気は、神様の恵みです。5分だけでも息を吸わなければ人はどうなりますか。死んでしまいます。ところが、ただで与えられる空気によって私たちは息を吸うことができます。空気の中にある酸素はただで吸うことができるのです。これは恵みです。先週、主日には4階の水道水が出なくなっていて大変でした。それでポンプとタンクを取り換えたので今週は大丈夫です。しかし、新しいポンプとタンクがあっても水がなければ意味がありません。その水は天から降る雨という恵みによるものです。天から降る雨と言うのは、ただ一方的な神様の恵みとして与えられます。このようにこの世界をほんの少しでも見回すなら、神様の恵みで溢れています。一方的な愛です。たとえば、今、CBFの〇〇君は入院していて母のプリスカ牧者が彼の面倒を見ています。航君は親のために何もできませんが、親は一方的に彼の面倒を見るのです。それも恵みです。あれも恵み、これも恵み、この世界全体が神様の恵みを証しています。人々は太陽の光線について、天から降る雨について当たり前のように思っています。しかし、実は神様から価なしに一方的に与えられる恵みなのです。そのように神様はだれにもただの恵みによって救われるようにしてくださいました。従って救われた私たちクリスチャンはただ与えられているすべての主の恵みを深く考え、すべてのことにおいて感謝しなければなりません。御前に謙遜にひれ伏し、主の恵みに感謝し、賛美する生活をするのです。
ただ与えられるこの救いの恵みを深く悟ったIsaac.Wattsは新聖歌106番を書き残しました。ご一緒に賛美しましょう。新聖歌106番です。「むしにもひとしきもののために主はかくもむごきめにあいしか … 恵みに報ゆるすべを知らず すべてを投げ出し ただひれ伏す」」ただ恵みによって私たちを救ってくださる神様を賛美します。
第二に、「イエス・キリストによる贖いのゆえ」です。「贖い」と言うのは、ビジネス用語で、買い戻すという意味です。たとえば、私が車を買う時に、もし、私の息子とか、誰かがあらかじめ500万円払っていたなら、私にとってはただです。誰かが代わりに払ってくれたからです。それが「キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められる」と言うことなのです。
人類の先祖アダムの犯罪により、私たち人間は暗闇の国に入ってしまいました。病気、苦しみ、悲しみが起こり、死が人類に入りこんできました。死の恐れが私たち人間を支配するようになりました。やがてすべてのものは死んでいくようになりました。それだけではありません。「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」と書いてあります。それらはすべて人間が犯した罪の結果です。神様は、そんな私たちを苦しみとさばきの世界から連れ出したいと思われました。でも無理やりに人の髪の毛を掴んで、つまみだすようにして連れ出すに行きません。神様は正しいお方、聖なるお方であられるからです。無理やりにしては神様の義が現わされないのです。そこで神様は、代価を払って買い戻すこと、つまり贖う方法を選び取られました。神様が、人間についての所有権を取り戻すために代価を支払うことになさったのです。そしてその尊い代価が、御子イエス・キリストの十字架の血です。
25節をご一緒に読んでみましょう。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」
神様は救いを私たちにただで与えるために大きな代価を支払われました。ご自分の御子イエス・キリストを私たちの代わりに罪の代価として支払ってくださいました。それがイエス・キリストによる贖いです。私たちは正しい社会、罪のない社会を求めています。警察も刑務所も要らない社会で生きるなら、何と幸せなことでしょうか。ところが、私たち人間は理想的な社会を求めながらも罪を犯しています。人権を求めながらもいじめをし、情欲の罪を犯します。「むさぼるな」と言いながらむさぼっています。それは人間が罪の勢力、サタンに支配されているからです。自分がわざと罪を犯そうと決意しなくても、利己心の奴隷、妬みの奴隷、偽りの奴隷、お金の奴隷、貪欲の奴隷になっているのです。そして奴隷になっているので自分の力ではそこから救い出される道がありません。代価を払わなければ自由の身になることができないのです。
神様はこのような罪人を救うためにイエス・キリストを贖いの代価としてお与えになりました。そして、イエス様は十字架にかかって御血を流し、死なれることによってその代価を支払われました。このイエス・キリストの血によって私たちが罪から贖い出されたのです。銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです(?ペテロ1:18,19)。その代価の価値は計り知れません。高級乗用車のために払う500万円位ではありません。全世界よりも尊く、神様ご自身である御子を私たちの罪の代価として払われたのです。測り知れない代価を払われた神様の恵みを心から感謝します。ではイエス・キリストはどのようにしてご自身を罪の代価としておささげになりましたか。
もう一度3:25a節をご覧下さい。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」とあります。「なだめの供え物」とは、旧約の祭司制度を背景にしています。年に一度大贖罪日になると、大祭司は神様のお怒りをなだめるために動物の血を祭壇に注ぎました。ほふられて血を流した動物は神様と人間を和解させる犠牲のいけにえであり、和解のいけにえでした。その供え物によって神様のお怒りはなだめられ、神様と人間の関係が和解されるようになりました。そのなだめの供えものによって神様はさばきを見逃して来られました。
この和解は人間関係においても大切です。夫婦が喧嘩していて和解しなければ、その家は地獄になります。同様に、神様と私たちとの和解関係が崩れると、私たちのたましいはどうなるでしょうか。不安と恐れに陥ってしまいます。りっぱな家で高価な服を着て美味しいものを食べながら暮らしても不安な生活が続くでしょう。落ち着かない生活が続くようになってしまいます。
従って、私たち人間は神様と和解することが何よりも最優先的にしなければならない重要な問題です。そういうわけで旧約時代には祭司が人間の罪を購うために牛や羊などを犠牲にしてその血を祭壇に注ぎました。しかし、この動物の血は不完全なものでした。その効力は一時的であり、制限があったので根本的な解決策にはなりませんでした。ところが、神様は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それで、イエス様は人となって世に来られ、世の罪を取り除く神の小羊として血を流されました。ほふられた小羊のように、イエス様は鞭に打たれ、剣に刺されて血を流されました。両手と両足に太い釘が打ち込まれて十字架につけられました。十字架上で貴い血を流されました。このようにしてイエス様はご自分の血によって神様のお怒りをなだめてくださいました。そして、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです(ヘブル9:12)。
それで、私たちはイエス・キリストの血による贖いを信じることによって救われます。緋のように赤い罪を雪のように白くしていただくことができます。私たちの罪が紅のように赤くても羊の毛のようにしていただきます。イエス・キリストの血を信じる信仰によって私たちは癒され、救われるのです。このようにイエス・キリストの血には神様と私たちとの和解関係を回復させる力、私たちを癒し、救う力があります。私たちはいつでも、どこでもこのイエス様の血の力を信じるならその信仰によって神様の御前に出て行き、罪の赦しを受けることができます。神様と和解して神様に愛され、神様に祝福される人生を生きるようになるのです。なぜなら、神様は、愛する御子イエス・キリストを地上に遣わして、私達の罪のなだめの供え物とされ、十字架において血を流して、その代価によって私達を買い戻されたからです。それによって神様の義も現わされるようになりました。
ただ、信じない人たちには神様の恵みも、贖いも何の意味もありません。神様が示された救いを信じることによって神様の赦しと癒しの力が私たちのうちに働くようになります。私たち人間が神様の真の救いにあずかる道は神様が示された救いの恵みとキリストの血による贖いを信じることなのです。教会のあらゆる儀式やルールによるのではありません。ただ一つ、心から私たちを贖うために十字架にかかって死んでくださったキリストを仰ぎ見、その血を信じることです。キリスト教、キリスト信仰、クリスチャンとは、この十字架の主が流されたその血によって救われると信じる信仰以外に何もありません。十字架のキリストを心より愛し、受け入れる人が真の救いにあずかれるのです。
27、28節をご覧ください。「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」とあります。結局、私たちは律法の行ないによってではなく、ただ信仰の原理によって救われるので、救いを誇ることが出来ません。もし、身分や、学歴、財産、人柄などによって救われているなら、それらを誇ることができるでしょう。しかし、ただ恵みによってイエス・キリストの血による犠牲、信仰によるものだから、いつも神様の恵みに感謝し、神様に栄光を帰すべきなのです。
29、30節をご覧ください。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」信仰によって救われるから、ユダヤ人だけではなく、異邦人も救われます。この神様は一つの民族だけを救われる神様ではなく、全世界を救われる世界的な神様です。
31節をご覧ください。「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」
ただ神様の恵みによって、信仰によって救われるといいますと、律法を無効にしてしまうのではないかと誤解する可能性があります。それに対してパウロは「絶対にそんなことはありません。」と言い切りました。神様はイエス様の十字架によって律法の代価を全部払うようになさいました。律法の要求を満たされたのです。そして、イエス様を信じて救われると、聖霊によって生まれ変わった人が律法を確立して行きます。二つのJ(Jesus,Japan)を愛した内村鑑三はこう言いました。「キリストが十字架を通して施された救いにあずかられてから善に対する義務は喜びに変り、罪を犯すことはこの上もない苦痛になった。善を愛するから善を行なうようになったし、悪を憎むから悪を行なわないようになった。律法はもはや重荷にならなかったし、使徒ヨハネの言葉も理解するようになった。」と告白したのです。そして、使徒ヨハネは「神を愛することは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(?ヨハネ5:3)。と告白しています。私たちもこのように深く悟ってキリストの恵みのゆえに、もっとイエス・キリストを愛し、日本を愛する生活ができるように祈ります。
結論的に、私たちはただ恵みによって価なしに神様の大いなる贖いのゆえに救われました。ただ、ただイエス・十字架の血による贖いを信じる信仰によって救われました。救いはイエス・キリストの十字架を見上げ、信じること以外のどこにもありません。自分の善行によっても、熱心な宗教によっても、自分の奉仕によっても救われません。ただ神様の恵みによってキリストの血による、また信仰によって救われたのです。私たちにはその恵みにただ感激し、感動し、感謝をし、喜び、主を愛して行くことが許されています。主を愛して律法に示された神様を愛し、父母を敬い、隣人を愛する生活をしていくのです。この素晴らしい恵みを、一人でも多くの若者、日本の47都道府県の人々に伝えて行くことができますように祈ります。