2013年イースター修養会第2講
主イエス・キリストによって得られた永遠のいのち
御言葉:ローマ人への手紙5:1−21
要 節:ローマ人への手紙5:21「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」
Happy Easter!(隣の方とも挨拶を交わしましょう。)
私たちの信仰における最大の喜びは、キリストの復活です。今日はそのキリストの復活を祝うイースター礼拝をささげています。この日曜日に、主イエス・キリストが復活されたからです。主イエスの復活を記念し、感謝して、教会は日曜日に礼拝を守ってきました。日曜日が休日だから集まって礼拝をしたのではありません。教会が日曜日に礼拝を守ってきたから、日曜日を休日とすることが決められたのです。教会は日曜日のことを古くから「主の日、主日」と呼んできました。それは「主の復活の日」ということです。そういう意味で毎週の主の日、日曜日が、小さなイースターです。私たちは主の日の礼拝において、毎週、主イエス・キリストの復活を喜び祝っているのです。そして今日は年に一度は特別にキリストの復活を祝うイースターです。どうか、主イエス・キリストの復活による喜びと恵みが皆さんと皆さんのご家族の上に豊かに注がれますように祈ります。
昨日、私たちはキリストが聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたことを学びました。これこそ、私たちが信じるべきことの中で最も大切なことです。そして、パウロがコリントの人々に伝えたように、私たちがこの日本の人々に伝えていくべきことです。私たちは「イエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかって死なれましたが、三日目によみがえられた」と信じる信仰によって救われ、永遠のいのちを得られました。
では信仰によって救われた人々がこの世で得られる恵みと祝福は何でしょうか。この時間、御言葉を通してイエス・キリストの十字架と復活を信じて救われたクリスチャンに与えられた恵みと祝福を知ってそれを喜び、所有することができるように祈ります。さらに、私たちの信仰が成長して行きますように祈ります。
1節をご一緒に読んでみましょう。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。「ですから」と言うのは1章から4 章までの内容を受けています。まとめて言いますと、「信仰によって義と認められるのだ」ということです。私は今年になって毎週のように、このことを話しているような気がします。とにかく、パウロは「信仰によって救われるのだ。」「キリスト・イエスの贖いによって。」「その血によって。またその信仰によって義と認められるのだ」と言うことを繰り返して教えていました。そしてまた「ですから、信仰によって義と認められた私たち」と書いているのです。なぜ、こんなに繰り返して強調しているでしょうか。それは信仰義認が私たちクリスチャンライフの土台であるからです。「信仰によって義と認められる」ということが分からなければ、この5章から16章まで続くローマ人への手紙の勉強はも無駄になってしまいます。それは数学で言えば掛け算も割り算も知らない人に微分積分を教えるようなことです。それこそ無駄なことでしょう。だから学校では土台になる四則演算を小学校6年間もかけて教えています。そのように、パウロは信仰によって義とされるということを1章から4章までに長々と説明したのです。では信仰によって義と認められた人々に与えられる恵みと祝福は何でしょうか。
第一に神様との平和です。
今までの勉強を通して分かるように、私たちは神様との平和を持つことができない関係でした。神様の御怒りを避けることができない罪人でした。10節にあるように、神様の敵であった私たちです。そして神様は創造者であり、私たちは被造物にすぎません。しかも創造者の敵になっています。どうやって神様の御前で平安にいられるでしょうか。それはできません。神様と和解していないのに平安だというのは嘘です。軍隊で兵士はちょっとした過ちであっても将校の前では恐れます。心が平安になりません。職場でも上司との関係が敵になっているなら部下平安になれないでしょう。同様に、私たち人間は神様の御前で平安になることができない存在なのです。
ところが、私たちがイエス・キリストを信じた時、神様と私たちの間に言葉では言い表せない奇跡が起こりました。神様が私たちを罪人や神の敵としてご覧になるのではなく、義人として見てくださいます。しかもご自分の愛する貴い息子、娘として見てくださいます。ですから、だれでもイエス様を信じると心が平和になります。父なる神様を思うだけでも心に川のように流れる平和があります。自分の状況や環境が変わらなくても心には平和を持つのです。神様がイエス・キリストの贖いの死によって私を赦し、愛しておられると信じる時、私の心が平安になるのです。従ってイエス様を信じてもまだ心に平和がないなら、それは不自然なことです。信仰に問題があると言えるでしょう。なぜなら、信仰によって義と認められた人には必ず神様との平和が与えられるからです。
最近、韓国人は北朝鮮が戦争を起こすかも知れないことで恐れています。それは北朝鮮の約束を信じられないからです。実は1972年7月4日に発表された共同声明によると、武力行使はいないことになっています。もし、その約束を堅く信じるなら戦争を恐れる必要なないでしょう。このように、約束を信頼するか、信頼しないかによって感情的な変化が起こるのです。ところが、私たちが神様との平和を持つことは神様の約束によるものです。神様は私たちの罪の代価としてイエス・キリストを遣わし、十字架につけて死なせる、そしてキリストを信じる者を救い、和解するという約束をしてくださいました。イエス様はその約束のとおりに私たちの罪の代価として十字架にかかって死んでくださいました。そして、イエス様の死が単なるひとりの人間の死ではなく、神様から遣わされたキリストの死であったことを復活によって明らかにしてくださいました。イエス様は復活によって神様のとの約束が成就したことを確証してくださったのです。そういうわけで、私たちは神様との平和を持っているのです。神様との平和によって自分の心に安らぎがあります。ことばでは言い尽くせない平和、平安、安らぎを持っているのです。
では皆さんはこの平和を持っていると言えるでしょうか。自分に聞いてみてください。この平和は本当に素晴らしいものです。どんなに体が苦しく、疲れていても心の奥底から流れている平和です。それで、新聖歌254章のような賛美を歌うことができます。「♪心にあるこの安きを奪うもの地になし/試みにて苦しむとも わが安き動かじ/…。」(ご一緒に歌ってみましょう。) イエス・キリストを信じる信仰によって神様との平和を持つようにしてくださった神様の恵みを感謝し、賛美します。
第二に、神の栄光の希望を喜ぶことです。
2節をご覧下さい。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」とあります。この世で信仰によって生きている間は神の栄光を望んで喜んでいるということです。「神の栄光」とは私たちがやがて天国で受ける栄光です。
私たちは、キリストの恵みによって、信仰によって救われたその瞬間に、天国への切符が与えられました。神様の栄光に輝く天国の希望が私たちの希望になったのです。パウロは、この栄光をはっきり見ながら生活していました。だから、彼は「私にとって、毎日が死の連続です。」と言える生活ができました。私は「毎日が死の連続です。」と簡単に言っていますが、?コリント11:24 から読んで見ると、「背中に39 回の鞭を受けたことが5度もあります。背中がただれていたでしょう。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。それでも彼は「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます(8:18)。」と告白しています。」永遠の神の国を考えると、80年の人生もあっという間です。確かに苦しみは喜ばしくありませんがいつの間に「苦しみ、悲しみ、さよなら!」という日が来ます。そして、神の栄光に輝く天国に行くのです。このように、パウロは主イエス・キリストとともに永遠に生きる望みを喜んでいたのです。その望みのゆえに、患難さえも喜んでいました。何よりも患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っていたからです(3,4)。」患難は決して喜ばしいものではありません。クリスチャンも自分の病や子どもの病のために苦しむ時があります。入試に失敗し、親を亡くしたり、子どもを亡くしたりする場合もあります。そのような時はどんなに悲しく、辛いでしょうか。ところが、そういう患難を通して私たちは神様に近づいて行きます。患難を通して謙遜になり、悔い改めます。患難を通して私たちは磨かれるし、きよめられます。そして、患難を通して成長します。忍耐深い人に変えられて行きます。品性が変えられて品格ある人になります。
ついに、私たちが見習いたいと願い、望んでいるイエス様の御姿にまで成長して行きます。すると、さらに神様の栄光を待ち望むようになります。天国への希望が強くなっていくのです。この希望は失望に終ることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことを知っています。しかし、実際に耐えがたい患難のために希望を持てなくなる場合があります。厳しい現状を見たり、今の状態を見たり、自分の夫や妻を見たりすると希望が沈んでいく場合もあるでしょう。しかし、心を開いて聖霊によって注がれる神様の愛を受けるなら、希望は失望に終ることはないのです。では神様の愛とはどのような愛でしょうか。
6,7節をご覧ください。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。」とあります。ほんとうに、正しいことのために死ぬ人はいても正しい人のために死ぬ人はほとんどいません。正しい人に対してはちょっと冷たい評判が伴われます。しかし、情けないことのためには死ななくても困った時に自分を助けてくれた、情け深い人のためには進んで死ぬ人がいるかも知れません。「武士道」には「切腹とかたき討ち」についても紹介していますが、江戸時代には日本にも人のために死ぬ人がいました。でも、かたき討ちはあっても、敵のために、罪人のために死ぬ人はいないでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神様は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます(8)。」これに対して疑うことはできません。なぜなら、私たちが弱かった時、不敬虔な者、罪人であった時に、神様の敵であった時にキリストは私たちのために死んでくださったからです。この愛こそ一方的な愛であり、完全な愛です。
もし、神様が皆さんの若さ、髪の毛の黒さを見て愛していると言われたなら、老人になった時はどうなるでしょうか。あるいは真面目で勤勉に、情熱的に生きている私たちの姿を見て愛してくださったなら、そうでなくなった時はどうなるでしょうか。自分の状態、自分の状況によって高ぶったり、不安と恐れに陥ったりするでしょう。ところが神様は私が罪人であった時に、まだ弱かった時に、不敬虔な者であった時に私を愛しておられました。全く愛される価値のない私を愛していてくださいました。神の敵であったにもかかわらず、神様はありのままの私を非常に愛しておられたのです。そして今なおその愛で私たちを包み、愛し続けておられます。ですから、私たちの希望は失望に終ることがありません。私たちは神様の一方的な、完全な愛によって支えられているからです。私たちは神様の愛によって信仰と希望が守られて栄光の神の国にはいります。私たちはその神の国の栄光を喜んでいる者です。
第三に大いに神様を喜ぶことです。
10、11をご覧ください。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」とあります。
結局、神の敵であった私たちはイエス・キリストの死によって神様と和解させられました。神様はイエス・キリストのいのちを罪の代価として十字架につけて死なせることによって私たちを救ってくださいました。だからこそ、私たちの救いは神様の恵みによるものです。ただ、神の恵みによるものだから、私たちは自分の状態に関係なく神様に近づくことができます。父なる神様に大胆に祈り求めることができます。日々、神様の子どもとして神様の愛と助け、あわれみを体験することができます。それで、神様と一緒にいることが楽しくなります。神様に祈ることも喜びです。ですから、すべての領域において私たちとかかわっておられる神ご身様を大いに喜んでいるのです。では私たちが平和を持ち、大いに喜ぶすべての恵みと祝福は何によって所有するようになったでしょうか。パウロはそれがひとりの人イエス・キリストによるものであると説明しています。パウロはこのことを12節から19節まで説明しています。
まとめて言いますと、アダムの罪過によって全人類に死が入りましたが、キリストの恵みによって全人類にいのちが満ち溢れるようになりました。アダムによってすべての人が罪に定められますが、キリストによってすべての人が義とされます。アダムによって死が支配していますがキリストによっていのちが支配します。アダムによってすべての人が罪に定められましたがキリストによって救いがすべての人に及びました。アダムの不従順によってすべての人が罪人になりましたが、キリストの従順によってすべての人が義人となりました。それでイエス・キリストを信じる者はイエス・キリストによって恵みといのちの支配下にいるのです。恵みの世界に生きるようになりました。これは本当に素晴らしいことです。
自分のことで凝縮ですがしばしば「ダニエル宣教師!今日のメッセージは本当に恵みがありました。」と言ってくださる方がいます。嬉しいことです。でも、「恵みといのちの支配下にいる」と言うことは一時的な感情だけではありません。「常に恵みに包まれている、恵みに覆われている」ということです。恵みによって生かされているということです。イエス・キリストを信じている私たちの人生、私たちの毎日、私たちのすべては、恵みによって支配されているということです。自分は弱く、罪人であっても神様の恵みによって生かされていのちにあふれているということなのです。本当に素晴らしい世界です。律法の世界では体験できない世界です。律法は私たちは恵みの世界に案内することしかできません。
20、21節をご一緒に読んでみましょう。「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」この御言葉から分かるように律法の目的は罪を明らかにすることです。律法は私たちに自分がいかに罪深い者であるかを悟らせてくれます。「私は、ほんとうに惨めな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫ばざるを得ない存在であることを認めさせてくれるだけなのです。イエス・キリストの十字架と復活による恵みは私たちが得られた永遠のいのちを保たせ、完全な救いに至らせます。ですから、私たちはイエス・キリストを信じていると、キリストの恵みによってイエス・キリストの御姿にまで成長して行くのです。私たちが行く先々で勝利を得ることができます。神様は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださったからです。結局、私たちはイエス・キリストの恵みによって救われ、成長し、勝利する生活ができます。それでいつも喜び、すべてのことにおいて感謝することができます。
私たちはひとりの人イエス・キリストによって永遠のいのちを持ち、恵みの支配下にあります。これからも私たちには、神様の恵みによる祝福が注がれます。私たちは足りなく、健康が弱くても神様の恵みによって私たちの行く先々で私たちに与えられる勝利を体験して行くことができます。ただ、すべてが自然に与えられるのではありません。イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。」と言われました。私たちが日々神様に求めてもっと大きくて深い平和を所有しましょう。もっと天国への望みと神様の愛を求めて体験して行きましょう。何よりも日々神様を喜ぶ生活ができるように祈ります。