2013年関東地区聖誕礼拝

幼子イエスを拝む 

御言葉:マタイの福音書2:1−12
要 節:マタイの福音書2:11「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」

メリークリスマス!
私たちの主イエス・キリストの降誕をお祝いします。幼子イエス様を礼拝するために来られた皆さんを心から歓迎します。そして私たちをクリスマス礼拝に導いてくださった神様に心から感謝します。

今から、2013年ほど前も、神様の導きによって救い主イエス・キリストの誕生をお祝いし、礼拝した人たちがいました。羊飼いたちと東方の博士たちです。この時間は、東方の博士たちを中心に話したいと思います。ここで、東方の博士たちが幼子イエス様を拝みに行く途中に出会った人々を通して今の自分を顧みることもできます。しかし、最も大切なのは、東方の博士たちを通して神様に導かれる人生の恵みと祝福の素晴らしさを知り、新しい出発ができるということです。

東方の博士たちが具体的にどの地域から来たのかは知られていません。ただ、「ユダヤ人の王」という認識があるし、イスラエルから見て東方だからユダヤ人たちが居住していたバビロンではないかと思われます。今日のイラン・イラク地域からイスラエルまで来たということです。
彼らはまた、星についての博士でした。「博士」というのは、いろいろ細かく知りたがる学者です。たとえば、私は夜空の星を見ると、故郷を思い出し、今は天国に行っている父を思い出します。漁師だった父が漁をして帰って来るのを待ちながら夜空の星を数えた思い出があるからです。でも星を研究する天文学者は違うでしょう。星の動きが違うと「この時に見えた星は、いったい何だろう」と調べるでしょう。この東方の博士たちも、星の動きを観測しているうちに「これは奇跡的な光だ。」と思える星を発見したようです。その奇跡的な星を調べてみると聖書に「ヤコブから一つの星が上り〔民数記24:17〕」と書いてあることが分かりました。そこで彼らはヤコブの子孫が住んでいるエルサレムにやって来ました。エルサレムでは「キリストなら王宮でお生まれになるだろう」と思い、ヘロデ王の王宮にはいりました。
それから、博士たちはヘロデに「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」と言いました。ここで「ユダヤ人の王」とはユダヤ人だけではなく、聖書に約束された救い主、全世界の王です。ですから、ユダヤ人の王としてお生まれになる幼子イエス様は東方の博士たちだけではなく、ヘロデ王も、私たちも拝むべきお方なのです。ところが、ヘロデの反応はどうでしたか。
聖書に「恐れ惑った」とあります。自分がユダヤ人の王であるのに、本物の王がお生まれになったことにものすごい脅威を感じたようです。自分の立場が冒されるのを非常に恐れました。これは私たちにも関係する事です。自分が王であると思っているのに、誰かが自分の地位や自尊心を傷つけるような発言をすると許せないと思うでしょう。イエス・キリストを自分の王として迎えようとするときも同じことが起こります。長い間、自分が自分の王であり、自分を中心にして生きてきたからです。今まで自分を支えてきたプライドが根底にあるし、多くの人々も当たり前に自分を中心にして生きています。だから今まで経験しなかったキリストの支配をが受け入れ、王とすることに抵抗感を感じるし、恐れもあるのです。エルサレム中の人も王と同様に恐れました。でもヘロデ王はただ恐れているのではなく、民の祭司長たちと、学者達を集め、キリストの生まれる場所を聖書から聞きました。それは幼子イエス様を拝むためではなく後で殺すためでした。でも、祭司長や学者たちはその思惑を知らなかったでしょう。それで彼らは「ユダヤのベツレヘムです。」と答えました。聖書に『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから』」と書いてあるのを正しく教えてくれたのです。結局ヘロデも、祭司長や学者もイエス様がベツレヘムでお生まれになることが分かりました。でも、彼らはそこまで行こうとはしませんでした。しかし、東方の博士たちは聖書に記されてことが分かったので勇気を得ました。彼らはすぐにベツレヘムに向かいました。すると東方で見た星が彼らを先導しました。ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまりました。こうして博士たち、長い長い旅をしてようやくイエス様のもとにたどり着いたのです。そのとき、彼らの喜びはどうだったでしょうか。
聖書に「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」とあります。「この上もなく喜んだ」という言葉から彼らの喜びの大きさが伝わって来ます。その夜の星はどんなに輝き、どんなに美しかったことでしょうか。思えば長い旅路でありました。砂漠を超え、川を渡ったでしょう。昼も夜も続けた長い旅でした。その間に、辛くて苦しい時が何度もあったと思われます。それでも博士たちはあきらめることなく、つぶやくこともなく、純粋にユダヤ人の王を探し続けてきました。そして今ようやく、ユダヤ人の王、世界の王、キリストとお会いすることができました。そこで彼らは胸のときめくような喜びに溢れたのです。
神様はついに、彼らが生涯求め続けて来たお方に出会って礼拝することをお許しになりました。彼らは家にはいり、帽子を取り、幼子の前にひれ伏して拝みました。宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。これらの黄金、乳香、没薬は、当時、最高の価値を持つ贈り物でした。宗教改革者のマルチン・ルターは、黄金は王なるキリスト、乳香は礼拝と関係しているので神なるキリスト、没薬は葬りと関係するので贖い主であるキリストをあらわしていると解釈しました。博士たちがそこまで解釈していたかどうかはわかりません。確かなことは、彼らが幼子イエス様に最高に価値ある贈り物をささげたことです。
そこで、私たちクリスチャンは、東方の博士たちのように、毎年のクリスマスに幼子イエス様と出会いへ喜びを表わし、最高の贈り物をささげています。そして、今年の捧げものは、世界97か国にあるUBF教会と協力して自然災害と内戦、病気などで苦しんでいるフィリピン、シリア、ウガンダの兄弟姉妹たちの送る予定です。
以上で私たちは東方の博士たちが幼子イエス様と出会い、ひれ伏して拝んだこと、幼子イエス様にどのような贈り物をささげたのかを学びました。ここで、私は皆さんとともに本文に出て来た3種類の人々、そして幼子イエス様と神様の導きについて考えてみたいと思います。

第一に、ヘロデです。当時ユダヤの王ですが、いつまでも自分だけが王だった思っていて罪を犯し続ける人々の代表だと思います。彼らは人々に自分の強さは見せつけていますが、心は恐れています。その恐れのために、少しでも自分の地位や自尊心を傷つけるような人は許しません。北朝鮮の金ジョンウンが自分の叔父にあたる張ソンテクでも処刑したように少しでも自分に逆らうようなことは許しません。ヘロデも東方の博士たちから「ユダヤ人の王」お生まれになったことを聞いて恐れ惑いました。そして幼子イエス様を探して殺そうとしました。実際に人をやって、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させました。結局、彼は恐れと憎しみ、殺意に縛られて滅んでいく惨めな人生を過ごしました。
このヘロデから自分の地位を保つためにはどんな残酷を惜しまない人間の姿を見ることができます。その恐ろしい罪は私たち一人一人の心の中に潜んでいます。イエス・キリストを王として迎え入れず、自分が王になっていると、家でも職場でも、教会でも恐れと憎しみから解放されません。自分が無視される、自分が砕かれるという恐れが妬みに、妬みが怒りに、怒りが憎しみに、憎しみが恨みに、恨みが憂鬱に、憂鬱が絶望の淵に陥れて行く悪循環の生活が続くのです。場合によっては絶望が人殺しか自殺に至ることさえあります。それで、表面的にはヘロデ王のように、この世の地位が高くて強い人でも内側は恐れ、妬み、憎しみ、恨み、憂鬱、絶望の悪循環の中で不幸な人生を過ごし、滅んでいきます。「私は大丈夫」という傲慢のために滅んでいくのです。先週、東京都の猪瀬知事は自分が政治家としてはアマチュアで傲慢だったと言い、辞職を表明しました。猪瀬さんをヘロデ王と比較するのは失礼なことかも知れませんが、私たちは自分が王である自己中心の生き方、傲慢な生き方を捨ててイエス・キリストを王として生きなければならないのです。ユダヤ人の王、つまり私たちの救い主イエス様を受け入れ、イエス様に治められるとき、私たちは恐れ惑う人生からも解放されます。正義の王に治められる所に平和があります。しかし、どんなに地位が高かくても、自分だけが王だと思う高慢な人はヘロデ王のように惨めな人生になってしまうのです。

第二に、民の祭司長たちと学者たちです。彼らはヘロデとは違って表面的には敬虔に、道徳的に生きていると思われる人々の代表です。彼らは聖書の内容をよく知っていました。ヘロデ王が「救い主はどこで生まれるのか」と問いただした時、彼らはすぐに、「ベツレヘムです」と答えることができました。しかし、ベツレヘムに出かけて行きませんでした。残念なことに、あのエルサレムの祭司長たち、学者たちは、聖書の内容をよく知っていたのに、イエス様を礼拝することはしなかったのです。
今日も多くの人々が聖書の内容を知っています。それで、人々はクリスマス飾りをし、プレゼントもします。今年、NHKの大河ドラマ「八重の桜」の放映に伴い、キリスト教主義の同志社英学校を創設した新島襄の妻新島八重がブームとなりました。八重が登場するドラマの中で「教会」「聖書」「礼拝」などのことがセリフとして話され、明治期のキリスト者八重が、福音宣教に多大な貢献をしました。ところが、約1億3千万の日本人の中でクリスマス礼拝に参加する人は何人位いるでしょうか。もちろん、キリスト教の知識も聖書勉強は大切です。だから私たちUBF教会では毎週聖書勉強をしています。しかし、それが知識だけなら、大変むなしい学びです。聖書の御言葉を信じ、御言葉に頼って生きることこそ大切なのです。あの東方の博士たちは、星の輝きを見て勇気ある行動をしました。

第三に、東方の博士たちです。彼らは高貴なことを計画し、高貴なことをいつもする高貴な人たちの代表です。彼らは博士でしたがとても謙遜でした。純粋に真理を求め、探し、真理のために行動する人たちでした。星の輝きを通して神様の導きを感じた時は神様の導きに素直に従いました。そうした結果、彼らは幼子イエス様に出会うことができました。この上もなく喜び、幼子イエス様を拝むことができました。
東方の博士たちは幼子のイエス様の説教を聞いたから喜んだではありません。イエス様が彼らの疲れを癒すために何か奇跡を行ったわけでもありませんでした。イエス様は何もなさいませんでした。それでも博士たちはこの上もなく喜び、幼子イエス様を礼拝したのです。それは純粋に救い主を求めたからです。博士たちは星の輝きを見てから調べた民数記の御言葉、祭司長や学者たちが教えてくれた御言葉の通りになっていることを体験して喜んだのです。このように信仰の世界は理屈では説明できないけれども、素直に神様の導きに従う人々が体験します。
皆さんはどうでしょう。「私はすべてを理解してイエス様を王として、救い主として信じました。」と言えるでしょうか。まだ、すべてが分からなくても、聖書の御言葉を信じて幼子イエス様を救い主として礼拝しているでしょう。それでいいです。これからも聖書の御言葉を信じ、幼子イエス様を礼拝して行きましょう。すると、私たちは私たちを幼子イエス様とお会いするように導いてくださる神様の導きに感動してこの上もなく喜ぶことができます。自分の持ち物の最高のものをささげることもできるほどの感謝に溢れた人生を生きることができます。
本当に、神様の導きを感じ、悟りながら高貴なことを計画し、高貴なことをする人生を生きるようになります。9節を見ると「東方で見た星が彼らを先導し」とあります。それは博士たちは東方で出発した時から星が導いたことです。博士たちは神様の導きに従って来ましたが、実は神様によって救い主のもとに導かれたのです。
神様は様々な方法で私たちを救い主のもとに導いてくださいます。聖書を通して、宣教師やクリスチャンを通して導いてくださいます。そしてしばしば、神様は人生の試練を通して、私たちをイエス様のもとに導かれます。ちょうど暗闇の中に輝く星のように、悲しみや痛みと感じる試練が、イエス様との満ち足りた出会いをもたらします。
3週間ほど前、私は職場の同僚からすい臓がんのために治療を受けていることを聞き、祈りを頼まれました。ところが、彼は痩せ続け、顔も黄色くなっていましたが、先週は入院しました。入院前に黄疸が酷くて手術もできないからまず黄疸治療のために入院すると言いましたが、私は彼の話を聞きながら彼の痛みと悲しみを感じて涙が出ました。特に黄色くなっている彼の顔からイエス様に出会う前に黄疸にかかっていた自分の惨めな姿が思い浮かびました。私は受験の時に病気にかかってしまい、肉体的にも精神的にも辛くて苦しい日々を過ごしていました。第一志望校には願書も出せなかったために大学生になっても学校生活を楽しめることができませんでした。むしろ、切り裂かれるような痛みにうめき、いのちを終わりにしたいほど絶望の淵にありました。ところが、この大学の先輩を通して暗闇の中にいる私に星を見せてくださいました。神様は先輩との聖書勉強を通して私を導かれ、救い主イエス様と出会うようにしてくださったのです。その後、私は救われ、体も癒されました。積極的に生きる意欲を持つようになって宣教師にもなりました。何よりも以前は不平不満だらけでつぶやきの人生でしたが、今は喜びと感謝に溢れる人生になりました。私の妻から「あなたは本当に小さなこともよく感謝するね。」と言われる者になりました。もちろん、谷あり山ある人生だから今も悲しみや痛みと感じる試練があります。けれども私の真の王であられる主が導いてくださることを感じ、悟っています。聖書の御言葉や祈りを通して私の王イエス・キリストに治められる喜びを体験させていただいています。
過去、私がヘロデ王のように、自分が自分の王になっている時は、よく傷ついてしまいました。事実、私は田舎者で地方の私立大学出身だから傷つきやすい者でした。だからこの世に対して、人に対して恐れと憎しみがありました。しかし、今はユダヤ人の王、世界の王、全宇宙の王であられるイエス様が私の王であると信じているからなかなか傷つきません。傷ついてもイエス・キリスト愛と導きを黙想するとすぐに癒されます。キリストの愛によって励まされ、力づけられる人生になりました。ヘロデのような生き方を悔い改め、祭祀長と学者たちのように聖書を知ることだけにとどまらず、東方の博士たちのように素直に従うことによって経験する喜びと感謝は本当に大きいものです。

クリスマスの喜び、それは一人一人が神様に導かれて、私たちの王であられるイエス様とお会いする喜びです。神様は東方の博士たちのように真理を求める人々を導かれます。大切なことは、神様の導きに素直に従うことです。ヘロデのように生きるか、祭司長や学者たちのように生きるか、東方の博士たちのように生きるかということは私たちの選択にかかっています。ここに集まった皆さんは東方の博士たちのようになることを望みます。日々の生活の中でイエス・キリストとお会いし、その愛と導きを感じ、悟ってこの上もなく喜び、イエス様を礼拝する人生を新しく出発するように祈ります。
2013年関東地区聖誕礼拝

  幼子イエスを拝む  

御言葉:マタイの福音書2:1−12
要 節:マタイの福音書2:11「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」

メリークリスマス!
私たちの主イエス・キリストの降誕をお祝いします。幼子イエス様を礼拝するために来られた皆さんを心から歓迎します。そして私たちをクリスマス礼拝に導いてくださった神様に心から感謝します。

今から、2013年ほど前も、神様の導きによって救い主イエス・キリストの誕生をお祝いし、礼拝した人たちがいました。羊飼いたちと東方の博士たちです。この時間は、東方の博士たちを中心に話したいと思います。ここで、東方の博士たちが幼子イエス様を拝みに行く途中に出会った人々を通して今の自分を顧みることもできます。しかし、最も大切なのは、東方の博士たちを通して神様に導かれる人生の恵みと祝福の素晴らしさを知り、新しい出発ができるということです。

東方の博士たちが具体的にどの地域から来たのかは知られていません。ただ、「ユダヤ人の王」という認識があるし、イスラエルから見て東方だからユダヤ人たちが居住していたバビロンではないかと思われます。今日のイラン・イラク地域からイスラエルまで来たということです。
彼らはまた、星についての博士でした。「博士」というのは、いろいろ細かく知りたがる学者です。たとえば、私は夜空の星を見ると、故郷を思い出し、今は天国に行っている父を思い出します。漁師だった父が漁をして帰って来るのを待ちながら夜空の星を数えた思い出があるからです。でも星を研究する天文学者は違うでしょう。星の動きが違うと「この時に見えた星は、いったい何だろう」と調べるでしょう。この東方の博士たちも、星の動きを観測しているうちに「これは奇跡的な光だ。」と思える星を発見したようです。その奇跡的な星を調べてみると聖書に「ヤコブから一つの星が上り〔民数記24:17〕」と書いてあることが分かりました。そこで彼らはヤコブの子孫が住んでいるエルサレムにやって来ました。エルサレムでは「キリストなら王宮でお生まれになるだろう」と思い、ヘロデ王の王宮にはいりました。
それから、博士たちはヘロデに「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」と言いました。ここで「ユダヤ人の王」とはユダヤ人だけではなく、聖書に約束された救い主、全世界の王です。ですから、ユダヤ人の王としてお生まれになる幼子イエス様は東方の博士たちだけではなく、ヘロデ王も、私たちも拝むべきお方なのです。ところが、ヘロデの反応はどうでしたか。
聖書に「恐れ惑った」とあります。自分がユダヤ人の王であるのに、本物の王がお生まれになったことにものすごい脅威を感じたようです。自分の立場が冒されるのを非常に恐れました。これは私たちにも関係する事です。自分が王であると思っているのに、誰かが自分の地位や自尊心を傷つけるような発言をすると許せないと思うでしょう。イエス・キリストを自分の王として迎えようとするときも同じことが起こります。長い間、自分が自分の王であり、自分を中心にして生きてきたからです。今まで自分を支えてきたプライドが根底にあるし、多くの人々も当たり前に自分を中心にして生きています。だから今まで経験しなかったキリストの支配をが受け入れ、王とすることに抵抗感を感じるし、恐れもあるのです。エルサレム中の人も王と同様に恐れました。でもヘロデ王はただ恐れているのではなく、民の祭司長たちと、学者達を集め、キリストの生まれる場所を聖書から聞きました。それは幼子イエス様を拝むためではなく後で殺すためでした。でも、祭司長や学者たちはその思惑を知らなかったでしょう。それで彼らは「ユダヤのベツレヘムです。」と答えました。聖書に『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから』」と書いてあるのを正しく教えてくれたのです。結局ヘロデも、祭司長や学者もイエス様がベツレヘムでお生まれになることが分かりました。でも、彼らはそこまで行こうとはしませんでした。しかし、東方の博士たちは聖書に記されてことが分かったので勇気を得ました。彼らはすぐにベツレヘムに向かいました。すると東方で見た星が彼らを先導しました。ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまりました。こうして博士たち、長い長い旅をしてようやくイエス様のもとにたどり着いたのです。そのとき、彼らの喜びはどうだったでしょうか。
聖書に「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」とあります。「この上もなく喜んだ」という言葉から彼らの喜びの大きさが伝わって来ます。その夜の星はどんなに輝き、どんなに美しかったことでしょうか。思えば長い旅路でありました。砂漠を超え、川を渡ったでしょう。昼も夜も続けた長い旅でした。その間に、辛くて苦しい時が何度もあったと思われます。それでも博士たちはあきらめることなく、つぶやくこともなく、純粋にユダヤ人の王を探し続けてきました。そして今ようやく、ユダヤ人の王、世界の王、キリストとお会いすることができました。そこで彼らは胸のときめくような喜びに溢れたのです。
神様はついに、彼らが生涯求め続けて来たお方に出会って礼拝することをお許しになりました。彼らは家にはいり、帽子を取り、幼子の前にひれ伏して拝みました。宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。これらの黄金、乳香、没薬は、当時、最高の価値を持つ贈り物でした。宗教改革者のマルチン・ルターは、黄金は王なるキリスト、乳香は礼拝と関係しているので神なるキリスト、没薬は葬りと関係するので贖い主であるキリストをあらわしていると解釈しました。博士たちがそこまで解釈していたかどうかはわかりません。確かなことは、彼らが幼子イエス様に最高に価値ある贈り物をささげたことです。
そこで、私たちクリスチャンは、東方の博士たちのように、毎年のクリスマスに幼子イエス様と出会いへ喜びを表わし、最高の贈り物をささげています。そして、今年の捧げものは、世界97か国にあるUBF教会と協力して自然災害と内戦、病気などで苦しんでいるフィリピン、シリア、ウガンダの兄弟姉妹たちの送る予定です。
以上で私たちは東方の博士たちが幼子イエス様と出会い、ひれ伏して拝んだこと、幼子イエス様にどのような贈り物をささげたのかを学びました。ここで、私は皆さんとともに本文に出て来た3種類の人々、そして幼子イエス様と神様の導きについて考えてみたいと思います。

第一に、ヘロデです。当時ユダヤの王ですが、いつまでも自分だけが王だった思っていて罪を犯し続ける人々の代表だと思います。彼らは人々に自分の強さは見せつけていますが、心は恐れています。その恐れのために、少しでも自分の地位や自尊心を傷つけるような人は許しません。北朝鮮の金ジョンウンが自分の叔父にあたる張ソンテクでも処刑したように少しでも自分に逆らうようなことは許しません。ヘロデも東方の博士たちから「ユダヤ人の王」お生まれになったことを聞いて恐れ惑いました。そして幼子イエス様を探して殺そうとしました。実際に人をやって、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させました。結局、彼は恐れと憎しみ、殺意に縛られて滅んでいく惨めな人生を過ごしました。
このヘロデから自分の地位を保つためにはどんな残酷を惜しまない人間の姿を見ることができます。その恐ろしい罪は私たち一人一人の心の中に潜んでいます。イエス・キリストを王として迎え入れず、自分が王になっていると、家でも職場でも、教会でも恐れと憎しみから解放されません。自分が無視される、自分が砕かれるという恐れが妬みに、妬みが怒りに、怒りが憎しみに、憎しみが恨みに、恨みが憂鬱に、憂鬱が絶望の淵に陥れて行く悪循環の生活が続くのです。場合によっては絶望が人殺しか自殺に至ることさえあります。それで、表面的にはヘロデ王のように、この世の地位が高くて強い人でも内側は恐れ、妬み、憎しみ、恨み、憂鬱、絶望の悪循環の中で不幸な人生を過ごし、滅んでいきます。「私は大丈夫」という傲慢のために滅んでいくのです。先週、東京都の猪瀬知事は自分が政治家としてはアマチュアで傲慢だったと言い、辞職を表明しました。猪瀬さんをヘロデ王と比較するのは失礼なことかも知れませんが、私たちは自分が王である自己中心の生き方、傲慢な生き方を捨ててイエス・キリストを王として生きなければならないのです。ユダヤ人の王、つまり私たちの救い主イエス様を受け入れ、イエス様に治められるとき、私たちは恐れ惑う人生からも解放されます。正義の王に治められる所に平和があります。しかし、どんなに地位が高かくても、自分だけが王だと思う高慢な人はヘロデ王のように惨めな人生になってしまうのです。

第二に、民の祭司長たちと学者たちです。彼らはヘロデとは違って表面的には敬虔に、道徳的に生きていると思われる人々の代表です。彼らは聖書の内容をよく知っていました。ヘロデ王が「救い主はどこで生まれるのか」と問いただした時、彼らはすぐに、「ベツレヘムです」と答えることができました。しかし、ベツレヘムに出かけて行きませんでした。残念なことに、あのエルサレムの祭司長たち、学者たちは、聖書の内容をよく知っていたのに、イエス様を礼拝することはしなかったのです。
今日も多くの人々が聖書の内容を知っています。それで、人々はクリスマス飾りをし、プレゼントもします。今年、NHKの大河ドラマ「八重の桜」の放映に伴い、キリスト教主義の同志社英学校を創設した新島襄の妻新島八重がブームとなりました。八重が登場するドラマの中で「教会」「聖書」「礼拝」などのことがセリフとして話され、明治期のキリスト者八重が、福音宣教に多大な貢献をしました。ところが、約1億3千万の日本人の中でクリスマス礼拝に参加する人は何人位いるでしょうか。もちろん、キリスト教の知識も聖書勉強は大切です。だから私たちUBF教会では毎週聖書勉強をしています。しかし、それが知識だけなら、大変むなしい学びです。聖書の御言葉を信じ、御言葉に頼って生きることこそ大切なのです。あの東方の博士たちは、星の輝きを見て勇気ある行動をしました。

第三に、東方の博士たちです。彼らは高貴なことを計画し、高貴なことをいつもする高貴な人たちの代表です。彼らは博士でしたがとても謙遜でした。純粋に真理を求め、探し、真理のために行動する人たちでした。星の輝きを通して神様の導きを感じた時は神様の導きに素直に従いました。そうした結果、彼らは幼子イエス様に出会うことができました。この上もなく喜び、幼子イエス様を拝むことができました。
東方の博士たちは幼子のイエス様の説教を聞いたから喜んだではありません。イエス様が彼らの疲れを癒すために何か奇跡を行ったわけでもありませんでした。イエス様は何もなさいませんでした。それでも博士たちはこの上もなく喜び、幼子イエス様を礼拝したのです。それは純粋に救い主を求めたからです。博士たちは星の輝きを見てから調べた民数記の御言葉、祭司長や学者たちが教えてくれた御言葉の通りになっていることを体験して喜んだのです。このように信仰の世界は理屈では説明できないけれども、素直に神様の導きに従う人々が体験します。
皆さんはどうでしょう。「私はすべてを理解してイエス様を王として、救い主として信じました。」と言えるでしょうか。まだ、すべてが分からなくても、聖書の御言葉を信じて幼子イエス様を救い主として礼拝しているでしょう。それでいいです。これからも聖書の御言葉を信じ、幼子イエス様を礼拝して行きましょう。すると、私たちは私たちを幼子イエス様とお会いするように導いてくださる神様の導きに感動してこの上もなく喜ぶことができます。自分の持ち物の最高のものをささげることもできるほどの感謝に溢れた人生を生きることができます。
本当に、神様の導きを感じ、悟りながら高貴なことを計画し、高貴なことをする人生を生きるようになります。9節を見ると「東方で見た星が彼らを先導し」とあります。それは博士たちは東方で出発した時から星が導いたことです。博士たちは神様の導きに従って来ましたが、実は神様によって救い主のもとに導かれたのです。
神様は様々な方法で私たちを救い主のもとに導いてくださいます。聖書を通して、宣教師やクリスチャンを通して導いてくださいます。そしてしばしば、神様は人生の試練を通して、私たちをイエス様のもとに導かれます。ちょうど暗闇の中に輝く星のように、悲しみや痛みと感じる試練が、イエス様との満ち足りた出会いをもたらします。
3週間ほど前、私は職場の同僚からすい臓がんのために治療を受けていることを聞き、祈りを頼まれました。ところが、彼は痩せ続け、顔も黄色くなっていましたが、先週は入院しました。入院前に黄疸が酷くて手術もできないからまず黄疸治療のために入院すると言いましたが、私は彼の話を聞きながら彼の痛みと悲しみを感じて涙が出ました。特に黄色くなっている彼の顔からイエス様に出会う前に黄疸にかかっていた自分の惨めな姿が思い浮かびました。私は受験の時に病気にかかってしまい、肉体的にも精神的にも辛くて苦しい日々を過ごしていました。第一志望校には願書も出せなかったために大学生になっても学校生活を楽しめることができませんでした。むしろ、切り裂かれるような痛みにうめき、いのちを終わりにしたいほど絶望の淵にありました。ところが、この大学の先輩を通して暗闇の中にいる私に星を見せてくださいました。神様は先輩との聖書勉強を通して私を導かれ、救い主イエス様と出会うようにしてくださったのです。その後、私は救われ、体も癒されました。積極的に生きる意欲を持つようになって宣教師にもなりました。何よりも以前は不平不満だらけでつぶやきの人生でしたが、今は喜びと感謝に溢れる人生になりました。私の妻から「あなたは本当に小さなこともよく感謝するね。」と言われる者になりました。もちろん、谷あり山ある人生だから今も悲しみや痛みと感じる試練があります。けれども私の真の王であられる主が導いてくださることを感じ、悟っています。聖書の御言葉や祈りを通して私の王イエス・キリストに治められる喜びを体験させていただいています。
過去、私がヘロデ王のように、自分が自分の王になっている時は、よく傷ついてしまいました。事実、私は田舎者で地方の私立大学出身だから傷つきやすい者でした。だからこの世に対して、人に対して恐れと憎しみがありました。しかし、今はユダヤ人の王、世界の王、全宇宙の王であられるイエス様が私の王であると信じているからなかなか傷つきません。傷ついてもイエス・キリスト愛と導きを黙想するとすぐに癒されます。キリストの愛によって励まされ、力づけられる人生になりました。ヘロデのような生き方を悔い改め、祭祀長と学者たちのように聖書を知ることだけにとどまらず、東方の博士たちのように素直に従うことによって経験する喜びと感謝は本当に大きいものです。

クリスマスの喜び、それは一人一人が神様に導かれて、私たちの王であられるイエス様とお会いする喜びです。神様は東方の博士たちのように真理を求める人々を導かれます。大切なことは、神様の導きに素直に従うことです。ヘロデのように生きるか、祭司長や学者たちのように生きるか、東方の博士たちのように生きるかということは私たちの選択にかかっています。ここに集まった皆さんは東方の博士たちのようになることを望みます。日々の生活の中でイエス・キリストとお会いし、その愛と導きを感じ、悟ってこの上もなく喜び、イエス様を礼拝する人生を新しく出発するように祈ります。