2014年創世記第19講

主がこの所におられるのに

御言葉:創世記27:46−28:22
要 節:創世記28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに【主】がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。
先週、皆さんは朴エズラ宣教師を通してヤコブを祝福したイサクを学んだことでしょう。イサクは双子のエサウとヤコブの中で兄であるエサウではなく、ヤコブを祝福しました。そこで、エサウは、弟のヤコブを恨み、殺そうとしました。それに気づいた母リベカは、ヤコブをしばらくの間、自分の兄ラバンのもとに送るという計画を立てて実践します。それでイサクから祝福されたヤコブは母の実家がある所に向かって旅立ちます。
今日は、そのヤコブの旅路の中にあった出来事を学びます。ここで、私たちはイサク夫婦の結婚観、ヤコブが出会った神様について学ぶことができます。
この時間、私たちもヤコブのように神様に出会い、いつも自分とともにおられる神様を知って霊的に成長して行きますように祈ります。

27章46節をご覧ください。「リベカはイサクに言った。「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちで、このようなヘテ人の娘たちのうちから妻をめとったなら、私は何のために生きることになるのでしょう。」」とあります。ヘテ人はカナンの住民ですが、彼らには偶像礼拝、近親相姦や不品行など様々な悪習慣がありました。エサウはそのヘテ人の娘たちをめとっていましたが、結婚生活はうまく行きませんでした。イサク夫婦にとっても悩みの種になっていました。姑のリベカが「もう生きるのが嫌になりました。」と言ったほどです。そこで、イサクはヤコブにカナンの娘たちの中から妻をめとってならないと注意し、「母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい」と命じました。それはイサクもエサウの結婚生活を見て信者が不信者との結婚はうまく行かないことが分かったからです。何よりも神様から祝福されないことが分かったでしょう。?コリント6:14によると「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」とあります。イサクは息子エサウの結婚生活を通してこのことがよく分かったのです。
ここに「くびき」とは昔、牛を使って穀物をひいたり、あるいは畑を耕したりする時に、牛の首につけて鋤や車を引かせるために使う、木で作った横木のことです。そして「くびきをいっしょにつける」というのは、同じ形のくびきを2頭の牛を結びつけて仕事をさせることです。もしつり合うくびきをつければ、足並みがそろいます。それで仕事がうまく進みます。しかし、つり合わないくびきをつければ、当然足並みがばらばらになってしまいます。うまく行きません。まさに、エサウの結婚生活がそんなものでした。そこでイサクは神様の祝福を受け継ぐヤコブは必ず神様を信じている人たちの中から妻をめとるように命じたのです。
もちろん、結婚の時は神様を信じていなかった人でも救われてクリスチャン夫婦になる場合もあります。教会には兄弟よりも姉妹たちが多いので、妻の方が先に救われている場合が多いです。それで、まだ救われていない夫との関係において一致ができなくなって苦しみます。でも女性は強いですね。まだ救われていない夫の救いのために必死に祈ります。それで、夫のための祈りが聞かれて、クリスチャン夫婦になり、神様に祝福されているという証をたくさん聞きました。ミッション・バラバという宣教団体の牧師たちの証を聞いてみると、奥さんたちの祈りによって救われたと証していました。ですから、夫婦の中でまだ救われていない夫や妻がいるなら必死に祈り続けなければならないでしょう。ほんとうは、エサウも妻たちの救いのために一生懸命に祈ったら救われる可能性があったでしょう。ところが、彼はカナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気付いた時にエジプト人女奴隷から生まれたイシュマエルの娘を妻としてめとってしまいました。結局、信者が不信者と結婚している場合は相手の救いのために祈り続けるべきですが、まだ結婚していない場合は不信者と結婚してはいけないのです。特に、アブラハムの祝福を受け継いでいかなければならないヤコブは必ず信仰の人と結婚しなければなりません。そこで、イサクはヤコブをリベカの実家の親戚たちが住んでいるバダン・アラムに行かせたのです。
こうしてヤコブは、パダン・アラムのベトエルの家へと旅立ちました。今までお母さんから愛され、守られていました。しかし、これから彼はたった独りで遠い道のりを旅しなければならなくなりました。何日かかったでしょうか。ベエル・シェバから歩き続けて「ある所」につきました。19節によると、その町の名は、以前はルズでベエル・シェバから80?も離れた所です。そこにたどり着いた時、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにしました。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になりました。もちろん、ヤコブは町の中の宿屋とかホテルに泊まったのではありません。町から離れた野原に野宿したのです。
皆さん!野原に野宿したことがあるでしょうか。夜中に一人で野宿するのは恐いでしょう。なかなか眠れないものです。でも、朝から晩まで歩いていると、体が疲れているから眠くなるものです。ヤコブは石を枕にして横になると眠りについたのです。人が眠りにつくというのはどういうことなのでしょうか。
私の母は、私の兄弟たちによく言いました。「無心な眠りについたら忘れても、お前たちのことを忘れないよ。不安だし、心配だよ。」とよく言われました。ほんとうに、人は起きている時は絶えず緊張し、恐れ、心配するけれども眠りについたら何もかも忘れてしまいます。ヤコブが起きている時は、さまざまな危険に対する恐れがあったでしょう。母と父のことが思い出されて涙する時もあったでしょう。何よりもエサウが追いかけて来ているのではないかという不安があります。兄と父を騙して長子の権利や祝福を手にしましたがいつになったら現実のものになるのかなあという不安もあったでしょう。でも、眠ると、すべての恐れと不安を忘れて安息につきます。ところが、そういう安息の中で夢を見る場合があります。その夢が悪夢である場合もありますし、気持ちをさわやかにしてくれる場合もあります。ヤコブはとても素晴らしい夢を見ました。
28章12節をご覧ください。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」とあります。「見よ(ヒンネー)」というのは、「これから先が大事だよ」と語りかけながら促す言葉です。したがって大事なのは「一つのはしごが地に向けて立てられている」ということです。一般的にはしごは地から天に向けて立てられています。地上から二階、三階に上る時に使うからです。もちろん、降りるときも使いますが、地から天に向けて繋がっているのです。ところが、ヤコブが見たはしごは地に向けて立てられているのです。天からから降りてくるために使うはしごなのです。つまり、ヤコブは一生懸命にはしごを上って行って神様と交わったのではなく、神様が彼と交わるために降りてきてくださったのです。ここに驚くべき神様の恵みの世界があります。神様の祝福と恵みは上から降りてくるのです。人間は何とかして天にまで上ろうとします。天にまで達する塔を建てたいと願います。バベル等を建てたように自分の努力によって上の地位につきたい、神様の地位にまでつきたい、神様のようになりたいとと思います。はしごを上りついたときに、神様との交わりができると思うのです。しかし、ヤコブが見たはしごは地から天に向かって伸びているのではなく、天から地に向かって伸びていたのです。そして、このはしごを神の御使いたちが上り下りしていました。ですから、私たちが天から降りて来られる神様を心から受け入れることによって神様との交わりができます。私のところに来てくださる聖霊様を信じて受け入れる所が神様に出会う所になります。そこに神様の約束の御言葉があります。
13-14節をご一緒に読んでみましょう。「そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。」神様はアブラハムの神、イサクの神、主です。そしてこの神様はヤコブの神様となられるために彼を訪ねてこられ、約束を与えてくださいました。神様はアブラハムとイサクに与えられた約束の御言葉をヤコブにも同じく与えられました。神様は彼に約束だけではなく、彼とともにあり、彼がどこへ行っても、彼を守り、彼をこの地に連れ戻すと約束して下さいました。この神様は実に恵み豊かな神様です。
ヤコブは決して偉い信仰者だとは言えません。彼は逃亡者です。嘘つきであり、詐欺師です。ほんとうに卑劣な男です。彼は自分の利益のために父を騙し、兄を騙した人間です。人を騙すために神様の名前すら平気で使った人です。そういう人を神様は選び、彼に出会ってくださいました。彼を祝福し、使命を与えてくださいます。その使命を果たすことができるように彼を守り、導いてくださいます。今までヤコブは寂しくて辛い旅をして来ました。誰一人頼れる対象がいませんでした。ヤコブが野原で野宿している時はどんなに絶望的だったでしょうか。ところが、神様はそんな彼のために天から降りて来られ、彼に出会ってくださいました。彼と人格的な関係性を結び、彼が頼れる約束の御言葉も与えてくださいました。15節を見ると「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」とあります。この力強い約束の御言葉をいただいたヤコブは眠りから覚めました。目覚めたときのヤコブの言葉がとても印象的です。
16節をご一緒に読んでみましょう。「ヤコブは眠りからさめて、「まことに【主】がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。」 彼は父母を離れて自分は一人ぼっちになったと思っていたでしょう。神様からも捨てられたのではないかと思っていたかも知れません。しかし、主は彼とともにいてくださいました。ほかでもなく自分がいるその場所に主がおられたのです。ヤコブは夢の中であっても天から降りてこられた神様がともにいてくださることがはっきり分かったのです。「ああ、神様はいつも私のそばにいてくださったんだ。」「すぐ近くにあって私を守り助けてくださる方であったのに、私はそのことを知りませんでした。」ほんとうはずっと前から私とともにいてくださったのに、ただいたずらに絶望していたことに気づかされました。ヤコブは不思議ですが、力強くも温かい神様との出会いに目が開かれたのです。
これはヤコブの信仰生涯にとって、忘れらない経験だったでしょう。私たちもそういう経験させられることがあります。私も今までの人生の中で何度も経験していることです。特に私が大学生の時にバスの中で経験したことは何度も証しました。その時、私は、本当に自分の罪深さを思い知らされ、もうだめだと思いました。絶望感や羞恥心に打ちのめされて、自分は神に見捨てられたのだと思いました。けれども、実はそうではなくて、まさに自分の最も暗い罪の深みに主は来てくださいました。天からの「はしご」はしっかりと、自分の絶望の底に着地していました。主の十字架は私たちの最も暗い罪の深みに立っていたのです。そこで、私は個人的に神様に出会い、神様と交わる生活が始まりました。
ヨーロッパでは重く垂れこめた雲を割って天から射す光の筋を、「ヤコブの梯子」と呼ぶそうです。分かるような気がします。私たちの人生の、心の黒雲を割るようにして、光のような主の恵みのみことばが来ます。神様は今もこの所におられます。ここにおられるのに、私たちが知らないでいるだけです。実は今も私たちにも語りかけてくださいます。「わたしはあなたとともにある。わたしはあなたを守り、決してあなたを捨てない!」主は一つの場所に限定される方ではなく、いつでも、どこにでもともにいてくださる方なのです。
その時、彼は主に個人的に出会いました。彼は神様が自分に会ってくださった場所を記念にするために自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそぎました。そして、その場所の名をベテル、すなわち、神の家と呼びました。そしてヤコブは神様の御前に誓願を立てました。
20-22節をご覧ください。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」彼の旅路にはどんな危険が待っているか知りません。また、これから衣食住の問題はどうやって解決したらいいのか、本当に父の家に帰ることができるのか、彼の将来は不安でいっぱいでした。しかし、彼はそのような切実な問題を主が解決してくださることの信仰告白をしました。そして、主がこのように成し遂げてくださることに対して彼は誓願をもって主に応答します。一番目は、主が自分の神となるということです。これは神様を個人的に受け入れるという以上の意味が含まれています。それは偶像礼拝が氾濫している時代の雰囲気の中でも唯一の神様を信じて従うという意味です。二番目は、彼が石の柱として立てた石は神の家となるということです。つまり、これは偶像礼拝が盛んになっている異邦文化の中でも神様の御名を呼び求めながら礼拝する神の家を建てることです。三番目は、所得の十分の一を必ず主にささげるということです。これは与えられるもののすべては主からの賜物であることを信じることの信仰告白です。これを見ると、彼の誓願は彼が神様の御前にどんな人生を送るかという決断であり、約束です。
 この誓願はヤコブの側からは神様の御前に生活を出発した大切な意味を持っています。アブラハムが祝福の源とする神様の約束の御言葉に基づいて信仰生活を出発しました。そのようにヤコブも、自分とともにおられるという神様の約束の御言葉に基づいて新しく信仰生活を出発しました。私たちも神様の御言葉に基づいて新しく人生を出発する時、神様の御前に意味ある人生を過ごすことができます。また、この誓願は神様の側からは彼とともにおられ、彼の人生に具体的に働かれるきっかけになりました。神様は彼の誓願を受けられ、それに基づいて導いてくださいました。
ここで私たちは誓願を立てる重要性について学ぶことができます。誓願は私が神様の御前でどんな人生を送るかと心を定めることです。ところが、人々は神様から恵みと祝福を受けることは好みますが、誓願を立てることは好みません。それは誓願を立てると捕らわれると思うからです。しかし、神様に捕らわれないことがいいことではありません。神様に捕らわれないとサタンに捕らわれるようになります。神様の御手に捕らわれる時、神様がその人の人生の責任を負ってくださいます。誓願を立てると神様がそれを守れる力も与えてくださいます。私たちが神様の御前で決断することを通して神様との関係性を結ぶことができます。どうか、私たちが心を新たにして御言葉に基づいた新しい出発ができるように祈ります。