2014年創世記26講

あなたを大いなる国民にする

御言葉:創世記46-48章
要 節:創世記46:3,4「すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」

  先週、私たちはヨセフが兄弟たちと会ったことを学びました。ヨセフは自分を殺そうとし、自分を売ってしまった兄たちに会いました。でも彼の心に恨みは全くありませんでした。彼は「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。…」と告白しました。それから、ヨセフは父ヤコブと家族もエジプトに招きました。そうしてヤコブは家族とともにエジプトに下って行きます。そこでどんなことがあったでしょうか。
今日の本文にはヤコブ一家がどのようにしてエジプトに下って行ったか、ヤコブは何をしたかについて記されてあります。ここで私たちはヤコブに与えられた神様の御言葉、パロとヨセフの子どもたちに対するヤコブの祝福について学ぶことができます。どうか、本文の御言葉を通して祝福の神様を学ぶことができるように祈ります。

46章1節をご覧ください。「イスラエルは、彼に属するすべてのものといっしょに出発し、ベエル・シェバに来たとき、父イサクとの神にいけにえをささげた。」とあります。もともとヤコブは息子のヨセフが死んでしまったと思っていました。ところが、そのヨセフがまだエジプトで生きていて、そこで総理大臣にまでなっていました。それを聞いたヤコブはぼんやりしていました。ヨセフが送ってくれた車を見てからやっと元気を取り戻しました。(ハイレベルで素晴らしい車だったようです。)そこで、ヤコブは「私は死なないうちに彼に会おう」と言って、彼に属するすべてのものと一緒に出発したのです。そのうちにベエル・シェバに着きました。ベエル・シェバはアブラハムも(21:33)、イサクも(26:23,25)神様を礼拝したところです。そこに辿り着いた時にヤコブは神様への礼拝が思い出されたでしょうか。彼はベエル・シェバに来たとき、父イサクとの神にいけにえをささげました。彼は人情としては一刻も早く最愛の息子ヨセフに会いたかったと思われます。でも、まず第一に神様に礼拝したのです。さすがヤコブだなあと思われます。エジプトでどんなに愛する息子が待っていようと、どんなに食糧が豊かであろうと、それが第一になりませんでした。エジプトは異邦人の地です。そこに行ってこの世調子を合わせて生きるなら祝福の民としてのアイデンティティを失ってしまうでしょう。だから、エジプトに入る前にまず神様に礼拝し、それによって心を整えていたのです。神様はまず第一に神様を礼拝する者を捜し求めておられます。そして、祝福してくださいます。
私たちが教会から出て行く所はエジプトのようなところだと思います。また、私たちは毎日エジプトである世の中に出て行く生活をしていると言えるでしょう。私たちがそのような生活の中でまず第一に神様を礼拝し、神様の祝福を携えてこの世に遣わされて行くことはとても大切なことです。夜明けに祈り、日ごとの糧の御言葉を通して神様の祝福を携えて行く人は祝福された人生を送ることができるからです。では、神様はヤコブをどのように祝福してくださいましたか。
2‐4節をご一緒に読んでみましょう。「神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」神様は恐れずにエジプトに行くように命じられました。この命令の中に神様がヤコブに約束された三つの祝福が示されています。
一つ目はアブラハムの祝福を受け継がせてくださることです。神様はアブラハムを祝福してくださいました。彼の名を大いなるものとし、彼の名は祝福となると約束してくださいました。ヤコブはその「祝福」を受け継ぎ、「祝福の民」としてエジプトに遣わされているのです。実際にヤコブの子孫はエジプトで大いなる国民となります。400年後はエジプト人がユダヤ人を恐れて彼らの誕生を防ぐほどに大いなる国民となります。
二つ目は神様自身が彼といっしょにエジプトに下るという祝福です。神様はカナンの地だけではなく、エジプトに下る時にもいっしょにいてくださるのです。再びカナンに上る時も神様がいっしょにいて導いてくださるのです。このように神様は私たちがどこに行っても一緒にいてくださいます。
神様が私といっしょにいてくださるのは素晴らしい祝福です。私たちは神様が私たちと一緒にいることを思い起こして、安心して生きることができます。神様がいつもともに私たちと一緒にいてくださると信じるところからすべての力が得られます。
私が自分の生活を振り返ってみると子どもの時は母が一緒にいてくれることだけでも力になりました。今は妻がいっしょにいてくれるだけでもかなり安心できます。でもいつも一緒にいることはできません。しかし、神様の「一緒」は、いつもパーフェクトです。良いリーダーは、一番良い席に座って腕を組んで「もっと働け。怠けるな。お前はできないからクビだ。」とは言いません。一緒に輪の中に入って、「僕たちが一緒にいればきっとうまくいく。」と励まし合い、真の希望を与えてくれるはずです。私たちの神様は最高のリーダーとしていつもともにいてくださいます。いつも私たちと一緒にいて、私たちを育てて導いてくださいます。
私たちが寂しいのは、バラバラで生きていると思っているからです。夫婦が空間的に一緒にいてもバラバラ生きているつもりでいるので、いつも寂しく、いつも迷うのです。けれども「一緒に考えてみましょうよ」とか「一緒にやって行こうよ」と言うふうに言われるとすごく元気が出ます。そんな喜びの言葉を大事な人にかけてあげましょう。(練習として隣の方に)「一緒にやって行きましょう。」「一緒に食べましょう」「一緒に帰りましょう。」と話しかけてみましょう。そう言われるとほんとうに元気になれるでしょう。ただ、それをパーフェクトに言えるのは神様だけです。神様はいつも私たちと一緒にいてくださるからです。皆さん、人から言われても嬉しい言葉は何でしょうか。
結婚した人は聞いたことがあるでしょう。「あなたと生涯一緒にいたい。」そういう言葉だと思います。ほんとうに愛する人から「あなたと一緒にいたい。」と言われるほど嬉しいこともないでしょう。そう言われてすべてが変わり、そこからすべてが始まります。ところが、全能の神様、ご自分のひとり子さえ惜しまずにお与えになったほどに私たちを愛しておられる神様から「あなたと一緒にいたい。いつもあなたと一緒にいるよ。」と言われるのです。アブラハム、イサク、ヤコブとともにいてくださる神様が私と一緒にいてくださるのです。私たちの人生は1人旅ではありません。たとえ、親友と言える友達がいなくても、永遠の親友であられる神様が一緒にいてくださいます。どうか、いつもともにいてくださる全能神様、愛の神様を信じて新しく出発しましょう。
三つ目は最愛の息子ヨセフとの再会の祝福です。ヤコブはヨセフが死んだと思っていました。子どもの死ほど辛くて悲しいこともないでしょう。「涙とともに見上げる時」という本の著者はこう言っています。復活は信じているけども、「復活の希望は慰めにならなかった」と。「エリック(亡くなった息子)はいなくなってしまった。いま、ここにエリックはいない。私はいま彼と話すことも、いま彼を見ることも、いま彼を抱くこともできない。ある友人がこう語ってくれた。『彼はやさしい御手の中にあるのだよ』と。それが本当だとしても、それでエリックがいま私の手元に戻ってくるわけではない。それが私の深い悲しみなのだ。その悲しみに対して、彼を取り戻すこと以外にどんな慰めがありえるだろうか。(百万人の福音56頁)」ほんとうに、そうでしょう。私も弟を亡くし、親を亡くしてから悟ったのですが、愛する人を失った人の悲しみは何も慰めになりません。ただ、希望を持つだけです。ところが、神様はヤコブに失っているはずのヨセフに会わせてくださるのです。実際にヤコブは異国の地エジプトで総理大臣になっているヨセフに会います。
このように、私たちもこの地上で死別し、失っていると持っていた人との再会ができます。やがて私たちは日本に宣教師として遣わされましたが、まだ若い時に天に召されたヨセフ宣教師と再会します。ほんもののヨセフとの再会もできます。この世では失っていた、愛する家族と再会します。ヤコブ、イサク、アブラハムとも再会します。神様が私たちと一緒にいて天国まで導いてくださるからです。
5−7節をご覧ください。神様から祝福されたヤコブはベエル・シェバを立ちました。神様の祝福と約束を確信してエジプトに向かって出発したことでしょう。彼は家族と一緒にパロが送った車に乗ってエジプトに着きました。
8−27節にはエジプトに下ったヤコブ家族の名前と数が記されてあります。エジプトへ同行した人は66人にのぼっています。ヤコブ、ヨセフ、ヨセフのふたりの子どもを含めて70人の人々がエジプトに下って行ったと知られています。
28‐34節にはヤコブがヨセフと再会したことが記されてあります。ヨセフはエジプトで第二人者である総理大臣の地位にありながらも、自分の父や兄弟が「エジプト人に忌み嫌われている羊飼い」であることを少しも恥ずかしく思いませんでした。ヨセフは兄たちに自分たちが羊飼いであることを決して隠さないように厳しく忠告しています。エジプトでは祭司たちが社会における最高の階級であり、羊飼いは身分的には最も下層階級に属し、人々から軽蔑されていました。しかし、羊飼いの身分を隠すな、と言ったのです。それはヤコブの子孫が決してエジプトに同化してはならない、あくまでもイスラエルであり、祝福の民であり続けなさいということです。ここにヨセフの信仰がはっきりと表れています。彼はエジプト人の前に名誉や地位を求めず、神様から与えられた羊飼いの天職を守りながら神様から祝福された民としてアイデンティティを持って生きることを強く願っていたのです。実際にヤコブにはそのアイデンティティがありました。
47章7節をご覧ください。「それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。」とあります。ここで「ヤコブはパロにあいさつした」というのはNIV聖書に「Jacob blessed Pharaoh.」とあります。新共同訳にも「ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。」とありますし、口語訳には「ヤコブはパロを祝福した。」とあります。つまり、羊飼いのヤコブですが、エジプトのパロより上の者として彼を祝福したのです。パロと言えば、「太陽王」の原型であり、神の化身(ケシン)とも言われていました。文字通り、古代世界のすべての栄光と権力の権化(ゴンゲ)のような存在です。それに比べればヤコブは一介の食糧難民にすぎません。全く無に等しい存在です。しかし、彼は神様から祝福された民の体表としてパロの前に立っています。驚いたことに、ヤコブがパロを祝福しているのです。これは本当に荘厳な光景です。ヘブル人への手紙7章7節を見ると「いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。」とあります。明らかにヤコブがパロよりも偉いわけです。ヤコブは自分が祝福の民であると信じていたからこそ、エジプト王さえも恐れず、へつらわずに祝福したことでしょう。アブラハムが受けた「地上のすべての民族はあなたによって祝福される(12:3)」という約束が、とうとう、アブラハムの子孫であるヤコブの口を通して、エジプト王にまで及んでいます。それは、主がヤコブとともにいてくださったからです。そしてガラテヤ3:14を見ると「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」とあります。アブラハムの祝福がキリスト・イエスによって異邦人である私たちにも及んでいます。その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになりました。つまり、御霊が私たちとともにいてくださるからこそ、私たちもアブラハムのように、ヤコブのように祝福されます。また、私たちが祝福すると、人々も祝福されるのです。
従って私たちもヤコブのようなアイデンティティを持つ必要です。私たちは信仰によってこの国を祝福するために選ばれた神様の器です。だから、私たちも「この国のすべての民は私によって祝福される」という確信を持つ必要があるのです。私は宣教師であり、牧師ですが時々は自分の足りなさ、自分の弱さのために委縮されます。実際に、私にはパロのような地位も権力もありません。ただ、神様に選ばれた祝福の源であり、神様から遣わされた日本の宣教師であるというアイデンティティを持っています。また、私によって私の家族も、私の教会も、私の職場も、この日本も祝福されるという信仰を持っています。その信仰が弱くなる場合もありますが、ほんとうに信仰を持っていると神様が私によって人々を祝福してくださることを何度も経験して来ました。霊的にも生活においても祝福されることを見て来ました。
昨日も祈り会の時に証しましたが、先週も密かに自分で体験したことを明かしさせていただきます。皆さんご存知のように先週は金曜日に台風8号が東京を直撃する恐れがあると天気予報が続きました。それで私の学校でも対策を立てました。木曜日に初等部は10時20分登校にしました。初等部の教頭から中高等部もそうすることを求められました。でも私は明日台風警報にならないかも知れないと言って反対しました。それから、私が夜も学校に泊り、仕事をしながら祈りました。東京は6時に台風警報がないように祈ったのです。その通りに夜明けの5以降は東京都内の天気予報に警報がありませんでした。神様が私の学校も東京都も祝福してくださいました。私にとって不思議な体験でした。
張パウロ宣教師は会社からリストラされた時、目の前が真っ暗でした。彼は倉庫で肉体労働しながら何とか家族を支えていました。ところがその時に、リーマンショックで銀行からリストラされた内藤さんはパウロ宣教師と一緒に倉庫でアルバイトしながら福音を聞き、御言葉を学ぶことができました。それによって慰められ、力づけられたそうです。それで去る6年間忍耐しながら負債を返済し、今は銀行の仕事も復帰しているそうです。パウロ宣教師によって祝福されたのです。今はパウロ宣教師も社長になっていますが先週は会社の将来性が認められて500万円の融資も受けるようになったそうです。これからこの国の数多くの人々がパウロ宣教師とその会社を通して祝福されるでしょう。
48章ではヤコブがヨセフの二人の子どもマナセとエフライムも祝福します。ヨセフは父ヤコブが死にそうだという知らせを受けると、息子二人を連れて行きます。父親のヤコブに彼らを祝福したもらうためでした。ヤコブは二人の孫を見ると、渾身の力を振り絞ってベッドの上に身を起こします。そして二人を祝福しました。来週、学ぶ予定の49章では12人の息子たちをそれぞれにふさわしく祝福します。特別の祝福が行われます。

私たちの神様は祝福の神様です。検索してみると旧約聖書だけでも213節の中に「祝福」という単語が一回以上あります。ある人の調べによると、この祝福という言葉は実に400回以上も出て来るそうです。新約聖書では、祝福をなさるのは主イエス・キリストです。イエス様は幼子たちの上に手を置いて祝福されました。このように真の祝福は神様から、イエス・キリストから与えられます。ただ、それは人間を通して行われます。だから、私たちはアブラハム、イサク、ヤコブが受けた祝福を通して祝福は何かを学ぶことができます。確かにそこに土地の約束、一緒にいてくださる神様のご臨在がありました。しかし、必ずしも地上の祝福だけが祝福なのではありません。アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストを通して成し遂げられた罪の赦し、救い、永遠のいのちを含んだ祝福こそが真の祝福です。イエス様は十字架の最後に「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」と言われました。この祝福、イエス・キリストの十字架による罪の赦し、それによる救いと永遠のいのちこそ本当の祝福なのです。私たちの天地創造の神様、神様の御子イエス・キリストを信じる信仰を与えられていることを感謝します。その信仰によってアブラハム、イサク、ヤコブのように祝福された人生を生きるようにしてくださった神様を心から賛美します。