2014年マタイの福音書第2講
イエス・キリストの弟子たちに求められる義
御言葉:マタイの福音書5:17−48
要 節:マタイの福音書5:20「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」
私は小学生の時に相撲をやったことあって日本の大相撲にも関心があります。先週、大相撲の横綱白鵬が30回目の優勝を果たしましたが、「苦労した分、優勝がおいしい。幸せです」と言いました。「夢の32回目の優勝に向かって努力して行きたい」とも言いました。私は白鵬が大きな目標に向かって努力し続ける姿勢に感動しました。私たちの信仰生活も大きな目標に向かって前進しなければならないと思います。
イエス・キリストの弟子たちに求められる義はそのレベルがとても高いものです。特に、イエス様は「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われました。どうやって天の父が完全なように、完全であることができるでしょうか。「それは無理だ」と思われるかも知れません。しかし、横綱の白鵬が「夢の優勝32回」を目指したからこそ30回の優勝ができたでしょう。私たちの信仰生活にも目標がなければ成長が止まってしまうはずです。「天の父が完全なように、完全である」ことを目標にして行く時に勝利の美味しさも味わうことができます。やがて栄光の冠を受け取ることもできます。
どうか、本文の御言葉を通してイエス・キリストの義を学ぶことによって私たちの義が律法学者やパリサイ人たちの義にまさるものになりますように祈ります。
17‐18節ご覧ください。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」とあります。ここで、律法や預言者」とは旧約聖書を指しています。そもそも旧約聖書の律法はすべて、神様ご自身が与えられたものです。神様は律法や預言者を通してキリストの十字架の贖いと栄光の復活、さらに聖霊の注ぎによって救いが成就することを約束してくださいました。それらのすべては、イエス・キリストによって成就されました。従って私たちは信仰と、恵みと、聖霊によって、モーセの律法を実現して生きることができます。パウロはこう言いました。「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(同3:31)」。ですから、私たちは律法主義を警戒しても律法に対して正しい認識を持ってそれを守り、教えなければなりません。
19‐20節をご覧ください。「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません。」とあります。イエス様は弟子たちの義が誰よりも律法を守り、また守るように教えていると思っている律法学者やパリサイ人の義にまさるものでければならないと言われました。ではどうすればイエス・キリストの弟子である私たちの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものになるでしょうか。イエス様は五つの対立命題を通して教えておられます。
一つ目「人を殺してはならない」
21、22節をご覧ください。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」とあります。イエス様の教えは「人を殺してはならない。」というところに留まりませんでした。イエス様は兄弟に向かって『能なし』、『ばか者』いう者も殺人罪に該当することを教えておられます。なかなか厳しい教えです。けれども、人の人格を無視した言葉が人を自殺に追い込んでしまったことはよくあります。私たちの言葉を反省し、聖別しなければ、その感情によって殺人を犯す可能性もあるのです。では、どうすれば人の人格を無視し、ばか者と言わないことができるでしょうか。それは仲直りをすることです。
23−26節をご覧ください。イエス様は仲直りすることが神様に供え物をささげることよりも優先であることを教えてくださいました。仲直りをしない者は人に対する怒り、憎しみがなかなか消えません。ついに牢に入れられることになります。最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。「一コドラント」は古代ローマの最小の硬貨です。一円玉のようなものです。その一円までも罪の代価を払わなければ決してそこから出て来ることができないのです。従ってイエス・キリストの弟子たちは人を殺さなければそれでいいのではなく、「能なし」、「ばか者」と言うような者になってはいけません。
二つ目に姦淫してはならない(27‐32)。
27、28節をご覧ください。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」とあります。旧約の律法においては婚前交渉や不倫、近親相姦、同性愛、獣姦を「姦淫」として罪に定めています。そして、この姦淫は、死に至る恐ろしい罪でした。これに対してイエス様は「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と言われました。つまり、自分の妻でもないのに、あたかも自分の妻であるかのように、他人の妻、あるいは娘をむさぼり見る者は死に至る姦淫の罪を犯すことになるというわけです。それでは、イエス様はどうして自分の妻以外の女性を「むさぼり見る」ことを禁じられたのでしょうか。それは、イエス様はそれほど夫婦関係を尊いものと見ておられるからです。自分の妻をむさぼり見るのはいくら見ても良いです。しかし、他人の妻をむさぼり見るのは良くありません。見るなら、自分の妻をむさぼり見て、心から愛しなさいというわけです。しかし、右の目でも、左の目でも夫婦関係を邪魔するようなことをするならえぐり出して捨ててしまうべきです。もし、手も同じです。仕事において最も必要な手でも姦淫の罪を犯せるようなことをするなら容赦なく切り捨てなさいというわけです。それほど夫婦の関係は大切です。そして、だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。夫でも妻でも姦淫の罪を犯した場合には離婚し、他の人と再婚しても合法です。ところが、先ほど話したように姦淫は死に至る罪です。つまり、死を持って罰せられる罪による以外に、離婚してはならないということです。
三つ目は偽りの誓いを立ててはならない(33‐37)
33、34節をご覧ください。「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。」とあります。ユダヤ人は「神の名によって、誓います。」というセリフを乱用していました。しかし、自分のために天をさして誓ってはいけません。イエス様は、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい、と言われました。つまり、本当の意味で、自分の言ったことを守る人になりなさい、という事です。
四つ目は復讐してはならない(38‐42)
38、39節をご覧ください。「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」とあります。「目には目で、歯には、歯で。」という神様の戒めは、被害者の権利を守るための公平な裁判を遂行するためのものでした。人間は何か悪い事をされるとその二倍も仕返しをしたくなるから、そうしないで目に目だけ、歯には歯だけ仕返しなさいということです。しかし、イエス様は「。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。」と言われました。自分が悪いことをされても「復讐してはならない。」と言われたのです。それだけではありません。キリストの弟子なら、もっと積極的に善を行なうべきです。それは愛することです。
五つ目は隣人を愛しなさい(43‐47)
43、44節をご覧ください。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とあります。敵でさえ愛することです。イエス様は言われます。「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」そうです。私が私の家族を愛し、同じ教会のメンバーである皆さんを愛することは当たり前です。隣の方に「主にあってあなたを愛します。」と挨拶してみましょう。私たちが互いに愛し合うことは当たり前です。ノンクリスチャンも自分の家族、自分のグループのメンバーを愛します。しかし、イエス様はキリストの弟子である私たちにそれにまさる愛を求めておられます。敵をも愛するアガペーの愛です。イエス様が私たちを愛してくださったその愛です。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:6‐)。イエス様はご自分を十字架につけて殺す人々のためにもこう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
イエス様は私たちも、このようなイエス様の愛を実践していくことを求められました。私たちは自分と親しくない人でも愛することが難しいでしょう。敵までも愛することはやさしくありません。人間の本性からはできないことでしょう。しかし、全くできないことでもありません。韓国の孫ヤンウォン牧師は自分の息子を殺した人を自分の子どもにして愛し、育てました。私たちが神様を信じる信仰によって生きると、神様は大いなる愛と、キリストの力、聖霊の導きによって私たちが敵を愛する者にならせてくださいます。問題は自分にはできないと思ってあきらめることです。私たちは神様に期待して目標を大きくする必要があります。どれほどの目標を目指していくべきでしょうか。
結論的に48節をご一緒に読んでみましょう。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」イエス様は天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われました。キリストの愛が完全なように、私たちの愛も完全であることです。エペソ4:13を見ると「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあります。私たちに求められるイエス・キリストの義はそのレベルがあまりにも高くて自分は無理だと思われるかも知れません。諦めてしまいたくなるほどです。でも、私たちの目指すべきイエス・キリストの義は天の父が完全なように、完全であることです。そして私たちが完全であることを目標にして努力するなら、少しずつ変えられて行きます。白鵬が日本相撲界の最高記録である32回優勝を目標にした時に30回も優勝ができたし、その喜びと幸せが体験することができたように私たちも信仰の戦いにおいて勝利の喜びを体験して行くことができます。
先週、私は三浦綾子の本を読みながら天の父が完全なように、完全であるほどに成熟したクリスチャンの生き方に感動しました。一人目は伊藤栄一牧師です。この方は「悪痴先生」(音痴ではなく悪痴)と言うニックネームがあるほどに、人の悪を見ない方だそうです。あの先生が三浦さんの家に二泊したことがありますが、僅か二日間のうちに、五十九通ものハガキを書かれたそうです。68歳の先生が夜は十二時に就床され、朝は5時に起きて、主たる任務の余暇に、信者や病気の人、知人などに心を込めて問安の便りを書かれるのです。さらに三浦さんを驚かせたのは、先生の投函の仕方です。先生はそのハガキをつとめて早くポストに入れられるために、街に出かける時、目についた第一のポストで、必ず投函されるそうです。それはなすべきことは、一刻も早くなさろうとする積極的な現われでしょう。
「今なすことを今なせ」という人生の態度です。何でも後に後にとなり勝ちな私には真似できないほどの生き方です。私には、おそかれ早かれしなければならないことを意味もなく後回しにする癖があります。私は家に帰ってもなかなか服を脱がないし、脱いだ服を洗濯機に入れることも、今読んだ本をすぐに本棚に返すこともしない人間です。そして、自分は田舎者で訓練されていないからしようがないと思っていました。しかし、伊藤先生の生き方を通して私も「天の父が完全なように、完全である」ことを目指して行けばある程度は成長して行くだろうと思うようになりました。私たちが自分に対してあきらめることなく、天の父が完全なように、完全であることを目指して行くなら、私たちの信仰も成長して行くはずです。信仰の成熟度、愛の成熟度はキリストの満ち満ちた身たけにまで成長して行くのです。