2014年マタイの福音書第4講 

主イエスのことばを聞いてそれを行う者

御言葉:マタイの福音書7:13-29
要 節:マタイの福音書7:24だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

 マタイの福音書5章から7章は「山上の垂訓」と呼ばれる説教でとても素晴らしく、人間のあるべき姿を教えてくださいます。ところが、その一部には十戒をはるかに超える厳しい戒めがあります。とても高い道徳なので自分には無理だと思われる場合もあります。例えば「敵をも愛する」ということは本当に難しいでしょう。実はイエス様もそれを認めておられたようです。それは狭い門にはいることであり、それを妨害するにせ預言者たちの惑わしもあることを知っておられたのです。そこで、イエス様は山上の垂訓の結論としての三つのことを警告しておられます。ここで私たちは最も賢く生きる生き方は何かを学ことができます。一言で答えるなら「主イエスのことばを聞いて行う者」として生きることです。どうか、聖霊の働きと御言葉の力によって私たち一人ひとりが主イエスのことばを聞いて行う者として成長して行きますように祈ります。

一つ目は狭い門からはいりなさい。
13,14節をご一緒に読んでみましょう。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」とあります。「狭い門」とは何でしょうか。ヨハネ10:9によると、イエス様が「わたしは門です」と言っておられます。「狭い門」とはイエス様ご自身なのです。それはイエス様を通してはいり、イエス様が歩まれたその道に歩むことです。その道は狭く、それを見いだす者はまれです。聖書は世界一のベストセラーですが、実際にイエス様のように心を貧しくして謙遜に生きる人は多くありません。お金に飢えている人は多くても義に飢えている人も少ないでしょう。あわれみ深く、心のきよい人も多くありません。平和をつくる者も、義のために迫害されている者も多くありません。自分を犠牲にして地の塩、世界の光として生きている人も少ないです。敵をも愛している人はほんとうにまれです。イエス様の教えも、イエス様の行ないも、ほんとうに素晴らしいですが、イエス様の教えに従い、イエス様のように生きることは難しいのです。それで山上の垂訓のような素晴らしい説教を聞くと感動し、恵みを受けましたが、イエス・キリストを信じてキリストの道を見いだす者はまれなのです。しかし、イエス・キリストこそ、いのちに至る門であり、天の御国に到達するまでの唯一の道です。そして、狭い門からはいり、イエス様を信じてイエス様の教えに従って生きる人はどうなりますか。イエス・キリストの道に歩んで行くといのちを得、豊かに得ることができます。それを見いだす者がまれなのでちょっと寂しいですけれども、平安と喜びを経験します。いのちに至る門を通って行く時に経験する恵みと喜び、その祝福は実に大きいものです。だから、御言葉を聞いて行なった経験、その体験がある人は寂しくても信仰を持って狭い門からはいります。
1960、1970年代の韓国はとても貧しい国でした。多くのお姉さんたちが家族のために、国のために当時の西ドイツの看護師になって行きました。その中にUBF宣教師たちは小さなグループでした。でも、彼らは「狭い門からはいります。」という決断を持って平信徒宣教師として働きました。当時、ドイツに雇用された後進国の労働者として先進国のドイツの大学生たちに聖書を教える道はとても狭く、それを見いだす者はまれでした。しかし、狭い門からはいり、小さく狭い道を歩む続けた宣教師たちはいのちを得、豊かに得ました。今回ヨーロッパ国際修養会はいのちにあふれていました。メッセンジャーたちはほとんどがセカンドゼネレーションの牧者、宣教師たちでしたが、彼らはドイツを導く霊的リーダーになっていました。宣教師たちがイエス様の教えに従って生きることは決してやさしくありませんでした。しかし、狭い門かりはいり、その狭い道を歩み続ける時、素晴らしい神様の恵みと祝福を経験し、いのちの実を結んでいるのです。
しかし、広い門はどうですか。まず広いからはいりやすいです。その道も広いから歩きやすいです。<赤信号、みんなと渡れば怖くない>というのと同じだと思うからです。私たちの周りには美味しい所も多く、楽しめるテレビ番組、インターネットのサイト、スマートフォンなどが待っています。華やかで、魅力的であります。それで、自分の方から何も考えずに黙っていると自然に広い門からはいってしまいます。けれどもその道すじの途中には不品行や罪に陥る危険が至るところに潜んでいます。先へ進んでしまうと、ますます困難が待ち受けています。そして、あるところを通り過ぎると、引き返すことが難しくなってしまいます。大ぜいの方がそこから通って行くのですけれども、その行き先は滅びなのです。
しかし、先ほど説明したように、狭い道の特徴は、入り口が小さくて目立ちません。人の目には決して魅力的には見えません。聖書の文字だけがそれを見つけ出す手がかりになります。そしてその門をくぐるためには、私たちは頭を下げて、腰をかがめないとはいることができない時もあります。でも、イエス様を信じて狭い門からはいると、すぐに広く、緑の豊かな牧場を通るようになります。そして最後のその行き先は主の支配される栄光の御国です。どうか、イエス様の道、十字架の道、この狭い道こそがいのちに至る道である確信を持って行きますように祈ります。そうしなければ、私たちはにせ預言者たちに欺かれてしまいます。なぜでしょうか。

第二ににせ預言者たちに気をつけなさい。
 15節をご覧ください。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」とあります。にせ預言者たちも神様の御言葉を伝えます。彼らは羊のなりをしてやって来ますから受け入れやすいでしょう。しかし、偽預言者たちは、神の言葉をそのまま伝えません。確かに「神様は愛」ですが、その「愛」には、「やさしい面」と「厳しい面」の両面があります。だから、神様が、預言者を通して地上にメッセージを送るときは、当然「厳しい面」もあるはずなのです。ところが、「厳しい面」を伝えると、人々はあまり喜びません。「イヤだなあ」と思います。「神は愛ではないのか。こんな厳しいことを言うはずがない。だから、この預言者は偽者だ」と言って無視し、迫害します。しかし、「神の声」をそのまま伝えるのが預言者の使命です。人々の機嫌を取るのが預言者の使命ではないのです。ところが、偽預言者というのは、人々の機嫌を取るメッセージを伝えます。「狭い門からはいりなさい」、「狭くても十字架の道を歩みなさい」というようなことはなかなか言いません。「良きことばかり起こりますよ。未来はバラ色です」「あなたは、そのままで良いのです」・・・ニコニコしながら、こういう甘い言葉を語るのです。当然、人々は喜びます。人気が出ます。人々からチヤホヤされます。「先生、先生」と呼んでくれます。それがうれしくなります。すると、いつの間にか、彼らにとっては、「神様の御心」よりも、人々から評価されることのほうが大切になってしまいます。そして、やがて、「金儲け」の味を覚えていきます。貪欲な狼の本性をあらわしてくるのです。「献金すれば救われる」と言ってみたり、何とかセミナーを開いて、企業の戦略を取り入れてみたりします。これを見抜かなければ、大変なことになる。偽預言者を信じ、彼の「教え」を実践したならば、どんどん「滅び」に近づいてしまうのです。では、どうやって見分ければいいでしょうか。
16-20節をご覧ください。「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」とあります。イエス様は実によってにせ預言者を見分けることができると教えてくださいました。「実」を見ればにせ預言者か、ほんものの預言者かが分かるのです。ここで「実」とは「預言者の行ない」のことです。
21-23節は良い実を結んでない人々がどうなるかを教えています。ご一緒に読んでみましょう。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」とあります。「主よ、主よ。」といくら唱えても、天国に入ることはできません。口だけが入ることもできません。口で告白することも大切ですが、信仰の行ないこそ大切なのです。
「行ない」とは、その人の内面、たとえば、「思い」や「信念、価値観」などが、実ったものです。ほんものの預言者も、偽預言者も、みんな、それなりに良いことを言います。だから、「言っていること」だけを見ても、ホンモノかニセモノか、よく分かりません。ところが、その預言者の「実」、すなわち「行ない」を見れば、ハッキリするでしょう。立派なことを言っても、主の教えを実践していないなら、その預言者は偽者です。その預言者の日頃の「行ない」を、じっくり観察すれば分かるはずです。もし、見分けることなく、偽者について行くなら、「滅び」が待っているということです。従って狭い門にはいるためにはにせ預言者に惑わされないように気をつけなければなりません。「良い木はみな良い実を結びますが、悪い木は悪い実を結びます。」このことを覚えているべきです。
私自身も、宣教師、牧師として預言者の役割を果たしている者です。にせ者にならないように気をつけなければなりません。私が本物の宣教師、牧師として人に見せるためではなく、御言葉を行なう生活ができるように祈ってください。
私たちが良いことを聞いてもそのまま行うことはやさしくありません。狭い門からはいり、狭い道を歩むようなことです。それでもイエス様の御言葉に従って行動しなければなりません。イエス様の名によって預言をし、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇蹟をたくさん行なうことよりも、イエス様の教えを実践して良い実を結ぶことが大切だからです。
先日、辻宣道先生(つじ のぶみち、1930年 – 1994年)のことを読みました。先生のお父さんは、戦時中の弾圧で、獄死しました。その時、先生は、中学生だったそうです。食料のない時代、カボチャを分けて貰いに行った農家で、「お宅に分けてやるカボチャは、ないねぇ。」と断られてしまいました。この農家の人は、平穏無事なときは、教会で真っ先に証ししていたような人で、教会役員もしていたはずでした。それなのに、どうして、このように、人にカボチャ一個も分けてくれない人になってしまったのかと、当時、中学生だった教会の先生は、考えさせられたそうです。そして、伝道するようにとは教えられていたけれども、「教会とは何か」「キリスト者とは何か」ということについては、良く教育されていなかったためだと、あとから分かったそうです。
  このように、私たちは、聖書の真理の全体を体系的に学び、偽預言者を見分ける力を持つ必要があるのです。そして、偽預言者ではなく、ほんもののクリスチャンとして生きるためには人生の基礎からしっかりしなければなりません。

 第三に御言葉を聞いて行ないなさい。
24-27節をご覧ください。「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」とあります。局地的な豪雨で広島市では土砂災害による大きな被害が出ました。昨日まで49人の死亡が確認されたほか、今も行方が分からない人が大勢いて、捜索が続けられています。その原因は広島県などによりますと、県内の多くは花こう岩が風化してできた「まさ土」で覆われていて、もろくて土砂崩れが起きやすい地質だそうです。それで広島県が9年前に土砂災害警戒区域に指定しようと現地調査を進めましたが、調査を白紙に戻していました。広島県の担当者は、「指定がされていれば住民が危険を意識する助けになったと思うと残念だ」と話しています。つまり、広島の安佐南区は花こう岩の上ではなく、岩が風化してできた「真砂土」になっているのにもかかわらず、その上に家を建てたのです。それゆえ、雨が降って洪水が押し寄せた時に家々が倒れてしまったのです。このように、災難がない時は、岩の上に建てた家も、砂の上に建てた家も同じく見えますが、洪水、台風、地震などの災害があると、その違いが表われるのです。砂の上に建てた家は倒れてしまいます。しかもそれはひどい倒れ方です。基礎、土台によって結果が変わったのです。
私たちの人生の土台も大切です。そして、御言葉に従って神様の御心を行なう人は岩の上に家を建てた賢い人のように賢い人生を生きることができます。もう一度24a節と26a節をご覧ください。「わたしのこれらのことばを聞いて」という部分は同じです。二度繰り返されています。イエス様のことばを聞くことは大切です。ローマ10:17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とあります。ほんとうに、心から聞こうとしますと、聖霊が働いてくださり、心が柔らかくなり、聞いて従順に、従いやすくなって、行えるようにしてくださいます。大切なことはクリスチャンであっても、聖書の御言葉を道徳的な教訓のように聞くか、それともイエス様の御言葉として聞いているかによって、その人の人生の土台が、どこにあるかが決まって来ます。礼拝の時も聖書の御言葉をイエス様の御言葉として聞くことが大切です。しかし、「御言葉を聞いた」というだけで終わってはなりません。ほんとうに謙遜に聞くなら、「それを行ないたい、聞き従いたい」と言う思いになるでしょう。それを実行してこそ意味があります。
先ほど広島県が9年前に土砂災害警戒区域にしてしようとしましたが、それだけでは意味がありませんでした。実行しなかったからです。そのように、イエス様の御言葉を聞くだけではなく、行なうことが大切なのです。そういう意味で、信仰の行ないこそ、岩のように安全な人生の土台です。イエス様の御言葉に従って祈り、まず第一に神の国とその義を求める生活をするなら、生きておられる神様の働きを経験するようになります。それによって人生の基礎工事がしっかりできるようになるのです。このようなイエス様の教えに対する人々の反応はどうですか。
28,29節をご覧ください。「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」とあります。人々は権威あるイエス様の教えに驚きました。

 結論を言いますと、私たちは主イエスのことばを聞いてそれを行うことによって最も賢い人生を生きるようになります。私たちは夏修養会を通して大きな恵みを受けました。ひとりひとりの所感を通して感動し、大きな恵みを受けたという方も多くいました。発表者たちは御言葉を聞くことに留まらず、聞いて行なうことによって神様の恵みを経験し、祝福された人生を生きていたことが分かります。にせ預言者たちは私たちが広い門からはいるように誘惑しています。便利主義、安逸主義、世俗主義が私たちを惑わしています。実際にその人生は楽で楽しいかも知れません。ところが、その結果は滅びです。砂の上に家を建てた人のように崩れる時が来ます。しかし、私たちが歩む道が狭くてもイエス様の御言葉を聞いて行なうなら、いのちを得、豊かないのちの実を結ぶ人生を生きるようになります。どうか、どんな誘惑に揺れることなく、広くてやさしい道だけを求めることもなく、狭くても、それを見いだす者がまれであってもイエス様の御言葉を聞いて行なう生活ができるように祈ります。